セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈宗像三女④〉イツクシマ・イチキシマの正体。対馬国は伊豆の痕跡でいっぱい。

沈黙の伊豆山


2022,12,25

本ブログは、宮下文書をベースにした考察です。

宮下文書を知らない方が圧倒的に多いので、この記事だけ読むと…当然意味不明になります。頭のおかしい素人オッサンが根も葉もない事いっていると思われるでしょう(苦笑)。なので前記事内容を反復させつつ記事にしております。ご了承ください。

今後ともよろしくお願いいたします(´(ェ)`)。

 

今回は伊豆と玄界灘の強固な関係を調べてみた。

 

〜熊オッサンの予想?〜

  • 瀬織津姫命    =湍津姫命   =月桜田毘女命
  • 速開都姫命    =田心姫命   =加茂沢毘女命
  • 速佐須良姫命=市杵島姫命=岩長姫命

※宮下文書版カモサワヒメ=別雷命=三嶋神=寒川毘女命

※※ホツマツタヱ版速佐須良姫命の転生=岩長姫命

~目次~

 

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈祓戸四柱①〉歴史の嘘がもたらした近江遷都と祓戸神、伊吹山・鳴門・剣山のレイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈祓戸四柱②〉史上最大の禍が必要とした祓戸神、淀川の三島神の役割。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈宗像三女①〉宗像三女神イトウ『善知鳥』は祓い神?、玄界灘に伊豆神がいる理由 - セキホツ熊の謎を追え!

〈宗像三女②〉天孫ニニギと親族三女神の関係、失ったコノハナサクヤの身代わり説?。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈宗像三女③〉宗像三女神イトウ、やはり伊都国はイワナガヒメを祀る国だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 





卜部氏と英霊と穢の関係

 

やはりすべては、富士山と伊豆からはじまっていた。

宗像三女神を祀る安芸一宮『厳島神社』は、複数文献の表記が『伊都岐島神』と称されている。これは宗像三女神一柱・市杵島姫命が転じた説が有力であるが…、そもそもイツキシマもイチキシマも造語であった可能性がありそうだ。 

 

〜卜部三国〜

  • 伊豆 5人      『い』
  • 対馬 10人   『つし』
  • 壱岐 5人       『き』

結論から言うと。すなわち、これがイチキシマ・イツクシマの正体ではないかと…。

 

wikipedia卜部氏を要約すると。

卜部氏とは古代祭祀貴族に類する、亀卜による吉凶占いを生業にする品部のこと。亀卜とは、亀の甲羅を火で焼いて、ひびで吉凶を占うこと。亀卜各地に様々な系統氏族が点在していたが、中でも伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は特別視され、優秀な者が選抜されて宮中祭祀の国家神祇官に任ぜられていた。この三カ国以外の卜部氏は太占に関係した氏族後裔。何故この三国なのかは諸説あるという…。

 

▲神祇官の次官(大副・少副)…伊豆卜部氏。

△下級職員伊豆5人・壱岐5人・対馬10人。

 

彼ら共通している出自は、アメノコヤネの子孫や藤原系氏族とされている点だが…、多くは後世の仮冒ともいわれている。

とくに伊豆卜部氏は、伊豆一宮『三嶋大社』の神官として仕えていた氏族で、中臣御食子の七代孫卜部平麻呂を祖との説あり。…興味深いことに卜部平麻呂は、延暦噴火後の大同2年(807年)に生誕したというのだ。

807年というのは、東国における坂上田村麻呂による水神祭祀を筆頭に、全国的に寺社建造ラッシュがつづき、富士山鎮火祭が行われた形跡がある。事実『古語拾遺』が編纂され、宇佐神宮と富士山との間の奈良県奈良市東九条町『元石清水八幡宮』が創建された年でもある。富士朝信仰回帰主義者50代桓武天皇の崩御と、富士山噴火の鎮魂に向けた、神道も仏教も大変革のうねりとなった。

室町時代に登場した吉田神道創始者・吉田兼倶は、この伊豆卜部氏の子孫にあたる。こうしてみると伊豆卜部氏や吉田神道は、宮下氏族吉田家や富士朝氏族の可能性もありそうだ…。



壱岐卜部氏も諸説あり。アメノコヤネ子孫中臣系の氏族や、高皇産霊神の後裔月神命の子孫・壱岐県主の一族とする説あり。

 

対馬卜部氏は対馬県主家・対馬県氏の末裔とされるが、出自は諸説あり。建比良鳥命、天児屋根命、雷大臣命、天穂日命、押瞻命となる。この雷大臣命は後述する雷神社に関係する(後述)。




