セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<神社めぐり>熱田神宮・田光八幡社・高座結御子神社、日本武尊の長田王を探せ!

愛知県名古屋市熱田区神宮『熱田神宮』


2022,10,16

前記事でお伝えしてきたが、このブログでは『尾張氏』の正体を疑っており、ホノアカリ勢力とかホノアカリ系尾張氏と区別してきた。その理由とは、宮下文書版ヤマトタケルの御子・長田王子孫の存在である。宮下文書によると、ヤマトタケル東征のあと、尊と美夜受姫の間には『長田王』なる御子がいて、13代成務天皇の勅令により熱田神宮を創建したと記載されている。そして尾羽張姓と源太夫を継いだと明記されているのだ。

 

これをネットで調べてみたが、情報は一切なし。宮下文書を未読の方は、この別パラレルから飛来してきた素人オッサンは、一体なにを言ってるんだ?…と思われるだろう(苦笑)。

簡単に言えば、まだ尾張国の何処かに、この長田王系子孫『尾張氏』が潜んでいるのではないか?と。その存在が源頼朝の母方を通じて、鎌倉幕府成立と富士朝再興にも絡んでいる可能性あり。このあたり注意深く見ていかないと、熱田神宮も尾張史も永久に解明できない…。それまでは、尾張氏族(仮)は曖昧と言わざる得ない

(´(ェ)`)

 

今回は、熱田神宮・田光八幡社・高座結御子神社と、長田王と関係ありそうな3つの神社をピックアップして妄想考察していきたい。

 

~目次~

宮下文書版『三品の御神宝』は2セットあった。熱田神宮の草薙剣の真偽とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

『熱田神宮』を創建した長田王子孫は、何処へ消えた?



111年(景行41年)、尾張に7日間滞在していたヤマトタケルは、いよいよ最後の訪問地『伊吹山』へと旅立つ。その際、美夜受媛に草薙の宝剣を授け、『これを私と思いなさい』と言い残したという。翌年5月5日(おそらく旧暦)、美夜受媛が尊の御子を分娩し、『長田王』と命名された。奇しくも5月5日は、崇神天皇が定めた富士朝阿祖山太神宮の大祭である。また高天原シンボルを『阿田都山』ともいい、コノハナサクヤヒメの別名?は『阿田都毘女尊』とも記されている。熱田神宮と関係あるかは不明だが…、ヤマトタケル東征の富士朝拠点とされた宮下文書版『坂下(サカオリ)の宮』は、東阿田都山の南加茂坂に建てられたという。





◯『熱田神宮』(愛知県名古屋市熱田区神宮)

〜主祭神〜

  • 熱田大神(御神体・草薙神剣またの名を叢雲の剣

 

〜相殿神〜

  • 天照大神
  • 素盞嗚尊
  • 日本武尊
  • 宮簀媛命(宮下文書版・美夜受媛命)
  • 建稲種命(ホノアカリ子孫・美夜受媛兄)

 

〜別宮〜

  • 八剣宮

 

〜摂社〜

  • 一之御前神社(天照大神荒魂)ほか

 

〜末社〜

  • 東八百萬社(東国坐八百萬神)
  • 西八百萬社(西国坐八百萬神)ほか





137年3月(成務7年)、建稲種命の長子、小止與命が尾羽張国造に任命される。同年六月、13代成務天皇勅命にて、小止與命に高岡の長田を埋め立て、宮殿を造営させた。草薙の宝剣と日本武尊の神霊を合祀し『熱田神宮』と号す。もともと熱田神宮や高座結御子神社の比定地は、海岸線が近づいており、伊勢湾内に突き出した半島であった。

 

〜神奈川徐福研究会・宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p190〜。

『夏の熱い日に田を埋立て建てた宮であるということから、熱田大神と命名された。 日本武尊の死後に生まれた御子である長田王が、宮守司長に任じられ、尾羽張という姓と、源大夫という官名を贈られた。これにより小止與命は、姓を尾羽張から一の宮に改め、官命も源大夫から記大夫と改め、そして真清田大神の宮守司長に任じられた。』

(以上、阿祖記、大山祗記、人皇記、神代記、熱田記、真清田記、雲切如来記、 不二日記)

 

▲ヤマトタケル御子・長田王『尾羽張姓』

▲ホノアカリ子孫『尾羽張姓』→真清田神社宮司『一宮姓』

 

