セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

宮下文書版『三品の御神宝』は2セットあった。熱田神宮の草薙剣の真偽とは?。

 

 


2022,10,9

今回は、宮下文書における三種の神器、『三品の御神宝』について説明したい。熱田神宮創建にも深く関わる内容だ。

今までは、三種の神器が『倣って…作製せよ』とされたと紹介してきたわけだが…。結論から言うと…宮下文書における三品の御神宝は複製が作られた上で、オリジナルが伊勢神宮から熱田神宮へ遷されている可能性が高いことが分かった。

ただし、草薙剣盗難事件や源平合戦などで、すり替わっている可能性もある。残念ながら、宮下文書で所在確認が取れるのは、137年(成務7年)5月5日熱田神宮創建までとなる。

(´(ェ)`)

~目次~

 

 

通説でも、複製『形代』は認められている。

一般的には、草薙の剣=叢雲の剣といわれている。宮下文書三輪本現代訳や岩間本の解釈では、10代崇神天皇が三種の神器のオリジナルを『倣って…作製せよ』としたものであり、複製を強制した可能性が高い。本書が歴史家からタブー視されている、大きな理由の一つであろう。この三品は、完成したのち皇城(宮中)の奥御殿『眞神殿』にて奉られた。

 

注目すべきは…、オリジナルの三品の大御宝の所在の流れである。三輪本現代訳神皇紀には以下のように続く。

『神代より代々伝えられる三品の大御宝は、大和国笠縫の里にある天照皇太神宮の新宮に納め鎮め、以って同太神宮の御神霊と崇めさせられた。』

これは日本書紀垂仁天皇段『倭笠縫邑』の地に比定される。10代崇神天皇の孫、倭姫命が天照大御神を、磯城神籬を立てて宮中の外に祀ったとあり、これが大神神社から1キロほど北、大神神社境外摂社『檜原神社』と言われている。江戸時代までは『日原神社』とよばれており、藤原氏族同様に、『原』というのは富士山別名『ハラミ山』の隠語とみられる。いわば元伊勢のスタート地点である。



さらに、これが…。

『垂仁天皇二十五年(BC五)、勅命して天照皇太神宮を大和国より、伊瀬国 (伊志、後改伊勢)に遷宮された …(中略)。

特に詔命を以って、伊瀬国渡會原五十鈴川上の陵墓(神武天皇の父)の東南の前地を面し、新たに太神宮の御神殿を造営させようとした。ここに至って、ついに大和国の里に鎮まります天照皇太神宮の神霊である三品の大御宝を、伊瀬の新宮に遷宮させられた。 皇女倭姫命を宮守護並びに祭祀の司長に任じられた。』

wikipedia三種の神器によると、10代崇神時代に草薙剣の『形代』が造られ、宮中の本来の神剣は笠縫宮→伊勢神宮に御遷されたといわれる。つまり『剣』『鏡』に限っては形代として、通説でも複製が認められている。これを皇位継承の証として所持することが、正統たる帝の証なのだそうだ。ちなみにレプリカといってはいけないそうだ。。。

 

ここまで宮下文書記載をまとめると…。

①三品の大御宝→笠縫天照皇太神宮後に伊勢へ

②新三品大御宝→宮中『眞神殿』へ

つまり西国天皇勢力へ…、富士朝から奪った挙げ句、2セット持っていた。崇神時代に、複製は作っているものの、本物とされる三品の大御宝も、大和国→伊勢神宮へ渡っている可能性もある。 

 

いやいや…(´(ェ)`)。

だったら...なんで本物を、富士朝から奪う必要があったのか???。…はじめから複製すればよいだけの話だろう(苦笑)。

宮下文書研究家加茂喜三氏『富士王朝の滅亡』によると、権力の象徴が、富士朝にあること自体が都合が悪かったとのこと。10代崇神天皇の本当の目的は、様々な口実をつけて、富士朝と三品の大御宝を分断することであったという。このあたり、注意深く追っていかないと…、どっちが本物か分からなくなってしまう。







『草薙の剣』が何故『八劍』なのか?。

もともと延喜式では、熱田神社一座と記載されており、草薙の剣のみを祀っていた神社といわれる。現在では境内本宮の離れに、別宮『八劍宮』が創建されており、現在の周辺にも、この信仰下にあると見られる同名社『八劍神社』が愛知県内に多く点在している。

◯『熱田神宮』(愛知県名古屋市熱田区神宮)

〜主祭神〜

  • 熱田大神(御神体・草薙神剣またの名を叢雲の剣)

 

