セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈宗像三女③〉宗像三女神イトウ、やはり伊都国はイワナガヒメを祀る国だった。

京都市北区西賀茂角社町『大将軍神社』。
軍神イワナガヒメと家族神四柱を祀る。


2022,12,18

前回の続き記事。

宮下文書視点からの伊都国こと糸島市の天孫降臨伝承を検証してみる。

前記事のように、糸島市にニニギを祀る神社が多いのは既にわかっていた事なのだが...。さらに調査を深めると、もともと天孫降臨の候補地に挙がっていた土地のようなのだ。なんか…興味深い神社が、レイライン上に芋づる式で出てきた。

(´(ェ)`)

結論から言うと、伊都国は海人族アズミ族と関わりが深い国。宮下文書研究家・鈴木貞一氏が推測しているイワナガヒメ御子・宇都志日金命の末裔となるハズなのだ。宮下文書における天孫降臨の比定地は、もうここ以外無いんじゃないのか?と…。さらにこの地域の伝承がいまでも、後世の記紀や国歌『君が代』などに波及して、人知れずに後世の日本人の神道観に影響を与え続けているようだ。

~目次~

 

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

〈宗像三女①〉宗像三女神イトウ『善知鳥』は祓い神?、玄界灘に伊豆神がいる理由 - セキホツ熊の謎を追え!

〈宗像三女②〉天孫ニニギと親族三女神の関係、失ったコノハナサクヤの身代わり説?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 





伊都国比定、糸島市の歴史とは?

 

魏志倭人伝によると。

中国側の年号景初2年(西暦238年)の記載なので、日本側の年号では神功皇后摂政38年頃に相当する。大化の改新以前、怡土(いと)郡は伊覩縣が置かれ、仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順した。後世の日本書紀は、これを14代仲哀天皇の時代に比定しており、ここから卑弥呼=神功皇后説が有力視されてきているわけだ。

また大陸から使節団の倭国へのルートとして、狗邪韓国〜伊都国までは多くの研究者が一致している。末廬国=松浦(まつら)の湊付近とされ、壱岐島からの玄関口、現在の唐津市『田島神社』付近と思われる。この末廬国から陸を東南に500里?進んだ地に伊都国があったとされ、その足取りからも、伊都国=現在の糸島市と見做すのは自然なことだろう。ただし地図で見ればわかる通り、古代中国の一里はおおよそ400メートル強、松浦〜糸島まで陸路500里は記述的におかしいワケだが...。研究者を悩ませる土地でもある。

 



◯『伊覩(いと)神社』(福岡市西区周船寺)

〜御祭神〜

  • 瓊々杵尊
  • 木花開耶姫命

〜合祀〜

  • 伊覩県主

かつては主船司神社、松の木天子社、松木天神と称してきた。

 

もともとはニニギとコノハナサクヤヒメを祀る神社だったが、江戸時代に江戸時代に伊覩県主を合祀したという。この伊覩県主とは、14代仲哀天皇→神功皇后に仕えた人物で、神社の由緒書によると、周辺にある丸隅山古墳の被葬者と言われている。

『筑前国風土記』逸文では、仲哀天皇の筑紫親征の折に、勤し(伊蘇志=いそし)と出迎えて天皇から誉め讃えられた。それが転じて、後世の伊覩(いと)国になったと伝承されている。アメノヒボコwikipediaによると、この伊都県主の祖・五十跡手(いそて)は、高麗の意呂山から来たアメノヒボコ末裔を自称しているという。

このように、糸島周辺は古来から要衝として栄えており、この伊都国地域が神功皇后の影響下にあったのであれば、大陸への足がかりとしては適地になるであろう。

そして何より、神功皇后は富士朝信仰を重視していた人物である。

 




宮下文書版カモサワヒメ=別雷命=三嶋神=寒川毘女命≒田心姫命???。

 

 

 

伊都国、やはりイワナガヒメを祀る国だった。

 

前記事で推測したのは、伊都国=宇佐神宮イトウ神を祀る土地であったのではないか?と考察したのだが…。結論から言うと、やっぱり…イワナガヒメが関係している土地であった(苦笑)。

(´(ェ)`)



