2022,7,17
前記事では、尾張勢力と賀茂氏の重複を見てきたが。。。そもそも、尾張勢力による大和国の実績は、もっと評価されるべきではないか?と思うようになった。宮下文書によると神武天皇以前から大和国は尾張勢力が管理され、土地神や富士朝御祖神を祭祀し、彼らこそが大和国におけるパイオニアであった。即ち、もともとの大和国の実態を知るには、この上ない存在なのである。
ニニギより先駆けた、ニギハヤヒ別系統『天孫降臨』伝説とは...、神武東征より先駆けた、大和国における尾張勢力の事ではないのかと?。今回は、ウガヤ時代の尾張勢力の立ち位置から、大和国を再検証してみたい。
(´(ェ)`)
~目次~
- 大和国『みんなズレているご祖神さま信仰』
- そもそも、なんで大和国に尾張勢力がいたのか?。
- ウガヤフキアエズ朝と尾張国の強固な繋がり。
- ホノアカリ尊璽は、尾張開拓史の証。
- 葛城山麓『笛吹』に、なんで尾張勢力がいたのか?
<レイラインの美学⑱>甲斐御室山を指し示していたミワとカモ、三輪山と葛城山。 - セキホツ熊の謎を追え!
<神部レイライン②>尾張氏が大和国でカモ信仰をする、『伊都之尾羽張』の謎。 - セキホツ熊の謎を追え!
大和国『みんなズレているご祖神さま信仰』
まず、カモをおさらいすると。
一般的にカモ神とは、賀茂氏の御祖霊と言われているのだが…、それでは、宮下文書的には説明がつかない。
宮下文書では前記事で紹介したように、基本的に富士朝高天原『加茂山』とはツクヨミ夫妻の陵墓であり、オオヤマツミの家族に纏わる古代富士朝概念とみている。ただ、山城国賀茂神社のカモ神となると、欠史とされた富士朝〜ウガヤ朝時代の皇祖神母方となる。別雷命は富士朝時代外祖父、多摩夜里毘女(玉依姫の諡)はウガヤ朝時代外祖父を指す。とくにウガヤ妃は全51柱もおり、出自もバラバラとなるので、一系図として纏めることができるのは天皇家だけ。今のところ、皇祖神から強制除外され空白の時代とされた、富士朝ウガヤ朝の二大朝欠史鎮魂神としか、説明がつけられない状況だ。
明らかに、一豪族の身分を超えた高貴な御祖霊信仰であり、つまりはこれが地祇系とちがう、オオヤマツミ系が『天神』に分類された由縁なのかもしれない。
〜山城国カモ三神、宮下文書比定~
▲別雷命 (富士朝高天原天神七代)
▲多摩夜里毘女(ウガヤ朝妃全51代)
▲賀茂建角身命(宮下文書登場せず、不明?)
①宮下文書におけるカモ神比定
②通説におけるカモ神比定 (諸説あり、系図は平均的に纏めたもの)
ここで疑問が持ち上がってくる、カモ氏とは一体何だったのだろうかと…。
彼らの存在自体が、怪しいこともみえてくる。通説賀茂・鴨氏も、天神系と地祇系がおり、ミワでありカモでもある。宮下文書的には絶対ありえない系図であり、ホントに存在していたのだろうか?と首を傾げたくなる...。
賀茂氏だけではない。宮下文書を氏族解析していくと…豪族たちの歪みすら感じてしまう。西国の主要豪族たちは、それぞれ先祖かもわからない神々を、御祖霊として割り当てられていたのではないか?という疑念に変わる。
例えば、武人だからという理由で、ただ単に軍神を祀っていただけのパターンもある。習慣として祀っているうちに、祀る神々の正体がわからなくなって…、御祖霊と言うしかなくなったパターンもあるかもしれない。飛鳥時代の天下の藤原鎌足の子、中臣藤原物部麿なる人物でさえ認識していなかった。宮下文書的にそう書いてあるのだ。