 

彷徨う伊豆国戦士の御魂

この伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の選抜が、何を基準にしていたのかは定かではない。ただ宮下文書をご存知の皆様ならご存知のはずで…、これはズバリ、ニニギ天孫降臨伝承『外寇親征の役』の関係地と断言できる。

おおよそ5000〜6000年前の縄文期、日本存亡にかかわる古代戦争があった玄界灘。富士朝阿族の英霊たちが伊豆から出港して、対馬や壱岐島の激戦地へ派兵されていった。

しかしそれらの歴史は、歴代権力者の思惑によって無下にされてきた。その建国戦争史を『無』にしたとき、その建国戦死者の御霊はどうなるのだろうか?。『俺たちは何のために死んだんだ?』と...?。建国のための戦争を、誰が子孫に正確に伝えることができるのだろうか?。彼ら英霊の御霊は、永久に感謝されることなく、拠り所を無くし彷徨うことになるのだろう…。

歴代天皇らはこれらの彷徨う御霊たちが、禍事や穢となって天災人災へ転じないように水神女神を祀って鎮静化しようとしたのだ。記紀で祖先たちの歴史を蔑ろにすることで、その背徳感から生まれた穢が天皇家へ及んでいくのを恐れたのだろう。国家を挙げての秘密裏の祭祀があったわけで、過去を『水に流す』とはこのことであろう…。こうして宗像大社沖津宮は田心姫命など、口封じも徹底していたと思われる。鎌倉後期成立の三宅記などで、伊豆国の古社はもう御祭神が判別つかないほど、めちゃくちゃに改竄されている。

 

民族学的にいえば、現在でも対馬の人々は、穢れを忌む意識が一際強く、産穢と死穢を徹底して意識しているという。これは暗に歴史上多くの戦死者がおり、彷徨う魂を意識してのことではないか…?。

(´(ェ)`)






石清水と伊豆山、なんと対馬にもあった?。

対馬は、富士山や伊豆国から、神道の根幹をなすような重要レイラインで結ばれている。

※地図上に対馬が表示されていませんが、しっかり島を貫通しています。

 

〜富士山出雲大神宮レイライン〜

  • 相模三宮・比比多神社元宮(タマノオヤ)
  • 富士山頂上浅間大社奥宮
  • 日本総社・津島神社
  • 山城一宮・賀茂別雷命降臨地・神山
  • 愛宕山
  • 出雲大神宮
  • 対馬一宮・厳原八幡神社
  • 清水山(石清水八幡宮元宮説あり)
  • 対馬有明山山頂
  • ・乙宮神社

※槻はつきとも読める。

〜ダブル伊豆山レイライン〜

  • 相州三浦鎮守・海南神社(地主神、源頼朝崇敬)
  • 伊豆山神社本宮
  • 岩戸山             
  • 日金山東光寺(宮下文書版イワナガヒメ陵墓?)
  • 三嶋大社
  • 駿河二宮・豊積神社
  • 月集落・神社(瀬織津姫命)
  • 三河国加茂郡松平郷(徳川家発祥地)
  • 松平城山城跡(太田道灌築城、松平宗家改修)
  • オワリの殿山(日月神示???)
  • 桶狭間の清水山
  • 琵琶湖の近江大橋
  • 祇園清水寺・地主神社、月の庭
  • 東本願寺
  • 西本願寺
  • 桂離宮
  • 対馬一宮・海神神社
  • 伊豆山(対馬・木坂山)

※太田道灌は、15代応神天皇根鳥皇子子孫の富士朝神官太田氏の可能性あり。

※※ここにもオワリの殿山がある。因みに日月神示は、尾張の仕組みについて『オワリの十のヤマ祀れ』という旨が記載されている(震え声)。








対馬には『厳原(イヅハラ)』という町があったが、2004年平成の大合併で5町と統合されて対馬市が誕生した。当地は対馬国府があった中心地であり、『厳原八幡神社』は対馬一宮を称していた。三韓征伐の折に神功皇后が清水山を行啓し、山頂の磐座にて天神地祇を祀る。後世677年(天武天皇6年)40代天武天皇の命により社殿を造営し八幡神を祀り、これが石清水八幡宮の起源となっているという。1281年『弘安の役』に先立ち、90代亀山天皇勅願により560名の持戒僧が石清水八幡宮にて必勝祈願をしている。やはり八幡神は軍神であり国防の要であったようだ。但し通説では、京都男山の石清水八幡宮は宇佐神宮の勧請といわれているので注意。




◯対馬一宮『厳原八幡神社』(長崎県対馬市厳原中村字清水山)

