セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。

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新田荘総鎮守『岩松八幡宮』(群馬県太田市岩松町)

2021,5,9
謝罪と訂正。

前記事にて。長野県下伊那郡大鹿村大河原『信濃宮神社』付近で戦死されたのは、宗良親王ではなく尹良親王だったようです。宮下文書・三輪本現代語訳の親王という主語を混同して、間違えていました。たいへん失礼をいたしました。謝罪し、訂正いたします。

現在の『信濃宮神社』の御祭神は、宗良親王です。

徳川家祖新田氏・富士朝・南朝の壮大なる因縁。井伊氏はその仲介人?。 - セキホツ熊の謎を追え!

前回は新田氏から徳川氏への流れを説明するために、鎌倉時代〜江戸時代を足早に説明した。

しかし、ただでさえ複雑な南北朝時代は、私のような素人オッサンが説明しても混乱してしまうわけだ(笑)。こうなると、歴史マニアさん達はもっと納得いかないだろう。個人的にこのブログは、誰でもわかりやすく、宮下文書を紹介したいのだが...。そこで、今回は三輪本現代語訳にて南北朝時代に関して書かれている内容と、一般的に知られている事件を時系列にまとめてみた。



南北朝時代の真実。足利尊氏が戦っていたのは富士朝だった。

 

鎌倉幕府の実権は、源頼朝から北条得宗家に移行する。

北条得宗家は、頼朝の初期御家人メンバーたちを次々排除し、実質幕府を乗っ取った。宝治合戦(1247)では、頼朝勢力の古参・三浦氏が、北条勢力に追い詰められて集団自決した。宮下文書によると、三浦光村だけが辛うじて鎌倉から富士朝に逃れている。

 

一方で足利氏は。1221承久の乱の功績で、足利氏は鎌倉幕府との繋がりを深めていた。東西の大動脈、東海道要所の三河国守護職(矢作川)を獲得すると、地の利を生かして着実に勢力拡大をしていた。他方で、鎌倉幕府は二度の元寇で弱体化、御家人からの信頼を失い求心力を低下させてゆく。

※因みに三河足利氏族吉良氏は、江戸期赤穂事件『忠臣蔵』、吉良上野介で有名。

※三河国今川氏も吉良氏系統の足利氏族、徳川四天王の榊原康政も足利氏族仁木氏末裔。徳川にとっても足利氏末裔は、因縁深い氏族となる。

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宮下文書によると、京都の西国天皇勢力は、既に鎌倉幕府打倒の動きを見せていた。

1330年前?、96代後醍醐天皇は密かに富士朝の意向を探りに、万里小路藤房こと藤原藤房を派遣、『北条氏調伏』(呪詛)と皇政復古を立願。ごくわかりやすくいうと、『北条氏がムカつくから呪い殺してくれ!』『天皇政治に戻してくれ!』とのこと。

このとき執り成したのが、56代富士宮下右近亮義高であり、その席上で息子・三浦義勝(のちの57代義勝)が紹介された。人となりは精忠、卓識、慷慨で、皇政復古の志をもっていた。ここで藤房との利害が一致、密旨と密約を謹んで受けたとのこと。

この流れから察するに、上野国清和源氏・新田義貞に同盟と鎌倉討伐を持ちかけたのは、むしろ富士朝側だったのかもしれない。新田氏は清和源氏でありながら、足利氏とは逆に幕府から距離を保っており、困窮していた氏族であった。そこに倒幕にむけて富士朝が動いたとなれば...。彼ら新田氏が突如として周知され、関東にて影響力をもったことも頷ける。

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新田氏・鎌倉挙兵の地『生品神社』(群馬県大田市新田)


1331元弘の乱勃発。後醍醐天皇に討幕の動き、足利高氏も参戦(宮下文書記載なし)。

1333元弘の乱に呼応して、新田軍挙兵、武蔵国分倍河原にて57代三浦義勝と合流、北条鎌倉幕府を倒す(宮下文書記載なし)。

1333建武の新政(宮下文書記載なし)。

 

1334年3月、57代義勝は北条倒幕の功績により、従五位、源太夫を賜る。越後国蒲原三郡を得て、三浦越中守を称する。

1334年、96代後醍醐天皇の御子・護良親王が征夷大将軍、兵部卿に任じられてされ、鎌倉府を拠点として関東を監視していた。しかし、足利高氏の陰謀により殺害され、鎌倉には9歳となる御子・万寿王が取り残されていた。

1335年、万寿王の救出作戦。西国では、楠木正成と万寿王の外祖父・二条大納言為定が万寿王の救出を計画、堀口貞満(新田氏族)・橋本八郎正貞・和田五郎正隆を変装させ救出。富士朝の匿城・宇津峰南城に王子を匿い、富士又八郎義照(後述)と狩野太郎興家に守らせる。

