2022,12,11
前記事の宮下文書妄想考察の続き。
宮下文書には、祓戸四柱と宗像三女神は登場しない。しかし神道が富士朝御祖霊信仰を基本にしているなら...、当然、富士朝由来の女神の可能性が高いのではないかと...。
前回は、なんで伊豆神カモサワヒメが玄界灘に祀られる必要があるのかを考察したが…。今回は、なぜこの女神三神が並び祀られるようになったのかを考えてみよう。ま、もうお気付きの方もおられるかもしれないが、これには興味深い共通点が浮き彫りとなってくる。
実は…(´(ェ)`)
〜熊オッサンの予想〜
- 瀬織津姫命≒湍津姫命≒月桜田毘女命
- 速開都姫命≒田心姫命≒加茂沢毘女命
- 速佐須良命≒市杵島姫命≒岩長姫命
※月桜田毘女=ツクヨミ妃・オオヤマツミ母
※※宮下文書版カモサワヒメ=別雷命=寒川毘女命=三嶋神、オオヤマツミ妃、コトシロヌシ娘
※※※ホツマツタヱ版速佐須良姫命の転生=イワナガヒメ
〜宮下文書版コノハナサクヤ親族〜
- 月桜田毘女命(コノハナサクヤヒメ父方祖母)
- 加茂沢毘女命(コノハナサクヤヒメ実母)
- 岩長姫命 (コノハナサクヤヒメ実姉)
つまりオオヤマツミ系統であり、亡くなったコノハナサクヤヒメの親族なのだ…。宮下文書版ニニギは、天孫降臨比定の『外寇親征の役』中に、コノハナサクヤヒメを自殺で失っている。結論から言うと宗像三女神とは、亡くなったコノハナサクヤヒメの親族身代わりとして、禍事や穢を祓い、天孫ニニギを玄界灘で導いているようにもみえる…。
今回も、熊オッサンの妄想色がかなり強い記事なのでご了承を。
(´(ェ)`)
~目次~
- ニニギ外寇親征の役
- コノハナサクヤヒメは少女神だった?
- 火と水、ヒメヒコ信仰の背景?
- 縄文文化『言向和平』放棄から生まれた禍事?
- 神代後世、宗像三女神は剣と試行錯誤から生まれた。
- 新しい神の登場に、古来からの御神霊。
〈祓戸四柱①〉歴史の嘘がもたらした近江遷都と祓戸神、伊吹山・鳴門・剣山のレイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈祓戸四柱②〉史上最大の禍が必要とした祓戸神、淀川の三島神の役割。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈宗像三女①〉宗像三女神イトウ『善知鳥』は祓い神?、玄界灘に伊豆神がいる理由 - セキホツ熊の謎を追え!
ニニギ外寇親征の役
おさらいすると。
宮下文書三輪本現代訳p62・p174によると。ニニギ軍はサルタヒコを先陣として総勢一◯八千神(岩間本8,500神)、うち壱岐島と対馬奪還作戦に8,000神。当初の富士朝ニニギ軍は敗戦に敗戦を重ね、戦意喪失がつづいた。そこで国内四方の国々に改めて増員を求めると、28,000神(岩間本)が集結し、一気に士気が高まったという。
そんな中、壱岐島の守護者であったのが、コトシロヌシ長子の天之手長男命と手長比女命であった。壱岐島防衛の任にあった彼らは最初の犠牲者となり、敵大軍に残虐な殺され方をしたようだ…。それでも男女が共に共闘して最後まで戦ったわけで、ここにも火と水のしくみを垣間見ることになる(後述)。夫妻は今も壱岐一宮『天手長男神社』で1965年天手長比売神を本殿合祀、現在ではタヂカラオと混同されて祀られているようだ。
※すべての女性が参戦したとは記録されていない、ただ女性の参戦者が結構いたのではないかとみている…。
※※三輪本と岩間本は結構違いがあるので注意。
コノハナサクヤヒメは少女神だった?
