セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈花見塚神社〉新田氏首塚を守る、パラレルワールドに存在したもう一つの宮下家。

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ツツジに囲まれた『花見塚神社』(群馬県太田市武蔵島)。


2021,6,5

上野国世良田から早川サイクリングロードをノソノソ歩いていると、左側にお花畑がみえてきた。よくみると、それはツツジの小さな公園だった。

わ〜い綺麗だなーと、熊オッサンがお花畑に近づいてみると...。なんとも、新田義貞さまの首塚でした。

『、、、。』(´(ェ)`)

群馬県太田市武蔵島、お社背後は墓地となっており、新田義貞首塚と勾当内侍を供養?する小高い丘がある。しかも、それを祀っているのが宮下一族というのだ。

ん?。宮下一族...???。

 ~目次~

室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!

徳川家祖新田氏・富士朝・南朝の壮大なる因縁。井伊氏はその仲介人?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

2つの神社の由緒書き。

由緒は読まなくとも本文読めばなんとなくわかります(多分)↓。

◯『花見塚神社』(太田市武蔵島町)

〜御祭神〜

・初代神武天皇

・96代後醍醐天皇

〜須賀神社合祀〜

・宮下筑後守正繁公

・横瀬信濃守泰繁公



〜花見塚神社由緒より〜

須賀神社由来

一、祭神 宮下筑後守正繁公

     横瀬信濃守泰繁公

宮下筑後守正繁公は天文十四(一五四五)年四月小田原の城主北條氏康の旗下

武蔵国忍の城主成田下総守氏長の軍勢が当新田領へ侵攻して来た事を岩松の

住人森隼人、古海の住人小島三郎両人より注進を受けた。依って直に幕僚

長尾新六郎淵名上野介、白石豊後守等を横瀬信濃守泰繁共に従えて

武蔵国(現・妻沼聖天様南)堰宮に出陣した。防戦大いに努めると雖も敵勢

剛強にして激闘遂に利なく堰宮の陣を退き払い、羽生より新田庄南田島東南

武蔵島村の飛地、須賀山村に退いた。然るに俄に前後より伏勢起こり善戦遂に

空しく正繁、泰繁の両将相共に此処に自刃して果てられた。

 

正繁公の嗣子又左衛門繁貞は天正元年(一五七三)年十月父正繁公と泰繁公の

両霊を祀り須賀大明神と号して社殿を討死の地須賀山に建立した。

泰繁公の嗣子由良成繁は社領を寄進した。其の寄進状には「須賀社

領の事。新田堀口領分の内六石弐斗を祭祀料として...天正元年十月二日由良

信濃守成繁(花押)宮下又佐衛門尉殿」とある。(...以下略・宮下相伝記)

 

以来須賀神社は同郷鎮守の如くに祭祀されて来たが、弘化三年(一八四六)の

利根川大洪水の為社殿も神域も荒廃に帰したので二柱神の境内に遷座さ

れたが幾星霜を経るに従い社殿等は損壊して形を止めぬようになった。

昭和四十五年十一月三日(一九七◯)下野入道南順の子孫宮下一族相集まって

花見塚神社を再建するにあたり同社に合祀した。

下野入道南順の女は宗良親王の第一子国良親王の室(母は匂

当内侍の女山吹姫となり宮の一字を賜り下野の下と合わせて

宮下となり国良親王の第一子正治の時始めて宮下を名乗りました。

(宮下家正系図)

 

以来四十年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族合議のうえ、

多数の賛助者、ご協者を得た。

そして上屋の新築、宮殿の改築、完成の運びとなった。

 

〜以上〜

 

花見塚神社の創建を辿ると、北部の『須賀神社』(太田市尾島町)境内に鎮座されていたようだが移転。さらに『二柱神社』なる場所に祀られていたようだが、損壊が酷くなり、結局現在の『花見塚神社』の場所に合祀された。

ならば『二柱神社』という神社が付近にあるハズと、その場でググってみると...。あった!。

 

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◯ニ柱神社(群馬県太田市前島町)

〜御祭神〜

・伊邪那岐命

・伊邪那美命

※このニ柱について諸説あり、聖天様とのこと。

 