前述のように、史上『長田王』なる人物は何人かいたようだが、ヤマトタケル御子『長田王』の存在は、全く知られていない。世間的には、ホノアカリ系統・尾張宿彌の後裔が、拠点を真清田から熱田に移し、熱田神宮大宮司を代々務めたとされている。このヤマトタケル男系+ホノアカリ女系の長田王家系がどれだけ続いたのかも不明。その後、尾張氏がホノアカリ子孫や、藤原南家の藤原季範系宮司家にすり替わっている可能性も否定できない。





『平安末期まで熱田大宮司家だった』説?

ヒントは…。宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p256によると、平安後期(1161年前後?)48代宮下記太夫政仁が、熱田大宮司尾張源太夫忠住の七女を娶っている。48代政仁は尾張源太夫国住に相談の上、長女春子を三浦義顕の長男源甚吾重成の嫁として、清和源氏系『宮下家』を継がせている。これが長田王系尾張氏なのか?、それともホノアカリ系尾張氏なのか?は記載がない。ただ『源太夫』と官名もあるし、富士朝との交流背景を考えれば、長田王系尾張氏と考えるのが自然ではないか?とみている。つまり、平安時代末期まで長田王系尾張氏は、正統なる熱田大宮司家であった可能性あり…。

となると、源頼朝の母・由良御前には、長田王系尾張氏の遺伝子が入っているのか?…。

※宮下文書では、藤原南家・藤原季範系大宮司家の記載がない。

 

このあたりは残念ながら、熊オッサンの妄想の域はでないが…。

仮説をたてれば、平安時代末期の富士朝再興を成し遂げた源義朝・頼朝と、東国氏族との強固な関係は、尾張も絡んで構築された可能性あり。鎌倉時代までには、既に出来上がっていた可能性もある。さらに大庭御厨奪還作戦などで、源義朝は富士朝+東国氏族の大きな支持基盤を持っていた。このときの頼朝の母方・由良御前(通説では藤原季範の娘)も、長田王系尾張氏の仮冒の可能性は十分ありそうだ…。

※西国天皇勢力は、富士朝と清和源氏の強固な結びつきを恐れていた節もあり。56代清和天皇と富士朝は良好な関係であった。貞観噴火で焼失した、富士朝七廟中の三座を復興し、正一位一幣を授け官社に復興させた。おそらく、天皇が早期退位させられた間接的理由かもしれない。

※※例えるならば…、宮下文書における富士山表本宮大宮浅間神社(浅間大社)の大宮司家富士氏。隼総別皇子29代孫・福地又八良宗晴の息子・大宮麿の男系子孫であり、和邇部豊麿・娘の婿入りの仮冒であった。

※※※また、一般的にヤマトタケル御子といわれる、息長田別王とはまた別人物なのだろうか?。宮下文書には息長田別王は登場しない(調査中)。








愛知県名古屋市瑞穂区『田光八幡社』



『田光八幡社』の大碓と小碓。

前記事から述べているように...。熊オッサンの母方祖父が、出羽小野寺氏族黒沢氏の可能性あり、身元不明永井姓の祖母と結婚していた…。さらにその祖先・山内首藤氏を辿ると、このホノアカリ系尾張氏族・守部氏に辿り着くという(諸説あり)。実はなんと…、熱田神宮『草薙の剣』の祭祀にも関係していた。ここで紹介する『田光八幡社』は、その守部氏族が創建したという神社。

一応、ご先祖さまの可能性がゼロではないので、熊オッサン的にも必見の神社であった。住宅街の高台に巨木が並ぶ、清々しい神社。境内にある、弘法大師の植えたという楠木の袂に白龍神が祀られている。そしてここから2キロほど西側にある熱田神宮まで、湾が入り組んでいたとは...。いまでは見る影も無い光景である。



◯『田光八幡社』(名古屋市瑞穂区大喜新町)

〜御祭神〜

  • 大帯比売命(神功皇后)
  • 誉田別命(15代応神天皇)
  • 仁徳天皇(15代応神天皇の御子)

 

〜境内〜

  • 別宮白龍社
  • 白山社
  • 八劍社
  • 黒龍社
  • 稲荷社

 