~御祭神~

  • 15代応神天皇
  • 神功皇后
  • 14代仲哀天皇
  • 姫大神
  • 武内宿彌



対馬には大きな八幡宮が二か所あり、これが上津八幡宮(海神神社)と下津八幡宮(厳原八幡神社)とされてきたが、現在は一般的に『海神神社』が一宮として周知されているようだ。一宮論社『海神神社』は、神功皇后が三韓征伐凱旋の折、新羅を征伐した証として旗八流を上県郡峰町に奉納した。のちにこの旗を伊豆山(別名・木坂山)に移して、木坂八幡宮を称した。後世16代仁徳天皇時代、日本へ攻め込んできた異国艦隊をこの御神霊が嵐で沈めたという伝説あり。



◯『海神神社』(長崎県対馬市峰町木坂)

〜主祭神〜

  • 豊玉姫命

〜配祀神〜

  • 彦火火出見命
  • 宗像神
  • 道主貴神(宗像三女神の別名)
  • 鵜茅草葺不合命

※江戸時代まで木坂八幡宮と称し、八幡神を祀っていた。



〜海神神社境内由緒書より〜

『神霊の鎮まる所を伊豆山という。イツ(稜・威厳)とは神霊を祀ることの意で、千古斧を入れない社は天然記念物の原生林、 いま「野鳥の森」として指定されている』

 

神道の専門用語みたいなもので、『稜威』『威』『厳』は不浄を許さないという意味。また『斎き(いつき)』とは心を清めて神事に尽くすことを意味している。瀬織津姫の別名と言われる、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、『つき』『いつ』を内包しており、これも神道のルーツを彷彿とさせる。穢を祓うための、厳粛なる伊豆神に由来しているのであろう…。

宮下文書に記載される熱海日金山(のちの伊豆山)とは、タマノオヤ妃イワナガヒメを伊豆大神として埋葬した陵墓を意味する。この夫婦の御子が、宮下文書版の宇佐美命であり、鈴木貞一氏の考察では、宇都志日金も同様ではないかと推測する。中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現 厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。

対馬の伊豆山…、もう間違いないでしょう。

八幡神は伊豆神(´(ェ)`)



ただ、現在の御祭神のトヨタマヒメはどういう経緯があるのだろうか?。一応調べてみた。

1870年(明治3年)から豊玉姫命を祀る。背景には対馬の母子神信仰があるという。対馬では、親神を里に、子神を過疎地に祀るパターンが多いようだ。この母子神信仰の着眼点から、豊玉姫命と鵜草葺不合命の母子が祀られるようになったようだ。周辺にはヒコホホデミ・トヨタマヒメを祀る『和多都美神社』の所在地が豊玉町である。しかし発足したのは戦後昭和30年であり、どことなく後付け感は拭えない。

個人的には、対元寇氏族少弐氏が崇敬した與止(よど)日女神社は、この海神神社の豊玉姫命かな???と睨んでいたのだが…。豊玉姫命は明治以降祀られたという記述が気になっており、與止日女神社も御祭神の変遷があった可能性は否めない。與止日女神社も雷山(富士山信仰?)を源流にしており、別当には文殊菩薩が信仰されている。伊豆神の可能性もありそうかなと…(後述)。



宮下文書版イワナガヒメ陵墓、熱海『日金山』のちの『伊豆山』。
安曇族祖・宇都志日金命はここから命名されたと思われる。






対馬の雷神の正体

 

◯『雷命神社』(長崎県対馬市厳原町大字阿連)

〜御祭神〜

  • 雷大臣命

 

対馬国・雷命神社式内論社、1874年(明治7年)村社に列し『八龍大明神』を称していたのを旧名に復した。雷大臣命は諸説あるが、神功皇后の審神者・中臣烏賊津使主(伊香津臣命)との説あり、子孫は対馬卜部氏は対馬県主家対馬県氏とされる。対馬では『霹靂(いかづち・へきれき)神社』等でたびたび見られる御祭神というが...。因みに、島根県大田市温泉津町湯里『霹靂(びゃくりゃく)神社』の御祭神は別雷命と玉依姫命である…。

ただし、対馬特有の天道信仰や水神信仰もあり、雷大臣命は男神水神であり、川の上に女神太陽神オヒデリ様が鎮座しているという説もある...。このように雷神+水神+日神を祀り、和合させることにより、里に豊饒がもたらされると信じられてきた。

