2021,5,22
ちょっと今日は予定変更して、宮下文書で楠木正成情報を見つけたのでご紹介する。前記事に関しての重要な記述をあやうく見落すとこだった(震え声)。
Wikipedia楠木正成曰く、南北朝時代・戦国時代・江戸時代史家を通じて、日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け...、となんだか大絶賛なわけだが。
彼は、戦術家として多くの歴史ファンを魅了し、評価されている武将。数々の奇策で難局を乗り越えてきた、戦術の達人であったには違いない。個人的にも非常に面白い方だと思う。まあ彼の武功を否定するわけではないが、その背後にもやはり東国富士朝の関与がありそうなのだ。
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楠木正成の母方は、富士朝神官・井出氏だった!!。
結論からいうと、楠木正成の母は、阿祖山太神宮の神官・井出氏の家系。wikipediaでは藤原南家の出自とされているが、宮下文書では15代応神天皇御子、大山守皇子宮下家の子孫となる。
初代宮下家・大山守皇子に十二王子あり、そのニ子と三子が、高天原阿祖山太神宮副司長の家系として継承しており、この三子・井出畑志津治が井出氏の祖となる。鎌倉時代後期、この子孫に二所明神神官・井出弾正忠正親が登場し、その娘・村子が楠木氏に嫁ぎ正成を生んだ。
一般的に正成の母は、橘遠保の末裔・橘盛仲の娘とされている。
なお父方の楠木氏も、自称は本姓橘氏。
この橘氏は県犬養三千代を祖とする氏族で、現在の京都市右京区『梅宮大社』で氏神・酒解神(オオヤマツミ)を祀る。平将門の母方氏族と同族で、屯倉(みやけ)を守護する伴造氏族、その背景には富士朝との関係性がチラホラ見うけられる氏族。個人的には、宮下家や三宅氏同様に、秦氏遺伝子が影響しているではないか?と睨んでいる(妄想)。
※因みに、本ブログでは三宅≒宮下家(みやけ)説を唱えております。
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940年橘遠保が、平将門の乱の防戦の功績で遠江掾となり、出自は伊予橘氏との説がある。『尊卑分脈』や『太平記』は、橘氏嫡流系統の橘為政の末裔とされている。ただし、仮冒の疑いも指摘されているので注意。
楠木氏は、駿河国入江荘楠木(静岡浅間神社の近く)を本貫として、源頼朝に従軍し御家人となっていた。その後、北条得宗家により河内国『観心寺』に地頭職につき、河内国を拠点としてきたイメージが現代史観の主流となる。しかし最近では、駿河国出身説が有力視されてきているようだ。
また同族の河内和田氏を称していたこともあった...。『五畿内志・和泉志』によれば、楠木正成の父・親遠が和泉国和田に住みつき、和田氏を称したという。つか...これ宮下家派生氏族、関東の和田氏と関係ないのだろうか???。和田氏も様々あるようだが...、身内に宮下家子孫がいるのに、他氏族として新たに『和田姓』を名乗るだろうか?。
※因みに相模国和田氏は、一般的に相模国三浦氏族といわれているが、宮下文書では宮下家2代・宮下源太夫明政の五子、不佐国県主の吉田五男摩古彦で、下総国布佐(現在の千葉県我孫子市)の和田城を本貫とした氏族となるので注意。
この時点での私の見解は、楠木正成は限りなく富士朝氏族に近い存在といえそうだ。
三浦・楠木・新田の連携。
前記事でも述べた通り、鎌倉幕府討伐作戦は事前に用意されていた!!。
時期的には不明。宮下文書記載の一部には、後醍醐天皇『中興の偉業』達成された後とあるが?...、この中興が『建武の中興』を指しているかは不明。個人的には、少なくとも1333年『建武の中興』以前と思われるのだが...。
鎌倉討伐を計画していた96代後醍醐天皇は、阿祖山太神宮の意向を探りに、密使・藤原朝臣藤房を道士に変装させ、阿祖谷小室城宮下の館へ派遣した。ここで『北条氏調伏(呪詛)』と皇政復古を立願している。宮下家57代三浦義勝は、56代父・義高と相談した上で謹んでこれを受け、中興の偉業への賛助を誓う。
このあと三浦義勝は藤原藤房を伴い、楠木左衛門尉正成の館に赴き、『大事に関し、協力の密約』をしている(現代語訳234・238ページ)。この館の所在地は、河内国楠木庄左衛門正近の館と記載してある。