前記事を簡単にまとめると…、阿祖山太神宮2代目大宮司タマノオヤ・イワナガヒメ夫妻の子ウサミ(宇佐見命)が、伊豆半島伊東『イトウの宮』の出身であったと述べた。そして幼い富士朝神皇ヒコホホデミに代わって、タマノオヤ・ウサミが伊豆から西征し、最終的には豊の国に宇佐神宮原型が創建されたのではないか?と推測した。その証拠に、ホツマツタヱ版宇佐神宮には、宗像三女神イトウ神なる神が祀られていたのだ。この中の一柱は、ウサミの母神イワナガヒメではないかと妄想している訳だ…。鈴木貞一氏によると、宮下文書版の宇都志日金命(アズミ族祖神)はワダツミ系統ではなく、タマノオヤ・イワナガヒメの御子ではないかと推測している。それに反して富士山と伊豆国の歴史は、全国各地で悉く消されている現状がある。




◯『細石神社』(福岡市糸島市三雲)

〜御祭神〜

  • 磐長姫命
  • 木之花開耶姫命

 

神社周辺は、かつての伊都国の行政の中枢であり、弥生時代中期後半〜終末期の王墓や、三雲南小路遺跡・平原遺跡がある。天明年間(1781年~1789年)発掘された井原鑓溝遺跡の遺物から、将軍職の墓ではないかとされる。神社東200メートルほどには『八龍の森』があり、コノハナサクヤヒメの御子・ヒコホホデミの生誕地伝承がある。ただ現在は森の面影は一切なく、野原に木が一本残っているのみ、大変奇妙な光景となっている

さらに、周囲の神社配置状況が興味深い。

水火雷電神=ニニギを祀る、雷山『雷神社』の東北にある三雲地区。前述のように、三雲が伊都国の中心地であり、三嶋神・別雷命カモサワヒメの気配も感じるこの地域。そこに通説のニニギの妃であり、宮下文書版カモサワヒメの二子が並祀される格好だ。そもそも『雷山城』は地域の山岳信仰の要、雷山から井原山の間には『富士山944m』と『元富士山960m』というピークがある。さらに高祖山『怡土城』と雷山中腹『雷山城』は、伊都国平野部東と南で対をなす古代城であった。怡土城の築城目的は不明、ただ大宰大弐・吉備真備が築城しているところを見ると、対新羅対策といわれている。

もともと細石神社は伊都国中枢の大社であったと推察され、旧表記を『佐々禮石神社』と称した。『佐々』にイワナガヒメ(推定・伊豆の笹原姫命)を感じるのは私だけであろうか?。神社は、過去幾度となく戦火に見舞われ社殿を焼失しており、1578年(天正15年)豊臣秀吉による太閤検地により神田が没収され、規模縮小したという。

さらに高祖神社~八龍の森~宇美八幡宮が東西にレイラインとして横たわる(下地図)。このように、八龍の森をクロスポイントとして、糸島周辺には緻密なカラクリが仕掛けられているようだ。

 

※宇美八幡宮は糟屋郡宇美町と糸島市と二つあるので注意。どちらも古社。

▲糟屋郡宇美町・・・15代応神天皇誕生伝承

▲糸島市・・・・・・14代仲哀天皇崩御伝承




そして『漢委奴國王』の金印は、もともと細石神社に奉納されていたという説があるという。神社で奉納されていたものを江戸時代に流出させたというのだ。それがなぜか江戸時代に志賀島『志賀海神社』付近にて発見されたために、福岡藩主黒田家が収蔵して伝えられたものとされる。

 

なんと...、金印発見場所がレイラインになっている(苦笑)。

 

~志賀島・金印発見レイライン~

  • 志賀島・金印公園(金印発見場所)
  • 今津八大龍王神
  • 怡土城(いとじょう)大門口と第三望楼付近。
  • 染井神社(宮下文書版イワナガヒメ家族・熊野三神
  • 八龍の森(ヒコホホデミ生誕地伝承)
  • 細石神社(もともと金印があった場所)
  • 井原住吉神社(寺院密集地帯)
  • 雷山・雷神社中宮(水火雷電神=ニニギ
  • 雷山・雷神社上宮(水火雷電神=ニニギ
  • 福母八幡宮・古八幡宮(12代景行天皇・源頼朝関係地)

 

この二つの神社に何があったのかは不明。

ただ注目すべきは、この『志賀海神社』はイワナガヒメ子孫アズミ族が崇敬してきた神社でもあるのだ。宮下文書を読まない史家はこの点スルーしてしまうだろう。北西の原江付近の乙子の森には菟道稚皇子命が祀られる祠『乙子神社』があり、志加大神の御子が祀られるといわれ、志加大神は安曇磯良を指すとの説も在る。

