2021,11,27
本ブログは宮下文書ベースで考察しております。一般論とはあまりに違いすぎるのでご注意くださいm(__)m。
今回は、最澄と空海の生誕地がスゴイので記事にしてみた。ご両人とも八幡大菩薩との繋がり知る上では重要人物、彼らを神仏習合的視点で考察してみよう。正直お坊さんはノーマークでした(笑)。
~目次~
宗像三女と祓戸四柱と伊豆権現、田村麿による富士延暦噴火鎮魂の大水神レイライン現る。 - セキホツ熊の謎を追え!
日光田心姫信仰と富士朝信仰、富士山鎮火の朝廷と空海の思惑とは。 - セキホツ熊の謎を追え!
空海と八幡神
空海の生誕地については、香川県善通寺市『善通寺』と『海岸寺』とで論争があるようだ。父親は郡司・佐伯田公、母親は安斗智徳(阿刀宿禰)の娘・玉依御前。屋敷(現・八幡山三角寺仏母院)の近くには『熊手八幡宮』があり、母親が懐妊祈願をしたという伝承が残る。
特筆すべきは、『下鴨』という地名が現在まで残っており、白河上皇が寄進した京都上・下賀茂神社の荘園だったという。当地区の南鴨や北鴨の産土神を祀った神社を含め、『加茂神社』が三社ある。タマヨリという名前から察するに、賀茂御祖神社を深く崇敬していた氏族かと思われる…。
◯『熊手八幡宮』( 香川県仲多度郡多度津町西白方)
〜御祭神〜
・応神天皇
・神宮皇后
・比売神
※神功皇后が三韓征伐の折の寄港地し、皇后に授けられた長鉤(熊手)と旗竿を御神体とする。819年(弘仁十年)空海により社殿を造営され、彼自身の産土神であり生誕地とされる。
神社伝承で空海は、生前から八幡大菩薩と親交があった?お方のようで、互い対面しつつ姿を映し合った仲とのこと。八幡神曰く『私とあなたは同一体、影のごとくついて行く…』との旨伝えられた。高野山で彼が入定の際も、八幡神が熊手八幡神の御神体の熊手と旗竿を白龍にして、高野山へ遣わした。飛ばした伊都郡兄井村の松樹にとまったご神体が、遠く葛城の峰まで光を放っていたとのこと…。後日、丁重に祀られた。
そう…、高野山の現在の所在地は『伊都(いと)』郡という。
空海レイラインA(高野山〜宮島)
- 伊波乃比め命神社(伊豆諸島三宅島)
- 西之御門宮(伊豆諸島三宅島)
- 天河大弁財天社近く
- 高野山金剛峯寺(空海開山)
- 丹生高野神社
- 貴志川八幡宮(神宮皇后伝承)
- 日前神宮懸国神宮(タマノオヤ)
- 鳴門の渦潮(祓戸四柱)
- 大蓑彦神社近く(寒川町、式内社牟祢神社・大水上神)
- 海岸寺仏母院(空海生誕地伝承)
- 大山祇神社近く
- 宮島(御床神社付近)
- 壬生神社
- 別府厳島神社(弁天池湧水池)
- 宗像大社沖津宮(田心姫命)
- 豊和多都美神社(対馬)
空海レイラインB(石清水八幡〜宇佐神宮)
- 船宮神社(玉諸神社ちかく、瀬織津姫命)
- 信濃宮(南朝・宗良親王)
- 阿智神社奥宮近く
- 津島神社(牛頭天王と八王子権現)
- 石清水八幡宮
- 和気神社・交野天神社
- 越木岩神社
- 熊手八幡宮(空海伝承)
- 海岸寺(空海生誕地伝承)
- 大元神社(宇佐神宮元宮)
- 溝口竈門神社
空海と八幡神と伊豆。
これは数年前…、私が伊豆山のとある方から伺った話…、虚覚えの記憶で恐縮なのだが…。さらに情報ソースも不明であるが…。
もともと空海は、伊豆(伊豆山?)を開山したかったという。ただ、朝廷からの認可が降りなかったという。それで西国に戻り、紀州高野山を開山に至ったらしいのだが…。
これがホントだとすれば、空海がいかに宮下文書版タマノオヤと妃・伊豆大神イワナガヒメを崇敬したかが見えてくる。但し、後日いくらググってもググっても何処にも出て来ず…根拠に不安は残る…(苦笑)。当時はお坊さんに関心がなかったので聞き流していたが…、ただ宮下文書ベースでの歴史考察では、あり得る話だなと。