782年(延暦元年)、熱田神宮神官である守部公彦正が創建。かつて熱田神宮の間には、現在の新堀川に沿って湾が入り組んでおり、熱田神宮の遙拝所であった可能性あり。神宮寺や高座宮とともに、熱田神宮関連の神事が行われていた。

Wikipedia守部氏によると、守部宿禰は尾張氏と同祖で、日本書紀版ホノアカリ男系子孫とされる。熱田神宮大内人(供御を司る官人)を代々務めていたという。

しかし、境内由緒書を要約すると。第十二代景行天皇には双子の皇子がおり、兄を大碓命、弟は小碓命(ヤマトタケル)という。大碓命の御子・押黒之弟日子王、さらにその御子・牟宜都守が守部氏の祖という。

飛鳥時代686年(朱鳥元年)、初代・守部宿彌孫谷が、熱田神宮社職として西一海士郡司兼祭主正祝詞司大内人に任命された。その子孫が代々、正六位熱田神宮大内人として明治四年までの1200年間ほど奉仕した。熱田神宮縁起には、草薙剱神事における御受取の奉迎使として仕えていた。平安時代の延久年間、19代彦正が八幡社を勧請し『田光八幡社』を創建した。

 



〜12代景行天皇の双子御子〜

▲小碓命(ヤマトタケル)

▲大碓命(ヤマトタケル双子の兄)

※宮下文書には大碓命は登場しない。

※※ホツマツタヱには、ヲウスとして登場。景行天皇の妃候補・姉妹遠子を横取りして、天皇から絶縁される。

※※※大碓命は兄比売・弟比売を娶り、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王(守君の祖)を儲けた。



ともかく、ビックリした…。

なんじゃあああ、これは?(´(ェ)`)

つまり…、尾張氏族守部氏祖って、ホノアカリ系統じゃなくて、12代景行天皇御子・大碓命なの???。守部氏って複数あるのか?といろいろ混乱しつつ、ネット上で調べてみたのだが…。どうやらこの社伝オンリーの情報らしい。ただし、ここは熱田神宮の関係社、草薙剣神事においては実根の関係なので、無下には出来ないソースだろう。

ここで、前述の宮下文書情報とすり合わせて、情報を整理してみると。そもそも尾張氏族の情報が撹乱され、すり替えられている節がある。大碓命は宮下文書には登場しない。だとしたら、誰かしらの附会にされている可能性もある。上記の大碓命のプロフィールをみても、不自然なほど『兄』『弟』『姉妹』を絡めて、家族テーマを強調している節がある。もしかしたら…、小碓命『長田王』派生氏族の可能性はないのだろうか?と…(調査中)。

いずれにせよ、東西の複雑な利権に挟まれた、尾張国を象徴している伝承ではないかと。隠さなければならなかったことも多かったのだろう。





愛知県名古屋市熱田区高蔵町『高座結御子神社』




『高座結御子神社』の高倉下命とは?。



高座結御子(たかくらむすびみこ)神社とは。

wikipediaによると、『続日本後紀』では社名の『御子』が『熱田大神御児神』と明記されているという。個人的に感じたのが、これこそ宮下文書版ヤマトタケルの御子、長田王は関係ないのだろうか?と…。しかし、現在の御祭神は高座下命、尾張国造り・尾張氏祖といわれている。



◯『高座結御子神社』

〜御祭神〜

  • 高倉下(たかくらじ)命

※熱田神宮境外摂社(熱田七社)であり、古くから草薙の剣祭祀に関係していた。創建は不詳だが、40代天武天皇時代または熱田神宮同期ともいう。1571年(元亀2年)、この年に『比叡山焼き討ち』をした織田信長による本殿造営と寄進があった。織田信長はよく無神論者といわれているが、『津島神社』を信仰していたりと、スサノオ信仰や富士朝御祖霊を理解していたようにも見えてくる。



高倉下命Wikipediaによると、神武東征の折にタカミムスビとアマテラスの霊夢をみて、タケミカヅチの神剣『布都御魂』を授かる。これを神武天皇に渡し、熊野の大熊(化熊)を退治することに成功したという。通説では、尾張国造祖で、ニギハヤヒの御子と解釈されている。この『御子』とは、ニギハヤヒ御子を祀る神社として、周知されてしまっているわけだ。前記事のように、尾張氏と物部氏とニギハヤヒは無関係、一緒に考えると大混乱に陥るので注意。

