セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈レイラインの美学⑲〉瀬織津姫と武藤氏『石刀神社』、熱田霊剣の東西平定レイライン。

愛知県一宮市今伊勢町馬寄石刀『石刀(いわと)神社』、和太鼓奉納会。

 


2022,8,28

このブログは、神社めぐりと宮下文書をベースに考察した、妄想高めのブログです。

今回紹介するレイラインは、瀬織津姫神社である野宮神社や籠守勝手神社を基軸として、尾張大國霊神社と真清田神社の側をとおり、霊剣祭祀に関係する金山神社・高座結御子神社・熱田神宮へと到達する。

全てを回ったわけではないのだが...。順番はバラバラ、電車・バス・徒歩、相変わらずの貧乏旅行で数日かけて巡ってきた。

(´(ェ)`)

~目次~

 

〜瀬織津姫熱田神宮レイライン〜

  • 本巣市外山『天満神社』
  • 黒野城跡公園(加藤氏拠点)
  • 野宮神社
  • 葛懸神社
  • 加納天満宮
  • 加納城跡(永井氏族拠点)
  • 和泉屋社
  • 籠守勝手神社
  • 黒田城跡(山内首藤氏拠点)
  • 石刀神社
  • 馬寄城(武藤氏拠点)
  • 縣神社
  • 河原神社(星の宮伝承)
  • 金山神社
  • 高座結御子神社
  • 熱田神宮
  • 愛知県名古屋市鳴海町



  • 刈谷城跡(水野氏・家康外祖父)
  • 西尾城跡(足利・吉良・酒井氏)
  • 愛知県西尾市吉良町吉田



宮下文書における尾張の重要性は前記事参照のこと。そう言えば日月神示にも、尾張の重要性は書いてあったなと。今回のレイラインと関係しているかは不明だが、オワリノ十ノヤマが気になっている。

とりあえずご参考までに日月神示…。

 

〜日月神示『終わりの仕組み』〜

◯148帖江戸の仕組み世の終わりぞ

道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界行きは外国行きぞ。

◯185帖江戸の仕組みも、お山も、甲斐の仕組みも皆ぞ、鳴門と渦海うづうみの仕組みもしてくれよ、尾張の仕組みも早く出してくれよ

◯328帖まつれまつれと申してあろうが。おはりの御用は はじめの御用ぞ。まつりの御用ぞ。オワリノ十ノヤマにまつり呉れよ。世につげて呉れよ。

◯346帖終りの御用の始はウタぞ、ウタの集団(つどい)とせよ。この神示をウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団始だぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ、江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな江戸の御用すみたから、 尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのだぞ

 

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スタートは…瀬織津姫と檀林皇后。

美濃+尾張の神社めぐりにあたって…。

熊オッサンは、まったく土地勘が無いわけで…、さてどこから着手すべきか…。今までの個人的経験からは、こういう場合、個人的な経験上、親しみがある瀬織津姫や祓戸四柱を頼ることが吉だと考える。熊オッサンにとっては『気づき』『きっかけ』の神である。

(´(ェ)`)

岐阜県岐阜市近島『野宮神社』、檀林皇后と祓戸四柱を祀る。

 

◯『野宮神社』(岐阜県岐阜市近島)

〜御祭神〜

  • 檀林皇后(橘嘉智子姫)

〜摂社(本殿合祀)〜

  • 速開津比売神
  • 瀬織津比売神
  • 気吹戸主神
  • 速佐須良比売神



野宮神社のすぐ近くにある『葛懸神社』も水神系神社で、性質上似ているのかもしれない。

◯『葛懸神社』(岐阜県岐阜市池ノ上町)

〜主殿〜

  • 葛懸明神

〜相殿〜

  • 県明神
  • 水除神

wikipediaによると、創建時期は不明。平安時代には正六位上・葛懸明神として知られていたという。野宮神社の祓戸四柱と併せて、どうやらこの岐阜県と愛知県の県境、氾濫の歴史を抱える『長良川』+『木曽川』並行流域一帯が強力な禊祓場であったようだ。大きな川には氾濫を抑える、強力な水神信仰が付き物であり、水神は祓いの能力も兼ね備えている場合が多い。