 

 

※さらに...また熊オッサンのシンクロニシティか?。上記の佐賀県杵島郡大町福母八幡宮は、景行天皇・鎮西八郎為朝・源頼朝に所縁がある古社なのだが。。。熊オッサンの父方曾祖母が、日露戦争中に関係している神社かもしれない。祖父の優秀な兄の出生に関することだが、機会があればいつかお話しできるかもしれない。
(´(ェ)`)



ヒコホホデミとウサミ、さらにアズミ族。

 

ここでタマノオヤ・イワナガヒメとウサミの主君が、ヒコホホデミだったことを思い出してほしい。ニニギとタマノオヤは兄弟、ヒコホホデミとウサミは従兄弟同士の関係となる。宮下文書版イワナガヒメの夫タマノオヤと子ウサミ(宇佐見命)は、この幼いヒコホホデミに代わる将軍?職として西征していた。佐波国の穴門の宮こと周防一宮『玉祖神社』でタマノオヤが死去すると、富士朝ヒコホホデミ本陣が本格始動する。

ヒコホホデミは朝来留里の宮まで進軍し、行宮を粟鹿に置いた。これが但馬一宮または二宮を称する『粟鹿神社』の発祥である。ここからは前述の豊岡盆地『出石神社』の20キロ南南東、内陸部ではあるが円山川沿いにすぐに日本海へアクセスできるわけだ。この地に大本営を置き、従兄弟ウサミ軍と共闘して、1,500日で西南の諸々州国を平定している。

 

ここで鈴木貞一著『日本古代文書の謎』を紹介すると。

魏志倭人伝の邪馬台国比定地の結論として。記載されている行程日数が正確ではない、さらに記述順の地名が前後しているとし、投馬=但馬・伊都=出石(いずし)であるとしている。そして最終的には邪馬台国畿内説を推しているようだ。豊岡盆地の出石はかつて大きな入江『黄沼前海』となっており、伊豆志八前大神とアメノヒボコが祀られる出石神社があった。出石町には伊豆の地名に、ヒコホホデミを祀る箱根神社もある。そして…この交易ルートには伊豆神とアズミ族とアメノヒボコ勢力がチラついてくる。

ここに、糸島→但馬出石→畿内陸路のラインが浮き彫りとなる。縄文時代より玄界灘から畿内へ舟で入るには、瀬戸内海と共に、日本海経由で対馬海流にのり、但馬国『出石』から陸路が基本となっていたわけだ。ただ逆に帰路は、対馬海流と逆行を避けるため、陸路を活用したほうが便がよい。実際、当時このルートをよく活用していたのがアズミ族、通説では宇都志日金拆命子孫となる。宮下文書にて伊豆熱海の日金山で埋葬されている、伊豆大神イワナガヒメの御子と鈴木貞一氏は推測している。ここで、アズミ=熱海・アタ族で伊豆とが繋がる…。

こうしてみると神功皇后のバックボーンが明白になる。海人族アズミ族のネットワークに帰化人秦氏が集い、協調するのは当然の成り行きである。富士朝と断絶せざる得なくなった西国天皇勢力は、富士朝神道に精通している秦氏に但馬・筑紫・豊国、琵琶湖東岸の祭祀を任せた。後世の国家権力から全力で、アメノヒボコ子孫として隠蔽改竄されたわけである。全国アメノヒボコ勢力と富士朝客人勢力秦氏族の勢力圏には重複性がみられ、しかも何故か彼らは富士朝神や伊豆神を祀っているのだ(苦笑)。

アメノヒボコ勢力の何割かは秦氏ではないかと見ている。

 




◯『高祖神社』(福岡県糸島市高祖)

〜御祭神〜

  • 彦火々出見命
  • 玉依姫命
  • 息長足姫命 (神功皇后)