だとしても…、空海と伊豆は繋がりが深いものである。現在も伊豆山神社別当『真言宗・走湯山般若院』(静岡県熱海市伊豆山)には、『弘法大師霊場』の伝承が残っており、大師堂には空海自刻の大師像が安置されているという。ただ謎なのが、般若院は空海が入定(死去)した翌年836年に創建とされるのが、むしろ気にかかる。
『福地山・修禅寺』(静岡県伊豆市修善寺)は、807年(大同2年)に空海による創建。奇しくも修禅寺は清和源氏頼朝の子・頼家が幽閉され、頼朝将軍家が途絶えた場所でもある。
また松崎町役場HP観光案内によると、800年(延暦19年)空海が伊豆を高野に劣らぬ霊地として『地蔵金剛宝蔵蜜院』(賀茂郡松崎町門野)を開基、一宇を建てたとされている。本人が使用したとされる笈が残されている。一般的に798〜804年間は、空海『空白の七年間』とされているわけで…、その間伊豆で修行していたというのだろうか?。
※注意点は、空海は日本全国行脚の伝承があるものの、それらは真言宗の布教活動に基づく伝承が多く、どれが当人の本物の伝承なのかは専門家にも分かりづらいとのこと。
宮下文書版タマノオヤ死後、その御子ウサミや御孫クマノクスヒコは紀州へと向かい、紀国一宮日前神宮にて父親タマノオヤを祀る。このウサミの本拠点が伊豆『伊東(イトウ)の宮』、比定すると伊東の大原『葛見神社』で、私がタマノオヤ=古代八幡と思う理由の一つだ。それを崇敬していたと思われる空海の行動も明確になってくる…。やはり空海が高野山を開山場所に選んだ理由も、伊豆出身のタマノオヤやイワナガヒメやウサミの祀られた紀州を偲んていたようにも思えるのだ。
・高野山の伊都…。
・厳島神社の伊都岐島(イツキシマ)…。
伊都…、伊豆…伊東、これら宮下文書版タマノオヤと妃イワナガヒメ聖地『伊豆』と考えてもおかしくないのではないかと…。そう考えると、空海と宗像三女神の縁が深い『伊都岐島神社』(宮島・厳島神社)の伊都も…伊豆の可能性が高くなるのではないかと。
〜水神三女神〜
・月桜田毘女命≒瀬織津姫命≒湍津姫命?
・加茂澤毘女命≒速開都姫命≒田心姫命?
・岩長毘女命≒速佐須良姫命≒市杵島姫?
祓戸三女神≒宗像三女神≒伊豆権現三女神?
※月桜田毘女は富士朝加茂山に埋葬される。
※カモサワヒメは伊豆国三嶋で埋葬される。
※イワナガヒメは熱海伊豆山で埋葬される。
※宮下文書では祓戸四柱と宗像三女神は登場せず。
〜宮下文書カモサワヒメ〜
・賀茂澤毘女=別雷命=寒川毘女=三嶋神
※オオヤマツミ妃
※コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ母
※コトシロヌシとタカテルヒメ娘
キーワードは『伊豆』『壱岐島』『対馬』、忌部連が人形流しをしていた特定地域の鎮魂祭、これらが現代に残る多くの信仰を左右し日本建国の礎であった。宮下文書版ニニギは、『外寇親征の役』にてはじめて外国勢力と交戦し、この国の独立自治権を死守する。これが本来の天孫降臨の大義、日本建国の大義ではないかと思える程だ。
またニニギの参謀?コトシロヌシが、壱岐島や対馬の戦闘で子・孫を失い、伊豆国に帰還の際に娘カモサワヒメ(別雷命)を埋葬し、娘婿オオヤマツミを祀る。これが宮下文書版『三嶋大社』の正体であった(前記事参照のこと)。魏志倭人伝によると、この地域には伊都国があり現在の糸島市に比定される。それはこの地域で、この国の行く末をかけた大きな戦争があり、カモサワヒメの兄弟・甥ら、伊豆出身の戦士が犠牲となっているからだろう。このようにホツマツタヱ版宗像三女神『イトウ神』は、九州や渡来系の神々ではなく、玄界灘で行われた富士朝最古の外国勢力との戦争の歴史を鎮魂するため、富士朝先住民の水神たちではないかとみている。