もっといえば、ホツマ記紀は国の威信をかけて、歴史と系譜を大規模改竄したわけで…、各豪族の祖霊信仰を禁じられていた可能性すらある。天皇の下では、一律ご先祖さまのことは忘れろ…と。主要豪族たちの御祖たちは、天津神と国津神に木っ端微塵に再編成され、神道はいつしか、太陽信仰を軸としたアニミズム的要素に支配された。
〜宮下文書版阿祖山太神宮・初代奉祀者〜
▲オオクニヌシ大宮司…ミワ国津神系集合体?(三輪山)
▲オオヤマツミ副宮司…カモ天神系集合体?(葛城山・またの名を鴨山)
※宮下文書における天つ神とは天皇家のこと。国つ神とは右左両臣、藤原物部系統祖と蘇我大伴系統祖『祖家』のこと。
私がメチャクチャ言っているとお思いかもしれないが...(苦笑)、国家が先導して歴史や系図を改竄するとは、こういうことだ。むしろ、こうでもしなければ不可能だろう。
御祖霊たちを無きものにすれば、当然『祟り』がコワい。天皇にとっては、実務的な祭祀さえ継承してくれれば、家系図なんてあっても無くても同じなのだ。このように強制的な介入により、反対者を抑え、足並みを揃える必要性が出てくるハズだ。豪族たちはみんな、泣く泣く、富士山先住民ルーツとご先祖さまを手放した。
このような『国譲り』的大変動が、この時代にあったハズなのだ。
おそらくは、天皇家と富士朝との関係が形骸化していく10代崇神~12代景行時代以降、ミワとカモとは神系再編・淘汰の象徴だったのではないか?と。そこに、ミワでありカモであるオオタタネコの全体主義的な神道改革が始まったのだろうとみている。
まるでマトリックスの世界みたいな。。。(´(ェ)`)
〜みんなズレているご祖神さま信仰~
- 藤原氏のタケミカヅチ・フツヌシ信仰
- 三輪氏の大物主・スクナビコナ命信仰
- 尾張氏のカモ神信仰
- 賀茂氏のカモ神信仰・アジスキタカヒコネ信仰
- 物部氏のニギハヤヒ・ウマシマジ・石上神宮
※前記事で紹介した、尾張笛吹連の祖神・天香山命(改め高倉下命と称する)も、宮下文書版コトシロヌシの御子・天香護山命にあたるわけで、どちらかといえばカモ神。混同されている節がある。また同名別神として、オオクニヌシ57代孫三輪氏族・天香護山命がいる。つまりミワにもカモにも解釈できる。
また、宮下文書版神武天皇の伯父が高見香具山王命といい、東征時に相模国へ召喚の為派遣され、東国軍を召喚している。また、高天原にて必勝祈願を執り行っている。
今回は特に…。ホノアカリ子孫尾張勢力が、大和国にて、火雷天神やカモ神を信仰している実態について考えてみたい。ここでは、賀茂氏族が宮下文書的にとても曖昧な存在であることを憶えておいていただきたい(後述)。
<驚愕>蘇我蝦夷が自殺前に燃やしたものは、宮下文書コピー本だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!
そもそも、なんで大和国に尾張勢力がいたのか?。
ココから大和国・尾張勢力のお話に入るが。。。
まず、宮下文書版尾張氏というのは、ヤマトタケルと美夜受媛の御子・長田王の子孫のこと。つまり男系天皇家と女系ホノアカリ。一般的に、ヤマトタケル男系であることは伏せられており、男系ホノアカリ子孫とこの先混同が予想されるので、ここでは便宜上『尾張勢力』とさせていただく。
(´(ェ)`)
前記事、大和国と尾張国の歴史をおさらいすると。
もともと大和+尾張+伊勢国は同国、富士朝配下の一つの大きな管轄区域であった。大物主命とスクナビコナ統治時代を経て、ウガヤフキアエズ朝時代にホノアカリ尾張勢力に移管された。尾張国は本州の高天原先住民の第3極一大拠点であり、神武朝以前に大和国を開拓したのは、東から来た尾張勢力なのだ。これが、神武東征直前まで続いていたハズである。