〜境内『ニ柱神社由緒』より〜

来歴古記録「宮下相伝記」によると

天正元年(一五七三)に宮下筑後守正繁

一村の鎮守として長井(妻沼)郷聖天(歓喜天)を勧請し

この所に聖天宮を建立したとある。

これには王政革新につき、共有村社二柱社(伊邪那岐命・伊邪那美命)に改むとあるので

この時に武蔵島村と前島村の二村は

共通の氏子となったようである。

普通土地の人々は近年まで「聖天様」と呼んでいた。

境内の建物等の配置は、鳥居(両部式・前後に椌柱)

参道・仁王門(昭和三十年代まで)駒犬・石燈籠・拝殿・本殿(五角形の歓喜壇の中に象頭双身の聖歓喜天)となっている。

神社裏には墓地もあるため本地垂迹に基ずく神と仏を

一所に配祠する神仏習合のなごりかと思われる。

神社保存記録に明治の初期、前島北河原から須賀山神社を

合祀したとあるが明治十二年(一八七九)調査の

群馬県神社明細帳では末社として

境内に須賀神社と菅原神社があったと記載されている。

神社保存記録に明治三十六年(一九◯三)

前島村前島院前にあったところの共有村社稲荷神社

(御祭神は宇賀弁財天・倉稲魂命とも云う)を

合祀したとあるがその時に御輿やキツネノミツケを

奉持したとある。この御輿を雨乞の時に御神体を中に入れて

両村中を担ぎ回り薬師沼(現早川内)や利根川に投げ込んだりした。

又国生みの天照大神や須佐之男命・などの神々を生んだ

このニ柱神は現世利益として・家内安全・商売繁昌・諸難消除の

神として古来から崇敬されている。

 

〜以上〜

 


花見塚神社由緒を簡単に要約すると。新田義貞公と勾当内侍の子が、山吹姫

後醍醐天皇御子、宗良親王と山吹姫の間に生まれた子が、国良親王。(尹良親王の義弟となる)。下野入道南順の娘が国良親王の妃となり、宮下又三郎正治を生んだ。

後に、この宮下三郎正治が新田郷武蔵島に、勾当内侍の墓をたて、ツツジを植えたのだという。

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どうやら上野国新田荘では、宮下文書とは似て非なる、『新田伝承ワールド』があり、そこに宮下姓を称する人々が登場するらしいのだ。勿論、宮下文書には記載がない。

なんだか熊オッサン、お花畑のパラレルワールドに迷い込んだ心境だ...(不安)。



 

上野国と富士朝宮下家の関係。

結論からいえば、上野国の複雑な政治背景からして証明は難しい。だけども富士朝と縁が深い上野国だからこそ全く関係がないとも思えない。今回は、いかに富士朝と接点があるかをまとめてみた。

まず宮下文書三輪本現代訳では三浦氏と宮下家は別家系、ただ遺伝子的には男系女系ともに入っており、同族といっても過言ではない。このあたり宮下文書研究家で、三浦氏族の岩間尹著書『実録三浦党』の記載とは大きく異なる。

そもそも宮下家57代三浦義勝は、里宮(相模一宮寒川神社)の宮下記太夫明吉の孫であった。しかし1282年、相模川の氾濫により宮下家混迷期にあり、三浦半島大多和城(大田和城)で育ったようだ。三浦半島で育ち、1247年宝治合戦の同族の無念を知った義勝が、大多和六左衛門(幼名)から富士三浦六左衛門を称していたとみる。このあたり混同するので注意。但し、宮下文書現代訳では51~55代記述が省略されているのでなんともいえないわけで...、あくまで目安となる。

 

 宮下文書三輪本現代訳によると、新田義貞の妹・鶴江は、宮下家57代三浦左京亮義勝の嫁。これは同盟関係を結ぶべく政略結婚的な側面もあり、富士朝と清和源氏新田氏との人質交換でもあった。新田氏から嫁を迎え入れる身代わりとして、富士朝から新田氏へ3人の人質が差し出されている。これら3名、個別でググってみると。

 

〜富士三勇士(新田氏への人質)〜

  • 羽田六郎左衛門時能(元太神宮社元老司、おそらく新田四天王の畑時能
  • 長浜顕寛(1337敦賀金ヶ崎にて由良具滋とともに戦死)
  • 篠塚伊賀守忠勝(後に義国と称す、新田四天王の篠塚重広と関係ありか?)富士朝に篠垣塚という富士遥拝所あり。

 

