セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

徳川家祖新田氏・富士朝・南朝の壮大なる因縁。井伊氏はその仲介人?。

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徳川発祥の地、『世良田東照宮』(群馬県大田市世良田町)


2021,5,4

wikipediaによると徳川家の母体松平氏は、清和源氏八幡太郎義家の子孫・新田氏末裔。

ただ徳川家康は、当初藤原姓を名乗っており、武家は清和源氏でしか征夷大将軍になれないという前例を気にしていたようだ。よって、家康は源氏姓を仮冒したのではないか?というのがもっぱらの説。宮下文書もこの辺は明確にしていない。

 

しかし宮下文書論では、賀茂次郎義綱子孫は生きており、相模国の三浦氏となる。つまり新田氏と三浦氏は同族の清和源氏、一般論とはかけ離れる見解が必要となる(笑)。

個人的にも、富士朝色の強い上野国にあって、新田勢力が富士朝と同盟を組むのは、至極当然の成り行きだったのかなと...。

本姓賀茂氏・徳川家康が新田氏末裔を称し、オオヤマクイと別雷命を崇敬し、葵紋を掲げたならば、大部分が繋がる。いや、宮下文書記述の矛盾が小さくなる...と。

私が宮下文書を信じた理由の一つは、レイラインとか非常に体感的ではあるが(苦笑)、要所要所で辻褄が合うことだ。



新田氏と富士朝三浦氏の同盟。

徳川家康を語る前に、まず彼の祖先・新田氏と富士朝の関係から紹介せねばなるまい。

 

そもそも4世紀上野国は、大山守皇子の十二王子の九王子、大原毛野陸彦が毛野陸国国造となる。さらに大山守皇子の嫡男・宮下源太夫明政の第二王子が、毛野国の県主となる。現在でも『火雷信仰』が数カ所残っているなど、富士朝色が非常に強い土壌であったと見ている。

その反動なのか?、上野国は大国(13カ国)とされ、そのうち平安期『類聚三代格』にて制定され、西国天皇勢力から親王自ら国王となる親王任国とされる。

この地を八幡太郎義家の四子・源義国が拠点とし、新田と足利の両氏祖となる。後世にこの二大勢力が対立し、富士朝と南朝を巻き込み滅ぼすなど、誰も知る由もなかっただろう。

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鎌倉時代〜南北朝時代の富士朝は、15代応神天皇子孫・宮下家というべきか、三浦氏というべきか迷うところではあるが...。

前述通り。平安末期〜鎌倉時代の宮下家は、賀茂次郎義綱子孫・三浦義顕の子・義仁が婿入りしているので、男系清和源氏遺伝子である。また、その長男・富士宮下藤馬亮義国は三浦義澄の娘を娶っているので、男系女系揃って賀茂次郎子孫が入っている。もはや三浦氏同族といっても過言ではない。勢力的にも、宝治合戦(1247)北条得宗家に破れた三浦氏、そのごく少数が富士朝へと逃げ込み、合流していたとみる。

さらに57代大宮司・三浦左京亮義勝は、実質三浦姓を名乗り、新田義貞の妹・鶴江を娶る。富士朝から新田氏側へは、羽田時能らの人質とし、密かに北条討伐と富士朝宮下家再起の密約を結んでいた。

『暫』と『源義忠暗殺事件』に潜んだ真相。富士朝・加茂次郎子孫は鎌倉幕府に貢献していた。 - セキホツ熊の謎を追え!


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1333年新田義貞は、上野国『生品明神』にて挙兵すると、武蔵国多摩『分倍河原の戦い』まで南下、57代三浦義勝(大多和義勝)の軍勢6000と合流した。一時は、北条軍10万?を前に退却を考えていた新田軍の形勢が、突如として逆転。多摩川を渡り、たった6日で鎌倉へ一気になだれ込み、北条討伐を成し遂げている。

この突然の形勢逆転劇、一体何があったのか?。

 簡単に言えば、富士朝側の加勢に、武蔵国武士までも、たちまち奮起したのではないかと...。

宮下文書によると、四世紀頃の小多摩の関戸(現在の聖蹟桜ヶ丘)は、宮下家派生氏族・吉田氏の拠点の富士朝地盤でもあった。さらに平安後期の多摩は、源頼義の弟・柏木右衛門佐義季の領土であり、その後1180年11月柏木氏は落ち延び、富士朝副宮司の家系となる。57代義勝の副司は、柏木忠太夫義隆で義勝の姉か妹?を娶っていた。