宮下文書における年齢計算法は諸説あり、三輪本現代語訳『神皇紀』には二通りの記載があり(三輪本には◯を万、または千とする説がある。岩間本には三百日を一根と定め、一根は一年と定める)。こうして算出された当時のコノハナサクヤヒメの推定年齢は、34歳または10才となる。
この年齢に戸惑う方も多いとおもうのだが…。
この若さこそが、実父母オオヤマツミとカモサワヒメを心配たらしめた要因だったのかなと…。そして、わざわざ伊予愛媛まで様子を見に行こうとした重大さを考えれば、あり得る話なのかなと…。逆にいえば、34歳皇后を戦地まで見舞いに行く父母は少ないであろう…。宮下文書記述から推測するに、コノハナサクヤヒメの『木の花』とは、少女神を象徴する言葉ではないかと思うのだ。
〜クニサツチ時代の『簪(かんざし)』〜
…女神は又毛髪をまとめ藤の皮で結いかつその結い玉に木の皮を挿し、少女神は、木の花を挿すことを定められた。
宮下文書三輪本現代語訳『神皇紀』p45より
こうして、オオヤマツミとカモサワヒメは、娘コノハナサクヤヒメを励ましに西国激戦地へと旅立つ。しかし残念ながら、富士朝高天原から伊豆三島付近へ移動中に、カモサワヒメは病で急死している(享年243歳または46才)。その後オオヤマツミは伊予愛媛にて、コノハナサクヤヒメと再会するも、亡き妻を悼む思いから衰弱死してしまう(享年246歳または24才)。
ここで言えることは、24歳の父オオヤマツミが、34歳の娘コノハナサクヤヒメより年下で死去するわけがない。結局のところ、上記の選択肢からの消去法として、コノハナサクヤヒメ=『10才説』が一番説得力があるかなと…。いずれにしてもコノハナサクヤヒメがまだ幼かった故に、オオヤマツミもカモサワヒメも気が気でなかったのではないかと…。
火と水、ヒメヒコ信仰の背景?
では、なんでコノハナサクヤヒメは、こんな年齢で四国や九州への激戦区に出陣していったのか?。周囲の大人たちは止めなかったのだろうか?。
背景には当時の縄文文化として、神皇男神女神が連れ添うパートナーシップ、信仰上の役割分担があったのではないか?と思われる。その理由の一つとして、阿祖山太神宮から持ち出されたものが三品の御神宝であった。ニニギが叢雲の剣を持ち、八尺瓊勾玉を身につけ、コノハナサクヤヒメが鏡をもっていた。つまり互いに守護し、導き合っているような役割分担がみられるのだ。
〜外寇親征の役の奉持〜
▲ニニギ『心霊の御玉』と『叢雲の宝剣』
▲コノハナサクヤヒメ『内持所の御鏡』
妊娠していたコノハナサクヤヒメは鏡とともに後方に控えていたようだが、ニニギは彼女が臨月の玉体となったのをみて、誰の子か?という懐疑心を抱く。これに失望したコノハナサクヤヒメが、タカテルヒメとシタテルヒメと伴い急遽離脱して高天原へ帰還。宮守の宮の神殿に鏡を納めると、青木ヶ原の側火口?に飛込んで自害してしまう。
ここで神皇と皇后のバランスが崩れ、三品の御神宝『言向和平』が機能しなくなった。これがあとあと重要になってくるので注意(後述)。
ニニギは高天原からの急報に驚き、戦地を家臣たちに任せ、急遽高天原へ帰還することになった。高天原では、既にイシコリドメが火口から掘り当てており、ニニギはコノハナサクヤヒメの『御霊石』と対面することになる。ニニギは失意のうちに、それを阿祖山太神宮にて叢雲の宝剣と併せて奉り、あらためて必勝祈願をし直した。
縄文時代のパートナーシップを説明しておくと…。富士朝の男神と女神はペアとして祭祀されてきており、夫婦の絆を大切にしていた。これら日本のヒメヒコ文化、ヒコガミ・ヒメガミ並祀の原型であり、神道の基礎となったのは確かなようだ。特に歴代神皇は、ある意味『夫婦とはこうあるべき』という信念が強かったのではないだろうかと…。
例えば…阿祖山太神宮七廟、未婚を貫いたアマテラスを除くと、阿祖山太神宮七廟のほとんどがこのペアリング祭祀である。富士朝高天原の加茂山には、ツクヨミと月桜田毘女命と、その子夫妻オオヤマツミとカモサワヒメを山守大神として祭祀されていた。イザナギとイザナミは一日違いの崩御であり、仲睦まじい夫妻と称賛された。ヒコホホデミの時代も、トヨタマヒメが先立つ悲劇が起こっているが、彼はまたすぐにアメノコヤネ娘・石割毘女命と再婚している。
前述したコノハナサクヤの外祖父母コトシロヌシ・タカテルヒメ夫妻も運命を共にして自決した。外寇中の壱岐島、天之手長男命と手長比女命の最後まで連れ添った共闘も含めて、信仰上の美談とされ、語り継がれていたのであろう。
ただニニギの場合は、戦中ということもあり男神一人となり…、戦後も再婚する気はなかったようだ。神后不在の状態がつづいた。
そのために、後世の奉祀者たちが気を配り、コノハナサクヤヒメの代役たる水神女神たち祭祀を促したのかもしれない。具体的には、コノハナサクヤヒメ親族らを新しい女神『宗像三女神』に見立てた。それが彼女らに天皇家から期待された、新しい御役なのではないかと思うのだ…(妄想)。
<富士朝めぐり②>西国天皇勢力に奪われた太陽神、そもそも富士高天原は『火』と『水』の楽園だった。 - セキホツ熊の謎を追え!