〜相殿神〜

  • 天照大神
  • 素盞嗚尊
  • 日本武尊
  • 宮簀媛命(宮下文書版・美夜受媛命)
  • 建稲種命(ホノアカリ子孫・美夜受媛兄)

 

〜別宮〜

  • 八剣宮

 

◯『八劔社』(愛知県名古屋市瑞穂区御劔町)

~御祭神~

  • 建速須佐之男命
  • 日本武尊
  • 大伴武日命

 

 




 

ところで、八劍宮の『八』とはなんなのか?。通説では『弥栄(やさかえ)』から転じたネーミングと言われているが…。宮下文書では、いとも簡単に回答が得られる。

結論から言うと、宮下文書版スサノオ・金山毘古命・タヂカラオらが製作し、『三品の御神宝』として、アマテラスに奉納した神剣は8本セットであった。つまり尾張国広域の御剣伝承には、縄文の富士朝神道の気配が色濃く残っている気がするのだ。私が、尾張国と富士朝の深い繋がりを感じる理由の一つ。



宮下文書版の、高天原アマテラス岩戸事件に遡る。前記事どおり、多加王(スサノオ)は、信州出雲に追放され、アマテラスから四海の荒神等を平定するように命じられた。

そこでスサノオは、彼の目付け役であり、ビジネスパートナーであるタヂカラオ夫妻に、具体的に何をすべきかを相談する。手力男命夫妻(テナツチ・アシナツチ)は37日祈願の末に、 『佐渡ヶ島から金・銀・鉄の三種を掘って製造せよと』とのお告げを得た。スサノオはこの通り採掘し、スサノオの従者・金山毘古命(劍刀知)の技術力とタヂカラオ夫妻の打ち鍛え、三種神器を製作する。これらを、悪神を平定するための言向和平の器として誕生させた。さらに、富士朝阿祖山太神宮へと奉納したのが、『三品の御神宝』の創始とみられる。

 

〜宮下文書版『三品の御神宝』〜

①八本の御剣(日輪の形)

②八太羽鏡

③宝司の御霊(銀で月輪を模し、金で蓬莱山高地火を模す)これを、天つ大御神とする。

※別名『天つ日嗣の天つ大御宝』とし、太神宮において、御宝を拝して、神皇の即位式とする。







言向和平と、三種神器の使用法

次に、『言向和平』とはなんなのか?。簡単に言えば、悪さをした者たちへの懲罰(監禁ないし監視)と、説教であり、改心の兆しが見られれば、釈放された。御祖霊『天つ大御神』に対して従順な者たちには、寛大な処置がなされていたようだ。これを監督をしていたのが、信州出雲スサノオであった。

 

『三品の御神宝』が完成すると、スサノオの①御剣8本のうち、まず先行して7本だけを奉納した。残りの一本はスサノオが言向和平のために授けられ携帯している。

次に、スサノオと従者たちは、②八太羽鏡と、③宝司の御霊を携えて、四方諸々の州々をまわった。悪党悪賊悪神のみならず、悪さをする大蛇大狼大熊、鳥獣蟲に至るまで、御鏡を掲げて見せ、説諭し、改心しなければ天つ大御神の判断を仰ぎ、御剣で斬り殺した。こうして州々の平和が保たれた。

州々から高天原へ帰還し、スサノオが①御剣を、テナツチ(タヂカラオ)が②宝司の御霊、アシナツチが③八太羽鏡を携えて、高天原阿祖山太神宮へと奉納した。高天原のアマテラスは大喜びして神殿に納め祀った。その後、アマテラスが三品を改名した。

 

〜アマテラスによる改名〜

①御剣→『室雲の剣』

②八太羽鏡(八角花形の鏡)→『内侍所の御鏡』

③宝司の御霊→『神霊』

※叢雲の剣→8本揃っての命名なのかは不明。スサノオは『8』という数字に拘っており、諱も八佐加毘古命を称している。決定的な理由は不明なのだが、諡・佐加毘古命や王子権現とも繋がるのかもしれない。




この後、ニニギ時代の『外寇親征の役』でも、この三種の神器が持ち出されており、ニニギが①御剣、②宝司の御霊(心霊の御玉)を、コノハナサクヤヒメが③八太羽鏡を太神宮から持ち出し、玄界灘〜四国の戦地へ赴いている。おそらくは敵と交戦し、処罰を見定める際に、天つ大御神の承認を得ていたとみられる。古事記においては、ニニギがアマテラスより八尺の勾玉・鏡・草薙の剣を授けられており、まるで神代から『草薙』を称していたように述べられている(後述)。

その後、ウガヤフキアエズ朝51代までと、初代神武天皇〜10代崇神天皇までの神皇は、富士朝高天原までやって来て、この三種の神器を拝受して即位式としている。

つまり剣・玉・鏡というのは、御祖霊の意向を仰ぐ媒介。これは、法律や教義や善悪二元論による裁きではなく、御祖霊に判断を委ねる必要があったのだ。外寇を攻撃した際も、神皇の即位式において利用されていたのも、『天つ大御神』の承認を、事細かに確認するための手順と思われる。

後述するが、これが他神社へ持ち出されるというのは、阿祖山太神宮の存在意義に関わる大問題なのだ。

 

 

 

 

『叢雲(むらくも)』って何?