なんと...、『新田四天王』のうち二人は富士朝氏族の可能性あり。前記事通り、羽田氏は武内宿彌子孫。岩間尹『実録三浦党』によると、57代三浦義勝は富士十二郷三十七士を従わせており、その中に長浜長部太夫や篠塚八郎なる人物が登場しており、三名ともに十二郷出身と見て良いだろう。こうして1333年、新田軍と富士朝の鎌倉進軍の密約が成立、宮下家57代三浦義勝が新田氏と合流し、北条鎌倉幕府を制圧した。

 一方で宮下文書には、新田義貞の妻についての記載はない。

一般的には複数いるようで、小田真知女や天野時宣女らが挙げられる。ほか義貞が一目惚れした美女ともいわれる『勾当内侍』の存在もあるのだが、96代後醍醐天皇の女官で、鎌倉陥落の恩賞として娶る?と記載されている。ただし、実在性はかなり薄いとされているので注意。

 

以降、下記ブログ↓と宮下文書三輪本現代訳を合わせて考察してみる。

https://ckmj.web.fc2.com/nanntiyou.html

この方は、新田氏側についた児島高徳のご子孫らしいのだ。児島高徳は後述する。

新田義貞38歳にて自決したその年に、勾当内侍はこの新田荘武蔵島に庵をたて、出家し義源尼を称す(諸説あり)。その際に、甲斐国総地頭にして富士浅間神社宮司・三浦越中守義勝の縁者、三浦庄太夫維高なる人物が、母娘を守護していたという(宮下文書記載なし)。

富士浅間神社というのは、おそらくは『富士山本宮浅間大社』のことであろうか?。前記事で述べたように、宮下文書における宮下家57代三浦義勝の母方が、浅間大社宮司『富士氏』となっている。富士朝という表現が一切ないことがミソだ。やはり本家宮下家57代三浦義勝絡みの、ワケありと考えるべきか???。

宮下文書三輪本現代訳には、宮下三郎正治と、その子孫宮下筑後守正繁なる人物は登場せず。また国良親王や勾当内侍や南順も登場しない。上記の花見塚神社由緒には、宮下筑後守正繁は小田原の城主北條氏康の旗下とあるが、この後の小田原という土地柄にヒントがありそうだ。

宮下文書版大森氏のは、富士朝大山守皇子子孫で宮下氏族の派生となる。扇ヶ谷上杉氏重臣の太田道灌の助力により小田原入城を果たす。本ブログでは、太田道灌も富士朝氏族太田氏ではないかと睨んでいる(後述)。こんな状況下で関東武士、とくに小田原武士たちが、『宮下』の本来の意味を知らないわけがない。彼らは後北条の時代となり、旗下として使えていたらしいのだが...。なぜ、小田原の者が『宮下』を名乗れるのか?。非常に不自然に感じてしまう。

※wikipedia義貞によると、応永年間に義宗の子・貞方が捕縛され、直系は断絶。貞方の庶子が堀江氏を称し、武蔵国稲毛に逃れた説あり。この堀江氏の子孫が後北条氏に仕えているようだ。後述する新田氏族『堀口氏』とは別氏族なので注意。そういえば、花見塚神社の目の前にには、小田原同様に『早川』(下写真)が流れている...。

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花見塚神社すぐ奥にある、義貞と内侍の墓石。

そして目の前の現実として、新田義貞の妻・勾当内侍を、何故か宮下一族なる皆さんが祀っていたわけだ。

...これは一体どういうワケか???。



堀口郷と宮下文書『万寿王救出作戦』、実はリンクしていた。

 

新田氏族・堀口貞満の『堀口郷』。上野国新田荘堀口郷は早川沿いに、世良田郷(徳川)にも隣接する地域。堀口貞満は新田義貞の重臣で、1336年後醍醐天皇南朝軍が比叡山に籠もったときに、守護して名を馳せた武将。後醍醐天皇に、尊良親王を奉じて官軍を証明させた人物という。


この堀口という土地が、前記事記載の万寿王救出作戦』と関係がありそうだ。なおこの事件は、一般的には知られていない。

簡単に説明すると、宮下文書版・万寿王は、興良親王あるいは陸良親王の幼名のことで、ともに同一人物。1335年頃、鎌倉府の護良親王が足利直義の陰謀により殺害されると、鎌倉府には当時9歳となる幼い万寿王が取り残されてしまっていた。そこで外祖父・二条大納言為定と楠木正成が立案し、鎌倉府潜入のための実行グループ南朝方3名が選任された。

  • 堀口美嚢守貞満
  • 和田五郎正隆(橘正遠の可能性あり)
  • 橋本八郎正員(宮下文書表記は正貞

和田五郎正隆と橋本八郎正貞を変装させ、王子を小室城宮下に連れ出し移留させたという。その後は、匿城宇津峰南城にて富士又八郎義照(義勝の父方叔父?)と狩野太郎興家に警護をさせている。

室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!