1335年8月7日護良親王の近臣である松木左中将藤原宗忠が、鎌倉へ派遣された。護良親王の『首級』を供養し、富士朝に入麓。阿祖山太神宮内宮に首級を安置する。藤原宗忠は57代義勝を引き連れ上京、96代後醍醐天皇に謁見し、事の次第を御前にて報告している。

※因みに藤原宗忠は、平安時代に同姓同名がいるので注意。護良親王の首塚も諸説ある。

 

1336年、楠木正成、戦死(宮下文書記載なし)。

1338年、新田義貞、戦死(宮下文書記載なし)。

1339年、後醍醐天皇の崩御、97代後村上天皇即位(宮下文書記載なし)。

1341年、護良親王御子・万寿王が十六歳にして元服し、興良親王となる。南朝勅使・万里小路秀房が富士朝に入麓し、興良親王を征夷大将軍に任じる。常陸の太守とし陸良親王と改称、上野下野両国守護を兼務。

1349年2月4日、源頼朝により再興された阿祖山太神宮に再び、正一位一幣司を賜る。57代三浦義勝は、護良天皇首級守護のため正四位上と弦兵衛佐兼越中守、そして足利討伐を勅旨を賜る。

『楠新両家が滅んだ上は賊である足利の一族を砕く大将は我が国大日本にお前しか他いない』

〜神奈川徐福研究会・現在訳『神皇紀』より〜

 

1349年4月、尹良親王が、井伊谷より上毛寺尾城に密かに入城、父・宗良親王と合流。

1351年、観応の擾乱。北朝が足利尊氏派と足利直義派に分裂。尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。なんと裏で手引していたのは富士朝で、『奇計で間者を放ち、撹乱させていた』旨が記載されている。

一般的には、足利直義は急死、あるいは毒殺されたとも言われている。

1352年、武蔵野合戦勃発。

足利氏混乱に乗じ、57代義勝が宗良親王親子を奉じ作戦指揮。新田義宗・脇屋義治の従兄弟同士が、南朝に降伏していた北条時行が上野国で挙兵、鎌倉奪還のため南下する。

しかし利なく敗戦、宗良親王と義宗は三浦越中守の越後へ、井良親王(おそらく尹良親王の誤植)は富士朝へ敗走する。一般的には諸説あり、宗良親王は諏訪へ敗走したことになっているので注意。

※因みに得宗家子孫の北条時行は、当初から足利軍と対立しており、事の成り行きで南朝に従軍している。

その後、宗良親王も富士朝で合流。以降十年ほど、宮下家57代義勝の父である先代56代義高の守護のもと、富士朝宇津峰南城にて潜伏生活に入る。

一般的に尹良親王は、越後や上野に拠点をおいていたようだが、宮下文書では富士朝内に多く潜んでいたことになる。

 

〜富士朝隠匿の南朝三親王〜

・興良親王(前宇津峰宮)護良親王の御子・万寿王

・宗良親王(中宇津峰宮)

・尹良親王(後宇津峰宮)宗良親王の御子

 

1355年、57代義勝は甥・新田義宗とともに上毛で布陣する。しかし敗戦すると、征夷大将軍・宗良親王を信濃へ退去させ、自らは上毛で防戦。

1355年7月21日、三浦氏軍内部で造反あった模様、部隊は大混乱したとされるが原因は特定されていない。宮下文書でも、57代義勝は『戦死』したとも、自軍316人が『枕を並べて自刃』したとも書かれている。享年56歳。

 

このタイミングでようやく足利尊氏は、富士朝が南朝背後で暗躍していることを察知。長らく富士朝は、静観していたとみなされていたようで、足利氏も積極的に介入しようとはしなかった。仁木頼章と六角氏頼をはじめ3000騎をあらためて富士朝へ派兵、しかし、57代義勝の死因が不明であったために、この時点では、富士十二郷没収はできなかった。

以降、58代宇津左京亮義利が、南朝親王の守護を継承する。

 

1382年、100代後小松天皇即位。

北朝足利氏主導の元で形式的な南北朝統一がなされ、南北朝時代は終焉する。しかし実際は、富士朝富士谷には逃れてきた南朝方の宮方や遺臣が、万余いたという。足利幕府も、全国的な南朝残党軍の掃討戦に入る。

1385、宗良親王、死去(宮下文書記載なし)。

1398年2月、富士谷の戦い、富士朝勝利

1400年1月、富士谷の防戦

1403年4月、富士谷の防戦

1404年2月、富士谷陥落、富士朝全面降伏。阿祖山太神宮神官の多くは戦死。

足利氏目代・千葉兼胤により、阿祖山太神宮神領『富士十二郷』の没収、古文書や宝物は龍の河原にて焼却された。富士古文書(宮下文書)も焼却処分される。

因みに富士十二郷時代とは、富士山24里四方のこと。鎌倉幕府が源頼朝挙兵に協力した恩賞として、宮下家49〜58代が総地頭に任命されてきた。

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南朝の英霊碑がある『大明見小室浅間神社の旧社跡・古宮』(山梨県富士吉田市大明見)

