2021,9,26
このブログは宮下文書ベースで考察しており、一般論とはかなりの違うのでご注意ください。
前記事を簡単におさらいすると…。
富士朝+応神合体計画、待望の菟道稚郎子皇子をなき者にしたのは仁徳天皇と武内宿禰だった??。 - セキホツ熊の謎を追え!
宮下文書岩間本『開闢神代暦代紀』曰く、本来は菟道稚郎子命こそが15代応神天皇の皇位継承権をもっていた。それを16代仁徳天皇が妨害した。その皇位空白の状況が三年ほど続き、国論を2分とする大論争に全土が揺れた。富士朝情勢に危機感を覚えた武内宿禰は、菟道稚郎子命を自尽させ、仁徳天皇に東征を奏上。密約を反故にされた大山守皇子率いる東国勢力は、富士朝に軍を結集しつつあった。
武内宿禰は...富士朝にとって、敵なのか?味方なのか?(汗)。
彼は富士朝徐福子孫に弟子入りし、彼の子孫は清和天皇兄・惟喬親王を生み、尚且、羽田矢代子孫は富士朝に留まり神官家系となる。西国紀氏は賀茂神社宮司家に婿養子をだし、宮下文書版三浦氏祖・賀茂次郎義綱のバックアップをしている。彼がいなければ、富士朝存続が不可能だったのも事実なのだ...。
~目次~
野木神社とその子社たち。
今回は、『菟道稚郎子』祭祀背景を考察していく。
▲相模四宮『前鳥神社』寒川(さむかわ)
△下野国 『野木神社』寒川(さんがわ)
◆山城宇治『宇治神社』
◇山城宇治『宇治上神社』
前記事で述べた通り、相模国と下野国に共通点している『寒川』という土地に、なぜ菟道稚郎子が揃って祀られているのだろうか...?。奇しくも共通点が、富士朝サルタヒコ子孫・坂上田村麿である。そして後世鎌倉時代、富士朝阿祖山太神宮を再興した、源頼朝とも接点がありそうだ。富士朝研究においては、全国『寒川』という地名はハズせないだろう。
◯野木神社(栃木県下都賀郡野木町)
〜御祭神〜
・菟道稚郎子
〜配祀〜
・誉田別命(応神天皇)
・息長足姫命(神功皇后)
・宗像三女神
※寒川(さんがわ)と呼ばれる地域。
寒川七郷には、いまも野木神社を親社として同神を祀る子社が存在している。グーグルマップでみると、栃木県小山市の南西部、巴波川と与良川に挟まれた広大な田園地帯に数社点在しており、これだけ広範囲に『菟道稚郎子』を祀る地域は他にないだろう。
これらは野木宮の神領域であり、かつてはそれらを巡る『七郷まわり』という祭りがあった。出社の日を御出(おいで)、帰社の日を御帰(おかえ)りと分けられ、神領寒川郡の迫間田〜寒川〜中里〜鏡〜小袋〜井岡〜網戸〜下河原田の七郷を氏子たちが巡っていた。ただ現在では、12月3日に七郷各地の神社に氏子が集い、個々に特色ある祭りをしているとのこと。
〜寒川七郷にて、菟道稚郎子を祀る神社〜
- 野木神社(栃木県下都賀郡野木町野木)
- 古御門神社(栃木県小山市迫間田)
- 中里神社(栃木県小山市中里)
- 鏡神社(栃木県小山市鏡)
- 宇治神社(栃木県小山市小袋)
- 獅子神社(栃木県小山市井岡)
※熊オッサンが参拝した神社のみ表示(´(ェ)`)。
寒川七郷、歴史背景を見てみよう。
・宮下文書においては、ニニギ勅定十七軍神における豊城入毘古命・タケミカヅチ・フツヌシとの、おおよそ管轄領地の接点となる。因みに豊城入毘古命は大物主命三子で、10代崇神天皇御子とは別神なので注意。
・2世紀ヤマトタケル東征後『吾嬬惣国』を称し、富士朝阿祖山太神宮大宮司・福地記太夫が初代国造となる。
・4世紀初頭、大山守皇子第九王子・大原毛野陸彦が毛野陸国造となる。また大山守皇子第一王子・宮下源太夫明政の第二王子・吉田二摩古彦が、毛野国にて『吉田氏』を称して県主となり、後世の都賀・塩谷ら諸氏の祖となる。(2〜5男は全て吉田氏を称する)。
・16代仁徳天皇の時代、豊城入彦命(10代崇神天皇御子)子孫である下毛野国造・奈良別命が、笠懸野台手函に莵道稚郎子命の遺骸を奉じて祀った。付近の『だいてばこ広場』(野木町野渡)公園由緒によると、往古の宮殿があった場所と紹介されている。
このニ柱目の崇神皇子『豊城入彦命』は実在していたのかは不明…、ただなぜ豊城入毘古命と同名異神とされたかに歴史的ヒントが隠されている気がする。
