セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

ウガヤ朝vs.富士朝、『津島神社』は信州出雲スサノオ子孫の平定シンボルだった。

長野県長野市鬼無里『鬼無里神社』、里から鬼が消えたという伝承がある。。。


2022,9,18

長いので、結論からいうと(苦笑)。

宮下文書によると。ウガヤフキアエズ朝時代、富士朝ホスセリ大宮司家4代目がウガヤ朝に対して神都復興のクーデターを起こした。計画は信州出雲スサノオ子孫により阻止されるも、東西にインパクトを与えた。

 

神皇vs.大宮司…。

 

人々は、いったいどちらを信じればよいのか…?。ウガヤフキアエズ朝と富士朝は、日本のおおよそ中間地点である尾張国津島に、『日本総社』を創建して、事件の幕引きを図ったようだ。この東西平定の神スサノオに肖ったのが、ヤマトタケルであった。

(´(ェ)`)

~目次~


<神社巡り>津島神社の牛頭天王と八王子権現の正体、等身大のスサノオとは? - セキホツ熊の謎を追え!

 

(補足)富士朝大宮司家の変遷

津島神社創建を説明する前に、富士朝の大宮司家について、簡単に補足しておくと…。

当ブログでは便宜上分かりやすくするため、一貫性をつけて『富士朝』と呼称してしまっているのだが…。正直、違和感も感じている(苦笑)。

アマテラスがどれだけの権限をもっていたのか?、ツクヨミとオオクニヌシとオオヤマツミとヱビスの立場も、宮下文書記述だけではイマイチ把握でき辛いのだ。その上、素人オッサンがボキャブラリー貧困なために、適当な呼称ができなかった。それでも当初は、『朝』と呼んでも良いだろう…。

 

〜宮下文書・神代の役職〜

  • アマテラス神皇
  • 左右大神は右大臣・左大臣(摂政家)
  • ツクヨミは政治的サポート役?
  • オオクニヌシが大神宮家?職業監督
  • オオヤマツミが富士山と全国山の管理
  • ヱビスが全国海の管理?職業監督
  • スサノオが警察+裁判官?

 

しかし、ウガヤフキアエズ朝以後、政治的機能はウガヤ神皇へ移管されてしまっており、『朝』と言えるものはない。

もともとは、日本政治と宗教の発祥地であり、御祖霊の墓所で…、ウガヤ朝以降は国家第一の祈願所、大宮司を世襲させてきた神道の総本家、神皇への御神託を預かってきた聖地。そして大宮司家は、世襲予定がなかったようで、オオクニヌシとタマノオヤは一代で終わっている。その後も何度か、系統別に交代している…。

 

〜阿祖山太神宮大宮司家の変遷〜

①オオクニヌシ(アマテラス時代初代のみ)

↓ニニギ時代まで。

②タマノオヤ(ヒコホホデミ時代二代目のみ)

↓ヒコホホデミ時代まで。

③ホスセリ子孫(クーデター失敗、3代で失脚)

↓ウガヤ3代まで。

④オオヤマツミ子孫(ウガヤ時代)

↓7代孝霊天皇時代まで。

⑤スサノオ子孫尾張田彦命(7代孝霊時代〜)

↓15代応神天皇時代まで。

⑥応神天皇子孫大山守皇子(宮下家誕生〜)

↓平安末期まで。

⑦清和源氏賀茂義綱子孫三浦氏(婿入り養子)






津島の前身、信州『出雲』の役割とは?



信州出雲の役割というのは、警察機構でもあり、裁判所であり、全国罪人の収監施設であった。ただその実態はよくわからず、『出雲』の名称も、いつの時代からか中国地方を指しているのではないか?という印象がある。

 

阿祖北(信州〜越〜飛騨の範囲)にあった出雲国出雲谷大洞穴に罪悪神を集め、監督しつつ説教説諭をさせた。

具体的には、善神に戻る意思のある罪人は放免させ、戻らないものは1000日ごと、その末三十日間に四方の天つ神や国つ神が集い、評決を下した。これを『天獄』と呼んだ。前記事のように、アマテラスはこれをスサノオに任せ、38代孫出雲祖海男命に至るまで継承させた。

性質的に考えれば…ごく当たり前なことなのだが、収監施設は人里から隔絶された山奥にあり、全国からのアクセスが難しい場所であったと想像する。そこに全国の天津神と国津神らが会議のために、わざわざ集結していたというのだ。後世の出雲大社で語られる、神々が『出雲の神在月』に集結するというのは、信州出雲が元ネタだと思われる。