その後の彼ら2名は、堀口氏所縁の地『堀口郷』を頼りに逃亡を続けたようだ。うち堀口貞満は故郷には戻らず、wikipedia記載のとおり、西国義貞軍に従って美嚢から越前に渡り、1338年戦死したとみる。和田五郎正隆は途中討死し、橋本八郎正貞だけがこの上野国堀口郷の『武蔵島』に辿り着き、住み着いたという。

※一般的には、万寿王丸=足利成氏とされているので注意、 井伊之谷宮略記では萬寿王と表記されている。

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上野国の人々は本当に崇敬畏怖すべき存在を知っていたようだ。

龍神の彫刻の素晴らしい『堀口別雷神社』(群馬県太田市堀口町)

因みにこの和田五郎正隆も、楠木正成同様に河内和田氏とみる。これが宮下文書版『宮下氏派生和田氏』と関係があるかは不明。もし関東の和田氏族の残党であれば、北条氏に挑発され滅ぼされた1213年『和田合戦』の恨みもあり、1333鎌倉幕府倒幕運動に傾倒した動機も納得するが...。いずれにせよ楠木正成の母方出自が宮下氏族井出氏なので、富士朝宮下氏族と全く無関係とも考えにくい。

楠木正成は本姓橘氏、母方は宮下家派生の富士朝神官・井出氏だった!!。 - セキホツ熊の謎を追え!

 



ここで忘れてはならないのが、前記事にて紹介した宮下文書のこの記載である。

 

『征東将軍宗良親王は上毛敗走の後、陽には両毛信越等に往来された様ではあるが、実際にはそうではない。いずれも代人であり、陰には大宮司の匿城である富士阿祖谷宇津峰南城の忍ヶ館を根城として、潜み留まっておられたのである。』

 

つまり、上野国の親王伝説は『代人』の疑いもあるということで、これ以上の具体的記載はない。宮下文書観点から見れば『世間は真実をしらないハズ』と豪語しているようなもので、こうなると上野国地元の伝承を幾ら並べたところで、解明はもはや不可能だろう。

...それを差し引いても、上野国が、甲斐国・三浦義勝と所縁があったことが伺えるし、また南朝の武士にとって頼りにされていた姿が浮き彫りとなる。もともとは富士朝の影響力が強かった上野国。宮下家の血縁者がいても決しておかしくはない。

 

前記事にて、新田氏族の仮冒問題は根が深いと述べたのはこのあたりだ...。

注意すべきは、一般的な史家は、このような富士朝の複雑な背景があったことを全く知らないわけだ。そのうえで後世展開される、世良田氏から松平氏への変遷、新田義宗子孫である岩松氏・横瀬氏の下剋上を語るのであれば、より一層混乱をもたらすのは明白であろう(苦笑)。

まあ、素人オッサンが偉そうなこと言えないが...、やはり上野国仮冒問題は慎重さが必要とおもうのだ。




...その後、楠木正成の首級の行方と別雷命さまの関係。

 

◯『楠木神社』(群馬県館林市楠町)

〜御祭神〜

・楠木正成公

・草野姫命???

 

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楠木神社境内にある由緒。

楠木正成の首塚は諸説あり、この館林楠町の楠木神社にも伝承がある。以降、『楠木神社』由緒(後述)と宮下文書を合わせて考えてみた。

1336年湊川の戦い後、京都六条河原にて晒された首は、そもそも楠木正成のものではなく、宇佐美河内守正安の首級のものであるとする。詳細は不明であるが、足利尊氏が一目置いていたライバルの楠木正成に配慮して、親族に返還したとの説もある。