前記事のように、菟道稚郎子は富士朝二代目大宮司タマノオヤ子孫・安曇族和邇氏の遺伝子が入っており、周囲からは『宇治天皇』として期待されていた。彼の登場によりタマノオヤ富士朝祭祀の復権などが見込まれたが、皇子の自尽に東国民は一様に落胆したとみる。こうして、彼を鎮魂のために祀り始めたのではないかと...。
・5世紀〜6世紀、『寒川古墳群』が造営され周辺地への影響力は強かったとみる。また多くの河川が集中した土地柄のため、治水としての水神を祀り、自ずと火・雷神の『火』『水』の仕組みは生まれていたものと見ている。
・延暦年間の坂上田村麿東征の折、報賽として社殿を造営し、東方へ数百メートル遷座された。平安末期には富士朝大宮司・49代宮下源太夫義仁が、駿河・伊豆・甲斐・上野・下野・陸奥・出羽の『宮取締り』?を命じられる。
・1183年(寿永年間)には『野木宮合戦』の舞台となり小山氏が頼朝方決起、後年源頼朝から野木神社へ神田と神馬が献上されている。
・後世室町時代には古河公方(関東足利氏)らが、この地を拠点にして周辺への牽制を行っている。
・現代地政学的には、殆ど茨城・栃木・群馬・埼玉4県に接している県境の治水を担う重要拠点である。千葉県野田市も近い。
◯『雷電神社』(栃木県下都賀郡野木町野木)
〜御祭神〜
・大雷大神
前記事で何度も述べているが、雷神=富士朝雷神信仰が関東広域にあったとおもわれる。当社は野木神社参道近くにあり、もともとは現在の渡良瀬遊水地(谷中村が水没している恵下野)から移築されたとのこと。
話が逸れるが…。
現在もこの雷電神社とは別の『雷電神社跡』(下宮地区)が存在している。こちらの雷電神社は、足尾銅山鉱毒事件に奔走し、死を覚悟のうえ明治天皇に直訴した衆議院議員・田中正造が崇敬していた。出自は上野国新田氏族?岩松氏(仮冒の疑いあり)。
彼は渡良瀬遊水地に反対し谷中に移住、キリスト教にも傾倒していたが改宗はせず、熱心に雷電神社を信仰していたという。全財産は活動に費やし無一文で死んだが、佐野厄除け大師こと『惣宗寺』で行われた密葬には30万人が参列したという。
義民とは、こういうひとの事か…(泣)。
※宮下文書における別雷命は、寒川毘女命=三嶋神=オオヤマツミ妃・カモサワヒメとなる。雷神信仰の根本ではないかとみている。ただカモサワヒメ=大雷神とは、未だ断言できない。
坂上田村麿のパラドックス。
野木神社には、坂上田村麿が植えたと言われる樹齢1200年以上の大イチョウがあり、彼がこの地に立ち寄った証明とされている。
検閲されているであろうインターネットでは全く検出されないのだが…、宮下文書によると、800年延暦噴火後の801年6月1日、坂上田村麿や最澄上人らが富士朝関係と阿祖谷小室の被害状況を視察、801年7月14日神官ら300余人たちを、相模一宮『寒川神社』へ避難誘導且つ、移住させている。
このように、富士朝氏族が多く移住してきた相模の地にあって、寒川神社・前鳥神社・田村麿が無関係とは思えないのだ。相模川を挟み東西に寒川神社と前鳥神社が存在し、平塚側を『田村』とか『田村の宿』とか称していた。…個人的には相模川を渡す『田村の渡し』(神奈川県平塚市田村)とは、坂上田村麿のことではないか?と勝手に妄想している(苦笑)。
…となると、前鳥神社と野木神社の共通点が、坂上田村麿となるわけだ。
一方で、宮下文書には『阿弖流為(アテルイ)』討伐についての描写は一切ないのだ。宮下文書によると、天応元年(781年)、坂上苅田麿が長男田村麿とともに蝦夷を平定して、陸奥三十四郡を田村麿に譲って東征完了?としている。これが、俗にいわれる『宝亀の乱』(780年)なのかなと...。
すると…あれ?、794年からのアテルイ戦は?。
上記のように、801年6月から田村麿は救援活動のため現地入りし、802年には噴火で埋没した旧東海道の復旧工事をしている。
というか、最近気づいちゃったのだが…。冷静に考えてみれば、789〜802年過密スケジュールの田村麿が、794年〜蝦夷で阿弖流為と戦っていた時間などあるのかなと…。いくらなんでも片手間で東海道復旧工事しつつ、強敵アテルイと死闘を繰り広げたりしないだろう。
これってもしかして…。
『アテルイ討伐』≒『富士山避難活動』?