ニギハヤヒ天孫降臨で有名なイカルガ峰にはホノアカリの御神体の弓矢を祀り、『本島中国の主』として尾張勢力が大和国を開拓・管理してきた。富士朝信仰をこの地域で繁栄させ、祭祀を育んできた。ここからもホノアカリとニギハヤヒの重複がみえてくる。
現在みられる大和国カモ信仰(富士朝+ウガヤ朝信仰)に、尾張氏の影響力がチラつくのはこの為だろう。いわば、尾張勢力は大和国における祭祀の先達であり、エキスパート集団であった。神武以降、朝廷は彼らのこの経緯を評価して、古代からの富士朝祭祀権をある程度任せて、継続させていたのではないだろうか…。つか...そもそも彼らは、『カモ氏族』とかいう詳細不明グループよりも、圧倒的に古い存在となる。
さらに武人としても優れていた。
神武東征の折、ホノアカリ50世孫の東海口元帥・尾羽張明照雄命は、副師・タケミカヅチ55世孫・日田地武勇命と、賊の総大将・眞佐勝彦命と副将禍津亘理彦命を比叡山にて撃破。東征後の論功行賞では、尾羽張と三川(三河)の国造を賜る。 皮肉なことに尾張勢力は、欠史されたウガヤフキアエズ時代の功績を差し引いても、余りある実績評価を受けていた。
しかし、後世のホツマツタヱや記紀の史観では、神代〜ウガヤフキアエズ朝時代が大々的に欠史にされたわけだ。ホツマ記紀的にみれば、神武天皇東征以前にこの地域が、既に配下の尾張勢力のテリトリーであることは都合が悪い。これら尾張勢力の先達性を消し去らねば、新しい神武東征説の辻褄が合わなくなる。
このように、全51代のウガヤフキアエズ朝およそ2600年間?の歴史をごっそり欠史にしてしまったがゆえ、あちらこちらで大弊害が生まれた。家系図は嘘にウソを重ね修復不可能、もうメチャクチャである…。この弊害を埋めるために誕生したのが、新生ミワ氏とカモ氏ではないかと。
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ウガヤフキアエズ朝と尾張国の強固な繋がり。
神代から振り返ると、ニニギ時代の『外寇親征の役』を発端に、大陸からの賊軍襲来が頻発しており、富士朝を守るための九州における前線的警戒が必要となった。こうして高天原ヒコホホデミ朝が、富士高天原の政治機能を遷都させ、霧島山高千穂峰を奉るウガヤフキアエズ朝を誕生させた。宮下文書によると、後世の神武天皇が諱『神日本磐余彦火火出見天皇』とされ、ヒコホホデミを襲名したのは時代の節目を象徴する出来事だった。
~宮下文書時代区分~
①富士朝・高天原世天神七代(ヒコホホデミまで)
↓
②ウガヤフキアエズ朝全51代
↓
③神武天皇大和国時代(神武から)
〜富士朝ヒコホホデミ御子三兄弟〜
- 一子・鵜茅葺不合尊(九州ウガヤ朝・皇家の祖)
- ニ子・天別天之火明命(尾張一宮・眞清田神社)
- 三子・若武毘古命(若狭一宮・若狭彦神社)
※若武毘古命こそが、丹波国元伊勢『籠神社』海部氏祖でないかと見ている。彼らは丹波国豊受大神信仰のエキスパートであり、兄ホノアカリ系統と混同、またはスリ替えられているようだ。いつか別記事にしたい。
尾張エリアの特別な役割といえば…。
地形的に言えば、本州本島の中心地であり、警察+裁判機構の信州出雲里宮・日本総社『津島』もこのウガヤ時代に創建された。神代から司法・軍事拠点的な要素が強く、全国的な影響力も強かったとみられる。だからこそ...、ウガヤフキアエズ朝と富士朝の中間地点『尾羽張(おはばり)』を中継地の要所と位置づけ、ウガヤ皇弟ホノアカリに任せたといえる。