これを聞いて、熊オッサンが直感的に思い出したのが、前述の佐賀県佐賀市大和町大字川上町『與止日女神社』の通称『川上さま』だ。弘安の役(1281年)において、巷では與止日女大神が元寇敵船を阻止したといわれている。熊オッサンの推定御先祖さま・対元寇氏族少弐氏が崇敬していた女神であり、大阪府内を流れる淀川の由来『與杼神社』(京都府京都市伏見区淀本町)の元宮に当たるのだ。

與止日女神社のある佐賀県嘉瀬川上流神水川を遡ると、富士町大字の地名がつづく。雷山『雷神社』には水・火・雷を司る水火雷電神であり、さらには日嗣の天孫ニニギが祀られているのだ。このように富士山信仰を彷彿とさせる『雷山』南斜面に、対馬国・雷命神社のシチュエーションが酷似している。

 

神道は御祖霊信仰を誤魔化すために、アニミズム的解釈を強いられてきた経緯がある。これは雨乞い信仰の部類であろう。

宮下文書における伊豆三嶋神カモサワヒメは、東国では相模国大山阿夫利神社の雨乞いの神としても知られる。この『雨降り』から『あふり』が転じて、『葵(あふひ)』となり、賀茂別雷命神社の葵神紋となった。葵紋徳川幕府は三河国加茂郡で賀茂神を祀る神官家系との説があり、奇しくも本貫地は、上地図にある伊豆山神社三嶋大社〜対馬レイライン上となる。空海や江戸幕府が、日光にて崇敬していた宗像三女神田心姫命と同神とみている。対馬と筑前雷山の雷神には、どことなくカモサワヒメのイメージが付き纏うのだ。

※宮下文書版カモサワヒメ=別雷命=三嶋神=寒川毘女命≒田心姫命?





また当地には、唐から帰還中の最澄が漂流したという説あり、『傳教大師入唐帰國着船之地』という石碑あり。

個人的には最澄と空海は、たった1〜2年の気まぐれな留学というよりは、当初から富士山鎮火の法術を取得するために入唐したのではないか?とみている。宮下文書では最澄も空海も、延暦噴火後に富士朝復旧活動として入麓しており多忙を極めていた。空海は太宰府で足止めされていたことになっているが、その時既に富士朝高天原鳥居地峠にて自作の仁王尊を安置して、二王門を創立していたハズである。

 

〜宮下文書、800年延暦噴火復旧活動〜

▲801年坂上田村麿と最澄、富士朝入麓

▲802年坂上田村麿、旧東海道復旧活動

▲807年坂上田村麿の空海、富士朝入麓

 

〜通説では〜

△最澄804年から唐へ、805年対馬雷命神社へ

△空海804年から唐へ、806年太宰府にて足止め

 

当時の政治家や宗教家たちは、どうやって祖霊富士山の噴火を封じ込めることができるか?討論に明け暮れていたのではないかと…。この国家の一大事に、二人が唐留学する心境になれるはずもなく、同じく坂上田村麿の東征も富士御祖霊を鎮魂させるために注力されていたハズだ。東国蝦夷でアテルイと戦っていた時間があったのかは疑問。後世にこれらの史実は大きく捻じ曲げられ、口封じされたとみる。

最澄は渡航途上、この『雷命神社』にて漂流していたことになっているが…、真相はどうだったのだろう?。この地は富士朝阿族のニニギ建国史にとっても因縁の地であり、富士山鎮魂のために鎮火水神祭祀が必要であったはずである。個人的には漂流ではなく、当初から富士朝雷神カモサワヒメによる鎮魂祭祀を目的にしていたと思われる。

宗像三女と祓戸四柱と伊豆権現、田村麿による富士延暦噴火鎮魂の大水神レイライン現る。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈レイラインの美学⑮〉最澄と空海と和気清麻呂、八幡神を巡る偉人たちのレイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!




◯『雷神社』(長崎県対馬市厳原町豆酘)

〜御祭神〜

  • 雷大臣命

対馬国、もう一つの雷命神社式内論社。地名の豆酘(つつ)も伊豆を彷彿とさせ、前述の中臣烏賊津使主が当初住んでいた場所とも云われている。つまり先の雷命神社の元宮的な存在なのかもしれない…。

対馬国豆酘の岩佐家は、亀卜伝義抄を継承する家系という。今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年祭に奉仕している。亀卜習俗の伝承は今日ではここのみとなった。








天河大弁財天の元宮?