『叢雲の剣』と命名したのは、神皇アマテラスであった。

まず『雲』というのは、信州出雲ないし、スサノオ家のシンボルと思われる。そもそも信州出雲は富士朝にとって、『悪雲』が流れてくる方角であった。それ故、ここから悪神たちを改心させるべく、『天獄』なる収容所が誕生した経緯がある。宮下文書版スサノオの第一女にあたるタクハタチヂヒメは津毘女命という。妹ミホツヒメは、出毘女命と称していた。

 

宮下文書によると、この『室雲』というのは出雲の斐川(ひかわ)の上室(後に室雲と改名)に由来するという。『室』とは居住穴のことで、アマテラス時代前後まで、高天原の人々も穴に住んでいた。おそらく現在の長野県の豊野や飯綱山、戸隠山周辺にあった地名だと推測する。だとすると…、おそらくはスサノオや金山毘古命の拠点も近いのではないだろうか?。

前記事で何度も述べてきたが、信州出雲『出雲谷の里』比定地は、未だよくわかっていない。宮下文書研究家加茂氏や岩間氏らは、戸隠神社付近としておおよそは一致しているし、熊オッサン的にもそれが妥当だとおもっているのだが…。信州出雲とスサノオや金山毘古命らの住居地が一致しているとは限らない。

あくまで可能性として思うのは…、室雲とは長野県飯綱町『牟礼』のことじゃないだろうか???。鳥居川を登れば戸隠神社も近いし、鳥居川の支流には飯綱山へ『八蛇川』がある。周辺の野尻湖には、旧石器時代後期から縄文時代の遺跡あり。wikipedia『牟礼神社』によると、金山毘古命の神社が2社合祀された形跡がある。

※金山毘古命はその業績が認められたのか、美濃国(三野国)の『南宮』を賜っており、これが美濃一宮『南宮大社』(岐阜県不破郡垂井町宮代)となる。金山毘古命が、突如として美濃国を賜われたことなので、これを擬えて、地名を『不破』と呼んだという。以降、美濃の神となる。

※※前記事でも書いたが牟礼というのはムハタレと関係ありそうだ。結局、ホツマツタヱの飯綱権現やムハタレ(賊徒)の由来も、信州出雲に起因しているのだろう。『六つのハタレはヤマタあり』

 

 



静岡県名古屋市熱田区金山町『金山神社』、金山彦命ほかを祀る。



 





『草薙(くさなぎ)』って何?

宮下文書には決定的な理由は書かれていないが…。『草薙の剣』というのは、どうやらヤマトタケル東征時代に命名されたとみられる。

 

宮下文書岩間本『開闢神代暦代記』262ページによると、オオヤマツミ72世孫阿祖彦王(太神宮副宮守司長)らが同志を募り、高天原『神都復旧の議』を決定した。これを察知した朝廷は、東征の兵を集める間、ヤマトタケル(小碓命)が伊勢神宮にて必勝祈願をしている。この時『皇女倭媛命』が、伊勢神宮にいたのかは不明。

※通説では、『倭姫命』が甥であるヤマトタケルへ、人生のアドバイスをしつつ、草薙の剣を授けている描写が有名だが…。宮下文書では特に記載がない。

 

〜岩間本『開闢神代暦代記』264ページ〜

『(東夷征討のための)兵の集まる間、武内宿彌を勅使として、大元帥小碓命、裨将(補将)吉備武彦大伴武日等を始め、諸の将は、伊勢の天照皇太神宮に参り、二十一日の祈願をした。神勅により、天之叢雲之御宝劔を、大神主より、勅使武内宿彌に授け、宿彌より、大元帥小碓命に渡された』

※この時点では天之叢雲之御宝劔『叢雲』を称していることに注目。



三輪本現代訳『神皇紀』156ページを要約すると…。

東征を開始、福地川(富士川)にて富士朝東国軍を撃破したヤマトタケルらは、山宮村(静岡県富士宮市山宮付近か?)へ侵攻した。ここで富士朝東軍が、福地山の裾野大原の各所に潜伏し、密かに地元猟師7人に扮して、ヤマトタケルに接触して、罠に貶めた。