野宮神社の御祭神・檀林皇后とは、橘清友の娘・橘嘉智子姫のこと。50代桓武天皇の第二皇子、52代嵯峨天皇の皇后にあたる。橘氏からの唯一の皇后。

前記事の平安京を簡単におさらいすると。

宮下文書版50代桓武天皇は大和国仏教勢力からの脱却のために、限定的ではあるが富士朝回帰を模索していた。桓武天皇は、富士朝神カモサワヒメ(別雷命)を鎮守として、富士朝より神官神職ら349人を招待して新都見学までさせていた。さらには、富士朝祭祀を熟知していた秦氏らを都づくりに活用していた。

桓武天皇遺言により、以降平安京以外への遷都は禁じていた。



800年(延暦19年〜21年)に延暦火山。

806年(延暦25年)桓武天皇崩御。

807年(大同2年)『古語拾遺』が編纂。同年からサルタヒコ子孫・坂上田村麿を利用して、東国を中心に鎮火祭と水神祭祀、神社が続々創建された。富士山鎮魂祭祀と歴史改竄の組み合わせにより、祟り元である富士山から人々の目をそらす節があった。

809年(大同4年)から、52代嵯峨天皇は51代平城天皇の思惑を阻止して、父・桓武天皇の遺言通り、平安京回帰にて再起をはかる。

810年(大同5年)、51代平城天皇は、桓武天皇による遷都禁止の禁忌を破り、再び平城京に遷都の詔を出し、政権たて直しを図った。

 

延暦噴火後の都は『二所朝廷』といい、一時的に京都と奈良の2つに分裂していた。すなわち、平城京回帰派と平安京残留派で揉めていた。52代嵯峨天皇は平安京残留派の中核。

そんな社会情勢の中で、嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子姫の宗教観インパクトは大きかったのではないかと。彼女は絶世の美人であり、仏教に深く帰依した宗教家でもあった。諸行無常を説き、自身の遺体は路傍に放置し、鳥や獣の餌食に与えよと遺言したという。また現在地右京区梅津に遷座させた『梅宮大社』を再興し、氏神として酒解神( オオヤマツミと解釈される)を祀る。





橘嘉智子姫のしたかったこと、橘氏と秦氏の関係?。

ここで橘(たちばな)姓について掘り下げてみると。妻・縣犬養三千代を祖とする橘氏、個人的には富士朝に近い、東国氏族と深く関係していたのではないか?とみている。例えば、鎌倉末期に登場した楠木正成は橘氏末裔を自称、母方は富士朝氏族井出氏であった。

 

橘氏誕生以前にも姓氏『橘』は存在していた。この2つの橘姓の関連性は諸説あり不明。アメノヒボコ子孫田道間守命、三宅連の祖でもある古代氏族であった。

ホツマツタヱ版・田道間守命は、オトタチバナの実父のこと。そして彼女は、サガム(相模)のオオヤマズミ末裔タチバナモトヒコ(オトタチバナの外祖父)の仲介で、ヤマトタケルと結婚している。このタチバナ勢力とは『橘(カグ)の君』、相模国に分布する富士朝客人勢力秦氏を指しているのではないか?とみている。つまりオトタチバナは、秦氏遺伝子が濃厚ということだ。

同じくアメノヒボコ遺伝子を持つとされる神功皇后も、再考が必須。彼女も秦氏末裔の可能性が高い。宮下文書岩間本版14代仲哀天皇はオトタチバナ御子。おそらくは皇室の秦氏+富士朝ルーツを隠蔽するために、朝鮮系アメノヒボコ子孫三宅連として、誤魔化されてきたのであろう。そして徐福の遺伝子を継ぐ大山守皇子・宮下家は、祖神として神功皇后と応神天皇を選び、312年、富士朝『宮下』の地に『高御久良神社』を祭祀している。つまりこの二柱も徐福遺伝子が濃厚なのだ。

 

そもそも宮下文書版神武天皇は、白木人ナガスネヒコ(新羅地方)と14年間も死闘を繰り広げており、その新羅王子アメノヒボコに好きな場所を選ばせ帰化させたという通説は、明らかにおかしい。現に、宮下文書BC27年、アメノヒボコが来日している記録があるが、帰化したとは書かれていない。それどころかAD31年、かつての新羅勢力の拠点、中国地方出雲国罪因500人が徒党して、諸国へ乱入した。全員逮捕・処刑に3年かかっている(三輪本現代訳152ページ)。こんな状況下で、新羅アメノヒボコ勢力が新天地に安住できたのだろうか?。

