セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<人見稲荷神社>瀬織津姫を三陣並べて、元寇『神風』を二度も呼んでしまった少弐氏おじいちゃんのお話。

 

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東京都府中市若松・人見山にある『人見浅間神社』


2020,4,19

大幅に予定変更。

当ブログにてさんざんネタにしてきた感のある、夏至レイライン上『瀬織津姫三宮』。なんと、私の先祖の武藤氏(少弐氏)が絡んでいる可能性が出てきた…。彼らは元寇『文永・弘安の役』の日本軍総司令官であり、神風を呼んだ氏族???なのである。

 

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人見稲荷神社と武藤氏の歴史。

◯人見稲荷神社(東京都府中市若松・旧三所之宮)

~御祭神~

・天下春命

・瀬織津比咩命

・倉稲魂命

~摂社・祓戸神社~

・瀬織津姫命

・速開津姫命

・伊吹戸主命

・速佐須良姫命

~人見浅間遥拝所~

・木花開耶姫命

 

 

北多摩神社誌によると、1232(寛喜3年)鎌倉摂政将軍・藤原頼経の命により、武蔵左衛門尉資頼は奉行として武蔵六所宮(大国魂神社)を修造。同年、人見稲荷神社の前身・三所之宮を造営する。もともと兄武比命(エタモヒ)を祀る地に、六所宮(大国魂神社のこと)客来神として瀬織津姫と天下春命を合祀、安土桃山時代後期にウカノミタマを合祀、のち稲荷社と称する。つまり大国魂神社に祀られていた一宮小野神社の小野大神を、さらに府中人見の地に勧請した形だ。

ここで引っかかるのは、このオリジナル名称『三所之宮』は何処から命名されたのか?、言い換えると、何をもっての三所の宮なのか?。

昭和期の地元歴史家・菊池山哉氏の見解では、総社大祭『くらやみ祭り』に参加する各宮神輿の内、三宮・氷川神社の神輿御旅所とされたからとの事。即ち三宮御旅所=『三所之宮』と命名されたという。本来は仮設の御旅所であったところを、武藤資頼があくまで個人的有志という形で神社創建したとのこと。

…しかし、ならば何故、スサノオでなく瀬織津姫が祀られているのか?、そもそもそんな神社の命名があるのかなと…。

一方で、昭和期に大国魂神社宮司であった猿渡盛厚氏は、これに否定的。『三所之宮』の命名に三宮・氷川神社は無関係であり、三宮とは小野神社御祭神『天下春命』『瀬織津姫』『倉稲魂命』であるとしている。うーん半分同意だが…、当社創建時には『倉稲魂命』は祀られていないのだが…。それに、ではなぜ小野大神を祀るのかが説明できていない。

まあ諸説あるということだが…。

 

 

私が妄想するに。『三所之宮』とは…。

 

①小野神社(瀬織津姫≒文珠菩薩?)

②大国魂神社(小野大神=文珠菩薩)

③人見稲荷神社(小野大神=瀬織津姫)

 

これは鎌倉幕府ないし武藤氏が、瀬織津姫夏至三宮陣を人為的に形成するための計画ではないか?ということだ。上記三宮を並べるために人見稲荷は誕生したのではないかと。

即ち武藤資頼は、小野神社と大国魂神社と人見稲荷、瀬織津姫を祀る夏至レイライン『三所之宮』を形成した張本人とも取れる。

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拝殿右隣に境内社『祓戸社』がある。

前記のように、もともとはアメノホヒ子孫エタモヒを祀る社であったはずだが、現在は小野神社同様にそのエタモヒが消されている。やはりここでも、アメノホヒと瀬織津姫の関係が気になる所。

<まとめ>鎌倉権五郎景政『御霊大神』と瀬織津姫の偶然の出会いを検証。 - セキホツ熊の謎を追え!

