セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

富士朝+応神合体計画、待望の菟道稚郎子皇子をなき者にしたのは仁徳天皇と武内宿禰だった??。

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神奈川県平塚市四之宮『前鳥神社』。寒川神社近くに菟道稚郎子命を祀る。


2021,9,18

本ブログは宮下文書ベースの考察をしている。

 

なんと、そういう事だったのか!

何故、15代応神天皇が、富士朝と秦氏に特別視されるのか…、前記事以上に判ってきた!!。

どうやら15代応神天皇の時代、西国天皇勢力・富士朝・秦氏勢力を再統合させる、ビッグプロジェクトが存在していたようだ!!!。

 

~目次~

~参考記事~

<驚愕>14代仲哀天皇の生母は、オトタチバナヒメだった!!。橘氏との繋がりは? - セキホツ熊の謎を追え!

伊豆山とはなんなのか?。日金山に埋葬されたイワナガヒメと家族の大冒険。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈妄想考察〉八幡神の正体、玉を司る富士朝『祭祀王』。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

応神天皇が成し遂げたかった、究極の東西統一。

結論から言うと。

15代応神天皇の後継は、菟道稚郎子の予定であった。彼の母親は、安曇族和邇氏の娘・宮主宅媛…、そうタマノオヤとイワナガヒメの末裔でもあるのだ。

※本ブログでは、オリジナル八幡神=タマノオヤ、宇都志日金命安曇族=タマノオヤ子孫と考えている。

つまり応神天皇は、自らとタマノオヤ安曇族の遺伝子を合体させた後継を計画していたらしいのだ。安曇族和邇氏の皇子擁立は神武天皇以降前代未聞であり、実現していれば西国天皇勢力+富士朝大宮司子孫の再統合、さらにはニニギ+タマノオヤ兄弟、コノハナサクヤヒメ+イワナガヒメ姉妹の遺伝子の再統合...。どちらにしても大変意義深い天皇であったはずだ。

『播磨国風土記』には、菟道稚郎子を『宇治天皇』との呼称表現もあり、周囲からも待望視されていたと見る。

 

〜菟道稚郎子wikipediaより〜

▲父親・応神天皇(秦氏の血筋を継ぐ)

△母方・宮主宅媛(タマノオヤ・安曇を継ぐ?)

 

前記事までのおさらいとなるが...。

宮下文書三輪本には大山守皇子(宮下家)が、秦氏徐福子孫と明記されている。但し、いつ誰から秦氏遺伝子が入ったかは不明。

神功摂政3年6月、神功皇后はツクヨミ72世孫・阿曽彦王のニ子阿志長彦に勅命をだし、富士朝における天之世・天之御中之世・高天原・豊葦原之世の歴代諸神皇陵墓の守護強化をさせたという。この後世宮下家は、御祖神を『高御久良(たかみくら)神社』として、応神天皇の遺髪と神功皇后の弓矢を祀り始めた。一般的に云われているように、神功皇后がアメノヒボコ子孫とはとても考えてられないのだ。

それだけ富士朝と神功皇后は相思相愛の関係であり、裏を返せば、その子孫・大山守皇子には祖母・神功皇后を経由して、秦氏の血筋が入ったのではないかと推測できるわけだ…。

また前記事のように、宮下文書版オトタチバナヒメは14代仲哀天皇の母、つまり応神天皇の祖母であり、渡来系秦氏や富士朝の影響が見え隠れしている。

 

こうして富士朝はウガヤ朝遷都以降最高レベルの厚遇を受け、応神三皇子が派遣された。10代崇神〜12代景行天皇時代の関係修復と、富士朝や東国の監視・連携が目的であろう。

 

〜宮下文書・東西応神天皇御子〜

・四子 大鷦鷯皇子  16代仁徳天皇

・小子 菟道稚郎子

・ニ子 大山守皇子  宮下家ほか多数

・◯子 隼総別皇子  福地家・富士氏男系

・◯子 根鳥皇子   太田氏・伴氏

※他にも皇子は複数いる。

 

だがここで、暗雲が立ち込める。

宮下文書岩間尹著『開闢神代暦代記』によると、4子大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が皇位継承権の盟約を反故にしていたというのだ。これに対して兄である富士朝・大山守皇子が、西国天皇勢力に反抗せざる得ない状況へ迫られたとみる。結果的に、東西の架け橋たるビッグプロジェクトは最悪の結末を呼んでしまったようだ。

※wikipedia菟道稚郎子にも、「仁徳天皇による郎子謀殺説」が存在するようだ。




菟道稚郎子は二人いた?。富士朝と仁徳天皇が衝突した最大理由。

 