アメノヒボコ勢力と秦氏勢力は、分布地域に重複性がみられる。秦氏研究には、御食津神・稲荷神を祭祀していた新羅経由の弓月君勢力『秦氏』と、全国『タチバナ』『三宅』『屯倉』の地を洗い出す必要がありそうだ。因みに、富士朝統括神ツクヨミの諱は『大月留男命』、即ち御食津神オオゲツヒメとは、ツクヨミか妃・月桜田毘女、または夫婦の事であろう。秦氏の氏神・松尾大社、摂社にも月讀神社がある。



この瀬織津姫熱田神宮レイラインには、どうしても霊剣・熱田神宮+ヤマトタケル+オトタチバナとの関連を感じざるえないのだが…。

結局、橘嘉智子(檀林皇后)がやりたかったこととは、このオトタチバナと熱田神宮に絡んだ祭祀ではなかろうかと。そうなると古代橘姓と中世橘氏というのは、やはりどこかで接点があったのかな…と(妄想)。

 

 

 

 

愛知県一宮市木曽川町黒田『籠守勝手神社』、瀬織津比咩命と淀比咩命を祀る。

瀬織津姫と與止日女神、ご先祖との関係?。

 

さらに、愛知県側木曽川南岸にも、瀬織津姫系神社をみつけた。近くの黒田城跡と密接に関係しているようだ。黒田城跡は山内氏の拠点、美濃国席田郡の郡司を務めていた守部氏(尾張氏族)の後裔説あり。私の母方推定ご先祖さま小野寺氏族と同祖、そういえば小野寺道綱は橋姫・瀬織津姫を祀る、宇治橋で戦死している。

前述のようにこのレイライン、『秦氏』もテーマとなっていそうだが...。



◯『籠守勝手神社』(愛知県一宮市木曽川町黒田往還東東ノ切)

〜御祭神〜

  • 瀬織津比咩命
  • 淀比咩命(神功皇后の妹・虚空津姫命と解釈される)

※息長宿禰王の御子、神功皇后の姉か妹といわれる。豊玉姫命説もあり。

※※式内社の尾張国葉栗郡『黒田神社』、1500年以上もの歴史をもつ御駕籠祭がある。

 

一方、父方推定ご先祖さまである武藤少弐氏と、この御祭神二柱は、深い関わりがある。武蔵国武藤氏は武蔵一宮小野神社・瀬織津姫を勧請して、富士山の夏至の方向に人見稲荷神社を創建した(後述)。また、対元寇氏族としては、肥前一宮・與止日女神社を崇敬してきた。二柱は同神という説もあり。

 

これがあとあと伏線となってくるので注意…。

(´(ェ)`)






石刀の巨大レイラインが浮かび上がる。

いつものように、瀬織津姫神社を複数見つけたら…、とりあえず、レイラインになっていないか確認してみる。前記事のように、武蔵一宮小野神社も岩手県早池峰山も、レイラインによる巨大なネットワークの一部であった。

それにしても、瀬織津姫の神社を並べることに、なにか意味があるのだろうか…?。ある意味『水を掬(むす)ぶ』というのはこういうことなのか…???。

 

この『野宮神社』と『籠守勝手神社』を結んでみると、さらに南東・今伊勢町に『石刀(いわと)神社』を見つけることになる。なにを隠そう...、この石刀神社を現在地付近に遷座させたのが橘嘉智子(檀林皇后)なのだ。

さらに、この石刀神社の御祭神には、日本を創生した四季島統治の二大皇祖神、クニトコタチとクニサツチ兄弟が登場する。私にとっては夢のような神社であった。



◯『石刀(いわと)神社』(愛知県一宮市今伊勢町)

〜御祭神〜

  • 手力雄命
  • 豊斟渟尊
  • 国常立尊
  • 国狹槌尊

〜合祀〜

  • 天照大神
  • 豊宇気毘賣神
  • 伊弉冉尊
  • 菊理媛命
  • 大己貴命
  • 軻遇突智神
  • 大鷦鷯尊
  • 中筒男命
  • 事代主命

ほか...、全十五柱?

 

神社は、崇神天皇時代に石刀社として創建、式内社尾張國中嶋郡 石刀神社の論社。もともとの所在地は、尾張国中島郡四条付近、現在の岐阜県羽島市桑原町八神字八剱『八剱神社』付近との説あり。前述のように、平安時代に檀林皇后により現在地ちかくに遷座して、さらに14世紀ごろ現在地へ遷座している。

神社由緒によると、なんと…当地の地頭『武藤氏』が代々崇敬していたという。

 

平安期〜室町期、この今伊勢町周辺は、伊勢神宮の神戸で伊勢神を祭祀していた。永録年間の戦火にあい、当社に合祀された。因みに宮下文書版・豊受大神とは、クニトコタチ夫妻のこと。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの途上徳川家康が参拝。その布陣のため、社殿を一部破損させてしまう。これは岐阜城防衛の任についていた武藤氏が、西軍側だったこともありそうか?。終戦後の1608年(慶長13年)に、幕府の命により改めて再建される。

江戸時代には伊勢神宮の分社を合祀して、『三明神社』を称していた。





『石刀神社』と和太鼓。

 

武藤氏『人見稲荷神社』を再興したのは信長?