また境内由緒書には、エタモヒの表記が『兄多毛比命』ではなく『兄武比命』と記載されているところも注目、どちらでも『タケヒ』と読めるのである。これは宮下文書比定の蘇我大伴系統『大伴武日』を彷彿とさせ、地域の時代背景ともに一致するのだが…。

稲荷神社を称す由来となった、ウカノミタマを合祀したのは本殿で一番最後。三宮に共通して縁があるのはエタモヒ・天下春命・瀬織津姫命そして小野氏族。やはり背景には蘇我大伴系統『祖家』が関係しているように思えてならない。

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◯人見浅間神社

~御祭神~

・木花開耶姫命

 

※人見稲荷神社の奥宮的な存在なのだろうか?、人見稲荷北にある浅間山公園内堂山にある小さな祠で、人見稲荷境内に遥拝所を備えている。浅間山はかつては人見山と呼ばれており、近くに小野氏族猪俣党・人見四郎の墓がある。

 

小野氏族の人見氏とは

武蔵国内に点在し、地名を残す小野氏族人見氏・人見地区とは。

武蔵一宮小野神社にはかつては天押帯日子命を祀っていた形跡もあり、小野郷や小野牧の地名には、子孫である小野氏の関連性が問われている。私が妄想するに、小野氏族はかなり早期の段階で土着し、夏至レイライン周辺を守護してきたのではないか?ということだ(妄想)。

例えば夏至レイライン上にある『相原八幡宮』(相模原市緑区相原)。これは平安中期に武蔵国司・小野孝泰が岩清水八幡宮より勧請し、神社は横山時重が粟飯原氏を名乗り、横山党相原氏へと継承された。

一説には横山氏は小野氏族仮冒とも言われているが、この夏至レイラインへの拘りを見るかぎり、やはり横山氏=小野氏族だと思えてならない。そして多摩市と町田市と厚木市にある小野神社の共通点は天下春命が祀られている形跡があること、やはり小野神・天下春命も宮下文書の蘇我大伴系統とみる。

そして夏至レイライン上、この人見の地にも小野氏族の痕跡が残る。

 

人見とは人見櫓(やぐら)のように、『人の往来を見張る場所』の意味で、全国的に間々みられる地名だ。人見浅間神社のある『浅間山』は、古代多摩川が浸食させた大地の残丘。平地に奇跡的に残された、周辺を見通せる孤立丘で、別名『人見山』とも呼ばれていた。このようにおそらくは地名が先行し、後世『武蔵名勝図会』に人見氏の屋敷が登場、『人見氏の居住せし地なり』と記載されるようになった。

そもそも人見氏の始まりは、小野氏族横山氏の派生の猪俣政経(人見六郎)で、現在の埼玉県深谷市を拠点にしており、人見村という地名を名乗る。面白いのはこの深谷市人見の孤立丘の人見山(仙元山)と『人見浅間神社』があり、コノハナサクヤや別雷命(カモサワヒメ)が祀られている。こちらの人見浅間は源頼朝が『富士の巻狩』の折、浅間神を関東に八社祀ったうちの一社という。

この『富士の巻狩』というのは実質幕府の視察も兼ねており、富士朝宮下家との繋がりが深い三浦氏も同伴している。

<レイラインの美学③>日月神示ヒムカの役割、瀬織津姫死亡説と天照大神と木花咲耶姫の本当の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

この地に所縁のある人見四郎は、実は二人実在していたようだ。

一人は政経(人見六郎)孫で平家物語に登場する人見四郎忠衡。もう一人はそのさらに玄孫・人見四郎入道光行で、1333年『元弘の乱』の河内赤坂城攻めで戦死している。別名・人見恩阿(四郎1261~1333年)とされる。

人見山には現在、人見四郎入道光行の墓跡がある。ただ、本拠地の榛沢郡人見からは離れているため、この墓が実物だったのかは不明。ただもし…人々が夏至レイラインの存在を知っていたのなら、墓所にもされたであろうが…、府中市内に古墳が多いのも頷ける。因みにレイライン上東には著名人が多く眠る多磨霊園がある。