縄文文化『言向和平』放棄から生まれた禍事?
ここで、三品の大御宝が関係してくる。前記事の三品の大御宝による言向和平活動をおさらいすると…。
宮下文書における『三品の大御宝』とは、簡単に言えば、咎人を裁く為の霊的装置だった。鏡で被疑者を写し己の姿を映し出す。さらに玉で御祖霊からの啓示を受け取る。その判定を本人に伝えて、神勅に従うか否か問いただす。従うものは寛大に処分し解放する、従わないものは神剣で処分した。この一連の作業を『言向和平』という。興味深いことに後世の日月神示にも、『人間が勝手に決めるな、ことあるごとに神に聞け…』という主旨の記述がある。
この提唱者の一人がスサノオであり、ニニギの外祖父となる。彼はスサノオの更生教育を受けており、この戦争においてもに三品の大御宝にて『言向和平』を貫くつもりだったようだ。
ところが実際の外国人との戦争では…、島国の一方的な価値観が通じようもなかった。史上初の対外戦争であり、敵も味方も死にもの狂い、恐怖と復讐心に煽られて話し合いどころではなかったのであろう。ニニギの苛立ちは最高潮に達して、襲いかかってくる敵を薙ぎ払うだけの惨状になっていた。コノハナサクヤヒメとのパートナーシップの亀裂の一因であったのかもしれない。
三輪本現代語訳p64や岩間本p54にも、敵も味方も残虐な描写を帯びてくる。ニニギやコノハナサクヤヒメたちが生き残るためには、島国の古来からの『和』の信仰から脱却する必要があったのだ。
〜岩間尹著『開闢神代暦代記』p54〜
上陸した敵軍には、弓攻め、石攻め、棒攻めにして、 火攻めにして焼き殺し、母船を失なった敵は、逃ぐるに道なく、全く皆殺しの運命を喫した。
〜同p56〜
この事を伝え聞いた 四方の国々の神々は、神都高天原に集り、口々に、神皇仁人木尊の不徳を訴え、喧々囂々として休むところなく、万の国々悉く大騒動となった。
〜同p57〜
神皇金山男命は、神后阿田比女の死去により生じた、禍事、災いを処理して、平静を取り戻し得 たので、神宝の宝司の玉、宝剣の叢雲の剣を、宮守の宮の内殿に納め、この度の大合戦に於ける、 神軍の勝利を、神祖神宗の前に、報告すると共に、論功行賞の御神示を仰ぎ、行賞をすると同時に国礎の充実を図った。
※神皇金山男命(ニニギ)
※※神后阿田比女(コノハナサクヤヒメ)
宮下文書では淡々とニニギの功績を讃えているが、コノハナサクヤ自殺のニュースは全土を駆け巡り、彼をさらに追い詰めた。史実的には大戦争でのPTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、まるで『穢』『禍事』『罪悪感』を背負わせられた形で衰弱死したようだ。これが言向和平を履行できなかった御祖霊の酬いなのか…、結局ニニギは気力を失い衰弱死を遂げている。戦争に勝てたとしても、その副産物である『禍』や『穢』がニニギを無気力に追い詰めた。
これが『和』を蔑ろにしたがゆえの禍事なのか?。
コノハナサクヤが生きていて、鏡が機能していれば、こんなことはなかったのだろうか?
