セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

日光田心姫信仰と富士朝信仰、富士山鎮火の朝廷と空海の思惑とは。

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田心姫命を祀る『二荒山神社別宮・瀧尾神社』(栃木県日光市山内)。

2021,11,13

本ブログは宮下文書ベースで考察しております。一般的な解釈とはかなり違いますのでご注意くださいm(__)m。

前置きが長くなるが。。。前記事までを簡単に纏めると。

下野国寒川七郷めぐりで、『寒川郷』にある思川流域の田心姫命信仰を紹介してきた。宮下文書では寒川毘女=カモサワヒメとなる。さらにwikipediaでは栃木市県内に17社ほどの瀧尾神社があり、北部日光周辺が下野国田心姫命信仰メインのようだ。ご存知のように日光とは、徳川家康が久能山から御神霊を御移された場所で、814年より空海による田心姫命顕現の聖地であった。しかし何故、わざわざこの地に御移されたのかは謎を呼んでいる。

徳川家康といえば葵紋、別雷命カモサワヒメ信者ではないのかと…。宗像三女神は宮下文書には一切登場せず、『田心姫命』とは一体どういう神様なのだろうか?。なぜ徳川家康を祀る地に、空海と田心姫命の聖地を選んだのか?。

 

〜宗像三女神〜

  • 湍津姫命
  • 田心姫命
  • 市杵島姫命

 

〜カモサワヒメとは〜

寒川毘女=三嶋神=別雷命≒田心姫命???

宮下文書論拠でいうと、祓戸四柱と宗像三女神は出自不明神としか言いようがなく、ホツマツタヱの時代に登場したとみる。ただ世間的にも言われているように、もし仮に宗像三女神が九州・渡来系の神々であるならば、この富士朝系下野国にこれだけ大規模に祀られているのは異常であろう。何か深い理由があるはずだ…。

~目次~

 

 

幻しの宇治天皇『菟道稚郎子』と坂上田村麿による祭祀、そして瀬織津姫登場!?。 - セキホツ熊の謎を追え!

賀茂『七瀬祓い』と寒川『七郷めぐり』の類似性、やはり隠されていたのは別雷神カモサワヒメ? - セキホツ熊の謎を追え! 

宗像三女と祓戸四柱と伊豆権現、田村麿による富士延暦噴火鎮魂の大水神レイライン現る。 - セキホツ熊の謎を追え!

<富士朝めぐり③>富士朝埋葬法と水神、祓戸四柱の水の流れとは政治的水葬だったのか?。 - セキホツ熊の謎を追え!

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『宇都宮二荒山神社』

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『日光二荒山神社』

 

下野国の歴史

宮下文書による初見は、ニニギ『外寇親征の役』後の論功行賞における十七軍神地方統治。藤原物部系統である大物主三子・豊城入毘古命と四子・前玉命を東大原野守護司頭長の家と定めた。豊城入毘古は『毛野』、つまり現在の栃木県〜群馬県の両毛広域を統治していたと見られる。ヒコホホデミの時代には豊城入毘古御子・豊武主命が継承、初代ウガヤフキアエズ時代には、御孫・二荒男命が継承している。

 

神武時代、二荒男命53世孫・長道八百路命を両毛(毛野)の県令とし、下毛国河内の二荒山の宮に住まう。宮下文書三輪本現代語訳では、10代崇神天皇皇子とされる『豊城入彦命』とは同神別神と記載されている。基本的に下野国『二荒山神社』や上野国『名神大社・赤城神社3論社』に祀られている『豊城入彦命』なる御神霊は、神代オリジナル毛野国祖神ではないかと見る。

下野国河内郡は、現在の宇都宮市・日光市・下野市・鹿沼市に比定されるだろうが、かなり広域に渡るため特定までは難しい。ただ二荒山=男体山と呼ばれていた節があり、日光男体山や女峯山を信仰遥拝しつつ、現・宇都宮市街地周辺に『宮』を置いていたのかなと…。どちらも正統な二荒山の宮なのかも...。

こうして2世紀以降のヤマトタケル東征時代、富士朝先住民勢力は戦犯とされ衰退してゆく。続いて東国統治は秦氏遺伝子が台頭、応神天皇子孫宮下家『吾嬬惣国』支配体制へ移行する。その後の下野国における宮下文書記述はない...。

 

〜下野国一宮とは〜

宇都宮二荒山神社

日光二荒山神社

現在二荒山神社は主に2つ、どちらも下野国『一宮』を称している。2つの二荒山神社、注意すべきは『子神』として、鴨神が祀られている点か…。また宇都宮二荒山神社女体宮には三穂津姫命が祀られ、境内社にもスサノオ要素が強い。ホツマツタヱによるカモとミワの融合については次回、また再考察したい。

 