このブログでは何度も紹介している大山守皇子(宮下家祖)だが、三輪本では16代仁徳天皇への反抗の理由がイマイチよくわからなかった…。これが岩間本と対比させることによって、隠されていた部分が浮き彫りとなってきた。注意すべきは、三輪本現代訳と岩間本では、全く逆のことが描かれているのだ(愕然)。

 

◆まず、一般論から説明。

菟道稚郎子事件を、wikipedia大山守皇子で要約すると。

応神天皇40年1月菟道稚郎子が皇位継承の折、大山守皇子は兄である自分が、皇太子になれなかったことを理由に皇子殺害を計画、これを仁徳天皇が察知し菟道稚郎子擁護に動く。密かに先回りをして、宇治川渡河中に渡し守に大山守皇子を溺死させた。皇子遺体は、奈良県奈良市の境目谷古墳(應神天皇皇子大山守命那羅山墓)に埋葬されたという。一連の事件は、あくまで難波・宇治・大和で完結しているので注意。

※大山守皇子wikipediaつづく…話が逸れるが超重要なこと。大山守皇子の末裔は、土形君の後裔は武蔵国多摩郡に居住して『土方』を称し、新選組副長・土方歳三の祖先の可能性あり???(マジでか)。

因みに、宮下文書三輪本で土形氏祖は、大山守皇子第5王子土形遠栄彦で宮下氏族となる。遠久見国造(静岡県小笠郡土方村上土方にあった小笠原土形の館、歴史マニアには有名な高天神城ちかく)。

※因みに武蔵一宮小野神社と落川遺跡周辺、程久保川沿いには、『立花』という古名が明治初頭まであった。

 

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△三輪本現代訳版・菟道稚郎子とは

つぎに三輪本現代訳『神皇紀』記述から紹介すると。

応神43年(312年)2月22日、15代応神天皇が崩御すると、東北神が大山守皇子を奉じて、富士高天原『家基都』の神都復興を目的とし、16代仁徳天皇に反旗を翻す。

  • 軍大将・タケミカヅチ末裔・加志摩彦良命
  • 副将・フトダマ末裔・安房田彦良命
  • 前玉命・武総彦男以下35将が兵を募り、阿祖谷に集結した。

これを16代仁徳天皇がいち早く察知し、菟道稚郎子(ウジノワカイラツコ)皇子を将として派兵、福地(富士)川で戦闘となる。東軍兵士は多くが溺死しており、菟道稚郎子は大山守皇子の水死体を捜索させた。そのなかで大山守皇子と容姿が似ていた、サルタヒコ末裔・作田彦?を皇子と誤認、大和国奈良山に移送して埋葬した。この墓所が、前述した『境目谷古墳』(大山守命那羅山墓)に比定される。

しかし、本物の大山守皇子は、事前に加志摩彦良命から内意を伝えられ、佐賀見(相模)の『大山』(現在の大山阿夫利神社付近)に身を潜めていた。

その後、双方ともに全面対決が利がないと悟り、菟道稚郎子側から加志摩彦良命に講和を持ちかけてきた。大山守皇子は無事に阿祖谷へ帰還し、『宮下家』と密かに変名。スサノオ末裔福地太夫の後継として、阿祖山太神宮大宮司長となる。弟の隼総皇子も『福地家』と密かに変名して、山宮阿祖山神社・福地又八良大原田彦の養子となった。

※山宮阿祖山神社の比定が、まだイマイチわからないm(__)m。おそらくは静岡県富士宮市山宮『山宮浅間神社』であろうか…?。

 

▲岩間本版・菟道稚郎子とは

次に岩間本『開闢神代暦代記』記述を紹介するが、話が真逆なので注意。

まず大前提として、菟道稚郎子(ウジノワカイラツコ)の読み方が違うことに留意せねばならない。

  • 菟道稚郎子(トドロワキノイラツコ)
  • 宇治能和紀郎子(ウジノワカイラツコ)

…お、お分かりいただけるだろうか?

ふ、二人おる((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

いや二人は別人か...。どうやら前記事に紹介したホツマツタヱ版・綺戸辺(かむはたとべ)と同様に、別人が同時期同場所に絡んで登場しており、後世混同されていたのだ。

 

312年、15代応神天皇が崩御すると、小子菟道稚郎子と4子大鷦鷯皇子(仁徳天皇)との間で皇位継承争いが起こる。本来であれば菟道稚郎子(トドロワキノイラツコ)が継承するハズであったが、大鷦鷯皇子が妨害して3年3ヶ月間も膠着状態にあったという。これにより各国諸公の国論も二分化されて、日本中が騒然となっていたという。

これに便乗して、東北諸将が高天原神都復興を目的として反乱を計画、平たく言えば、『もうこんな奴らに日本を任せていられない』と判断したのであろう。10代崇神天皇以降の政権交代のたびに、富士朝や東国人はイライラさせられて来たのである。

