2020,10,10
休日『義民ロード』への誘い
前記事の続き。
〈神社めぐり麻賀多神社①〉宮下文書✕日月神示で考えてみよう!、富士山と鳴門の仕組み、祓戸四柱ヒムカの関係性。 - セキホツ熊の謎を追え!
<緊急続報>日月神示は、富士とタマの太陽信仰であった、富士山鳴門は『秋立つ』レイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!
朝、『義民ロード』と名づけられた国道464号道沿い、麻賀多神社に到着。鳥居をくぐると光とマイナスイオンに満ちていた神聖な趣。拝殿が東を向いているので、自ずと朝日を背負う形になり陽が眩しい。境内には既に熱心な信者がチラホラみえ、聖地の貫禄たっぷり。近年、日月神示はネットで再注目されており30~40代男女が目につき、駐車場には京都ナンバーの車が駐車している…、もう少し遅ければ、かなりの信者が詰めかけていたろう朝早く来て正解だった…。毎回、邪魔にならないように写真撮影させていただくが、どうしても知らない参拝者が写ってしまう。
結論から言えば、この神社かなり富士朝色が強い。『富士は晴れたり日本晴れ』とはこのことか?。前記事では、麻賀多神社は富士山と鳴門のレイライン上に位置し、おおよそ『立秋』日の出の方角を示していた。さらに近くには、800年富士朝を延暦噴火から相模一宮・寒川神社らに避難させた坂上田村麿由来の『東勝寺(宗吾霊堂)』があり、富士朝の気配を感じる。坂上田村麿の現るところ、本州重心点『瀬戸川神社』や夏至レイライン『武蔵野八幡』などに祭祀痕跡を残しており、ここも何かしら重要な地域なのではないかと…。
今回も日月神示と宮下文書を勝手にこじつけて、妄想したいと思う(笑)。
偽書のススメ6:さらば富士王朝。延暦噴火だ緊急避難せよ坂上田村麿。 - セキホツ熊の謎を追え!
〇麻賀多神社(千葉県成田市台方)
同名神社が多いので注意、周辺同名神社の総本社となる。
~御祭神~
・和久産巣日神
~境内社~
・天日津久神社
・大権現社
・祓戸社
・古峯神社
・三峯神社ほか多数
麻賀多(まかた)神社。そもそもは『真賀多真(まがたま)』を称していたが、延喜式神明帳記載の折り、『真賀多(まかた)神社』に改称された。
景行42年(112年)ヤマトタケル東征時に創建され、伊勢神宮を遥拝しつつ、インバノクニタマオキツカガミとして杉に鏡を掲げ祀る。御祭神についても諸説あるようだが、要は伊勢を遥拝し、『玉』と『鏡』を御神体としている。
※因みに、麻賀多神社から『伊勢神宮内宮』へレイラインを引くと、面白いことに三宅連の拠点の一つとみられる宮崎県西都市『速開都比女神社』(西都市寒川)に辿り着く。西都市には富士山高千穂峰レイライン上に日向国総社とされる『三宅神社』(西都市大字三宅)が存在する。三宅連については後述する。
すぐ近くの住宅街には『吾妻』という地名が残されており、ヤマトタケルの痕跡が伺える。宮下文書によると、関東東方を『吾嬬の国』と称し、7代阿祖山太神宮宮守司長・福地記太夫を『吾嬬惣国の国造』に任命、子である8代福地佐太夫命は、ヤマトタケルの娘・福地媛を妻としている。
タイミング的にいえば、現在の神社周辺は富士朝秦氏勢力に影響された土地ともいえそうだ。
※地図上の立春レイラインは、若干下に寄りすぎてます。なにぶん手作りなのでごめんなさい。
〈復習〉富士朝にとってのヤマトタケルと応神天皇とは。
<富士朝めぐり①>先現と徐福、新旧二つの富士朝。八幡神をすり替えたのは徐福富士朝だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!