 

▲『宇都宮二荒山神社』(栃木県宇都宮市)

〜御祭神〜

  • 豊城入彦命 (崇神天皇皇子と解釈)

〜相殿〜

  • 大物主命
  • 事代主命 (大物主命の子と解釈)

〜女体宮〜

  • 三穂津姫命



△『日光二荒山神社・本社』(栃木県日光市山内)

〜御祭神・二荒山大神〜

  • 大己貴命(父)
  • 田心姫命(母)
  • 味耜高彦根命(子)

~日光三社権現~

  • 新宮二荒山神社(男体山)
  • 本宮神社(太郎山)
  • 瀧尾神社(女峯山)

※日光三山(男体山・女峯山・太郎山)を御神体とする。

 

◯別宮『瀧尾神社』(栃木県日光市山内)

  • 田心姫命

※すぐ隣の『瀧尾高徳水神社』は、丹生川上神社の分霊を勧請した神社。昭和五十二年、高徳に創建されたが、県道拡幅のため平成十年に遷座。開運の神として崇敬されている。

 

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『勝道上人』

勝道上人による日光開山

まず日光開山の祖、勝道という人物はどういう人物だったか見てみよう。

 

〜父方〜

735年(天平7年)下野国芳賀郡にて、下野介若田高藤の子として生まれる。11代垂仁天皇皇子、下毛野国室の八島に移住した巻向尊の子孫とされる。

生誕地の栃木県真岡市『仏生寺』には浅間山があり、山頂には石祠がある。仏生寺を挟んで、『安倍岡浅間山』『南高岡浅間山』が並んでいる。さらには南東に小さな『雷神神社』がある。やはり富士朝信仰の多さが浮き彫りとなる。すぐお隣は富士朝色の強い茨城県桜川市だ。

〜母方〜

勝道の母は、豪族吉田連氏で子宝に恵まれず、伊豆留(いずる)=現・出流町の千手観音に祈願した。

765年(天平神護元年)勝道は、母親由縁の地『伊豆留』の土地に満願寺を開山、820(弘仁11年)には空海が勝道を慕い、十一面千手観音像を自刻し安置している。現在近くには出流神社あり、富士朝神であり三嶋神でもあるオオヤマツミを祀る。



◯『出流神社』(栃木県栃木市出流町)

〜御祭神〜

  • 大山祇神

※創建不明とも、江戸中期1800年頃創建ともいわれる。宮下文書版カモサワヒメは、オオヤマツミ妃神。



ここで仮に勝道上人を富士朝氏族と考えると辻褄があってくる。

11代垂仁天皇は、富士朝秦氏の大陸知識+富士朝知識を積極的に取り入れた人物で、東西双方向の人材交流が復活してきた時期と思われる。富士朝や秦氏の高貴な家系が仮冒する際は、11代垂仁天皇皇子か15代応神天皇が付会に利用されている感がある。

母方の吉田氏は、関東に広く拡散された宮下氏族『吉田氏』の可能性がありか?。2代宮下源太夫明政には5王子おり、それぞれ吉田氏を称している。次男・吉田二摩古彦は毛野国県主となり、都賀・塩谷・諸氏の祖となる。因みに、栃木県都賀町は田心姫命が祀られている思川流域、塩谷郡塩谷町はまさに日光の東側である。

ただ吉田氏にも様々な系統あり、吉田神道などとも関係があるか?今のところ不明…。

ここは幕末1867年に尊王倒幕派による『出流山事件』が発生した土地であり、前記事で紹介した藤原秀郷の拠点『唐澤山神社』〜下野国小野寺城(栃木県栃木市岩舟町)、藤岡城(栃木市藤岡町)も舞台の一つとなっていたようだ。この時代の古神道は、薩長に倒幕派扇動工作にさんざん利用され、明治維新後の『国家神道』制定後に用済みとなりポイ捨て状態にされる。

当然この地にも、古神道の面影を感じる...。

 

〜勝道+日光の年表〜

767年(神護景雲元年)二荒山(男体山)に祠を建てたことに始まる。

782年(天応2年)に二荒山(男体山=日光山)に、二荒山大神奥宮を建てた。

800年富士山延暦噴火。多くの富士朝神官・氏族たちが関東圏へ避難し、拡散される。

807年空海による富士朝入麓、復興活動開始、富士朝鳥居地峠に随神門を建造。

807年(大同2年)、勝道は空海に仲介人を通じ知り合い、日光山に『勝道碑文』作成を依頼しており、空海と日光との接触が見受けられる。

809年、前述の磐裂神社(星の宮)創建。勝道上人か七歳のときに、日光開山のお告げがあったとされ、その報謝の意として809年創建。日光最古の神社を自称している。明治期廃仏毀釈まで本地として虚空蔵菩薩を祀っていたという。現在は磐裂神(明星天子)を祀る。