ただ本当に、全国から神々が集結してきたのだろうか?。ウガヤフキアエズ朝のある霧島からのルートを考えれば、おそらく伊豆の『枯野』のような葦舟で、日本海の海流に乗り越国へ、そこから『出雲崎』を回り、大規模な干潟に入り、信濃川(千曲川)を上ったのだろう。しかし、航海は命がけであり、いくらなんでも信州は遠すぎた…。

歴史とともに、人々は効率性を重視してきたわけで、信州出雲も改善策を問われていたのではないかと思われる。具体的に言えば『奥宮』に対しての、アクセスのよい『里宮』を期待されていたのではないかと…。さらに罪人が増えれば、その効率化(分担軽減)が求められる。そしてウガヤフキアエズ時代、信州出雲『里宮』が、日本の中心地に実現される事になる。





ホスセリ子孫・富士朝大宮司家によるクーデター。

〜宮下文書ニニギ・コノハナサクヤ三皇子〜

  • 火照須命(海幸彦・甲斐国造家)
  • 火須勢理命(農幸彦・太神宮大宮司)
  • 火遠理命(山幸彦・神皇ヒコホホデミ)



 

今までも述べてきたが、ウガヤフキアエズ朝はあくまで政治的中枢であり、信仰的中枢はあくまで富士山、阿族の祖霊神『阿祖』を奉る富士朝・阿祖山太神宮であった。

ニニギの時代以降、大陸勢力からの攻勢を受けたことにより、九州遷都を決行する。ここに、神代富士朝で占星術をしていた天背男命が反対運動が起こした。天背男命曰く、『ウガヤ朝は、将来的に必ずや富士朝に仇なす存在となろう』と…。後世、富士朝回帰論者たちは、この天背男命を特別視して信仰してきたようだ。

富士朝とウガヤフキアエズ朝、富士山勢力と霧島山勢力は同胞である。しかし、距離を置けば互いのジレンマが生じることを、人々は見抜いていたのかもしれない。

常陸国佐竹氏と天香々背男命『天津甕星』の真相?、三毳山と星宮神社レイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

岩間本76ページ、三輪本現代訳81ページなどを要約すると…、時代は3代ウガヤフキアエズ時代。

即位65根(ウガヤ3代53年)、大宮司家ホスセリの子・稲田命に、大武知彦命と強力武命の兄弟がいた。因みにホスセリにもスサノオ遺伝子が入っており、宮下文書版稲田毘女はタクハタチヂヒメ母方に当たるので、その子孫が『稲田』を称してもおかしくはないだろう…。彼らは、本州東南(関東?)と中央部の神々を募って、神都復旧を画策していた。これ即ち、ウガヤフキアエズ朝に対する造反の動きである。

これを察知した信州出雲郎党50名程が独自に動いた。大雨暴風に乗じて高天原家基都の宮へ夜討ちを仕掛け、ホスセリ勢力の部族全員を撃ち殺した。

 

〜信州出雲スサノオ勢力、ホスセリ鎮圧〜

  • 素佐之男命の子孫(建知速日命の孫で、建御日受命の子)・建豊大勇命
  • 大力雄・強力雄・手力雄・足力雄

※首謀者は5名、協力者48名。




目的達成後、建豊大勇命は、速やかに高天原副司令・阿尾彌真命(大彌真男命)の館へ自首する。『たった今、ホスセリ大宮司家を殺害し壊滅させた、大宮司殺害の罪は免れないと…。如何様にも処罰は受ける』旨を陳情したという。高天原各司令は、協議の結果、伊志尾国尾治田へ建豊大勇命らを追放した。そのあと、処刑があったのかは不明。

この事件により、富士朝・高天原総司令官ホスセリ大宮司家が途絶えてしまった。後任は、オオヤマツミ5世孫阿尾彌真命を昇格させ、副司令に尾張国ホアカリの孫・源玉男命が就任した。


スサノオの子孫は忠義心に熱い部族であったようだ。これは、かつてのアマテラスを祖とするウガヤ神皇に対する恩情と、一族に伝承された出雲警察集団の正義感が為せる技だったのかもしれない。ウガヤフキアエズ朝から見ても、彼らの正義感に感謝したことであろう。こうしてウガヤフキアエズ33代・田仲雄男王尊の時代、スサノオ牛頭天王を主祭神とする津島神社が誕生する。

その後も歴代天皇のスサノオ部族への信頼感は厚く、7代孝霊天皇の時代には、スサノオ68世孫・尾羽張田彦命が、勅命にて富士朝宮守司長(大宮司)に任命される。オオヤマツミ系司長・熱都丹波彦命の7世孫・玉武男命副司長となる。この尾羽張田彦命は名称からして、分岐したスサノオ尾張系なのかもしれない。

信州出雲の地に...タケミナカタと八坂刀売命とは一体どこから来たのか? - セキホツ熊の謎を追え!