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さらには、これが延暦噴火鎮火祭とともに、東北早池峰山に祀られている瀬織津姫と伊豆権現三女神として波及しているのではないかと…(妄想)。前記事で述べたように、私が伊豆権現三女神と宗像三女神が重なって見えるという理由の一つだ。
平安京と平城京とで揺れた新『八幡宮』。
『石清水八幡宮』(京都府八幡市八幡高坊)は、和気清麻呂の墓所であり、和気氏の氏寺『神願寺』があったという。
・859年(貞観元年)に奈良大安寺・行教創建。
・860年(貞観2年)56代清和天皇が石清水寺(摂社・石清水社)の境内に社殿を造営。
この行教というのは何者なのか?。
行教は平城京大安寺の僧侶。なんと…武内宿彌子孫『紀氏』の山城守紀魚弼の息子で、石清水八幡宮別当安宗の叔父にあたる。惟仁親王(56代清和天皇)即位の折、祈祷として宇佐八幡宮へ派遣され、清和天皇護持のため90日間参篭する。翌貞観2年(860年)宇佐八幡宮から八幡大菩薩を勧請して『石清水八幡宮』を創建。清和天皇即位の立役者であり、八幡神とのパイプ役となっている。wikipedia石清水八幡宮によると行教は空海の弟子、829年(天長6年)に空海が大安寺の別当に補されている。最澄の弟子とも繋がりがある。
『元石清水八幡宮』(奈良市九条町)由緒によると、807年(大同2年)上記と同一人物の行教が、『大安寺』の鎮守として既に鎮座されているのだ。注目すべきは、やはりこの807年(大同2年)だ。
前記事通り、宮下文書版空海が富士朝入麓し富士山復興活動を開始年であり、宇佐神宮分霊計画は800年延暦噴火に端を発した可能性あり。51代平城天皇勅令により先行して奈良・元石清水八幡宮へ分霊されたとみる。
その根拠?は…、大元神社(宇佐神宮元宮)と元石清水八幡宮を結んだ先には富士山への鎮火祭レイラインがあるからだ…(妄想)。つまり富士朝祭祀王である八幡神に、800年富士山延暦噴火を鎮魂させようとしたと...。
〜宇佐神宮富士山レイライン〜
- 海上八幡宮(807年宇佐八幡を勧請創建2kmズレ)
- 大山阿夫利神社付近
- 須走浅間神社(807年鎮火祭跡地に創建)
- 富士山(南斜面)
- 白糸の滝・熊野神社(瀬織津姫命)
- 元石清水八幡宮(807年創建)
- 平群坐紀氏神社
- 玉祖神社(1kmズレ)
- 大蓑彦神社(寒川町で牟祢神社・大水上神)
- 大元神社(宇佐神宮元宮)
※何故か行基の痕跡が多い。
806年(大同元年)、50代桓武天皇は原因不明の急死、これを継承した51代平城天皇は即刻平城京へ再遷都しようと計画していた。表向きには、叔父早良親王や伊予親王の祟りを恐れていたというが…。思うに…、山城国の主・賀茂別雷神と富士山噴火の『火雷天神』の祟りがダブついて見えたのだろう。なぜならば別雷命とは富士山統括者オオヤマツミの妃神であり、延暦噴火の一因ではないかと疑われても然るべき存在だからだ。こうして平安京における『火雷天神の祟り』は、富士朝氏族と繋がりが深い菅原道真と平将門事件も巻き込んで伝説と化した。それは彼ら富士朝氏族の活動期が、ちょうど富士山の延暦以降の噴火活動激化と重複している事もあるのだろう。
因みに宮下文書版菅原道真は、父方が富士朝サルタヒコ子孫出雲族・土師氏となる。母方の伴氏は宮下文書版太田氏または羽田氏の可能性が高く、大伴氏と意図的に混同されている節があり、56代清和天皇が『応天門の変』まで信頼をおいていた伴善男と繋がる。やはり清和天皇も富士朝伴氏も藤原氏にスケープゴートにされた可能性が高い。
また平将門の母方縣犬養氏も、富士朝との繋がりが深いと見る。