猟師たちは、ヤマトタケルに対して、鹿猟のウソの誘いをし、皇子を大原の茅野へおびき出した。その時、大原へ潜んでいた伏兵らが、茅野へ火を放つ。火は大風に煽られ、たちまち周囲に燃え広がった。

ヤマトタケル一行は、すかさず軍兵で円陣を組み、神剣で草(茅)を薙いで、野火延焼を遅らせるためのバリアーとした。この素早い対応が、皇軍の兵を救った。

その一方、予想外にも東軍が反って焚死する者が続出する。このとき富士朝軍の総元帥阿祖彦王は、作戦の失敗を悟ったのか?、火中へ飛び込んで自決したようだ。岩間本によると、彼は四人の将と切腹したことになっている。

 

ご存知のように、富士朝御祖霊を火山の『火神』に例える信仰を続けてきた。両軍にとっても、この火攻めが大きな信仰的意味合いを持っていたのだろう。火神は富士朝軍ではなく、ヤマトタケルに味方し、生かしたわけである。これには富士朝の軍総元帥・阿祖彦王も火神の加護を受けられず、ショックを隠せなかったのではないかと…。

逆に言えば、ヤマトタケル軍にとってはこの『草を薙ぐ』行為が、『火』の神々を制することになった大いなる意義をもつのだ。火攻めを制御した剣こそが、この『草薙の剣』というわけだ。



ヤマトタケル東征後、美夜受媛命(宮簀媛命のこと)は富士朝坂下の宮から先行して、尾張国へ帰還した。ヤマトタケルは、武蔵国から科野路経由で尾張入り、尾張中島の松子島の源太夫の宮にて、夫婦再会を果たした。しかし7日後、宮を去るにあたり美夜受媛命に、『これを吾と思へ』と草薙の剣を託して伊吹山へ向う…。これが二人の最後の別れだった…。

残された美夜受媛命は既に、皇子の御子・長田王を懐妊しており、この長田王が新しい尾羽張姓を賜る。137年(成務7年)熱田神宮が創建され、初代宮守司長に就任。父親の形見でもある、草薙の剣を祀り始めた。

 

宮下文書では、この時点ではじめて、叢雲の剣を『草薙剣』と表記している。やはりこのネーミングは、ヤマトタケル東征が由来と見るべきだろう。






これがヤマトタケル東征の理由?。

西国天皇勢力による、三品に対する複製行為が、富士朝阿祖山太神宮の存在意義を揺るがした。加茂喜三氏の言葉を借りれば、富士朝は信仰的中心から、もはや『脱殻(ぬけがら)』扱いにされたわけだ。これに対して富士朝+東国は危機感を持ち、三品を奪還するための反抗作戦に至る。当然の成り行きだろう。こうしてヤマトタケル東征『東夷征討』がなされた。

しかし予想外なことに、オトタチバナの東北神に対する入水自殺があり、これがヤマトタケルの心を劇的に突き動かした。富士朝大宮司スサノオ74代孫であり、7代福地記太夫との慰め合いの交流もあり、東国に対する心情的変化が生まれたようだ…。福地記太夫の妻はホノアカリ子孫・中島根媛、美夜受媛や建稲種命の叔母にあたる。忠実な息子のヤマトタケルの忘れ形見、福地媛命に対しての12代景行天皇からの家族愛もあったのだろう。

その結果、東征は東西の痛み分けとなる。富士山以東が『吾嬬総国』として独立し、東西分治が達成された。

 

逆説的に言えば、同じ日本人が東西分断されてしまったからこそ、聖地も二分せざるえなかったともいえる。つまり伊勢や三輪とは、富士朝から脱却した西国人による、富士山御祖霊の神社なのだ。彼らは遠のく富士山を遥拝しつつ、御祖霊信仰を続けていた。因みに伊勢内宮と阿祖山神宮古宮をレイラインで結ぶと、武蔵一宮を自称し、イナダヒメ・ミホツヒメ・オオクニヌシを祀る氷川三社、『氷川女體神社』へ到達する。

そして熱田神宮創建の背景には、富士朝徐福勢力と深い交流があった武内宿彌の意向が強かったとみる…。東国を鎮め平定するために、東西分治の中間地点である尾張国にて、創建されたと思われる。火攻めを制御した草薙の剣とは、西国天皇勢力の富士朝+東国への牽制シンボルであり、いつのころからか東西対立を収める要石的存在となったのだろう。

(´(ェ)`)

 

※亀岡城ではなく、亀岡市内の『亀山城』でした。ゴメンナサイm(__)m。



 

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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