※古代の広大な怡土城(いとじょう)の比定地。


そのような背景を考えれば、この地に何故ヒコホホデミが祀られているのかも見えてくるだろう。前述のヒコホホデミ生誕地『八龍の森』には、毎年9月12日に同レイライン上東側『高祖神社』からの神輿が渡ってくる聖地であった。その御祭神からも、それがヒコホホデミであることは容易に想像がつくのだが…。ただ高祖神社は広大な怡土城(いとじょう)城内にあり、もともとの御祭神は女神であった可能性もあるという。『日本三代実録』には、877年(元慶元年)正六位高礒比賣神に従五位下を授くと記述されている。『高比咩神(たかすひめのかみ)』、磯という字はいわおの意味もあるという。さらには八龍の森=ヤマタノオロチを彷彿とさせ、前述のようにホツマツタヱ版ヤマタノオロチはイワナガヒメに転生したわけだ。

また、レイライン上反対側・西の福岡県糸島市川付『宇美八幡宮』も、どこかウサミを彷彿とさせる。全国に祀られている伊豆大神イワナガヒメや八龍の意味も、考え直す必要があるのではないかと…。







伊都国は、二つの天孫降臨伝承クロスポイント。

 

宮下文書に記載されたニニギ『外寇親征の役』。かつてこの玄界灘にて、国の行く末を決定づけた古代戦争があったことを知れば、なぜこの地域にニニギ・ヒコホホデミが祀られているのかはもう明白だろう。

そして伊都国からも連想されるイトウ、この地の中枢にイワナガヒメが祀られていることにも注目。宇佐神宮を信仰していた勢力、またはアズミ族が、イトウ神イワナガヒメを祀り始めたのではないだろうかと…?。さらにはニニギ・タマノオヤどちらの勢力もアマテラスの天孫なのだ。アメノオシホミミ・タクハタチヂヒメの八王子神。二つの天孫降臨伝承の接点があったことになる。

 

◯『桜谷神社』(福岡県糸島市志摩船越)

〜御祭神〜

  • 苔牟須売神(イワナガヒメと解釈される)
  • 木之花開耶姫命

※別名若宮神社、磐長姫命=苔牟須売神(コケムスメ)

 

 

~宮下文書二つの天孫降臨~

▲ニニギ・コノハナサクヤの『外寇親征の役』

▲タマノオヤ・イワナガヒメ『西征』伊豆からの熊野創建

 

 

厳密にいうと。。。ニニギが先の外寇親征の役にて衰弱してしまい再起不能になり、その御子ヒコホホデミも幼かった故に、タマノオヤとウサミ大宮司親子が代行となった感がある。本ブログでは、この阿祖太神宮二代目大宮司タマノオヤを元祖八幡神だとみているのだが…、その軍将の妃であったイワナガヒメは、軍神として祀られるケースが現代でも残っているのだ。そして後世に誕生したニギハヤヒ信仰は、尾張勢力ホノアカリと共に、このタマノオヤが内包されている気配もある。。。つまり糸島はこの二つの天孫降臨神話の接点だったのかもしれない。

しかし歴史改竄の過程において、タマノオヤは二代目富士朝大宮司であり、伊豆神であったことからも敬遠されたのではないだろうかと。その結果、神話として天孫の妃である姉イワナガヒメは選ばれず、妹コノハナサクヤは選ばれていった。イワナガヒメが何故選ばれなかったといえば、嫉妬深くて恐ろしいからと。。。いわゆるバナナ型神話の典型例のように語られてゆく始末だ。ましてや、国家を挙げて東国史を葬り去ろうという背景の中で、伊豆神が玄界灘に祀られている経緯を知られては、絶対的にマズイわけである。

ウガヤ朝創始には、九州の呼称である附地見島を『築市(ちくし)島』と改めたという。これが後世の宗像三女神イトウ『市杵島姫命』の、語源の一つなのではないかと推測する。あくまでも伊豆神の彼女は、ご当地の神として生まれ変わったのではないかと(妄想)。

 

 

 

 

ネット上にも、伊都国≒天孫降臨舞台説が溢れている。もちろん宮下文書の観点からみている人はほとんどいないようだが…。よもやニニギとコノハナサクヤヒメが、富士山から天孫降臨したとは夢にも思っていないようだが…(苦笑)。

高祖神社の東南の峰にクシフル岳(槵触之峯)と呼ばれている峰がある。古事記によると『筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降ります…』との記載があり。世間的には高千穂峰や、宮崎県西臼杵郡高千穂町『槵觸(くしふる)神社』がこの天孫降臨の聖蹟とされている。本来ならば、糸島に存在している訳がないのであろう。

また、志賀島・志賀海神社『山誉め祭』に伝わる神楽歌が、国家『君が代』と酷似していると話題になっている。


君が代

『君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで』

 