後世の政治家や宗教家はこれを研究していたであろうし、実際恐れていた。外国勢力を殲滅させた天孫降臨ニニギを英霊として奉り、その栄光に肖りたいと思った事だろう。一方で、宮下文書から禍事・穢から皇家を守る対処法を研究していたハズである。
皮肉なことに『三品の御神宝』の本来のあり方、言向和平が現実的に不向きであることも証明されてしまった。こうして三品の御神宝は、『和』のシンボルから、単なる『統治』のシンボルに成り下がったのかもしれない。そもそも『和』の意味も、時代とともに変遷していった可能性はありそうだ。
様々な意味で、この国はターニングポイントを迎えていた。
<神社巡り>津島神社の牛頭天王と八王子権現の正体、等身大のスサノオとは? - セキホツ熊の謎を追え!
ウガヤ朝vs.富士朝、『津島神社』は信州出雲スサノオ子孫の平定シンボルだった。 - セキホツ熊の謎を追え!
宮下文書版『三品の御神宝』は2セットあった。熱田神宮の草薙剣の真偽とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!
※因みに。世間的に、静岡市清水区『興津(おきつ)』中町の地名が、福岡県の宗像三女神沖津宮の奥津島姫命(田心姫命)に由来しているといわれているが...、これは再考の余地あり。実は大山守皇子第6王子榛原須留賀彦の子孫に宮下氏族興津氏がいるのだ。つまり奥津島姫命の出身が、駿河国や富士朝宮下氏族に近いことを匂わせる。また静岡県内富士川西岸『蒲原(かんばら)』町も第6王子榛原須留賀彦子孫・蒲原氏の拠点であったと思われる。個人的には火神・竃神こと奥津姫命も富士朝神ではないかと感じている。
神代後世、宗像三女神は剣と試行錯誤から生まれた。
宗像三女神とは、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)の八王子神。記紀に記載される高天原から地に降りた天津神は、ニニギ一行と宗像三女神だけという。つまりは富士朝高天原の女神とも推測できる。
古事記によると…。アマテラスが、スサノオがたばさんでいる十拳剣を受け取り、瓊音ももゆら、天の真名井ですすぎ、口で噛みくだいて吐き出した。その破片から誕生したのが宗像三女神だという。これは三種神器と、玄界灘で行われた戦争の歴史を意味していそうだ。『瓊音(ぬなと)ももゆら』とは、玉の擬音と解釈される。個人的には暗に天孫ニニギ(瓊瓊杵尊)を示していると思われる。
日本書紀によると、天照大神により『天孫を助け奉り、天孫に祭られよ』、すなわち三女神が北九州玄界灘に下り、その地で皇室を助けて、皇室から厚く祀られよ、との神勅だったとのこと。天孫=ニニギとして捉えると、『玄界灘にて天孫ニニギをサポートして、導け』というような意味にも見える。前述のように、そのサポート役こそが、コノハナサクヤヒメの親族女神三柱と推測できるわけだ。
〜熊オッサンの予想〜
- 瀬織津姫命≒湍津姫命≒月桜田毘女命
- 速開都姫命≒田心姫命≒加茂沢毘女命
- 速佐須良命≒市杵島姫命≒岩長姫命
〜宮下文書版コノハナサクヤ親族〜
- 月桜田毘女命(コノハナサクヤヒメ父方祖母)
- 加茂沢毘女命(コノハナサクヤヒメ実母)
- 岩長姫命 (コノハナサクヤヒメ実姉)
※コノハナサクヤヒメ崩御の時点で、母カモサワヒメは病死、祖母月桜田毘女(享年350歳または54才)は生きていたか不明。姉イワナガヒメは存命していたであろうが、熱海伊豆山にて早世したと記載されている。
※宮下文書版タマノオヤはニニギの弟にあたる。
〜wikipedia宗像三女神・宗像大社〜
〈本文〉
- 沖津宮 - 田心姫
- 中津宮 - 湍津姫
- 辺津宮 - 市杵嶋姫
〈第一の一書〉
- 沖津宮 - 瀛津嶋姫
- 中津宮 - 湍津姫
- 辺津宮 - 田心姫
〈第二の一書〉
- 沖津宮 - 市杵嶋姫
- 中津宮 - 田心姫
- 辺津宮 - 湍津姫
〈第三の一書〉
- 沖津宮 - 瀛津嶋姫(市杵嶋姫の別名)
- 中津宮 - 湍津姫
- 辺津宮 - 田霧姫
〜ホツマツタヱ宗像三女神イトウ〜
- タケコ(奥津島姫)→滋賀県
- タキコ(江島姫) →神奈川県
- タナコ(市杵島姫)→九州・築市島?