(´(ェ)`)

 

 

 

 

『高座結御子』の比定を、宮下文書で探してみよう!。

今回は、この『高座御子』の比定候補を、宮下文書から探しだしてみる…。宮下文書には記載されておらず。ただそれに近い人物は存在する…。高座と書いて『たかくら』と読ませている点にも注目したい。尾張名所図会には『高蔵(たかくら)宮』とされており、14代仲哀天皇や13代成務天皇が祀られているとの説もあり。時代により、御祭神の変遷または混同を感じさせる。

 

~『高座結御子』の比定候補~

①高倉王命(神武天皇・弟の高倉日本王命)

②高座日多命(先代51代・弥真都男王尊の弟)

③天津高倉命(大物主命御子)

④長田王(ヤマトタケル御子)前述参照

⑤天香護山命(コトシロヌシ系)前記事参照

⑥天香護山命(三輪氏系)前記事参照

※天香護山命は二柱、同名別神なので注意。



①高倉王命説?

宮下文書版・高倉王命は神武東征で活躍した皇族で、51代ウガヤ神皇の6子。4子・日高佐野王命(神武天皇)の皇弟にあたる。先代ウガヤ51代・弥真都男王尊が巡幸中に、ナガスネヒコの攻撃により横死された。そのあと、この高倉王命が富士朝勅使となり、兄・日高佐野王へ神皇宣旨を伝え、正式に皇太子となる。同時に、高倉王命が武佐志(武蔵国)より軍船を手引し、伊勢崎(伊勢国)『多気の宮』へ集結させた。

 

このように神武東征では、富士朝+東国軍の多くの援軍を求めていた。その中でホノアカリ50世孫・尾羽張明照雄命と、タケミカヅチ53世孫・日田地武勇命、フツヌシ53世孫・富佐地香取雄命らの東国勢力が、日栄山(比叡山)にて敵大将・眞佐勝彦命と副将・禍津亘理彦命を撃破、大勝利を収めた。同書には明言されていないが、このときの功績が、『布都御魂』伝承として後世大和国でも語り継がれているとみる。

 

宮下文書においてのニニギ右臣・大物主命子孫の『武部(モノノベ)』たち(藤原物部系統)が祀っていたのは、蘇我系統タケミカヅチとフツヌシは軍神であった。大和国の藤原氏族は、春日神を祖霊ではなく、富士朝軍神として祀っていたわけだ。また、物部氏が石上神宮で、軍神『布都御魂大神』を祭祀していたのも同じ理由であろう。

※因みに、布都御魂を祀る石上神宮摂社『出雲建雄神社』も似たような反対の状況だ。出雲建雄神は八握剣の神気の御名として、草薙剣荒魂(旧名天叢雲剣)、熱田明神と同神として祀られる。出雲建雄神の御正体は、高確率で信州出雲スサノオ勢力。布都御魂と叢雲の剣(草薙の剣)の共通項は、富士朝由来となる(後述)。

霊剣布都御魂は、現在『石上神宮』の御神神としても祀られており、このあたりから、物部祖神=尾張国造祖ニギハヤヒ御子として曲解されたと推測する。宮下文書版尾張国祖は、もともとの大物主大神(武部=モノノベ)であり、藤原氏物部氏の同祖となる。尾張=物部祖神ホノアカリとも混同された理由にもなりそうだ…。

※※『先代旧事本紀』巻5天孫本紀では、尾張連らの祖・天香語山命とされている。宮下文書では、天香語山命=三輪氏族系またはコトシロヌシ息子の同名別神であり、尾張氏とは全くの別系統神と言わざる得ない。

 



②高座日多命説?