日月神示の読者さんに、富士朝の背景を知ってもらうため『宮下文書』と前記事内容を少し説明すると。
12代景行天皇の御宇。富士朝が西国天皇勢力に無視され続け不満が爆発、富士朝オオヤマツミ72世孫・阿祖彦王らによる蜂起となった。天皇勢力はいち早くこれを察知、ヤマトタケルを東征させこれを鎮圧、これを宮下文書版『東夷征討』という。
この頃から富士朝内部には、7代孝霊天皇時代に来日していた秦氏勢力が徐々に影響力を持っていたと推測。景行天皇勢力が富士朝の反乱を赦す代わりに、高天原周辺に住みついた渡来系秦氏に緩やかに淘汰させ、彼らに富士朝東国先住民を実質監視させていたものとみる。
〜大宮司と改称されてからの歴代宮下司〜
・初代尾羽張田彦命(スサノオ68世孫)
・2代美弥方男命(省略)
・3代阿祖男命(省略)
・4代真田良男命(省略)
・5代真田八代良男命(省略)
・6代又久良男命(省略)
・7代福地記太夫命
・8代福地佐太夫命
11代垂仁天皇に気に入られ常世国(魏?)へ派遣された田道間守。彼の『橘』採取の功績もあり、この富士朝の一時的な影響力拡大を足掛りとして、秦氏は全国へ勢力拡大する。見方を変えれば、10代崇神天皇の時代に荒らされた祭祀環境を整え、渡来人の知恵で『新しい神道』を生み出そうと模索させていたのかもしれない。しかし、またすぐに富士朝の勢力が萎んでくると、彼らは富士朝や秦氏を称することが難しくなる。結果、アメノヒボコ朝鮮系氏族の『三宅連』などと、様々仮冒した(されてきた)とみる。
三宅=宮下家(みやけ)。一般的に三宅連や田道間守らは新羅系アメノヒボコ子孫とされているが、ホツマツタヱによるとヤマトタケルの妃の一人オトタチバナは、田道間守の実娘と明記されており、富士朝系秦氏と関係があるのではないかとみる。wikipedia秦氏によると、歴史学者・平野邦雄はアメノヒボコ説話のある地域は秦氏居住地域と一致しているという見解を示している。
そして、宮下文書における大宮司家2〜5代の欠史がみられるのだ。これは宮下文書でも非常に珍しい現象で、わざわざ大宮司名を書いて『省略』と記載している。宮下文書中こういう人物紹介は他にない。そして7代福地記太夫命から秦氏の象徴である徐福の『福』を称している点が大きく、富士山は『福地山』と改称されていく。
率直に言うと、この『省略』された大宮司は富士先住民子孫ではないかとみる。
その後の8代福地佐太夫命は、ヤマトタケルが富士朝に残した『福地媛』を妻とし、天皇家遺伝子と結ばれた。そして15代応神天皇の時代には大山守皇子を、いわば富士朝のお目付け役として大宮司家に派遣任命させ、8代福地佐太夫命の長女『菊野媛』と婚姻した。残念ながら詳しい系譜は不明だが、この大山守皇子は応神天皇の御子でありながら、徐福の子孫と明記されている。
即ち、ヤマトタケルと応神天皇と秦氏の遺伝子が、新富士朝『宮下家』なのだ。
ただし、富士朝阿祖山太神宮の祭祀には、初代オオクニヌシに代わり二代目司頭長タマノオヤをはじめとする富士先住民の神々36家子孫代々が、祭事に関与できていた。いわゆる『阿祖谷天社三十六神戸』と称されていた。タマノオヤやイシコリドメ子孫らの家系が残されていたわけて、これらが現代まで長期に渡り秦氏と結びつき遺伝子を残していったのだと見ている。
現代では山梨県富士吉田市大明見の住民の半分以上は、何かしらの形で秦氏遺伝子の影響を受けているという。私があくまでも、『緩やかに淘汰』を強調している意味がおわかりだろうか?(笑)。
話を戻して。
三重県亀山市『能煩野』にてヤマトタケル死後は、彼の父・景行天皇が武内宿彌を従え、亡き息子の面影を辿る如く巡幸している。これでアマテラス〜12代景行天皇全ての『皇』が富士朝阿祖山太神宮参拝に名を連ねたことになり、おそらくは最後の天皇とみる(15代応神天皇は不明、その後厩戸皇子や南朝系皇子が参拝している記録あり)。
もっとも景行天皇の主目的は、ヤマトタケルが富士朝サカオリ(坂下)宮に残した福地媛に会いに来たようだ。
このような経緯を知って始めて、秦氏がオオヤマツミと15代応神天皇を祀る経緯が理解できる。
△オオヤマツミ(寒川毘古)=富士朝先住民としての祖神
▼応神天皇(新・八幡神)=富士朝系秦氏としての祖神
この2つの祖神の並祀が、富士朝の新しい象徴『福地八幡神社』の正体である。
そして日本全国の八幡神=15代応神天皇統一となった、理由の一つでもある。これはかつて阿祖山太神宮の司頭長であった、かつての八幡神タマノオヤ子孫に替わる存在と誇示しているのだろうか?。つまり全国的に応神天皇を祀ることは新・富士朝への敬意であり、旧八幡神への配慮にもなっている。
<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!