例えばウガヤ時代、二代目ウガヤフキアエズ朝神皇に就任予定で、皇位継承のための富士朝詣を目指していた皇太子・奈加尾王命と従者36名が、渡航中水死した大惨事があった。訃報は、尾羽張国造・尾羽張彦によりウガヤ朝側へ即座に伝達されており、尾張国とウガヤ朝のネットワークが確立されていたようにも見える。また3代ウガヤ神皇・阿蘇豊王尊の皇后にはホノアカリ御女・佐登鈴毘女命を入内させ、諱・三代目多摩夜里毘女を襲名している。
さらに、ウガヤ3代の同時代、ホスセリ孫・大武知彦と強力武命の兄弟以下48名が、ウガヤ朝から富士朝復興し神都を高天原へ取り戻そうと計画した。実質このクーデターを、スサノオ子孫・建豊大勇命ら僅か5名が急襲・鎮圧した。首謀犯らは、高天原から伊志尾国尾治田の津島に追放された。
後世、ウガヤ33代・田仲雄男王尊の勅命にて、津島に『日本総天獄』が創建される。併設神社を『日本総社』として、神代からの信州出雲機能を継承させた。これが後世の牛頭八王子権現『津島神社』の誕生であり、尾張勢力に政治犯の監視を任せていた実態である。
このように、もともと九州ウガヤ朝と尾張勢力の絆は強かった。そこにウガヤ勢力・神武天皇たちが東征したわけで、当然彼らは、中部日本地域のホノアカリ勢力への絶大な信頼を持っていた。
ホノアカリ尊璽は、尾張開拓史の証。
ウガヤ朝発足から約2600年以上経つと、海外からの大陸系漂流部族が、本島内陸部まで住み着いてしまっていた。正直、これは時代の潮流だったのだろう…。少なくとも、ウガヤ朝神都の存在意義を根底から脅かすターニングポイントとなった。
三輪本現代訳『神皇紀』では、当初51代ウガヤ神皇の皇太子であった海津彦五瀬王命(神武天皇の兄)が、敵軍ナガスネヒコ勢力と遭遇したときのエピソードがある。
ナガスネヒコは、中国地方出雲の白木人・禍津亘理彦が、皇家親族・眞佐勝彦命を奉じて台頭してきた渡来系勢力。関西圏ではナガスネヒコが、中国地方出雲勢力と結託していた長髄彦が、大河山・山表・山背・木山・泉津の国令たちが農賊兵たちに殺させ、実効支配していた。彼らは、尾張国火明命の遠孫・富明彦主命を偽って、九州のウガヤ朝神皇勢力に戦いを挑んできた。
前略して。。。五瀬王命が賊軍側に問いかける。
賊の頭はこれに答えて、『畏れ多くも我が総大将は天照皇大日霊尊の玄孫の天別火明命の遠孫にあたる富明彦主命であられ本島中国の主であらせられるぞ』と叫んで盗んだ弓矢を誇示した。
皇太子はこれを見て告げた。『あれは哮峰(イカルガノミネ)に祀り置いた火明命の御神体ではないか、ならば試しにこの弓矢を射返すが、それが本当ならば的中しないであろう』と弓矢をつがえた。(宮下文書三輪本現代訳神皇紀p106引用)
このとき皇太子により放たれた矢が、白木人ナガスネヒコの息子・長髄足(ナガスネタル)に命中して戦死、ナガスネヒコが大激怒して猛攻開始…。こうしてウガヤ朝皇太子五瀬王が横死され、神武東征の幕開けとなった。結果的には、戦後ウガヤフキアエズ神都の見直し論が噴出し、ホノアカリ勢力先達の拠点である大和国遷都へと繋がるわけだ。
※因みに、このイカルガ峰が、尾張ホノアカリ勢力の最西端にあたる、宮下文書版『川地(かわち)国』国境であった。後世の河内国河上哮ヶ峯に比定されるとみる。宮下文書にはニギハヤヒは登場せず。
※三輪本現代訳解説では、白木人を新羅人(朝鮮系)と訳すのは時代背景的にズレていると注釈もしている。漠然と朝鮮半島からの人々を指していたのかもしれない。
葛城山麓『笛吹』に、なんで尾張勢力がいたのか?