津島誕生。

前述したように、この事件はウガヤフキアエズ朝にとって、かなりショッキングな事件であった。さらに曖昧な解決と、人民の迷いは、ウガヤ朝にとっても政情不安を招く。

そこで、ウガヤ神皇は、この事件の解決を神に託した。四季島統治のちょうど中心地『尾張』にスサノオを祀り、祈りを捧げる拠点が必要とされたわけだ。

奇しくも、津島は富士山クニサツチと出雲大神宮クニトコタチ、四季島統治の2大巨頭を祀る聖地のレイライン上で、スサノオの東西バランサー的役割も見えてくるのだ。これが津島神社本来の、『日本総社』としてあるべき姿なのではないかと…。

ウガヤ朝も富士朝も、四季島統治以降の四方の国々、四方海々も、平穏無事に、騒動の収束を願ってのことであった。

 

〜富士山・出雲大神宮レイライン〜

  • 相模三宮比比多神社奥宮(トヨクムヌ・タマノオヤ)
  • 富士山
  • 逆川神社(瀬織津姫)
  • 津島神社
  • 賀茂別雷神社・降臨地『神山』
  • 愛宕山
  • 出雲大神宮・御蔭山磐座
  • 対馬一宮・厳原八幡宮




〜戸隠・津島レイライン〜

  • 越後・出雲崎(江戸幕府天領地)
  • 関山神社・妙高山里宮
  • 戸隠神社・奥社講堂跡
  • 鬼無里津島神社
  • 鬼無里神社
  • 鬼無里白髭神社
  • 瀬戸川神社(本州重心点から遷座)
  • 本州重心点(氷川三社レイライン交差点)
  • 若一王子神社
  • 穂高岳
  • 津島神社
  • 能褒野王塚古墳(日本武尊墓所)



スサノオ勢力の家系図がよくわからないのだが、スサノオ嫡流が信州出雲を継ぎ、その嫡流長子・祖出国男命に父祖の信州出雲の職務継がせ、彼の弟次子・武長刀毘古命を尾羽張国へ赴任させ、日本総社の官長とした。
その後、ウガヤフキアエズ朝33代・田仲雄男王尊の時代。スサノオ子孫である武長刀毘古命に勅命を出して、尾羽張人浜の出張島である、津島に宮殿『津島牛頭天王神社』を造営した。この神社を『日本総社』と呼んだ。

社前広場にて、東南の州国で法や政治に背いた罪悪神を集め、説教説諭をさせた。これを『日本総天獄』と呼んだ。出雲大社(信州出雲)を陰大社とし、津島の日本総社を陽総社とした。

陽総社にて、更生が認められない罪神は、陰大社へ収監され、四方より集まった天つ神、国つ神の 評決を受け、処刑された。つまりは東南の諸々州国の案件を、陰社と陽社で分担軽減し、効率化を図ったようだ。

 




柏は誓約(うけひ)の象徴。

話が多少ズレるが…。

津島神社拝殿手前に『柏樹社(柏宮、柏社)』があり、建速須佐之男命奇御魂が祀られている。ネットで調べた限り、この津島側の由来は全く不明であるが、柏樹というの阿祖山太神宮家の一つのシンボルでもあるのだ。上記のように、スサノオ子孫という大宮司家があったわけで、なにか富士朝と関係ある気がしてならない…(妄想)。

宮下文書三輪本現代語訳p173によると、神代アマテラスは、高天原宗廟太神宮の御神木の大柏木の下に、御祖を遥拝して、阿祖山太神宮の原型を創建したと記載されている。三輪本現代語訳によると、高天原宗廟太神宮の御神木の大柏木の下に、つまり富士朝の隠語とも捉えられる。

 

岩間本『開闢神代暦代記』p38によると。アマテラスとオオクニヌシに捕縛されたスサノオは…。

『大己貴命の道理を尽しての説論に、多加王も、重ね重ねの非礼を詫び、大日留女尊を姉と崇び、 恭順を誓った、其の印として、大柏の葉に手形を押して、尊に献じて誓約の証とした。これが、瑞穂国の最初の印形と伝えられるが、この印形は、太い木の炭を手の平に塗り、柏の大葉に押したものである。』

 

おそらくこれが、記紀における誓約(うけひ)の契りであろう。記紀が宮下文書を元ネタにしていることも想像できる。義弟としたのは、アマテラスに求婚させない意図もあると思われる。