通説では、全く知られていない御神霊。おそらく通説の、高倉下命=高座日多命ではないかと見ている。51代・弥真都男王尊の弟であり、神武天皇の伯父にあたる。戦地に赴く神武の代理、富士朝勅使として、高天原神祖神宗の天つ大御神に国賊退治の祈願をしていた。阿祖山太神宮にて、タカミムスビとアマテラスに祈願したところ、建雷命の身につけていた『布都の神剣』を授けられたとのこと。前述の通説、高倉下命の霊夢(夢のお告げ)に酷似している点に注目。

また『八咫烏を皇軍の指揮者とする』との富士朝神託を伝えたという。神武天皇らは、始め、その意味が理解できず戸惑っていたようだが…。ふと陣中頭上を見上げると、数羽の烏?が頭上に留まっており、これを見た皇軍はたちまち士気を上げたという。

 

その他にも、神武東征の活躍が評価され、論功行賞では大和・山背、川地(河内)の国造となり、武田(猛田)大県主として重要なポジションを占めた。あくまで、個人的に思っていることなのだが…。これって、通説の賀茂建角身命や賀茂氏族と関係ないのだろうか?と…(妄想)。賀茂氏にはいくつかの系統があるが、賀茂県主としてタカミムスビや天神末裔を自称している。現代も山城一宮・賀茂別雷神社には、秘密結社ヤタガラス?の拠点との噂があり…、皇室を守護している団体があるそうなのだ。因みに宮下文書三輪本現代訳には、賀茂別雷神社は登場するが、賀茂建角身命や賀茂氏族は一切登場しない。

神代ホノアカリ尾張氏族による開拓地、大和国『高尾張』邑の葛城山に、現在カモ神を祀られているのも辻褄があう。おそらくは高尾張邑『葛城高丘宮』近くに祀られていた神だから、高龗神(たかおかみ)なのではないかと(妄想)。

 

※因みに関係はあるかは不明だが…。『高座』というのは、かつて富士朝ではタカミムスビを祀っていたとされる。山梨県南都留郡忍野村内野『高座(たかざす)山』と関係ありそうな気がする。阿祖太太神宮南、現在の『鳥居峠』近く。

富士山絶景を遥拝できる、山梨県南都留郡と富士吉田市の境目『高座山』。
現在は神社・祠などは特に無かった。。。





 

③天津高倉命説?

尾張国祖神・大物主命の嫡男。前記事の通り、宮下文書版尾張国は、ホノアカリがやってくる前まで、大物主命の統治下であった。天津高倉命は彼の嫡男であり、後世の左右大神右臣・藤原物部系統の祖神となっているハズだ。つまり、本来の尾張国としては、もっとも相応しい御神霊なのかもしれない。

通説では、後世の平安時代後期に、熱田宮司家のホノアカリ系尾張氏が、霊夢により藤原南家・季範に譲るという事件が起こる。両勢力さまざま揉めた経緯があるようだ。しかし根本的には、大物主命の系統が支配していた土地なわけで、宮下文書的には大物主命子孫=藤原氏なわけで…、理にかなっている面もある。ホノアカリ系尾張氏も、藤原宮司家に納得せざる得ない部分もあったのかなと…。落とし所として、両勢力は婚姻関係を結び、男系藤原季範・女系ホノアカリ系となり、その娘が由良御前(源頼朝の実母)となる。

ただし前述のように、この事件は宮下文書には記載がく、熱田大宮司家自体の大規模な仮冒が疑われる。



まとめ

このように高座結御子神社を解析すると、様々な要素が結びつき、現在の『草薙の剣』信仰に置き換えられている気もするのだ。本来の御神霊は、もっと熱田神剣『草薙の剣』に近い存在ではなかったかと…。

また、前記事から述べているように、皇別神氏族は皇位継承権のリベンジを訴える可能性から、危険視されることが多い。高座日多命も歴史的にその名を抹消されてしまったのだろう。ましてや、皇別タマノオヤやヤマトタケルは、富士朝大宮司家の利害関係に直結する神々である。熱田神宮の大宮司が、ヤマトタケル子孫であったことは、天皇家にとってかなり都合が悪かったのではないだろうか?。

さらに時代背景的に、40代天武天皇が見え隠れしている点にも注目すべきかと…。ご存知、天武天皇は尾張国や美濃国不破を、再起の拠点として壬申の乱(672年)で勝利した人物。その後、記紀の編纂を命じて、歴史大改竄を断行した張本人である。この前後に『草薙剣盗難事件(668年)』『鬼無里東京遷都計画(684年?)』が起こっており、彼が何かしら尾張・信州・スサノオ史改竄に関与していた可能性はある。残念ながら、宮下文書では空白とされている時代でもあるので、調査は難航するだろうが。。。(調査中)。

 

いまもどこかで、長田王子孫は他の氏族にすり替えられているとみている。

(´(ェ)`)

 

 

 

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