新田軍を辿れば、『関戸古戦場』は、現在の瀬織津姫を祀る武蔵一宮・小野神社周辺にあたる。平将門の反乱以降も、関東武士がいかに富士朝地盤を持っていたかを物語る。

 そして興味深いことに、『分倍河原古戦場跡』は、富士山高千穂峰レイライン上、小野神社と大國魂神社の間にあるということだ。しかも武藤氏により瀬織津姫三社が並び形成されたエリア。ただ皮肉なことに、武蔵野合戦『人見ヶ原の戦い』(1352)にて武蔵国武藤氏は新田義宗に滅ぼされている。

奇しくも、神武東征時代にウガヤ51代神皇・弥真都男王尊が、東国から駆けつけた伊勢多気の宮も同レイライン周辺を通る。

私がこの夏至レイラインを、日本国の『運命線』と感じる理由でもある(苦笑)。

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新田義貞の死、リベンジに燃える57代三浦義勝。

 

〜後村上天皇から富士朝57代義勝へ〜

『楠新両家が滅んだ上は賊である足利の一族を砕く大将は我が国大日本にお前しか他いない』

神奈川県徐福研究会・現代訳『神皇紀』より

 

57代義勝はこのお言葉に感極まり、泣いたという。

 <宮下文書>楠新両家が滅んだ上は足利一族を砕く大将は、我が国大日本にお前しかいない。 - セキホツ熊の謎を追え! 

盟友・新田義貞亡き後、関東南朝軍10万の指揮は、富士朝勢力・57代三浦左京亮義勝に統合された。彼は、武家政治に矛盾を感じ、皇政復古の志をもって新田義貞に合流した。南朝宗良親王に義を感じ、それが故に北朝足利に滅ぼされる結果となってしまう。

 

57代義勝は、相模国大多和城(太田和城)で育ったので幼名・大多和六左衛門、富士三浦六左衛門と称する。1334従五位源太夫を授かり越中守補佐となり、越後国蒲原郡三郡を所領、三浦越中守を称する。現在の新潟県加茂市には、賀茂次郎義綱の創建といわれる『長瀬神社』(加茂市八幡)がある。

 

◯『長瀬神社』(新潟県加茂市大字上条)

〜御祭神〜

・瀬織津姫命

・言代主命

・気長足姫命

・誉田別命

・玉依姫命

※由緒によれば、長治二年(1105)、加茂次郎源美濃守義綱が長瀬神社に石清水八幡宮を勧請したとのこと。

宮下文書では賀茂次郎子孫が三浦氏となる。もし仮に、瀬織津姫≒カモサワヒメ(コトシロヌシ娘)であれば、八幡神と賀茂神が並祀された、清和源氏二大信仰による意義深い神社となる。加茂の地名も頷ける。

宮下文書における瀬織津姫の正体②瀬織津姫の比定候補 - セキホツ熊の謎を追え!



そこから加茂川を辿った上流には、長瀬神社の熊野系論社(新潟県加茂市大字宮寄上)があり、新田義貞三男・義宗の岳山城があった。すなわち義宗は、富士朝三浦氏族の強いバックアップのもとに、成人したのではないかと推測できる。

このあたり宮下文書にも記載がある。新田義貞が討たれたあとも、征夷大将軍宗良親王に従い、甥っ子新田義宗とともに、越後・上毛・吾妻に十万の兵力を布陣をつづけた。

しかし、反逆者が内部にあらわれ大混乱、57代義勝は宗良親王を信濃へ逃亡させ自刃し果てた。

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以降の新田氏末裔について、宮下文書現代語訳の記載はないので注意。

新田始祖・新田義重の子の義季は、得川(えがわ)郷 に住して得川姓または世良田姓を名乗る。室町時代に、その8代孫・有親は足利氏に睨まれ故郷を離脱、信濃から流浪の果に、三河国の酒井五郎左衛門(徳川四天王・酒井忠次の家系)を頼る。その有親の子が、松平太郎左衛門親氏(不詳~1394)で、婿として松平氏へ合流している。当時の三河国松平郷領主・松平信重は、親氏の教養武勇に惚れ、二女・水女の婿養子として松平郷を継がせた。つまり徳川家男系は、清和源氏・新田氏ということになる(諸説ありすぎ注意)