な…なんで、武藤氏がいるんだ???。

(´(ェ)`)

 

まあ前述どおり、このブログでは何度も触れてきたが、私の父方本家が、対元寇氏族武藤少弐氏族の遺伝子の可能性が高い。家系図もないし確証はないが、少なくとも家紋は同一。信じてもらえないかもしれないが、随分前から言いつづけていることなので、少なくともブログとGoogleマップ上では誤魔化しようがないことだ…(苦笑)。

 

尾張武藤氏とは。神社南西300メートル尾張国馬寄城(現在の聴信寺と敬應寺付近)の城主であった、武藤弥平兵衛舜秀の一族。

元亀年間頃(戦国時代から安土桃山時代)にかけて織田信長の馬寄人として仕えたようだが…。もともと尾張に生まれるも出自は不明。1574年ころから史上に現れ、頭角をみせる。しかし信長に臣従するまでの経緯は不明だという。若狭国武藤氏族・美濃土岐氏系武藤氏・武蔵国武藤氏族ともいわれている。

 

信長の信任厚く、軍略・兵法に精通しており、越前一向一揆の殲滅に活躍した。武家事紀によると、信長の軍議の際はまず彼に意見を求めたという。織田家豪傑ぞろいの側近とも同列に扱われ、ハイタカを賜っている。信長マニアの間ではマイナー武将として認識されているようだ。

1579年(天正7年)古屋野城にて急死、信長はその死を惜しみ、馬寄城は1575年武藤弥平兵衛が越前敦賀を賜ったときに廃城となっているが、遺領は息子の武藤助十郎康秀が引き継いでいる。





他方、前記事で武蔵国を振り返ると…。

鎌倉時代1231年(寛喜2年)武藤資頼は、奉行として武蔵国府大國魂神社を修造。さらには、富士山夏至レイライン上の人見山に一宮小野大神・瀬織津姫を勧請し、『人見稲荷神社』を創建。奇しくも富士山高千穂峰『夏至レイライン』上に、意図していたかは不明だが、三所之宮の名称のごとく、瀬織津姫関係社がレイラインで三つ並んでいる珍現象をつくった。

 

~小野大神と三所之宮~

  • 武蔵一宮小野神社(小野大神)
  • 武蔵総社大國魂神社(小野大神含む)
  • 人見稲荷神社(小野大神)

 

 

◯三所之宮こと『人見稲荷神社』(東京都府中市若松町)

〜御祭神〜

  • 倉稲魂命
  • 天下春命(小野大神)
  • 瀬織津比咩命(小野大神)

〜摂社(たった一つだけ)〜

  • 瀬織津比咩命
  • 速開津比咩命
  • 気吹戸主神
  • 速佐須良比咩命

〜人見浅間神社遙拝所〜

  • 木之花咲耶姫

※新編武蔵風土記稿によると、江戸後期まで大國魂神社には、瀬織津姫が東殿に祀られていた。

※※小野大神は天下春命とされるが、本地垂迹の文殊菩薩であり、神社由緒書表記『瀬織津比咩ノ大神』の可能性が高い。

<人見稲荷神社>瀬織津姫を三陣並べて、元寇『神風』を二度も呼んでしまった少弐氏おじいちゃんのお話。 - セキホツ熊の謎を追え!