814年空海による『勝道碑文』作成。

816年(弘仁7年)日光山山頂に三社権現の社を建立。

817年(弘仁8年)、勝道上人の入定、四本龍寺の北にある岩窟にて、83歳で死去。

820年(弘仁11年)空海が日光来山。滝尾権現と寂光権現を祀り、『二荒(にこう)』を『日光』に改称した。瀧尾神社由緒によると、境内『影向石』にて空海が女神降臨を祈願、美しい女神が降臨したとのこと。

この女神こそが、宗像三女神『田心姫命』と思われる。その他にも空海は、熱海・伊豆山神社や弥山・厳島神社にて修行の経歴あり。また空海や最澄も、宇佐神宮と八幡大菩薩と縁が深い。

 

伊豆留=出流(いずる)、ここでも『伊豆』がキーワードとなる。

カモサワヒメは伊豆三嶋で病死した『三嶋神』でもあり、速開都姫命こと『伊豆能売』の正体ではないかとみている。つまり下野国・伊豆留・都賀・塩谷・寒川七郷には、富士朝伊豆神カモサワヒメを祀る土壌はもともとあったということだ。

では何故、下野国では『田心姫命』なのか?。

前述のように、宗像三女神が単なる九州や渡来系の神であれば、富士朝色の強いこの地に瀧尾神社十七社も入る余地はなかった。むしろ純然たる富士朝古代神・寒川神・伊豆神カモサワヒメを祀っていたのではないだろうか?、それを『厳島神社』を祀る大伴系統佐伯氏出自の空海らが、田心姫命に仕立て上げた…???(妄想)。日光開山の祖、勝道がそれを望んでいたのかはともかくとして...、富士朝色の強い勝道上人によるの日光開山の功績を空海が塗り替えた感は否めない。

 

 

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820年空海による創建といわれる『瀧尾神社』(栃木県日光市山内)

空海(弘法大師)の歴史も歪められている。

では次に、空海を見てみよう。

出自である大伴氏系佐伯氏は、宗教家が多く真言宗の下支えとなり、安芸一宮『厳島神社』を継ぐ厳島神主家となる。厳島神社別当は宮島弥山大本山『大聖院』、806年(大同元年)の空海による開基で、古くは『水精寺』と称した。空海と水神である宗像三女神『田心姫命』の深い関係が見えてくる。

征夷大将軍・坂上田村麿の歴史に歪みが多かったように、最澄と空海の歴史にも嘘があると感じる。敢えて、宮下文書と一般的な年表をミックスして並べてみた。かなり歪んだ年表になるのがお解りいただけると思う。

 

〜最澄・空海年表〜

◯が宮下文書による記述。

△が一般的な視点。

 

△800年(延暦19年)、富士山が噴火。

◯801年(延暦20年)坂上田村麿、最澄上人による富士朝被害視察と、鎮魂活動開始。

◯801年太神宮神官300余人、坂上田村麿が相模国へ避難させる。

◯802年寒川大神が相模国寒川神社遷座。坂上田村麿により復旧された東海道新道・福知山南ルート完成。宮下文書では、もともと東海道は富士山北への富士朝ルートだった。

△796年〜803年、一般的に空海24〜31歳までが所在不明『空白の7年間』とされる。

△804年(延暦23年)5月に第16次遣唐使留学僧として長安入り。一般的にはこのタイミングで最澄と空海が遣唐使として入唐、かなりおかしな事態なのがおわかりであろう。

△805年5月、最澄帰国。

△806年4月、50代桓武天皇崩御。

△806年8月(大同2年)に空海帰国するも、本来であれば20年間の予定を繰り上げて2年間で帰国し、帰京の許可が降りずに大宰府観世音寺に足止めされていたという。…考えてみればこれもちょっと不自然な話だ。809年(大同4年)に京都へ入る事を許されている。

△806年空海が宮島にて、厳島神社別当である『水精寺(大聖陰)』創建。但し注意すべきは、Wikipedia大聖院によると宮島と空海の繋がりは、史実的に確認できない見方もあるようだ。

◯807年(大同2年)6月から空海上人と坂上田村麿が富士朝入麓、富士山の全生態系鎮魂のために活動を開始、富士朝鳥居地峠に仁王門を建造、自刻の仁王像を安置しているものの、貞観噴火で焼失したとのこと。

△814年(弘仁5年)空海による『勝道碑文』作成。

△820年(弘仁11年)空海の日光来山。

 

以上が、最澄と空海のミックス年表となる。

宮下文書視点で言えば、最澄の遣唐使はあまりに不自然な行動。天台宗最澄にとってみれば比叡山≒富士山の見立ての霊山のハズ…、京都と富士山が大パニック中に留学などするのだろうか?。他方で見方を変えれば、富士山鎮魂の打開策を唐留学に求めた可能性もあるか...?。