〜宗像三女神別名〜
- 多岐都比売命=多岐津比売命=湍津姫命=高津姫神
- 多紀理毘売命=奥津島比売命=田心姫=田霧姫
- 市杵島姫命=市寸島比売命=中津島姫命=狭依毘売命
さらに、wikipedia宗像三女神によると。興味深いことに、上のように神名も祭祀場所もバラバラであったようだ。そもそもホツマツタヱ版宗像三女神イトウは、慈愛の心を知るために全国を巡礼しており、西国玄界灘に限定された女神ではなかったはずだ。
つまり新しい神々が成立させるに当たり、様々な研究や試行錯誤があり、その影響から混乱が生じていた可能性も見て取れる。宗像三女神の各々に神名が沢山あるのも、このあたりが原因かも…。結局三女神のうち、誰を誰に比定するのかは議論の余地はありそうだが...、試行錯誤が続いていたことへの裏付けにはなりそうだ(苦笑)。前記事で紹介した、静岡県『瀬織戸神社』には瀬織津姫=市杵島姫命という説もあるが、これも様々な混乱から生じた一説なのかもしれない。ただし、徳川幕府が日光二荒山神社で崇敬していた田心姫命は、高確率で葵神別雷命『カモサワヒメ』であると思えるのだが...。
徳川家康の二面性?、山王神道がミワとカモを祀る理由。 - セキホツ熊の謎を追え!
また、ここで個人的に思い出すのが、ホツマツタヱ神道体系における瀬織津姫と速開都姫との関係。ここでも奉持された三品の大御宝のイメージが付き纏う。これが三品の大御宝の意味合いの変遷とも解釈出来そうだ。
▲瀬織津姫 鏡を司る神
▲速開都姫 剣を司る神
さらに、ホツマツタヱ神道体系ニニギと宮下文書神道体系カモサワヒメの、二つの『別雷命』の接点ともなる。現在、全国の伊豆系神社摂社の御祭神に、ニニギやヒコホホデミを含むのはこのあたりが理由であろう。今でも『伊豆山神社』『板倉雷電総本宮』の雷電童子伝承や、全国『加茂神社』『雷神社』系列ではこの二柱が混同されて祀られている感が多々ある。これは天孫ニニギの穢や禍事を払うために、実質的には祓い神カモサワヒメを祀ることになっていたのか...?。
▲ホツマツタヱ版別雷命=ニニギ
▲宮下文書版別雷命=カモサワヒメ
いずれにせよ、宗像三女神を解くカギはニニギの天孫降臨『外寇親征の役』にありそうだ。
新しい神の登場に、古来からの御神霊。
戦線離脱して崩御したコノハナサクヤヒメに代わって、神皇ニニギを先導するために選ばれ、後世の天皇家までを守護する為の女神。歴史は改竄されても、実質的に古来からの富士朝御祖霊信仰をつづけていくために、この三柱が抜擢されたのではないかと…。
ただ、ホツマツタヱでは系図が複雑に改竄されているため、あくまで新しい女神として誕生させているのだろうか...。
今回も、熊オッサンの妄想色がかなり強い記事だと思う。
ただ、祓戸四柱と宗像三女神には、再考の余地も多いのはおわかり頂けたかなと。。。
(´(ェ)`)
こうしてみると、歴史が改竄されゆく過程においても…、神代創生からの大神を新しい神に内包することによって、御祖霊信仰上の『ご利益』は保証されるわけだ。ホツマツタヱが誕生させた新しい神々にも、実質的には富士朝御祖霊信仰を継続してゆくスタンスが見え隠れしている。
何となく6世紀以後の神仏習合や本地垂迹説に似ているかもしれない…。
このように仏教伝来までは、新しい神道の神を作って、そこに古代の御祖霊を内包させていたのではないだろうか?。結局のところ日本人は、神道にしろ仏教にしろ、ずーっと御祖霊遺伝子からは離れられないのだろう(苦笑)。
※おまけ
※地図はクラフトマップ使用。