こうして、富士朝からオオヤマツミ子孫の実権が排除され、代わりに渡来系秦氏が、各地にオオヤマツミを祀る傾向が現れてくる。富士先住民による古い富士朝は平安期『先現(せんげん)』とよばれ区別され始め、後世『浅間』と改称される。一部の秦氏研究家はオオヤマツミ=徐福権現のようなものと断言しているようだが、経緯的にみれば全てがそうと言い切れず、徐福勢力は純粋にオオヤマツミを崇敬していた場合もあると思う。
彼らはそもそも侵略者ではない、富士山を崇敬し理解しようと努めていたからこそ、富士朝先住民に受け入れられた事を忘れてはならない。
※因みに加茂喜三氏は著書『日本の神皇時代』の中で、応神神功皇后勢力が攻めてきて、富士朝勢力?に武力介入?したことになっている。興味深い異説だが、宮下文書にはこの記述はない。
こうして、富士朝は徐福勢力により緩やかに生まれ変わる。
しかし当然、一般的には富士朝気配は完全に隠されているので要注意。宮下文書は実質、日本史のパラレルワールドのようなもので、世間的にスルーされている完全シカト文献だ。
Wikipediaと麻賀多神社社伝によると、15代応神天皇の時代、神八井耳8世孫といわれる伊都許利命が印旛国造に派遣され、杉の鏡を稚日霊命として祀る。さらに杉の木下から7つの玉を掘り起こし、和久産巣日神を『真賀多真(まがたま)の大神』として祀る。
そのさらに八世孫の広鋤手黒彦命が、現在地(成田市台方)に社殿を造営し和久産巣日神を遷座、旧社(成田市船形)に稚日霊命を残し奥宮とした。周辺には『玉造』という地名が残り、古墳時代の『八代玉作遺跡』には十七棟の玉作工房と管玉の製造痕が残され、また周辺住宅街には古墳群もある。
麻賀多神社から14キロ北西にある利根川南岸『鳥見神社』(千葉県印西市大森)、社伝によると創建は10代崇神御代(BC93)にニギハヤヒを祀る、その後の12代景行天皇40年にヤマトタケル東征の折に大和国鳥見山の神霊を祀った。常陸国風土記によると、その後景行天皇が息子の戦跡を偲ぶが如く巡幸し、『霞(かすみ)の郷』を眺望された。
麻賀多神社『太田氏』と印波国造・伊都許利命の謎。
奥宮は北に1キロほど離れて存在、いい感じの里山と田園風景が見れるので徒歩をオススメする。境内は紅葉も多いので紅葉シーズンがねらい目か(笑)。
〇麻賀多神社・奥宮『手黒社』(千葉県成田市船形)
~御祭神~
・稚日霊命(奥宮)
~境内社~
・香取神社
・祓戸神社
・八代稲荷神社
・加志波比売神社
・印波国造伊都許利命墓(古墳)
・金刀比羅神社(境内社かは不明)
伊都許利命子孫としての太田氏は、現在奥宮のすぐ隣にある学校法人『太田学園くすのき幼稚園』、社地を利用して運営している。それに加えて伊都許利命の古墳を含めると、かなり広大な神社だったようだ。
さて、気になるのが富士朝との関係。麻賀多神社神官といわれる『太田家』は、宮下文書15代応神天皇子孫の富士朝『太田真長』と関係ありそうだ。
宮下文書における太田真長とは、富士朝に派遣された応神天皇御子・根鳥皇子25世孫で阿祖山太神宮の祭典司長を継承。800年延暦火山時、高天原にて留守番をしていて、太神宮御神霊と御宝物を保護避難させた功績が讃えられた。日本書紀には根鳥皇子は『大田君之始祖』、旧事本記には『大田君等祖』とされ諸説ある。
彼は、武内宿彌の子・羽田宿彌子孫の羽田宗治とともに、806年勅命(桓武天皇?)により太神宮宮守護伴に任命されて、二人ともに『伴氏』を賜り、以降子孫は伴氏と称している。
この印旛国造・伊都許利命(いつこり)というのは、古事記表記の伊斯許理度売命(イシコリドメ)をもじった存在とおもえならない…。いつの頃かは不明であるが、神八井耳8世孫というのはおそらく仮冒。富士朝影響力の衰退で、自らが富士朝勢力、そして秦氏関連勢力であることを名乗れなくなったのだろう。玉と鏡を祀る氏族の正当性を訴え、鏡神イシコリドメをもじってイツコリを名乗ったのではないだろうか?。
