2021,8,28
前記事続き。
<日月神示>富士山からウシトラ三十四里、静なる『富士山』があった件。 - セキホツ熊の謎を追え!
日月神示に記載がある、ウシトラ34里のコノハナサクヤヒメを探している。
結論から言うと現時点では特定はできないものの、岩舟町『静』という土地に、興味深い浅間神社をみつけた。
日月神示訳の前後文脈から察するに、富士山の噴火があった場合に備え、富士山神コノハナサクヤヒメの避難先のような位置づけらしい…。一般的によく言われているのが、富士山が噴火すればフォッサマグナ圏内は大激震に見舞われる可能性あるという。まさに天地ひっくり返る可能性もあるわけだが…。
冷静に考えてみると、この浅間神社…、フォッサマグナ圏外なのが興味深い。
※フォッサマグナの図
平将門末裔が守護していた静『富士山』。
今回は当地域に影響及ぼす、平将門子孫と藤原秀郷子孫を重点的に探る必要が出てきた。歴史ウンチクに興味がない方は、次の記事にスっとんでも支障ありません(苦笑)。
◯『浅間神社』(栃木県栃木市岩舟町静)
〜御祭神〜
・木花開耶姫命
〜配神〜
・大日靈貴命
・伊弉諾命
・伊弉冊命
・猿田彦命
※栃木県下都賀郡岩舟町静 2014年栃木市に編入された。
創建不詳。平将門末裔茂呂氏の『富士山城』があったとされる。
境内石碑に享和3年(1803)と刻まれている石碑があり、境内に伊豆大権現や石尊大権現の石祠もあり。拝殿前は三毳(みかも)山への方角に平野が開けており、関東平野を見渡せるロケーション。参拝したときには雲だらけで、富士山は残念ながら見れなかった…。正面の八角柱の石碑に、與玉大明神・庚申猿田彦大神・天鈿女命と書かれており、大日靈貴命(宮下文書比定アマテラス)とサルタヒコとアメノウズメについては、次回記事にて重要になるので、憶えておいて欲しい。
本殿裏の石祠には、『針谷喜蔵?』…と刻まれた伊豆大権現の石祠あり。
茂呂氏も針谷氏も、平将門子孫を自称している。
藤原秀郷末裔と平将門末裔の差とは?。
何度も繰り返すが…。宮下文書によると5世紀の関東圏とくに毛野国は、15代応神天皇大山守皇子の末裔、宮下家派生『吉田氏』や根鳥皇子派生『太田氏』ら富士朝勢力の影響下であった。毛野国都賀は、吉田ニ摩古彦が県主となる。
ただ、残念なことに宮下文書には、将門関係の記載は殆どない。
前記事では、平将門サイドの背後に見え隠れする富士朝を指摘したが、なんとも不思議なことに、藤原秀郷サイドにも富士朝イメージを多分に感じるのだ。これは延暦火山後の関東に避難拡散していた富士朝勢力が、二分した状況を暗示するものであろうか?。言い換えると、藤原秀郷勢力も富士朝勢力のバックアップを得て、『平将門の乱』を鎮圧した様にも見える...。
今回紹介するのは、藤原姓足利氏なる氏族、前記事の清和源氏足利氏とは別氏族となるので注意。前記事で紹介した藤姓太田氏末裔『小山氏』同様に、本当に藤原末裔...?と思うほど富士朝色が強い。そもそも、Wikipediaによると藤原秀郷自体が諸説あり、下野国土豪説があるようだ...。
となると、やはり富士朝氏族か...???。
まず、この地域の勢力変遷を説明すると。
932年平将門により『花岡城』が築城され、後世に藤岡氏の居城となり、これが『藤岡城』(栃木県栃木市藤岡町藤岡)となる。
『姓氏家系大辞典』によると、藤原秀郷子孫、藤原姓足利氏族の藤岡氏は、足利忠行が当初『富士氏』を称し富士忠国となる。そこから4世孫・庶流富士房行以降、藤岡城に因み『藤岡姓』を称す。 ただし『藤岡町史 通史編 前編』(藤岡町史編)、つまり著名な文献による記録ではなく、町民に伝わるという伝承レベルなので注意。