この東国決起の流れを受けて、太臣・武内宿禰が難波の菟道稚郎子を自尽させ、16代仁徳天皇を強引に即位させ東征を進言したという。ん?、応神・神功皇后腹心の武内宿禰は富士朝の敵になったというのか!?(後述)。

また、裏切られた???。

西国天皇勢力は、応神皇子?と思われる宇治能和紀郎子(ウジノワカイラツコ)を将として、富士朝へ8400余を派兵。

迎え撃つ東軍は、福地川にて陣を張り応戦する...、このあたりは三輪本と同じなので省略…。一時敗退した東軍は山宮経由で後退し、加後坂峠(横走)や足柄山に関を設け、西軍による高天原侵攻に備えた。西軍は進撃するも東軍の猛反撃を受け、再び福地川へ退却を余儀なくされる。

ただこの時点で、西軍・宇治能和紀郎子は既に大山守皇子が溺死していると思い込んでおり、前述のように追撃は意味がないと悟っていた。そこで、宇治能和紀郎子サイドから東軍へ講和を持ちかけられ、これに東国が呼応し終戦を迎える。

結局は東西誤解のうちに、戦争は超ウヤムヤに終わったようだ。東軍から見れば勝利に近いものがあったが、大山守皇子『宮下家』の生存は、今後も隠し続けなければならない…。ヤマトタケル東征に続き、またしても東西『痛み分け』となってしまったようだ。

 

しかしここでも、長寿・武内宿禰の年齢が気になるのだ。一体何者なのだろうか???。やはり、別人が複数存在するのだろうか?

 

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相模四宮『前鳥神社』拝殿。

若宮・仁徳天皇と、磐之媛命の成立背景。

全国の八幡系神社では、この16代仁徳天皇を、『若宮』と称して祀ることが多い。

若宮八幡とは、宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請した神社のことであり、八幡が15代応神天皇を指す一方、若宮が16代仁徳天皇を指す場合が多い(諸説あり、神社にもよる)。その理由も、この一連の騒動に所以があるのではないだろうか?。さらには西国天皇勢力は、菟道稚郎子自らが仁徳天皇に皇位を移譲したことにし、後世に皇位継承権の正当性をアピールしているのではないかと...。

仁徳天皇の皇后は葛城磐之媛(イワノヒメ)命、葛城襲津彦の娘で、武内宿禰の孫なのだ...。こうなると武内宿禰が何故富士朝を裏切り、仁徳天皇サイドについたのかも、なんとなく見えてくるわけだ。富士朝や徐福への信仰よりも、自らの子孫繁栄を優先させたのであろう。個人的には、宮下文書研究家・加茂喜三氏の言葉を思い出す...、武内宿禰は『富士朝にとって敵か味方か分からない』と…。

ただ前述のように、和邇氏皇子の擁立は前代未聞であったはず。神武天皇〜11代垂仁天皇以降の宮下文書版『藤原蘇我両臣システム体制』回帰の要望もあったであろうし、『なんで和邇氏だけを特別扱いするんだい?』との不満の声も上がっていたであろう。このように菟道稚郎子皇子による皇位継承は、強引さは否めず、難しい問題であったはずだ。応神天皇がもし生前退位していたのなら、また違う状況が生まれていたかもしれないが...。

 

また、以前からなんとなく感じていたのだが、『磐之媛命』はどこかタマノオヤ妃イワナガヒメの肖り、見たてを感じるのだ。

古事記によると、磐之媛命は嫉妬深い人物でも有名で、16代仁徳天皇の妾を宮殿へ寄せ付けなかったという。さらには後世に仁徳天皇が菟道稚郎子の妹・八田皇子を娶った折、宮中へ戻らなかったようで、八田皇子が身を引くことで夫婦和解が成立したという。真相はともかくとして、このあたりも一般的にイワナガヒメが言われている、嫉妬深い女神と云われた所以なのではないか?。

さらに...、この仁徳天皇がいかに歴史的タブーとされているかも見えてくる。これらの空前絶後の皇室トラブルがあったからこそ、現在でも仁徳天皇陵大仙古墳(百舌鳥耳原中陵)が宮内庁に固く閉ざされているのかもしれない。仁徳天皇陵の公開は歴史を根底からひっくり返す可能性もあり、イワナガヒメの陵墓『熱海伊豆山』同様、パンドラの箱に変わるだろう…。

 

前記事でも少しだけお話しした、寒川という地にある相模国『前鳥神社』、下野国『野木神社』『古御門神社』。なぜ菟道稚郎子が祀られていたのかも見えてくる。東国の人々は菟道稚郎子、幻の『宇治天皇』を待望視していたのではないか?、そして彼の死を心から嘆き悲しんだ事だろう...。

 

次記事はこのあたりを記事にしたい...。

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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