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前記事にも書いたが。58代義利は、隠棲し時間をもてあそぶ宗良親王尹良親王に、宮下文書謄写を献上していた。富士朝陥落後、これらが主なき匿城『宇津峰南城』に残されていたのようだ。我々が目にできるのは、この謄写本のさらに写しとなる。

さらに世話役の先代56代義高は、宇津峰南城内に田んぼを作り、親王たちを慰めていた。自らを『田貫次郎』、または『宇津』と称していた(後述するが重要)。おそらくは、親王が親しみをもって付けたニックネームだったのであろう。

 

1408年、富士朝谷一帯は上杉民部太輔顕憲に賜われた。

wikipediaによると初代関東管領にして上野・越後・伊豆までも賜る。足利尊氏の従兄弟にあたり、山内上杉家の始祖。もともと上杉氏は三河国岡崎市にて足利氏家臣の一族。とくに上杉顕憲は足利直義派で、尊氏と対立する局面もあった。

ただwikipedia上杉顕憲では、1368に老齢にて死去していることになっているので注意。室町後期に登場する太田道灌は、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰となっている。このとき、武蔵国に江戸城が建造された。



富士朝陥落の中、富士朝58代義利は尹良親王を上毛に避難させることに成功。尹良親王はたいへん喜ばれ、58代義利を『道次』と呼んだ。これもおそらくニックネームのようなものだったのであろう、以降『道次』を賜る。

1424年8月、尹良親王は信濃諏訪(伊那市の大徳王寺城付近?)から、大河原(現在の大鹿村)に向かわれ、その土地の賊徒の襲撃に遭う。道次も奮闘するも親王とともに戦死。宮下文書では賊徒の正体は明かされていない。

58代宇津左京亮義利、道次、享年88歳。

※前述どおり、大鹿村で死んだのは宗良親王ではなく尹良親王だったようだ。おそらくこの時点では既に、宗良親王は信濃諏訪『大徳王寺城』?で他界されていると推測する。

 

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 宇津峰南城はどこだ?、尹良親王『田貫の長者』の真相。

さて、宗良親王と尹良親王が潜んでいた、匿城こと『宇津峰南城』というのはどこにあったのだろうか?。

 

あらためて、宗良親王や井伊道政のルートを、ネットから考察してみると。

一般的に、井伊谷・上毛・信濃諏訪・越後・鎌倉・大鹿村など遠征先は一致する。ただやはり共通点がある一方で、ズレがあるのが気になるところ。当然ながら、富士朝滞在期間に関しては、宮下文書以外の文献には登場してない。

尹良親王wikipediaでは、『浪合記』『信濃宮伝』『南朝編年記略』を交え説明しているが、井伊道政の娘重子(駿河姫)を娶り尹良親王を生んだとしている。ただ尹良親王の実在性自体が、怪しいともいわれている。


現在の静岡県内にて、その富士朝滞在の空白期間の身代わりのように語られているのが、静岡県富士宮市『田貫湖』周辺の田貫次郎伝承・長者ヶ沼伝承である。

田貫湖にある『田貫神社』(静岡県富士宮市猪之頭字長者原)、ここには尹良親王と田貫次郎を祀るという説あり、神社には十六菊花紋が掲げられている。

宛らここには、宮下文書世界とのパラレルワールドが存在していた。

 

◯『長者山田貫神社』(静岡県富士宮市猪之頭字長者原)

〜御祭神〜

・弾南長者?、不明。

※尹良親王と田貫次郎を祀るという説あり。

 

『富士おさんぽ見聞録』さんのブログ参照、田貫神社 : 富士おさんぽ見聞録

要約すると。富士宮市内野(宇津野?)の伝承には複数の『長者』伝説があるらしく、あくまでそのうちの一つの伝承となる。

当地には、富士山本宮浅間大社の元神主・田貫次郎実長が隠居して住んでおり、人々は彼を『長者さん』と呼んでいた。1397年に尹良親王が上野国へ向かう途上、井伊氏の井伊谷→天野氏の秋葉山→駿河国富士谷、この田貫次郎実長の館に留まった。そのとき次郎の娘・延菊が、世話役として親王に仕えた。1424年に尹良親王が信濃国にて死去されると、宇津野の人々は尹良親王を弔い、『天子ヶ岳』(静岡県富士宮市佐折)に祀った。延菊は親王を追い、長者ヶ沼(現在の田貫湖)に身を投じた。それを人々は瓔珞(ようらく)ツツジを植え偲んだ。