また15代応神天皇が富士朝へ派遣した、大山守皇子(宮下家祖)・隼総別皇子・根鳥皇子の三兄弟は、この大柏木の下に並んで埋葬された。甲斐国風土記記載の『墳墓三基』とは、このことを指すとされる。また平安末期の副宮司家であり、清和源氏多田満仲6世孫・柏木伊予守義隆の『柏木氏』もこれに由来している。

その他、津島境内には富士朝の匂いを多く感じた。

 







愛知県津島市蛭間町西屋敷『逆川神社』、津島地区東で瀬織津姫命を祀る。





見えてきた、富士朝欠史のホントの理由。



前述のように、富士朝からウガヤフキアエズ朝が分離したが。しかし、それはあくまで条件付きであった。基本的に国体を動かす『神詔』は富士朝が司り、ウガヤフキアエズ神皇は政治を任されていた。

つまり大宮司からの神令にそぐわない神皇は、富士山御祖の『朝敵』『天敵』となる可能性があるというわけだ。当然人民らが、ウガヤ朝政策に不満があれば、国家第一の富士朝阿祖山太神宮が口を挟む可能性も孕んでいた。例えるなら…奈良時代769年の、和氣清麻呂『宇佐八幡宮神託事件』がイメージしやすい…。



ま、非常にデリケートな問題であり、研究者にとっても解釈が別れるところではあるが…。現に結果として、ホスセリ大宮司家によるクーデター騒動が、それを証明していたわけだ。クーデターといっても、それもあくまで、ウガヤフキアエズ神皇側からみた見解に過ぎないので注意。

 

神皇vs.大宮司…。

人々は、いったいどちらを信じればよいのか…?。ウガヤの信仰的拠点は、あくまで富士山御祖霊。その即位式と神令で選ばれた神皇が、率いるべきハズではなかったのか?と…。人々は動揺し、東西に禍根を残したとみる。皮肉なことに、ウガヤ遷都に反対した高天原の占星術師・天香背男の予言は的中していたようだ。。。

 

ウガヤフキアエズ朝にとって、人々の動揺は政情不安となる。ましてや『朝敵』を疑われれば、兵や家臣からの支持も失う。そしてこのウガヤフキアエズ朝51代の直系が天皇家。富士朝を鎮圧してきた歴史を、後世の歴史家から『朝敵』と指摘されるのもマズイ。

ならばいっその事、富士山信仰から脱却し、歴史を完膚なきまでに消してしまえと…。富士山御祖霊など、はじめから存在しない、『朕』こそが祖であり、全てであると主張し始めた。

 

天皇に許されたのは政治だけ…。

 

天皇側こそが朝敵であると。そのような人民の誤解・妄想・憶測を生むならば、富士朝御祖霊を欠史にしたほうがマシだったのかもしれない…。その代わり、御祖霊の祟りが怖いので、天満や火雷天神として、西国の価値観によって独自に祀り始めた。






これが…ヤマトタケル東征とどう関係あるの?。

 

そして…これが、西暦2世紀ヤマトタケルが東夷征討にて、熱田神宮『草薙の剣(叢雲の剣)』をもちだした最大の理由となる。

12代景行天皇やヤマトタケルにとって、富士朝に攻め込むことはやはり朝敵行為であり、『神殺し』をさせる家臣や兵たちをも動揺させた。さらには、御祖霊たちの祟りも気になっていたハズだ。だからこそ、尾張国でホスセリ大宮司家のクーデターを鎮圧したスサノオ大神に肖って、東征する必要性があった。富士朝神都復興を阻止したスサノオを奉ることで、打倒富士朝の大義名分を通したのである。

 

彼はホツマツタヱにおいて、スサノオの転生を自称していた。スサノオ由来の八剣の一つ『草薙の剣』を振りかざし、『神殺し』の神威を得た…。ホツマツタヱにおいて、武蔵国氷川神社を創建し、古事記では『科野の坂の神』を退治した。最後は尾張にもどり、まるで死地を指定されていた様に伊勢国能褒野にたどり着いた。

 

西国天皇勢力からしてみれば、熱田神宮草薙の剣は、富士朝を制御できる唯一無二の神剣なのかもしれない…。だとすると、現代における熱田神宮の役割も見えてくるのだ(妄想)。

熱田神宮記事へつづく。

 

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シルバーウィーク中はちょっと用事が出来まして、二週分おやすみさせていただきます。また後日、記事にてご報告できるかと思います。

m(_ _)m

 

 

 

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