さながら『当て類(あてるい)』…(苦笑)。
個人的にいつも不満なのが、日本の歴史家の殆どが、富士山の噴火後の影響を全く考慮していないのだ。いくらなんでも不自然ではないだろうか?。
宮下文書研究者・加茂喜三氏いわく、富士山延暦噴火による富士朝氏族関東へ拡散、この勢力図的な地殻変動こそが桓武平氏と清和源氏を巻き込んで、『将門の乱』を誘発したという。現代のデータでも、富士山が噴火すれば、日本経済は大打撃必須といわれているのに…、世間的歴史家には全くなかったかのように、別の歴史が語られている。
やはり富士山の歴史は、随所で消されている。
というか、東国の歴史は異常なほどスルーされている。
ヤマトタケル東征時代においても、東国(東北も含める)の富士山以東の精神的支柱は、あくまで富士朝であった。岩間本版オトタチバナヒメも、荒波の中『東北神を鎮める』名目で入水自殺を図った。この時代には、奥州・日高見まで、富士朝の影響力はある程度行き届いていたハズだ。
さらに宮下文書においては、桓武政権が噴火情報収集に右往左往された描写がみられ、桓武天皇も『誠に哀れなこと』と嘆くのがやっとであった。平安京を視察していた富士朝神官300余人の保護を優先し、富士朝の全生態系供養のため最澄や空海まで派遣している大事件だった。
その日本が災害で大変なときに、果たして反乱を計画する人々がいるのだろうか?。もちろん火事場泥棒的な土地の奪い合い?小競り合いはあったであろうが。基本的に日本人にとっての富士山≒祟り神の認識はあり、怒れる富士山に、みな為す術もなく呆然としていたのが実情ではなかったか?。
東北に拡散された、坂上田村麿の不自然な英雄譚の数々や、歴史家を唸らせる超人的活躍をした『阿弖流為(アテルイ)』を全否定するつもりはないのだが…。802年にアテルイが田村麿陣営に降参してきているので、富士山噴火と連動していた可能性はある。ま、今後も歴史ど素人オッサンなりに…継続して調べてみたい。
※宮下文書から察するに、富士朝の痕跡を消すときにはよく渡来系や、外国勢力が利用される傾向がある。
※補足すると、坂上苅田麿・坂上田村麿は、渡来系東漢氏ではなく、富士朝サルタヒコ71代子孫・田作彦の子孫。軍人家系というよりは太神宮・供物司長の家系であった。さらに信州出雲(科野国水内郡長野原吉田岡坂上の館)と思われる所領をもっていた家系となる。つまりは彼の活動の大半が、富士山とそれに伴う東北神の鎮魂、さらには災害避難と復旧工事が活動主体ではなかったかと。
※因みに宮下文書版の田村麿の子孫が、田村氏・信夫伊達氏の祖。
坂上田村麿が本州重心点へ行った本当の理由、富士噴火鎮魂『富士山重心点レイライン』。 - セキホツ熊の謎を追え!