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小野大神を祀る『三所之宮』ではあるが、小野氏族人見氏は神社創建とは直接的な関係ないようだ。しかし、もし人見氏子孫がこの地域に居住していたとしたら、氏子のような地域関係はあったのかもしれない。

ただ造営者・武藤資頼の嫁父が、梶原景時。その母が横山氏出身であり、小野氏族とは間接的に絡んでいる。




少弐氏は三宮並べて、元寇へと立つ。

武藤資頼は出自不詳、藤原道長の子孫を自称するが、Wikipediaでもいくつか異なる家系図が登場するので注意。建久年間(1190~1199)、源頼朝の命により鎮西奉行として九州に立つ。1226年、本来は公家職である『大宰少弐』に武家として初就任、以降『少弐氏』を名乗り、元寇前1232年に死去したとされる。

 

~武藤資頼・生涯~

・1160年(永暦元年)生誕

・1184年(寿永3年)一ノ谷の戦い平家方についたが、梶原景時娘婿との理由で三浦義澄に預けられ、その後源頼家の『有職故実』指導ができるとの理由で免罪。源頼朝の家人・側近になる。

・1190~1199(建久年間)年鎮西奉行として大友能直とともに九州下向。大友氏よりも家格は上、宇佐神宮荘園にも関与している。

・1226年(嘉禄2年)太宰府少弐職に任命。公家官職に武家として初就任。以降『少弐氏』を名乗る。

・1228年(安貞2年)少弐職を息子・少弐資頼に譲る。一説では死去???。

・1232年(貞永元年)九州筑前にて死去???。

 

~死後の世界???~

・1232年(貞永元年)2月24日。4代藤原将軍頼経の命により武蔵守資頼が武蔵国六所宮(大國魂神社)を社殿修造。

・1232年(貞永元年)三所之宮(現・人見稲荷神社)を武蔵左衛門尉資頼が建造。以降武藤頼平が滅亡するまでの4代が祭事につく。

 

あれれ、 なんか筑前で死んでいるはずの人が武蔵にいるんすけど…((( ;゚Д゚)))

文献により武藤資頼は、1228年あるいは1232年に筑前にて死没しているので代理人の可能性もあるが、吾妻鏡では武藤氏族には違いない。ただこの吾妻鑑は、北条氏族に偏っている嘘だらけの文献でもあるので注意、もちろん富士朝は登場しない。

ネット上で調べていくうち気づいたのだが、武藤氏に関しては何故か『太宰少弐』『武藤少卿左衛門』など役職名や通称を記載して、氏あるいは名を伏せている傾向があり、系譜をうまく辿れない。結局、武藤資頼が少弐氏を称したのも自発的ではないのではないか?。たとえば少卿=太宰少弐の意味、左衛門とは律令時代における兵役を終了した証のこと。

あくまで個人的妄想だが、武藤氏という幕臣氏族は、頼朝の創作ではないかと思えてならない。彼らはもともとは武蔵国久良岐郡師岡(横浜市久良岐公園付近?)を拠点とし、宮下文書では源満仲子孫の柏木氏族と一致する。つまりこの『隠れ源氏』柏木氏族をベースにした付合の氏族ではないかとみる。なにか隠してないかと…。

 

武藤氏は大きく分けると東西二系統に分かれる。

武蔵国に残った資頼(或いは資能)の息子・武藤景頼は幕臣となり、1247年宝治合戦では北条・安達側につき、三浦氏を滅ぼす。三浦氏は、もともと平氏側武藤資頼を一時的に保護していた恩人でもあったハズなのだが…。しかし上野国と武蔵国は安達氏の基盤であり、幕臣の立場上北条方についたのかもしれない。1285年霜月騒動ではこれが仇となり、安達氏側の武藤少卿左衛門(実名なし)が自害に追い込まれている。

宮下文書にもごく僅かに登場している。1252年8月25日、武藤左衛門尉景時?なる人物が、征夷大将軍宗曾(宗尊)親王の代参として、富士朝二所明神参拝。御剣と神馬を奉納した。