また松平氏の領土が、かつて山背国賀茂神社の神領の三河国『加茂郡』であり、松平信重の祖父が賀茂在信と『賀茂氏』を称していたようだ。この賀茂神社神官が、徳川四天王の本多忠勝の家系。徳川『葵の紋』も、この賀茂神社の神紋『あふひ』『二葉葵』に由来すると見られ、神官家本多氏から譲られたとの説がある。

こうして、徳川家康が活躍する戦国時代が開幕する。



秋葉山『火神』に集う徳川富士朝連合軍

 

元亀元年(1570年)、徳川家康は尾張信長勢力に従軍していた。武田軍侵攻を牽制すべく、岡崎から浜松へ本拠地を移す。浜松城入城の際に、秋葉山の秋葉権現を勧請したのが『濱松 秋葉神社』。

 

前記事で紹介した秋葉山信仰。

秋葉山社伝によると、かつては武田信玄も秋葉山を崇敬しており、社紋は剣花菱は武田信玄の寄進という。徳川や武田両勢力でも崇敬され、実質その仲介となった信仰で、富士朝『火』『水』のしくみを体現するかのような神社である。

秋葉城を拠点とした天野氏の影響もあったのか?、サルタヒコ子孫菅原氏に由来する神社であることもわかるであろう。

<富士朝めぐり②>西国天皇勢力に奪われた太陽神、そもそも富士高天原は『火』と『水』の楽園だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

サルタヒコ子孫さらに末裔の話。天野遠景と大宰府・大江広元と毛利長州。 - セキホツ熊の謎を追え!

◯『濱松 秋葉神社』(静岡県浜松市中区三組町)

〜御祭神(本殿社号秋葉神社)〜

・迦具土神

・瀬織津比咩命

・速秋津比咩命

・気吹戸主命

・速佐須良比咩命

 

〜境内社〜

・日本武尊

 

〜 四社神社〜

・底筒男命

・大歳命

・月夜見命

・猿田彦命

・大国主命

・事代主命

・品陀和気命

・水速女命

・少彦名命

・宇迦魂命

・須佐之男命

 

〜天満宮〜

・菅原道真公



天正10年(1582)、信長や家康らによる甲州征伐にて、武田氏は滅亡する。このとき、多くの旧武田家臣を徳川方は召し抱えている。もしかしたら、天野氏や太田氏などの富士朝傀儡勢力も、徳川方へ紛れ込んでいたのではないだろうか?(妄想)。太田氏は江戸時代に肥前佐賀藩へ流れ、鍋島氏に婿入りしている。

また元亀2年(1571)、信長による比叡山焼き討ちの際、天台宗天海は、一時的に武田信玄に甲斐へ招聘をうけ移住している。この時点まで、徳川の敵国であった甲斐国には、後世江戸幕府の重要人物が多数いたとみる。

もし仮に、徳川家康と富士朝末裔勢力が密約を結んだとしたら...、この時点ではないかと想像する。

濱松秋葉神社には、旧武田残党に家康への忠誠を誓わせるため、その起請文が奉納されているという。これが、徳川家、旧武田勢力、井伊家による、『信玄衆誓詞(天正壬午甲信諸士起請文)』であった。

奇しくも火神に、徳川勢力と井伊氏と武田残存勢力が集う形となる。





信長が恐れていた、『井伊氏』とは?。

遠州も、富士朝地盤が強かった。四世紀に大山守皇子第5王子・土形遠栄彦が国造となり、同国小笠原土形の館を拠点としていた。小笠郡は、現在の掛川市下土方、周辺には瀬織津姫を祀る『池宮神社』あり、のちに遠江小笠原氏が拠点とした土地。

 その遠州浜名湖の北東部に但馬氏族三宅氏を本姓とする『井伊氏』が拠点をおいていた井伊氏の家紋は井伊橘で、三宅氏同様『橘紋』となる。タチバナ紋は、タジマモリやオトタチバナや徐福と関係ありそうな...、詳細は別記事参照の事↓。

 アメノヒボコに富士朝の影①、タジマモリ・オトタチバナ・神功皇后は徐福末裔? - セキホツ熊の謎を追え!