一般的に『富士氏』は、平安時代初期から富士山本宮浅間大社のアズミ系統和邇部豊麿を祖とする大宮司家系。前記事のように宮下文書では、15代応神天皇の隼総別皇子末裔『福地家』が、和邇部豊麿の家系に婿入しているので、男系は富士朝氏族となる。
加えて、宮下文書研究視点から言わせてもらえば、他氏族が安易に『富士』『福地』を名乗れるわけがない…。富士朝阿祖山太神宮は史上何度も正一位を賜り、神功皇后・厩戸皇子・56代清和天皇・源頼朝らに再興復興整備がなされ、西国由来の藤原氏足利氏、清和源氏末裔足利氏、桓武平氏とて富士御祖神の祟を恐れていたのだ。やはり『富士』を名乗れるのは、阿祖山太神宮の宮司か副宮司派生氏族だけではなかろうか?。
ただ前記事通り、1404年三浦義勝を継承勢力を打倒し、富士朝を討伐したのは、他でもない室町幕府『清和源氏足利氏』。…まあ、『富士山』に対する嫌がらせという可能性はあるだろう(苦笑)。
室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!
このあと太田道灌らは、1408年富士谷一帯をも統括した関東管領上杉氏(藤原北家勧修寺流支流)の家臣となり、関東圏に富士朝勢力が離散してゆく流れとなる。この太田道灌も富士朝氏族・根鳥皇子子孫『太田氏』とみている。
※話がソレるが、前記事で上杉憲顕に触れたが…最近なんとなく気づいてしまった…。三輪本現代訳には1408年に富士谷一帯は『上杉顕憲に賜われた』と記載されているが、これ本当に『上杉憲顕』のことなのだろうか???。
▲顕憲?
△憲顕?
誤植か?別人か?
wikipedia的には、上杉憲顕は1368年死亡しており、名前が似ているが別人の可能性も十分あり。『上杉憲顕』の弟・憲藤が『犬懸氏』『犬懸上杉氏』を称している点も興味深い。前述したが、個人的には『藤岡』や『憲藤』などの、『藤』は富士山の隠語としても使われていたと睨んでいる。
富士山に将門末裔『茂呂氏』登場。
この藤岡氏は、当初藤姓佐野氏についていたものの、戦国時代には徐々に小田原後北条氏と親密になっていく。1577年藤岡佐渡守清房の代、唐沢山城主で同じ藤姓秀郷流の佐野宗綱は、藤岡城藤岡氏族へ攻め込み清房を自害させた。そこに後北条氏が介入、佐野氏家臣の茂呂弾正久重を城代に当てたようだ。
江戸時代、茂呂氏が書いた『元禄家伝文書 茂呂氏系図』によると、茂呂氏は平親王将門後裔茂呂弾正忠泰時とされる。もともと上野国館林城の上野赤井氏に仕えていた痕跡があるという。こうして茂呂氏・茂呂弾正清重が、前述の富士山・浅間神社(栃木市岩舟静)の城主にもなっていたようだ。
この富士山周辺には、富士朝らしき痕跡もあった。
前述の『藤岡神社』の北には、『黒袴藤岡城』なる別の城跡があり、決定的な証拠はないものの、名称から藤岡氏族との関係が推測できる。その城跡の東隣には、弘法大師伝承がある『三毳(みかも)山』なる聖地がある。諸説あるが『将門記』にて藤原秀郷と対陣した美可母(美加毛)ノ山、美加保ノ山に比定。麓と山頂にある『三毳神社』は、この地域の信仰を探る上でも重要な存在となりそうだ。主祭神には日本武尊、配祀神に天香々背男命が祀られている。宮下文書研究家・加茂喜三氏によると、この天香々背男命はウガヤ遷都に反対した富士朝神、栃木県近県にも神社が点在する。...いつか別記事で紹介したい。