 

宮下文書版武藤氏は、武藤左衛門尉景時?なる人物が、1252年(建長4年)8月25日、富士朝二所明神へ将軍家祈願使として代参しており、阿祖山太神宮に御剣と神馬を奉納している。

武藤氏族嫡流は、武家として初めて太宰少弐を賜り、少弐氏を名乗り太宰府防衛の任につく。その後、2回の元寇における総大将となる。通説では、武藤資頼は1228年安貞2年に九州にて死んだことになっているので注意。代理人の可能性もあり???。

支流武藤氏は三所之宮を守護しつつ、4代目頼次まで武蔵府中に残っていた。南北朝時代1352年(正平7年)『武蔵野合戦』勃発、新田義興と義宗vs.足利尊氏による『人見原の戦い』により、武藤氏族は屋敷を焼かれ地方へ離散したものとみられる。逃亡先は甲斐武田など諸説あり。

ここで注目すべきは…、『北多摩神社誌』の人見稲荷神社記述。

1580年(天正8年)、織田信長臣・山城入道道庵?なる人物により再興され、社殿も再造営されていた。奇しくも、前述1579年(天正7年)の武藤舜秀が古屋野城で病死した翌年のことである。尾張の大武将家臣が、この東国僻地に?、わざわざ武蔵一宮の瀬織津姫を祀らせたというのか???。

その僅か二年後(1582年)、本能寺にて信長死去。



個人的妄想で言えば、富士山高千穂峰『夏至レイライン』とは、統治者・東征者・対元寇氏族も注目していたラインだと考えている。つまり、武蔵国人見稲荷神社には、天下人・織田信長の全国統一的な祈願があってもおかしくはないと…。信長の家臣となっていた武藤舜秀にも、なにか影響があったのかと(妄想)。だとすると、これが尾張国武藤氏と武蔵国武藤氏の接点にはならないだろうか…?。

残念ながら、これ以上はわからなかった。ただこの情報を知った時点で、オッサンは『石刀神社』に行く覚悟を決めていた…。

いざ行かん!(´(ェ)`)








石刀神社での、和太鼓演奏奉納会のタイミング

以降、小話なのだが…。

真清田神社から北へ2キロほど、炎天下のなか小汚いオッサンがヘトヘトで到着。…なんか境内の様子がおかしい、ちびっ子たちとお爺さんお婆さんが拝殿前に群がっていた。どうやらこの日、和太鼓演奏奉納会があるようだ。

おかげで拝殿には近寄れない(汗)。今回は異例なことだが…、本殿の東背後にまわりお参りすることにした。本殿は武蔵一宮小野神社同様に東を背にしている、背後には林に囲まれた広場になっており、何故か小さな稲荷社だけがポツンとあった。本殿背後を向き、ひふみ祝詞を奏上して、『日本人の岩戸が開きますよう』にと…、誠に勝手ながら祈願させていただいた。画像記録をみると午前11時11分だった(苦笑)。

そのタイミングで、反対側の西拝殿前では、演奏者たちによる参拝・奉納が始まったようだ。それにしてもなんてタイミングなのだろうと…。これは石刀神社に呼ばれたかなと…、熊オッサン、勝手に感極まって泣いてしまった。

御祭神のご好意を感じたので、しばらく和太鼓演奏を楽しむことにした。

12時20分頃、演奏終了。いつまでも温かい拍手が鳴り止まなかった。人だかりの中から汗だくのオッサンが、次の訪問先『伊冨利部神社』『籠守勝手神社』へと消えてゆく…。祭りのあと、またボッチで黙黙と歩んでいく…。心做しか、ちょっと軽快に歩けた。




毎度毎度このブログ、私的な情報だらけで恐縮ですが。。。

私の推定ご先祖さま、あるいはその同族、永井氏(長田氏同族)、山内首藤氏(小野寺氏同祖)、加藤氏(鎌倉氏族同族説あり?)の関係地とも見られており、しかもこのレイライン上複数揃っているというのは驚愕であった。これは何かあると直感した。

これらは確証のない身の上話だし、歴史ファンの読者さんとは温度差が出てしまうのは必至だろうなと…。マジキチ扱いされて『身の終わり』を迎えるかもと…(苦笑)。正直記事にしようか直前まで迷っていたのだが…。

日月神示328帖曰く、『おはりの御用は はじめの御用ぞ。まつりの御用ぞ。オワリノ十ノヤマにまつり呉れよ。世につげて呉れよ』との一節が無性に気になって…。

世に告げることにした(笑)。

 

このブログで皆さんに伝えたいことは…。

富士朝『神道』というのは祖霊信仰ということ、日本人の遺伝子的繋がりがカギになるのだ。分かりやすく言えば、クニトコタチもクニサツチもカモサワヒメも、我々の遺伝子提供者。大おじいちゃん・大おばあちゃんなのだ。それなりの心得をもって、神社に接してくれというメッセージだと捉えている(妄想)。日月神示でも妙に、日本人贔屓をしている理由も頷ける。

 

 

尾張神社めぐり、まだまだ続く(´(ェ)`)

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※地図はクラフトマップ使用。

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