つまり三浦義勝が、新田義貞の妹・鶴江を娶る前に、楠木正成と同盟関係が成立していたとみる。このあとに三浦義勝から上野国・新田義貞へ、婚姻関係と同盟関係の打診が行われたとみる。このように宮下家と新田氏と楠木氏は、富士朝というバックボーンでつながる。
〜『元弘の乱』の流れ〜
- 1331年2月、楠木正成、山城国・笠置山の戦いにて挙兵。
- 1333年5月、足利高氏、京都・六波羅探題(鎌倉幕府機関)の攻略。
- 1333年5月、西国楠木軍に触発され、新田義貞が上野国・生品明神にて挙兵。
- 1333年5月、三浦義勝と新田義貞、武蔵国・分倍河原で合流、鎌倉に南下。
- 1333年5月、鎌倉幕府陥落。
一般的には、新田義貞が楠木正成の大活躍に触発され、鎌倉攻めを決意したといわれるが、倒幕運動は東西誘発的に起きたわけではない。96代後醍醐天皇と57代三浦義勝の利害の一致と連携により、綿密に練り込まれたシナリオだったのだ。
悲しいことに3人の武将のうち、リーダーの三浦義勝の過小評価がかなり目立つことになる。彼の痕跡をネット検索しても、分倍河原参戦以外の記録は殆ど出てこない。
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南北朝時代とは、過酷な情報戦だった?。
宮下文書三輪本現代語訳『神皇紀』239ページより
義勝は先ず、弟の三浦八郎左衛門孝通を間諜に入れ、奇計をめぐらし、足利氏兄弟を離間させた。
~中略~
征東将軍宗良親王は上毛敗走の後、陽には両毛信越等に往来された様ではあるが、実際にはそうではない。いずれも代人であり、陰には大宮司の匿城である富士阿祖谷宇津峰南城の忍ヶ館を根城として、潜み留まっておられたのである。
~以上~
このように三浦義勝という武人は、攪乱戦法を得意としてきたのではないかとみる。
振り返れば、1333年鎌倉攻め南下の『分倍河原の戦い』の折、三浦義勝は当初鎌倉軍につき新田軍を攻撃すると見せかけ、逆に鎌倉軍を奇襲したと伝えられる。富士朝の背後には、山の民サンカ達もいたであろう、彼らは情報収集なども出来ていたのではないだろうか?。讒言横行の平安~鎌倉武家社会以降だからこその、高度な情報戦争だった。南北朝時代の96代後醍醐天皇と足利尊氏の間の、敵対関係とは思えない優柔不断ぷり、理解不能とも言える迷走掌返しも、情報戦争だと思えば合点がいく。
『梅松論』では、楠木正成が後醍醐天皇に、足利尊氏を持ち上げ、新田義貞は誅伐するべきと奏上していたことを含め、この三武将が、なにか示し合わせていた可能性も高いのだ。
ただこの『攪乱戦法』、後世より富士朝痕跡を辿る研究者にとっては、仇となっているようにも感じる。彼らの活躍は本当にあったのだろうか?と...、現代人から見ると富士朝というのは、まるで巨大な幻影を追っているようにすら感じるのだ。
富士山に古代からの、アマテラスやツクヨミら先住民富士朝勢力があったとして、それを足利幕府が成敗したと語り継がれるならば、足利氏族は末代まで朝敵、神殺しの汚名を着せられるであろう。つまり富士朝を味方につけることができない権力者としては、富士朝の痕跡は絶対消すに限る。後世の人々には、決して知られてはならない存在なのだ。幾度となく富士朝の痕跡を消したかった西国権力者たちは、この攪乱部分をそのまま気づかないふりして、現代に伝えてない訳だ。
室町幕府の場合は、都合よく三浦義勝は富士朝の気配を消して、攪乱しつつ北朝軍と対峙してきた。それ故そのまま気づかないふりをして、敵の正体を人々に明かさぬまま、終止符を打ったのだろう。以降の富士朝は政治の表舞台から完全に消滅している。
ただ彼らは、自らが何と苦戦していたか功績を遺す必要はあった。そのため、好敵手として必要以上に評価された始めたのが、楠木正成と新田義貞という南朝守護神の英雄像だったのかもしれない。
後世の徳川家康と天海が、富士朝について触れたくないワケはこのあたりかもしれない...。
宮下家氏族は拡散、徳川幕府に召し抱えられる。
wikipedia井出氏によれば、二階堂左衛門尉政重が駿河国富士郡井出郷の地に住みつき『井出氏』を称す。富士上方(現在の静岡県富士宮市千居遺跡付近)の、在地領主的性質をもつ特殊な氏族という。