結論から言うと、葛城山は鴨山ともいわれ、神代ホノアカリ統治時代から富士朝祭祀の聖地であったと思われる。オオヤマツミ・コトシロヌシ・カモサワヒメら系天神を祀る霊山で、国津神系オオクニヌシを祀る三輪山と対を成していたのではないだろうか???。ホノアカリにとってのオオヤマツミとカモサワヒメは、曾祖父母にあたる。
奇しくも、賀茂氏族と尾張勢力笛吹連が、この同じ笛吹連『高尾張邑』を拠点として共通点が見られるのは興味深い。通説では神武天皇がこの地にやってきた頃、この地域には土蜘蛛と呼ばれる勢力がいた。それを葛(かずら)の編みで退治したことから『葛城』と称した。
鴨氏なる氏族は、発祥地『高鴨神社』(上鴨社)からの葛城川流域を、『葛城御歳神社』(中鴨社)、『鴨都波神社』(下鴨社)へと北上してきた。しかし、鴨都波神社の御祭神コトシロヌシは櫛羅(葛城山)から水害で流れてきたとの説もあるようだ。そしてオオタタネコ孫・大賀茂都美命が創建し、三輪山大神神社の『別宮』と称されてきた。
さらには、2代綏靖天皇がこの地に皇居『葛城高丘宮(葛城高岡宮)』を定めた。彼の母親は媛蹈鞴五十鈴媛命。通説によると、日本書紀コトシロヌシ(カモ)または古事記大物主命(ミワ)の娘とされている。宮下文書における媛蹈鞴五十鈴媛命は、ウガヤ51代の同母弟・高座日多命の娘。神武天皇とは従兄妹同志の婚姻関係であり、ミワ氏ともカモ氏とも関係ない。
お気づきだろうか?、あちらこちらでミワでもカモでも解釈できるようになっている(笑)。おそらくは後世の10代崇神時代ホツマ以降による歴史改竄であろうが、ミワとカモの強制的な合体・融合が、あちらこちらで確認できるわけだ。個人的に考えるに、尾張勢力の大和国の痕跡が、カモ氏族とたまたま被るだけでない…、大和国全体が不自然に淘汰されている現状もあるのだと。このあたりの見極めが、今後の大和国研究の大いなる課題と思われる。
~10代崇神時代以降、大和国の二極化の流れ~
▼尾張勢力統治時代に、もともと大和国にあったとされる富士朝に準じた祭祀。
▲ミワとカモの不自然な再編・淘汰の波がやってくる。新しい神道。
①大和国
②甲斐国
※このレイラインは甲斐国『神部神社』と大和との両国『笛吹』を結ぶ関係でもある。
ミワとカモを超強引に繋げたレイラインでもある。こうみるとオオタタネコや子孫・神部氏族が、『新しい神道』で何をしようとしていたのか、なんとなくだがわかるような気もするのだ。
◯『葛城天神社』(奈良県御所市櫛羅)
〜御祭神〜
- 国常立命(天神始祖として祀る)
※カモ氏祖・賀茂建角身命の神跡『鴨山』
◯『葛木坐火雷神社』(奈良県葛城市笛吹)
〜御祭神~
- 火雷大神
- 天香山命(宮下文書版コトシロヌシ御子)
〜配祀~
- 大日霊貴尊
- 高皇産霊尊
- 天津彦火瓊瓊杵尊
- 伊古比都幣命
※別名『笛吹神社』、尾張氏族笛吹連の祖である『建多析命(タケタオリ)』の墓所説あり。
ここで注目すべきは、天香山命(宮下文書版コトシロヌシの御子)などの祭祀を、全然関係がない尾張勢力が継承した様になっていることだ。通説では、天香山命は尾張氏祖となり、それはこの土地の先達的な祭祀を尾張勢力が一任されていたからではないかとみている。前記事で、タケツノミとタケタオリが名前が似ていると、半分冗談で述べたが…、案外ありうるのかなと…(妄想)。
葛城山の麓のにある『葛城坐火雷神社』は、タケタオリの墓所。一方、葛城山『葛城天神社』は『天神の森』ともいい、加茂(鴨)氏の祖賀茂建角身命の神跡とも伝えられ、古代祭祀場ともいわれる。私には二柱のシルエットがダブって見えるのだ。
前述のように、神武東征で活躍したホノアカリ50世孫の東海口元帥・尾羽張明照雄命は、尾羽張と三川(三河)を領したわけだ。彼らの痕跡である美濃国や尾張国には、賀茂明神の神領や関係地が多い。ここから、後世のオオタタネコ同族?の可能性も否定できない、徳川家康も登場するわけだが…。そして彼はミワとカモの統合の象徴?、オオクニヌシと田心姫命、『日光二荒山神社』を崇敬していたわけだ。。。
尾張勢力なくして現代の神道は語れない、現在までも大和国とカモ・ミワ信仰に多大な影響力を与えてきたのは確かだろう。
※地図はクラフトマップ使用。