以降、頼次が滅亡するまでの4代が三所之宮(のちの人見稲荷)祭事につく。1353年(正平8年)室町時代の『人見原の戦い』、武藤氏族は新田義宗の軍に加勢したが、新田軍は見晴らしのよい当地に布陣し、足利尊氏らに頼次屋敷ごと焼失されている。このとき三所之宮旧記を失い、武蔵守武藤氏は滅亡したようだ。

その後神社は、世の安土桃山時代末期、1592年(慶長2年)にウカノミタマを合祀し、稲荷社を称する。神社自体何度も焼失、再興を繰り返しているようだ。

 

一方、九州に渡った武藤資頼は息子・少弐資能に家督を継がせ死去、大宰府市観世音寺に墓所あり。その後42年後に二度に渡る元寇『文永の役(1274年)』『弘安の役(1281年)』が勃発する。

東京ではあまり知られていないが、この資能なる人物、実質の日本総司令官。厳密にいうと、弘安の役には引退していたものの老体に鞭うっての出陣、カミカゼを二回も呼んだスーパーおじいちゃん(笑)。残念ながら戦傷がもとで、戦後まもなく死去(享年84歳)、孫の資時は隠岐海上にて戦死し(享年19歳)、隠岐神社にて祀られている。少弐氏家族は元寇にて犠牲者をだすものの、幕府下九州統治者の家系となり全盛期を迎える。

その後興亡を経て戦国時代には宗家滅亡するが、九州を中心に多くの支流氏族を残している。

 

つまり、あくまで結果論でいえば、武藤氏は夏至レイライン上にある必勝祈願と東征鎮護の要所『大国魂神社』から、元寇に旅立ち、カミカゼを二回呼んだ…???。これには武藤氏が崇敬していた『小野大神』こと天下春命と瀬織津姫も、一役を担っていただろうなあ…と。

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人見山から大国魂神社と小野神社を望む。富士山と瀬織津姫のレイラインである。

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※最後の写真は浅間山公園内にある『御手洗(おみたらし)神社』。かつてこの地には大蛇が住んでおり、貫井弁天池(貫井神社)と井之頭弁天池(井之頭弁財天)とこの『おみたらし』を廻っていたという。現在はミズハノメを祀る。

 

 

人見稲荷神社の思い出。

…個人的願望と言われても仕方がない妄想記事である。

私がいくら武藤氏少弐氏子孫を名乗っても、戦争と祖父の家出のゴタゴタのせいで、証明できるものは何一つ持っていない。ただネットで一つ一つ調べていく過程で、祖父と親父の証言と今までのプライベートを含めて、こんな偶然あるのだろうかと日々呆然としている。



2018秋、人見稲荷神社。私は『ブログをはじめます、頑張ります、見守ってください』と御祭神にごあいさつしており、ことさら人見の地に運命を感じてしまう。まあ当ブログの内容を、瀬織津姫の名を借りて正当化しているワケではないけど(笑)。

そして、ここから少弐氏族が元寇に立ったかと思うと、胸アツで、誇らしい気持ちで一杯になる。同時に、その責任と恩義を果たせと言われているようにも思う。

私の祖父は、本家との喧嘩の末、九州から戦後焼け野原の旧武蔵国まで戻って来た。言うなれば、それはスタートの地に呼び戻されていたのかなあ~と…。武藤氏少弐氏の原点はかつての小野大神『天下春命』『瀬織津姫』であり…、そしていま私が人見の地に立って小野大神を拝んでいるわけだ。

いやはや、いろいろ知らなすぎた…。

 


※前記事訂正あり。瀬織津姫・天穂日レイライン地図に『廣田神社』を忘れていたので追加。廣田神社はムカツ姫を祀る瀬織津姫の重要拠点とみる。

<まとめ>鎌倉権五郎景政『御霊大神』と瀬織津姫の偶然の出会いを検証。 - セキホツ熊の謎を追え!

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※地図はクラフトマップ使用。

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