時代はとんで、室町時代。

宮下文書によると、遠江国引佐郡渭伊郷『井伊谷』、現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷にて、江戸幕府の基盤は密かに作られていた。

1338年5月、南朝方・宗良親王は、遠江国白羽に漂着、井伊谷経由で富士阿祖谷(高天原)へ潜行する。

1343年5月御子の尹良親王は、井伊谷より南都へ登る機会を伺っていた。宮下文書では、上毛寺尾城の新田軍との交流も記載されており、徳川家祖と南朝の主従関係が確認できる。wikipediaによると。尹良親王の母は、井伊道政の女(駿河姫)とされ、ここで井伊氏との縁戚関係が生まれたのではないかとみる。

 

一方の富士朝。前述した富士朝57代三浦左京亮義勝の長男、太神宮大宮司58代宇津左京亮義利は、井伊遠江守道政の二女・伊佐姫を娶る。

つまり、なんと井伊道政は、南朝にも富士朝にも娘を娶がせている。まさに、南朝と富士朝の仲介人的存在であっただろう...。

 

宮下文書によると。57代義勝亡き後...、富士朝58代義利は宗良親王とその御子・尹良親王を、富士朝の匿城である『宇津峰南城』にて守護していた。宗良親王の死因は記載されていない。

応永31年1424年8月、信濃諏訪から同国大河原への途上、賊徒の襲撃に遭遇。58代義利は最後まで尹良親王を庇い戦い、二人は力尽き死す。

現在、大河原の『信濃宮神社』(長野県下伊那郡大鹿村大河原)には、信濃宮として宗良親王が祀られている。中央構造線沿いにある国道152号『秋葉街道』、未完の酷道とも呼ばれる山間部僻地、別名『南朝の道』とも呼ばれる。いずれにしても信濃諏訪から、親王と58代義利の目指した先には『井伊谷』があったわけだ。彼らは、井伊氏のいる井伊谷を目指して、逃亡していたのではないだろうか?。

 

◯『信濃宮神社』( 下伊那郡大鹿村大河原上蔵 )

〜御祭神〜

・称信濃宮 宗良親王



◯『井伊谷宮』(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)

〜御祭神〜

・宗良親王

本殿背後が墳墓、明治5年勅命で創建。

 

こうして、南朝はひとまず終焉を迎える。

富士朝は、北朝足利勢力に断罪され、富士十二郷と阿祖山太神宮神領を没収される。富士朝『龍の河原』にて、宮下文書こと富士古文書は焼き払われることになる。

少々余談になるが、58代義利が、日々隠匿生活で暇をもてあそぶ宗良親王・尹良親王に宮下文書を謄写献上していた。これが奇跡的にも残っていた。おそらく尹良親王が上野国に移る過程で、富士朝匿城宇津峰南城に謄写を置いていったのだろう。これを一族により無事回収され、隠避され、現代に伝わるようだ。

以降、鎌倉時代に源頼朝により再興された『阿祖山太神宮』の勢力の求心力は、完全に沈黙。宮下一族は反抗よりも延命を望み、宮下文書を後世に残すべく、徹底的に身を隠していたのかもしれない。




時代はまた戦国時代に。

徳川家康の前妻は築山殿、諸説あるが井伊直平の孫娘とされる。

このツキ+ヤマというのも何処か、富士朝を彷彿とさせる...、あくまで岡崎市の地名とのこと。周辺には、瀬織津姫系神社ではないか?との噂もある『小河天神社』(愛知県安城市小川町志茂)がある。

 

1579信長は、築山殿に武田スパイの嫌疑をかけ、家康に築山殿嫡男・松平信康の処刑を命じる。築山殿は自害を拒んだゆえ、松平家の立場を憂いた家臣によって殺害された。結局は、嫡男・松平信康も、自害に追い込まれている。前記事で述べた秋葉山の奥の院『八尺坊』には何故か、『愛信康』という銘の石碑があるそうだ。

 