空海の場合、前倒して所在不明とされる『空白の7年間』に既に留学して、富士山噴火、桓武天皇崩御や平城天皇の病気などで急遽召還されていた可能性はないのだろうか…。

いずれにせよ、富士山噴火という大天災が語られておらず、遣唐使は目をそらすための

カムフラージュにも見えてしまうのだ。最澄・空海もあちらこちらで利用されている節がある...。

 

 

あくまで仮に、他地域との連動した祭祀を考えると...歴史は繋がる

前記事のように宮下文書によると、富士山を鎮めるためには富士山以東『東北神』が鍵となっている。岩間本『開闢神代暦代記』によると、かつてヤマトタケル東征におけるオトタチバナの死も、この東北神鎮魂を目的として入水自殺をしたとされる。おそらくはこれは、富士朝と東国との古来からの深い『絆』を象徴してのことで、ホツマツタヱでも皇祖タカミムスビからの重要拠点『ヒタカミ』として語られている。

そこで、前記事では富士山〜早池峰山レイライン上の日光を照合してみた…。なるほど、空海がなぜ日光まで来て修行していたのかが見えてくる。また、富士山男神『火神』を鎮魂するには、強力な女神『水神』祭祀による『鎮火祭』が鍵となるとみる(妄想)。

 

  • 坂上田村麿は、瀬織津姫+伊豆権現三女神とともに…北上?。
  • 空海は、宗像三女神とともに…北上?。

 

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最澄・空海・56代清和天皇らがいくら頑張って復興・鎮魂しても、富士噴火と御祖神の怒りは鎮まる気配はなかった。彼らの祖霊鎮魂への恐怖と焦り...、自ずと東北における『鎮火祭』にあらゆる手段が講じられた。地学的には平安延暦・貞観の断続的噴火活動は長期化し、最終的には1083年までに合計12回の噴火でひとまず落ち着いたようだ。

このように、延暦噴火は地層に刻まれる大事件だったにもかかわらず、それに見合う政治的記録は殆ど無い。昔から著名な歴史家は何故か、富士山噴火の歴史的作用を語らないからだ…。これがどれだけ不自然なことか。。。

 

800年以降富士朝氏族は、関東圏に避難拡散。937年(承平7年)に噴火、河口湖と富士吉田市の間『御舟湖』を埋没させる大きな溶岩流となった。それに呼応するかの如く関東圏は、源氏平氏を巻きこみ地殻変動を起こす。939年『将門の乱』の共存共栄のうねりとなってゆく。天皇らが、『東国の雷神』に何を恐れていたのかが明白だろう…。

こうしてみると、なぜ将門が『火雷天神』を旗頭に新皇を称したのかも見えてくる。東国氏族がもう西国天皇勢力に『鎮火祭』は任せていられないと、火神を味方につけると一気に東国氏族たちの結束を得たのだ。東国にとってみれば清和源氏も桓武平氏も富士朝氏族もない、みんな生活がかかっている。鎮火祭が成功しないのは、天皇統治システムにあるのではないか?という疑念が噴出した。

新皇将門曰く『朝廷に反抗するつもりはない、ただみんなで平和に暮らしたいだけだ…』

当初朝廷としては、富士山の怒りの火消しを図る一方で、その因果関係から生まれた関東圏の反乱分子を消し去りたい思惑はあったろう。しかしもはやそんな余裕もなく東国史そのものを欠史にするしかなかった。こうして東国はリセットされ、史跡や古墳が多いにもかかわらず、未開な野蛮人の地と認識されることになる。そのことで多くの考古学者たちが矛盾を抱え、悩まされることとなる...(苦笑)。

 

本来であれば、空海が日光で田心姫命を顕現させたのも、富士山鎮火祭に連動した水神祭祀イベントの一環であったのだろう...。しかし富士山の影響力を薄めるかのごとく、数百年間の噴火があったことさえも語られなくなってしまった。当然人々は、空海が何故わざわざ日光まで来て、強力な水神・田心姫命を顕現させたのかも理解できなくなったのだ…(妄想)。

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『日光東照宮・奥宮宝塔』、早池峰山頂~久能山東照宮レイライン上にある。

実のところ、田心姫命をホントに理解し恩恵を活用できていたのは、江戸期の家康と天台宗天海だけだったとみている。彼らはこの田村麿・空海システムを流用し、富士朝神に抗うことなく秘密裏のうちに迎合し、江戸幕府260年の繁栄を得たのでは...と???(妄想)。

 

次回はこの徳川家康との関係、田心姫命がカモサワヒメである可能性を考察する。

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※地図はクラフトマップ使用。

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