楠木正成の活躍後世も、駿河国富士郡井出郷には井出姓が残っており、後世には戦国大名今川氏に仕えている。武田氏の駿河侵攻の際は、富士氏と井出氏が大宮城(富士城)を最前線として武田軍を防御していた。今川氏が衰退すると後北条氏の庇護を受け、井出正次が徳川家康に召し抱えられ遠国奉行 、駿河代官、三島代官、駿府町奉行を歴任。因みに大宮城跡は、現在の『富士本宮浅間大社』の東隣、大宮小学校付近(静岡県富士宮市元城町)にあたる。
こうして改めて見ると、土地柄もあるのかもしれないが、徳川家康は駿河国甲斐国の富士朝氏族を、多く召し抱えてきた経緯が見えてくる。家康が、新田氏族末裔かどうかは疑わしいが、少なくとも富士朝の重要性は理解していたのであろう。
さらに、この楠木氏本姓は『橘氏』。三浦氏、和田氏、橘氏族楠木氏、三宅氏族井伊氏...、やはり南朝にも、徳川幕府にも、富士朝関係氏族が見え隠れしている。
『富士山本宮浅間大社』については、いつか改めて記事にしたいと思っていたのだが。前記事から、57代義勝の母方でもある富士氏が気になっていたので、簡単に調べてみた。
Wikipediaによると、富士氏はワダツミ系和邇部氏族・和邇部豊麿を家祖とする『富士山本宮浅間大社』の大宮司継承家。
しかし宮下文書によると。800年富士延暦噴火の折、阿祖山太神宮副司で隼總別皇子29代孫・古屋元太夫元宮麿が、避難先にて古屋彦九良の養子となる。のち、古屋元太夫正彦を称して、『富士山北本宮神部山浅間神社』の宮司となった。さらに弟が大宮麿が駿河国福地郡岩本沢に避難した、和邇部豊麿の養子となり富士又八郎と称した、これが富士氏の祖である。つまり富士氏は実質、15代応神天皇子の隼総別皇子『福地家』末裔の男系となる。
~富士朝・15代応神天皇御子~
- 大山守皇子末裔『宮下家』→『井伊氏』『狩野氏』ほか多数派生。
- 隼総別皇子末裔『福地家』→『富士氏』へ婿養子。
- 根鳥皇子末裔『太田氏』→『伴氏』を賜う。
この富士氏と井出氏のように、応神天皇の遺伝子は、富士山周辺に拡散されていった。前記事で紹介した、南北朝時代に、宇津峰南城にて尹良親王の教育係などをしていた富士又八郎義照と、狩野太郎興家も富士朝氏族にあたる。
※宮下文書版『狩野氏』は伊東氏族ではなく、宮下家大山守皇子6子の榛原須留賀彦を祖とする。
皇居に、楠木正成の英雄像があるわけ(雑談)。
都内神社めぐり中に楠木正成像の画像が欲しくて、皇居へ立ち寄ってみたのだが、工事のバリケードで近寄れなかった(笑)。仕方がないので、公園の外から最大望遠で後ろ姿をパシャリ撮影。その後、大手町の平将門公の首塚にご挨拶へ、しかしここも工事中。工期的には、2021オリンピックに向けた周囲のリニューアル工事と思われる。勿論、銅像と首塚はそのままだろうけど。
※大手町の将門首塚の工事は、2021年4月末終了したようです。
楠木正成像は。住友グループ広報HPによると、1891年別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されもの、東京美術学校(現・東京藝術大学)が製作依頼され10年かけて製作された。彫刻家・高村光雲が主任とのこと。
素朴な疑問として、なんで楠木正成なのだろうか?。
勿論、立派な武人であるし...。決して楠木正成が相応しくないとか、そういう意味ではなくて。
南北朝時代は終わり、現在の今上天皇は北朝方の系譜のはず。一方で南朝の楠木正成は、北朝との争いに破れたために、朝敵認定されてきた存在。なんで南朝の英雄像(朝敵)を、北朝天皇の皇居前に飾る意味があるのだろう?。
永禄2年(1559年)楠木正虎の嘆願により、に正親町天皇から朝敵の勅免がなされた。明治時代には南北朝正閏論によって、後亀山天皇までは南朝が正統と決定され1880年に正一位を賜る。現代ではむしろ勤王家『大楠公』として認識されている。しかし皇居の前に、南朝守護の楠木正成像がおいてあることには、少なからず陰謀論や憶測はあるようだ。
さらに、私から言わせてもらえば...。宮下文書は『偽書』として認められていない現代社会において、富士朝氏族を母に持つ楠木正成が、威風堂々と皇居前に立っているわけだ。
...もう、皮肉としか言いようがない。