 

やはり前述の通り、富士宮の『田貫左京亮』と『宇津』は浅間大社神主ではなく、富士朝の宇津峰南城の主を指していると思われる。宮下文書では、56代義高は『田貫次郎』と称し、親王らは義高のことを『田貫の長者』と呼んでいた(現代語訳240ページ)。

さらに58代義利の三子である59代は、『宇津』『田貫』を継いで称していた。

富士朝59代宇津源太夫宗正、またの名を田貫左京亮宗正

 

しかし、なんで富士高天原の反対側の静岡県富士宮市なのだろう?。これだと山梨県富士吉田市の『大明見小室浅間神社』より、むしろ『富士山本宮浅間大社』に近い。富士朝から直線40キロも離れており、匿城としては防御が難しい。ただ逆に...遠いからこそ富士高天原陥落の際、尹良親王がうまく甲州経由で上毛へと脱出できたとも考えられる。

ウ~ン、、、。

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富士朝にとって浅間大社(上写真)とは、神代のツクヨミの拠点で、オオヤマツミが生まれた場所、よって富士朝信仰にとっても重要な聖地となる。

...実は、57代三浦義勝の母・宮子は、表本宮大宮浅間神社里宮、つまり現在の『富士山本宮浅間大社』の宮司・富士又八良国安の長女なのだ。これは前述した万寿王を保護した際に、宇津峰南城で親王の世話役(文字の教育係)となった富士又八郎義照の父と思われる。

安曇族和邇部『富士氏』、つまりこのブログで言うところの、タマノオヤ八幡神とイワナガヒメの子孫とみる。つまり57代義勝には、安曇女系の月桜田毘女→カモサワヒメ→イワナガヒメの血が入っている可能性もある。

<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。 - セキホツ熊の謎を追え!

故に、宇津峰南城や田貫伝承には、富士山の反対側『浅間大社』の関与が浮き彫りとなるのだ。富士山周辺の人々は富士朝史を偲びつつも、誤魔化さざる得ない事情があり、田貫伝承はつくられたのではあるまいか?。やはり、徹底的に高天原の所在地を隠そうとする動きがあったのかなと...。

結局、宇津峰南城の所在地はわからないままだが...、やはり宇津とは『宇津峰南城』、田貫とは宇津貫南城内の『田んぼ』のことであろう。だとすると『田貫長者』というのは、56代義高か???と思ってしまうのだ...。

富士朝隠しの実態、世良田ゴリ押しに違和感あり。

尹良親王Wikipediaで侵攻ルートを辿ると、1393年に駿河宇津野(田貫湖)の田貫左京亮の家に入ったとあり、これが宮下文書での富士朝滞在に比定される。宇津野を出て上野へ向かう途上、柏坂(右左口峠?)で防戦。武田氏館に留まり、8月上野国寺尾城に入城。1403年世良田有親らを伴って下野落合城(栃木県上三川町)に到着。

こうしてみると、見事に富士朝は避けられているのがわかる。甲斐国内武田氏館≒富士朝に比定できそうだが、富士朝への言及は一切ない。

 

面白いのが、逆に宮下文書では世良田氏の記載が一切ない。このあたりは世良田氏(のちの徳川家)と南朝をつなげるための、むやみに強調されてるとも感じる...。

尹良親王wikipedia、信濃国大河原(信濃宮神社周辺)の記載では。世良田義秋・羽河景庸・熊谷直近ら以下25人が討たれ、最期を悟った尹良は子の良王君を従士に託した後、大河原の民家に入って自害した。尹良親王は、世良田政義の娘を娶っていたと記載している。つまり、新田末裔であり、徳川始祖から南朝尹良親王と婚姻関係が発生していると強調している。

しかし...なんだか、世良田のゴリ押し感が浮き彫りとなる(笑)。

 

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前記事では、新田末裔=徳川始祖という記事をかいているのだが...。まあ正直現時点では、世良田ゴリ押しには違和感も感じているのだ。

そもそも素朴な疑問として、江戸幕府が富士朝や南朝の流れであれば、なんで富士朝を隠す必要があるのかと...。天海が三浦氏族蘆名氏ならば、なぜ宮下家を優遇しなかったのかと???。

結果として、江戸時代の富士朝は冷遇され、宮下文書も屋根裏に隠されてきたワケだ。

さらには新田と足利、そして徳川発祥の地『世良田』は仮冒で溢れている可能性あり。これが、かなり根が深い問題のようだ。おそらく時代により様々な勢力の干渉があったのだろう。このあたり新田末裔=徳川始祖説は、慎重に考察していく必要があるのかな...と。

 

次回は、このあたり説明していく。

キーワードはツツジだ。

 

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