このように、関西圏の有名社が九州や対馬に起因しているのは興味深いことだ。

九州佐賀県中央部には霊峰天山があり、周辺には天山神社が4社ほどある。佐賀県唐津市厳木町広瀬には、肥前三宮『天山神社』(肥前國三之宮・天河弁財天元宮)があり、各社に共通する御祭神は宗像三女神となる。地元では、天山神社上宮は奈良の天河大辨財天社の元宮との説がある…(詳細不明)。天山の北麓を天川川が流れ、それが下田ダムから厳木ダムへ流れ、厳木川となり、下宮へ注いでいる構図となる。厳木は『きゅうらぎ』と読むが、斎き(イツキ)とも読めそうだ。

一般的に、市杵島姫命=弁財天と同神とされている。ただ…京都府京都市右京区梅ケ畑『菖蒲谷池三島大弁財天』や、万葉集や吾妻鏡に登場する橘郷周辺にある茨城県小美玉市与沢『三島弁財天』のように、三嶋神カモサワヒメを弁財天とする信仰もありそうな気がするのだが…(妄想)。

 

上宮への登山口には鎮國之山銅碑があり、1889年(明治31年 )小城市出身の書家中林梧竹が、富士山頂富士山本宮浅間大社奥宮の鳥居脇に建造したが、落雷に遭い破損してしまったという。それを1967年(昭和42年)に、カルピスの創始者・三島海雲氏が上宮に複製?再建したという。三島海雲は、大阪府箕面市萱の浄土真宗『教学寺』の息子であった。

因みに、前記事で紹介した三島由紀夫。三嶋神を崇敬していた永井氏の末裔で、本名は平岡公威。伊豆の三島駅から雪化粧の富士山をぼんやり眺めていて決めたという。

 

三島と雷と富士山と偶然とは思えない…、ともに三島さんによる意味深なエピソードである…。

 

(´(ェ)`)








千代に八千代に…伊豆大神イワナガヒメの復活



前記事でもご紹介した、国歌『君が代』だが…。

よくよく読んでみると、やはり宇都志日金命の子孫アズミ族が、封じ込められたイワナガヒメの歴史を唄っているようにも思えてならない。礒=イワオとも読む。もしかしたら…八龍の森に住まう高礒比咩神は、イワナガヒメの可能性はないだろうか?。

 

『君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで』

 

君が代は

千代に八千代に(志賀海神社山誉め祭り神楽歌)

さざれ石の       (細石神社磐長姫命と八龍の森)

巌となりて       (高祖神社高礒比咩神)

苔のむすまで    (桜谷神社苔牟須売神)



また雷山〜細石神社〜金印公園へのレイライン、これも興味深いことがわかった。雷山神社にはニニギと八幡神が祀られている。細石神社にはコノハナサクヤヒメとイワナガヒメが祀られている。もし、この八幡神がイワナガヒメの夫タマノオヤであれば…、二組の夫妻を結ぶレイラインとなる。つまり、2つの天孫降臨伝承の夫妻が、安曇礒良らの拠点・志賀島にて金印発見に導いたようにも見えるわけだ(苦笑)。

1869年(明治2年)、のちの陸軍大臣・大山巌が、薩摩琵琶『蓬莱山』に謳われていたフレーズ『千代に八千代に〜』を気に入り、横浜に駐屯していた英国陸軍第十連隊第一楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンに曲をつけてもらった。しかし、そもそもこの歌の源流を辿ると、志賀海神社『山誉め祭り』の神楽歌に行き着くという。山誉め祭は海人アズミ族が海と山の豊穣を祈る祭り、どこか宮下文書版応神天皇の計画した山守と海守の計画を感じさせる祭りだ。



おおやま・いわお…

おおやま・いわお…

おおやま・いわお…(´(ェ)`)

これは偶然ではない。やはり糸島は富士朝オオヤマツミの娘イワナガヒメの地、宗像三女神イトウではないかと…。




伊豆山神社すぐ近く、崩落事故の現場(2021年8月撮影)

おわりに

ブログ内容の焦点がブレるので触れないでいたが…。

伊豆山神社は私にとって修行の場所だったのかもしれない…。楽しいことも、辛いこともあった。

行政の怠慢により、未だなんの解決もされない、崩落事故の復興をお祈りします。

非力ながら私にできることは、伊豆山伊豆大神イワナガヒメの歴史を解明できればと思っております。イワナガヒメが元気になれば、伊豆山の人々も元気になるでしょう。

 

土日返上でブログをしてきました。。。一応は2022年いっぱいまで週一ペースで堅持しようと目標にしてきましたが、熊オッサンも視力がガタ落ちで体力的にもつらく、所用もかなり溜まってまして。。。配信ペース落とさせてくださいm(__)m。

もう目がショボショボだよ~(´(ェ)`)

今後もよろしくお願いしますm(__)m。

 

今年最後の記事です。良いお年をm(__)m。

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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