因みに君が代のオリジナル歌詞は、10世紀に編纂された『古今和歌集』巻七賀歌巻頭に登場する、作者不明の短歌であった。苔牟須売神(こけむすヒメ)、細石(さざれいし)、巌=礒(いわお)、などの地名や神名も、国歌『君が代』の彷彿とさせており、糸島の神道体系そのものが、後世の宗教観を国家のモデルとされた説がある。








もうそろそろ、邪馬台国論争に富士朝が出てきてもおかしくはない。

 

 

宮下文書には、邪馬台国や卑弥呼についての記述はない。

ただここで忘れてはならないのは、神功皇后と御子15代応神天皇は、富士朝回帰主義であった事だ。富士朝阿祖山太神宮を再興しようとした張本人なのである。神功皇后摂政三年六月、皇后は御祖霊など高天原歴代諸神皇の陵墓の荒廃消滅を畏れ、ツクヨミ72代孫(オオヤマツミ71代孫)、阿曽彦王の二子・阿志長彦命に勅命にて修繕させている。

また神功皇后摂政五十四年(西暦254年)、大山守皇子(宮下家祖)が富士朝へ派遣され。つづく応神天皇即位五甲午年(274年)、山守部に任命される。

宮下文書岩間本p273によると、これは海守部とは違う職種で、『国中の山を司ると共に、阿祖山太神宮の大宮司長となった』とあり。このような流れは、神代富士朝統治システムのオオヤマツミとオオワダツミを踏襲する、非常に古神道的な管掌を強く感じる。海守部は別にいたのではないか?と連想させる。

 

一方で記・紀は富士朝信仰を隠蔽する立場にあり、大山守皇子は山海之政に任命されており、『掌、山川林野』となったと記載されている。神道とは何ら関係ない。これは全国の山部・海部の一つの統領であり、国内の経済産業面の統括者を意味していると推測されているようだ。

 

だとしたら…『海守部』は誰なのか?、素人オッサンには難しい妄想だが…。神功皇后がこの伊都国や奴国に『王』を配置していた理由からも、何か推測できるかもしれない…(妄想)。魏志倭人伝の『王』が配置されていた地域は、伊都国・邪馬台国・狗奴国と限られており、とくに伊都国は大陸の監視的な役割が見られる。さらにこの国は女王(ここで言う卑弥呼?)に属していたという。

その中で有力国が伊都国で、イワナガヒメ御子・宇都志日金命の子孫アズミ族と、秦氏であった応神天皇の菟道稚皇子は、この和邇氏の宮主宅媛の御子なのも興味深い。後世の和邇氏は安曇氏の初期分岐氏族という説あり、ただ通説では皇別を称しているので注意。

 

宮下文書には、大山守皇子は徐福の子孫であることが明されており(三輪本現代語訳p249)、秦氏は富士朝客人勢力である。となれば…神功皇后の精神的支柱は富士朝御祖霊信仰であり、富士朝がチラついてきても矛盾しない。すなわち、邪馬台国論争の舞台に富士朝が出てきてもおかしくはないのである…。

京都市西京区松尾大社摂社『月讀神社』

何故、秦氏がオオヤマクイとツクヨミを祀るのか?
何故、そこに神功皇后の月延石があるのか?

 

また、あまり知られていないが…。金印は、1923年山梨県の山中湖村長池でも見つかっている。この地域は、富士山を目指して渡来した富士朝客人勢力秦氏の影響が強い地域なので、『秦氏の金印』とも呼ばれた。さらに、『市川郷一宮浅間神社』の近く、『鳥居原狐塚古墳』(山梨県西八代郡市川三郷町大塚)には、呉の年号・赤烏元年紀年銘の画文帯神獣鏡が出土している。

個人的に思うに、神功皇后は富士朝立て直しのために、国内外の影響力を富士朝へ集約しようとしたのではないだろうか?と。しかし山守・海守の計画は、16代仁徳天皇と武内宿彌により計画は反故にされた。その結果、宮下文書では国内は東西で分裂し、空白の4世紀『東西分治』の時代へと突入するわけだ。

 

 

…今のところは邪馬台国の所在地はわからない。ただ最近思うのが、『邪馬台国(やまたいこく)』というのは、『山大国(やまたいこく)』なんじゃないだろうかと…。

 

最後は半分冗談ですよ〜(´(ェ)`)

 

 

 

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