前記事で述べた富士山鳴門レイライン上にある、『石見鏡作神社』(奈良県磯城郡三宅町石見)には特異な祭祀遺跡4~5世紀の『石見遺跡』がみつかっており、当神社の分社といわれる『鏡作伊多神社』も三宅連や物部氏の影響がある。『石見鏡作神社』の冬至の朝日の方向に三輪山があり、やはり太陽信仰の一つであろう。御祭神はいずれも石作鏡作の祖神イシコリドメ。純然たるタマノオヤとイシコリドメ日前宮系子孫ではなく、建前としてイシコリドメ子孫を仮冒した秦氏勢力がいたのではないかとみる。
10代応神天皇の時代、富士朝の阿祖山太神宮にも富士先住民タマノオヤの子孫は『中宮司長』5家中、イシコリドメの子孫も『宮守護評議院司長』の8家中に残されていたようだ。これら神職36家系は、前述した阿祖谷天社三十六神戸と称されている。これら神職に従事しつつ渡来系秦氏らと緩やかに融合していく。秦氏が先住民タマノオヤとイシコリドメと交わり、婚姻関係をもった可能性はある。
まあ、このへんの流れは宮下文書の記載はなく、妄想するしか出来ない。
前記事でも述べたが、玉作鏡作は日野宮勢力や物部系統など複数勢力あったとみるが、中には富士朝秦氏や三宅連も紛れ込んでいたということだ。とりあえず今のところの見解…。
時代錯誤になるが、太田道灌はどうだろう???。
A『江戸城は誰が建てたか~?』
B『いえやす…?、あ、太田道願!』
A『ハズレ!大工さんでしたー』
という子供向けクイズがある(笑)。
太田道灌とは、室町後期の清和(摂津)源氏の流れを汲む武蔵守護代、室町後期江戸城を築城し、富士山高千穂峰レイライン上の小野神社・井草八幡などを崇敬し、現在の武蔵野八幡にも江戸城内吉祥寺として間接的に関係している。また彼の墓は鎌倉御室山レイライン上、神奈川県伊勢崎市『大慈寺』に存在する。彼もまた夏至太陽信仰に関与しており、神奈川県川崎市幸区『天照皇大神神社』ではアマテラスと撞榊厳魂天疎向津姫命(ムカツ姫)を祀り、『江戸城』を築く場所を選定するための霊夢をみた。
このお方、私から見るとレイライン信仰の達人なのだ(笑)。
というかレイライン上の神社を追うと、どういうわけか道願の名前が出てくる。
<レイラインの美学⑬>鎌倉幕府と御室山の繋がりにみる御霊大神。三浦半島は富士朝のお膝元であった。 - セキホツ熊の謎を追え!
宮下文書に道灌の記載はないが、どうも地理的に富士朝と無関係とは思えない…。いつか記事にできることを願う。
そして余談だが、こう見ると、武蔵国、上総、下総、常磐と東国には玉に関する神社、土地が多くないかと?。大國魂神社、玉前神社、霞ヶ浦の東岸(茨城県行方市)にも玉造という地名がある。大國魂=スクナビコナも東の常世に消えたという伝承がある。前記事の他田日奉氏も上総海上国に縁がある。
…ひょっとして、『タマ』を富士山の東方に祀ることに意味があるのだろうか?。
※記事訂正
日の出マップはメルカトル図法のデータらしく、あくまで朝日の『方角』を調べるツールらしい。遠方のレイライン計測には不向きということが判明した。
グーグルマップでのレイラインは放物線を描くのに対し、日の出マップのレイラインはいつも直線。遠方に行くほど誤差が大きくなるのでおかしいと思っていた(泣)。
これにより記事内容には大筋違いはないが、日の出マップで計測した『日付』はズレがでる、その辺は目安で見ていただきたい。ブログで紹介した各レイラインはグーグルマップの線引き機能を基準にしているので問題ない(あくまで日付のみの注意)。
私が白地図に表記し作成した画像は、当然ズレがあります。
初歩的なミスでした。ごめんなさい。
続報だが、この日の出マップのYahoo!地図API関しての情報だが、2020年10月31日で提供を終了するそうだ。別にサイトがなくなるわけではなさそうだが…うーんようわからん。なにがあったのか?。
※地図はクラフトマップ使用。