この事件は謎も多いが、宮下文書を読まないと背景が全く見えないと思われる。

前記事でも述べたとおり、ホツマツタヱによると、比叡山とは富士山の見立てである。織田信長は、1571年比叡山延暦寺焼き討ちを命じた張本人。比叡山と繋がる山王信仰者と富士先住民信仰者、比叡山で学を深めた天台宗天海、さらにサンカの結びつきなどなど...、山神信仰者の反撃を恐れていたのではないかと(妄想)。

さらに深読みすれば、築山殿の背後にいた井伊氏に、南朝或いは富士朝の遺伝子を疑っていたのかもしれない(妄想)

こうしてみると戦国大名にとっても、南北朝時代に沈静化したハズの富士朝は、とてつもない求心力を秘めた『眠れる巨人』だったのか...。

 

その後の井伊直政は『徳川四天王』とよばれ、徳川家との蜜月がはじまり、幕末1860年3月24日『桜田門外の変』、井伊直弼が殺害された。これが実質、江戸時代の終焉を強調した事件だったのが、さらによく理解できるハズだ。

このように、江戸時代徳川幕府260年間というのは、富士朝+南朝の流れであった可能性が出てきた。

 

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全部繋がっていた!!、歴史をレイラインで振り返る。

 

〜徳川東照宮レイライン〜

・早池峰山(瀬織津姫と坂上田村麿伝承)

・奥州平泉・中尊寺

・蔵王連峰・苅田郡(宮下文書の坂上苅田麿由縁)

・猪苗代城(三浦氏族蘆名氏の拠点、ズレ大きい)

・磐椅神社(武内宿彌創建・オオヤマツミ、ズレ大きい)

・日光東照宮

・生品神社(新田氏鎌倉挙兵の地・オオクニヌシ)

・新田得川荘(現在の太田市徳川町)

・徳川東照宮と世良田東照宮の間?

・長楽寺(蘆名氏・天海由縁あり)

・渋沢栄一記念館

・富士高天原(下宮小室浅間神社付近?)

・北口本宮富士浅間神社

・富士山(ズレ大きい)

・富士山本宮浅間大社(ズレ大きい)

・久能山東照宮(家康遺言で祀れた神社)

・御前崎?

※Googleマップ日光東照宮と久能山東照宮を起点、多少ズレあり。

 

このレイライン、一部は前記事でも紹介しているが、今回の記事内容をさらに集約しているといっても過言ではないだろう。高天原で新田氏三浦氏の同盟成立〜義貞挙兵〜江戸幕府へ、本当に一線で繋がっていた。これは人為的なものなのだろうか?。

だとしたら、天海あたりが考案したのだろうか。

彼は三浦氏族蘆名氏で、その蘆名氏の地盤が猪苗代城周辺(福島県猪苗代湖)であった。また世良田山長楽寺は、徳川家の祖とされる世良田義季による開山であり、墓所でもある。江戸時代に天海により、天台宗に改宗された。

徳川家康が八幡太郎義家の子孫ならば、天海は賀茂次郎義綱の子孫であり、奇しくも八幡神と賀茂神の清和源氏のコンビネーションとなる。

 

前述したとおり、新田氏祖=徳川氏という論には異論を唱える史家が多い。新田義季は強引に徳川氏祖にされてしまい、死後にして徳川に政治利用されているというのだ。

天海にも謎が多く、明智光秀説など真剣に議論している方々もいる。

ただ、もし徳川家が新田氏の仮冒だとして、誰も気づかない、こんな緻密なカラクリまで用意するだろうか?。ここまでして、新田と徳川の繋がりをアピールしたいのだろうか?。

...全てが偶然でも、それはそれで興味深いのだが(苦笑)。

 

 

 

※謝罪と訂正。

宮下文書において、信濃国大河原の『信濃宮神社』(長野県下伊那郡大鹿村大河原)で死んだのは、宗良親王ではなく尹良親王のようです。三輪本現代語訳の『親王』という主語を混同し、さらに現在の『信濃宮神社』御祭神が、宗良天皇ゆえ混同してしまったようです。

たいへん失礼をいたしました。謝罪し、訂正いたします。

自ずと、信濃宮神社の御祭神には、尹良親王を祀る事が相応しいのでは...?とも推測もできます。因みに、宗良親王の死因については、記載されてません。


 

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※地図はクラフトマップ使用。

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