宇治川の瀬織津姫の関係。
一般的にこの宇治川は、皇位継承権の問題で菟道稚郎子命を殺害しようとした大山守皇子が、舟守に溺死させられた地と云えられる(前記事参照)。
◯『宇治神社』京都府宇治市宇治山田
〜御祭神〜
・菟道稚郎子命
・不明一座
◯『宇治上神社』(京都府宇治市宇治山田)
〜御祭神〜
・菟道稚郎子命
・応神天皇
・仁徳天皇
※二社とも創建不詳。
もともと宇治には菟道稚郎子皇子墓があり、宇治神社・宇治上神社は菟道稚郎子の離宮『桐原日桁宮』の旧跡といわれる。二社は対をなす一体構造で、地図上でみても2社は100メートルと離れていない。延喜式神名帳から推測するに、宇治神社は2座であり、不明の一座が存在するとも云われている。…溺死した大山守皇子の可能性もあるのかなと。
宇治上神社の境内は、『天降石』『岩神さん」と呼ばれる磐境信仰あり。
さて興味深いのが、この地に瀬織津姫が祀られているという点。
◯『橋姫神社』(京都府宇治市宇治蓮華)
〜御祭神〜
・橋姫こと瀬織津姫命
646年(大化2年)この地に宇治橋を架けた折、上流櫻谷の瀬織津媛を勧請し創建したとのこと。櫻谷(サクラタニ)=サクナダリ、つまり現在の『佐久奈度神社』(滋賀県大津市大石中)からの勧請と思われる。地元では水神という役割もあるのかもしれないが、悪縁を切る『縁切り』の神様として認識されているようだ。
そのすぐ隣は、1052年(末法元年)栄華を極めた藤原道長の別荘地に、御子・頼道による『平等院鳳凰堂』構想が持ち上がる。開山したのが明尊大僧正、安曇族小野道風の孫、奇しくも対岸の宇治神社御祭神・菟道稚郎子命の母方氏族・和邇氏で同族となる。
境内西の鎮守として『縣神社』(京都府宇治市宇治蓮華)には、コノハナサクヤヒメが祀られており、明治以降の廃仏毀釈の流れにより現在は分離独立している。宇治川中洲までは『橘橋』という小さな橋が存在している。
では何故この場所で、『縁切り』の瀬織津姫が信仰されるようになったのか?考えてみよう。
結論から言うと、あくまで個人的見解だが...。
やはり対岸の宇治神社・菟道稚郎子命の死を弔う、そういう氏族的思惑があるのかなとおもうのだ…。そもそも神道では『死』を『穢』として忌み嫌う傾向にあり、現代においても喪中の参拝はNGという見解が主流的。大祓祝詞では、その穢というもの『遺体』を『あの世』へ運ぶ神々が、水神ではなかったかと…。その役割を託された神々が『水神』とくに、『瀬織津姫』や『祓戸四柱』でなかったかと。
加えて、宮下文書岩間本『開闢神代暦代紀』によると、なんと!古代富士朝には部分的に『水葬』があったらしいのだ。つまり『火』『水』が対となり、『水神』が『火神』を導き誘い、結ぶという考え方は、この水葬から来ているのではないかと。今回は…、話が大幅に逸れるのでまた別の機会で紹介したい…。
西国天皇勢力は、都合の悪い存在であった菟道稚郎子命と大山守皇子(宮下家)らを、祓戸四柱の強力な水神たちに『あの世』へ水葬させ、縁切りしたかったのではないかと…。もっと言えば、富士朝勢力との決別を意味していたのかもしれない。
<富士朝めぐり②>西国天皇勢力に奪われた太陽神、そもそも富士高天原は『火』と『水』の楽園だった。 - セキホツ熊の謎を追え!
西国天皇勢力がつくった富士山なしの神道体系、比叡山から淡路島と祓戸鳴門の流れ。 - セキホツ熊の謎を追え!
所変わって下野国寒川周辺も、宗像三女神・田心姫命が多く祀る水郷地帯だ。周辺を流れる思川も、この『田』+『心』=『思』が由来とも云われる。宗像三女神は宮下文書には登場せず、ただ様々な文献・伝承に登場し別名が多く、多紀理毘売命・奥津島比売命・田霧姫などと呼ばれている。ホツマツタヱではハヤサスラヒメ(祓戸四柱)の御子・イトウ神の一柱、タケコ。クマノクスヒの母トヨヒメに養育され、オオナムチの妻となり、クシヒコを産む。こうしてみると宗像三女神というのは、祓戸四柱派生の御子ともいえるのだ。
野木神社自体やその周辺には、水神として宗像三女神を祀る社が多い。
鎮守とされる『網戸神社』(栃木県小山市網戸)には、皇宮社の隣にも御祭神不明の『奥瀬社』なる摂社があり、ちょっと気になっている…。
前記事にも書いているが、瀬織津姫も宗像三女神も、宮下文書には登場せず、ホツマツタヱ時代に登場した女神だと思われていた。たた中身がまるでない虚構・架空の存在ではなく、『元ネタ』となる御神霊がしっかり内包されていると感じている。確実に言えることは『水の神さま』となるわけだ。
なにも、宇治川だけに留まらない。
前記事にて、琵琶湖〜瀬田川〜宇治川〜淀川〜鳴門海峡へと関西圏を広く見たときに、『祓戸四柱』が祀られている仕組みを紹介した。西国天皇勢力にとっての都合の悪い事実を、見てはならないもの...、知ってはならないものと...、鳴門の渦への消失を願っていたのだろう。後世これらを、『鬼門』とか『穢れ』と称して真相をさらに覆い隠した。
…日月神示曰く、富士と鳴門の仕組みがグレンとひっくり返ったときに、何が起こるのだろうか。鳴門の渦へと一方的に葬り去られた歴史の数々が、パンドラの箱のように次から次へと噴出するのではないかと…???(苦笑)。
それはもう始まっているのかなと…、個人的には勝手に思っている(妄想)。