政治ゲームにあけくれていた天皇・貴族たちは、富士朝御祖神の祟りを慢性的に恐れていたので、一刻も早くカモサワヒメの土地から脱出しかったのかもしれない…。そして807年平城京へ再遷都の布石として、宇佐神宮を分霊を『元石清水八幡宮』に祀らせていた可能性はある。
宮中は、再遷都するか否かで揺れており、結果的に平安京派と平城京派の『二所朝廷』に分断されてしまう。平城京遷都派の51代平城天皇は809年に病に倒れ退位、平安京側の52代嵯峨天皇との対立が表面化。平城京再遷都計画が頓挫させられ大混乱していたようだ(薬子の変)。こうして賀茂神に代わる首都鎮護?を目的とされた宇佐八幡神は、平城京ではなく平安京付近へと急遽変更されたとみる…。これが男山、現在の『石清水八幡宮』ではないだろうかと?。しかし行教は、富士山と結ばれる平城京側大安寺近くにも御祭神を分霊していたようだ…。
『元石清水八幡宮』(奈良県奈良市東九条町)由緒では、石清水八幡宮側はこの元宮再遷座説自体を否定しており、この噴火混乱期を体言しているようにも思える。その混乱期の収束をみて、紀氏・行教は改めて石清水八幡宮(男山)へ遷座させたのかもしれないと…。
このように富士山噴火を中心とした史観では、違う史観が浮き彫りとなる。それまで遷都を繰り返してきた彼らがしなくなった理由も、平安京の人々は283年続く富士山噴火の呪縛から、単に次なる遷都先へと身動きとれなかっただけなのかもしれない。
最澄と八幡神。
一般的には804年(延暦23年)、最澄と空海は遣唐使として両人とも宇佐八幡宮に立ち寄り入唐求法と満願成就の祈願をする。仲介したのが宇佐使家系の和気氏当主・和気弘世ともいわれる。父親・和気清麻呂は皇室最大の危機とも言われた『道鏡事件』を解決に導いた英雄。その姉である和気広虫の三周忌、和気氏らは最澄を高雄山寺(神護寺)に招待し法華会を催した。
前述の通り、この時期は平安京を再遷都するか否かで宮中は揺れていた。和気清麻呂は平安京遷都に尽力した人物で、平安京の御祖祭祀システムを熟知していたブレインの一人であったろう。50代桓武天皇は最後まで『遷都はならぬ』と遷都派を退け続け、彼の死後は51代平城天皇と52代嵯峨天皇とで意見が対立することになる。
『してはならない』という…その真意とは?、和気清麻呂は延暦噴火直前の799年に死去している。もはや、その意思を継いでいるハズの和気氏子孫にしか解らなかったのかもしれない。最澄は和気氏にその真意を見極め、何かしら祭祀的アドバイスを求めていたのか?。その結果、彼らが勧めてきたのが宇佐八幡神祭祀であったわけだ。
812年(弘仁3年)空海がこの高雄山寺にて灌頂を行い、高野山に移るまでこの寺を活動拠点としていたようだ。和気氏は、最澄・空海とも強いパイプを持っていた。
最澄の生誕地は、日吉大社近く『比叡山生源寺』(滋賀県大津市坂本)、父・三津首百枝の居館であった。母は10世紀成立の『伝教大師由緒』は藤原鷹取の娘で藤子とし、『青蓮院門跡系譜』では応神天皇9世孫とされる。もともと比叡山生源寺があった場所は、現在日吉大社境外百八社のうちの『大将軍神社』となっており、鎮守社であり坂本中の総社とされる。現在も生源寺参道脇に存在し最澄の産土神とされている、御祭神はイワナガヒメ。
◯『大将軍神社』(滋賀県大津市坂本)
- 大山祗神
- 岩長姫神
◯『大将軍神社』(京都市北区西賀茂)
- 磐長媛命
※一般的でもイワナガヒメは、オオヤマツミの娘でありコノハナサクヤヒメの実姉。さらに宮下文書ではカモサワヒメ娘で、富士朝二代目大宮司タマノオヤ妃神。賀茂別雷神社を挟んで西賀茂角ノ社(大将軍神社)とはレイラインで結ばれる(後述)。
平安京遷都に伴い、50代桓武天皇は『大将軍神社』を四箇所に配祀していた。現在でもそのうち二社にイワナガヒメが祀られている。また先述した『元石清水八幡宮』の近くにも大将軍神社があり、御祭神はイワナガヒメで一致する。