敗戦後残された家臣、伊藤義知・江田高次・岡田友治・冨田正武・三石行隆の5人は、楠木正成の首級を塩漬けにし隠し持ち、東へ下向。橋本八郎正員ら七名の遺臣が三浦越中守義勝に寄り持って甲斐へ逃げ、甲斐国から先に述べた和田五郎正隆橋本八郎正員が合流している。橋本正員は山本五郎国正と名を変えているので注意。また一般的にはこれらの人物は、1336年『湊川の戦い』で戦死か自刃しているので注意。

 

彼らは南朝方の陸奥・北畠顕家を頼りに、首級を担いで北上、しかし足利の追手に追撃され、山本(橋本正員?)と太田(和田五郎正隆???)なる人物が戦死。先に述べた五名、伊藤義知・江田高次・岡田友治・冨田正武・三石行隆のみが、この群馬県館林市付近を通りかかる。すると突然『首級』が重くなり、持ち運ぶことが不可能に。彼らはこの地に祠を建て、それぞれ改名したうえで『五苗』と呼ばれ、帰農し、子々孫々祀り続けたという。

※宮下文書や前述ブログと、若干の違いあるので注意。前述では、甲斐を出た所で和田五郎正隆は討死、橋本八郎正員は堀口郷武蔵島に住み着いたとあるはずだが...???。

※因みにこの頃、北東の寒川郡の野木神社付近を拠点としていた氏族・小山氏は、藤原秀郷末裔を称する太田氏族のハズだ、何か富士朝とも関連がありそうな...。

 

上野国新田荘は北朝足利氏の発祥地『足利荘』にも近く、南朝勢力の楠木正成公が祀られていることが知られてはマズい。北朝足利側の目を避けるために楠木(くすのき)から『のき』をとり、長年『乃木神社』または『野木大明神』と称していた。

明治五年(1872年)の政府神社調査の際には、祭神を『草野姫命』としており、これも北朝明治政府に朝敵認定されるのを恐れていたのかもしれない。ただ明治初頭の南北朝正閏論により、後亀山天皇まで南朝が正統とされ、楠木正成は1880年勤王家・大楠公として正一位を賜わる。当社も楠木正成公を隠避する理由もなくなり、明治25年に『楠木神社』を号した。

ただ正直、西国で果てた新田義貞や楠木正成の首級を、ここまで運んできたというのはちょっと信じられない...。おそらくは南朝を偲ぶ信仰ではあるのだろうが...。ここで注目すべきは、彼らが上野国へ富士朝を介してきたことで、個人的には富士朝から富士朝神の御神体を運んできた可能性はあるなあと...(妄想)。

 

草祖・草野姫命(カヤノヒメ)とは日本書紀におけるオオヤマツミの妃神、宮下文書に比定すると別雷命、富士朝代表神の一柱カモサワヒメである。

 

実を言うとこの楠木神社、関東三雷社のうち二社『雷電神社総本宮』と『金村別雷神社』の延長線にあり、飯縄山と戸隠奥社を結ぶレイラインを形成する。日月神示『下つ巻』1帖に登場する榛名山『蛇ヶ岳』戸隠神社の地主神九頭竜神が、別雷命カモサワヒメと結ばれる...。

サルタヒコ子孫出雲族が祀る九頭竜神とカモサワヒメ?、どういう関係だろうか?。

レイラインに関しては、また近いうちに別記事にて紹介したい

『伊勢』の本当の歴史、サルタヒコ子孫伊勢国造と坂上田村麿、菅原道真の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!

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※因みに前述したブログ主さんの祖先、児島三郎高徳を調べてみると。

楠木正成同様に、南朝方の武将。太平記では、和田高徳と表記されており、楠木正成同様に和田姓を名乗っている。wikipediaによるとアメノヒボコ子孫説あり、『三宅氏正伝記』によると子孫には三宅氏を派生させている。タチバナ紋の井伊氏族三宅氏と家紋が違うのだが、同姓となるわけだ。

南朝と宮下文書を追うと、なぜか芋蔓式に出てくる、アメノヒボコ子孫『三宅』や『橘』『犬養』『和田』『太田』『羽田』...、もはや偶然の一致とも思えないのだが(苦笑)。

やはりこの児島高徳にも、富士朝氏族の気配を感じてしまうのだ...。

※因みに当ブログでは、三宅≒宮下家(みやけ)説を唱えている。

アメノヒボコに富士朝の影①、タジマモリ・オトタチバナ・神功皇后は徐福末裔? - セキホツ熊の謎を追え!

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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