三毳山東麓には、主祭神コトシロヌシと天香々背男命が祀られている『三鴨神社』がある。やはりコトシロヌシの娘…、コノハナサクヤヒメの母…、富士朝象徴神『別雷神』こと、カモサワヒメの痕跡を感じてしまうのだ。
◯『三鴨神社』( 栃木市岩舟町下津原上)
〜主祭神〜
・事代主命
〜相殿〜
・健御名方命
・香々背男命
・稲倉魂命
・武甕槌命
・櫛御氣命
・天太玉命
・火産霊命
・伊邪那美命
・白山姫命
・若狭姫命
1590年この後北条氏とともに藤岡城が落城。1602年(以降?)茂呂泰時の子孫である茂呂泰光は、出羽国久保田藩・佐竹義宣に仕えて秋田へ、茂呂泰光から秋田茂呂氏となる。
※因みに佐竹義宣の弟は蘆名義広、三浦氏族蘆名氏へ婿入りしているようだ。同族・天海の誕生は1536年なので、血縁的には影響ないようだが…。この佐竹氏という武将も、どこか富士朝を感じてしまう…。
いずれにしても『藤姓秀郷流』『桓武平氏』『清和源氏』の仮冒はかなり深刻…。やはり、藤原秀郷勢力と平将門勢力、双方それぞれに、同じくらい富士朝勢力が付き従っていた可能性はある。それがさらに、15〜16世紀戦国時代の上杉氏と後北条氏の対立により両陣に別れ、修復不可能なほどゴチャ混ぜにされたのだろう。藤姓秀郷流と桓武平氏を使い分けていたのではないかとみている。
今回も、日月神示の『麻賀多神社』同様、富士朝痕跡が芋づる式に、あちらこちらズルズル出てきてしまうのが興味深い(笑)。
...続く。
次回記事。この『静』なる富士山が...、大明見杓子山にあるアマテラスの岩戸を指し示している可能性あり。
おまけ
極めて、個人的なお話しとなるが...。
この都賀郡『岩舟』という土地、私自身にも関係がありそうなのだ…。
平安時代末期、下野国都賀郡小野寺に小野寺氏という氏族がいた。
近くには熊野神やオオヤマクイを祀る『檜村神社』(栃木市岩舟町小野寺)があり、939年藤原秀郷が平将門を討伐する際に戦勝祈願しており、小野寺氏自身も藤姓秀郷流を称していたという。
実はこの小野寺氏...、私の母方遺伝子かもしれないのだ。私の母方は基本藤姓なのだが、婿養子が多くて解析が困難…、ただどう見ても、小野寺氏からの婿養子黒沢道家という人物に接点があるとみる。彼は、戦国末期~江戸初期の佐竹氏家臣を称していた。
Wikipediaを簡単に紹介すると。いつも静かにして、周りから小馬鹿にされていたらしいのだが。いざ『大阪冬の陣』になると豹変して、勇猛果敢に活躍し、周囲を啞然とさせたらしい…(笑笑)。
youtube等にも簡単なドキュメントがある。『黒沢道家』と検索すると見れる。
たまたまというか、世の中ホントに狭いなと。
まあ…それだけ一個体には、様々な遺伝子が流れ込んでいるのだろう。日本人であれば、20代〜30代先のご先祖を遡れば、著名遺伝子にたどり着くという話も聞いたことがある。日頃から歴史と神社を勉強していると、やはり遺伝子の導きのようなものを感じざるえないし、祖先が何かを伝えたがっている気もしている。
それが私にとっての感覚的な『導き』や『自覚』となった。熊オッサンの場合、個人的な思い込みも強いのかもしれないが…(笑)。
これだから神社巡りは面白い。
時間があれば、小野寺氏域岩舟小野寺の神社巡りをしてみたいが...、残念ながら今回は見送り...。近くにある、瀬織津姫の『荷渡神社』を参拝にして帰宅した。下野国佐野には『賀茂別雷神社』もあり、やはり富士朝の痕跡が強い。
※次回記事↓
※地図はクラフトマップ使用。