◯『大将軍神社』(奈良県奈良市四条大路)
- 磐長媛命
時代を紡ぐ三女神、世の立て直しをする賀茂神と八幡神。
彼の生誕地が、なんと…以前紹介した賀茂別雷神社レイライン上に存在するわけだ。奇しくもこのレイライン上には、富士朝や賀茂神や八幡神に貢献した人物に由来があり。清和天皇・惟喬親王・和気清麻呂・最澄…錚々たるメンバーとなる。
〜最澄・三女神レイライン〜
- 大山阿夫利神社三の鳥居・比比多神社付近
- 富士山
- 旧月瀬神社(月瀬の大杉)
- 名古屋城(尾張松平氏)
- 惟喬親王御陵(木地師信仰)
- 永原御殿・菅原神社(徳川家宿泊所)
- 生源寺・大将軍神社(最澄生誕地)
- 日吉大社
- 比叡山延暦寺
- 大田神社
- 賀茂別雷神社
- 大将軍神社(西賀茂・角ノ社)
- 清和天皇水尾山陵
- 愛宕神社(元愛宕)
- 丹波国分寺跡
- 和気・宇佐八幡宮(和気清麻呂生誕地)
- 長尾神社(宗像三女神・安芸太田町)
- 元乃隅神社
- 二尊院・楊貴妃の墓(807年最澄開基)
- 宗像大社・沖津宮(田心姫命)
- 多久頭魂神社・雷神社
※長崎県対馬市厳原(いづはら)町豆酘(つつ)禁足地あり。対馬中部の長崎県対馬市厳原町阿連『雷命神社』には805年『最澄漂着の地』なる記念碑有、…本当に『漂着』なのか???(苦笑)。彼らは対馬富士朝神の鎮魂神事をしていた可能性もありそうだ。
前述のように、56代清和天皇は貞観噴火で富士朝復興に尽力した人物、その兄が惟喬親王。彼は皇位継承争いで敗れているものの弟・清和天皇を敬愛した節あり、彼自身も山の民『木地師』の信仰対象にされている。
そしてこの惟喬親王の母方バックボーンが武内宿彌子孫紀氏であり、平安後期には賀茂神社に婿入りし、清和源氏賀茂次郎義綱・家将となる。賀茂次郎子孫は相模国へ流れ三浦氏婿入り、さらに宮下家に婿入りの壮大な流れとなるわけだ…。
清和天皇の子孫清和源氏は、紀氏の関与した八幡神と賀茂神を崇敬し、八幡太郎義家と賀茂次郎義綱のコンビネーションがこれを継承する。八幡太郎子孫・源頼朝の挙兵を三浦氏が助け鎌倉幕府が成立、このとき富士朝再興が成し遂げられた。さらに徳川家康は自称清和源氏、天台宗天海は自称蘆名氏三浦氏族を自称していた。『世の立て直し』コンビネーションは、この後の乱世戦国時代〜江戸時代を創生してゆく。
※上図は系図ではないので注意。
これらの偉人の生誕地や墓所が八幡神や賀茂神レイライン上に並んでいるというのは、どういうことワケなのだろうか?。墓所は本人の遺言で選べても、生誕地は選べないだろうなと…。これが全部偶然なのだろうか?、それとも人為的辻褄合わせなのだろうか??。だとしてもそれらが、宮下文書に基づく歴史考察の流れと一致するのはどういうことだろうか…???。
まさに、レイラインが富士朝史を語っているではないか。
八幡神+賀茂神=『福知八幡宮』コンビが、因縁ある魂たちをコントロールして日本を導いている?ようなレイライン…。
そしてお気づきだろうか?…田心姫命を祀る『宗像大社沖津宮』と『賀茂別雷神社』を通っているのだ。富士山と賀茂別雷神社の『カモサワヒメ』と沖津宮が繋がる…。前記事のとおり、私にはこの二柱が重なって見えて仕方がないのだが
…(´(ェ)`)。
〜おまけ〜
面白いyahoo知恵袋記事を見つけたのでリンクを貼ってみた。↓
大祓詞について質問です「伊頭の千別き」の伊頭と伊豆半島の伊豆とは関係... - Yahoo!知恵袋
もともと宮下文書では伊豆は『伊須』と表記された。それがいつの頃か伊豆で統一される。
伊豆とは『イズ』とも『イトウ』とも読める。
大祓詞の伊頭も、『イズ』とも『イトウ』とも読める。伊豆権現…宗像三女神イトウ…。皆さんはコレどう思いますか???。
※地図はクラフトマップ使用。