セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

私のブログ。過去記事でネタにしてきた人々が、ズラリ御先祖さまだった件。

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大庭御厨跡にある臺谷戸稲荷神社(神奈川県藤沢市大庭)


2020,3,28 

仮冒のメカニズム②

 『仮冒』・歴史の嘘のメカニズム - セキホツ熊の謎を追え!

次回記事で鎌倉権五郎景政についてお話するが、その前に『仮冒』について触れる必要が出てきた。

 

一年前に書いた記事、いま振り返ると認識を変えざる得なくなってきた部分もある。

以前の記事では、仮冒というのは下級氏族が身分を偽って、支配層になり『やりたい放題』というような事を書いたののだが、はたして社会風潮的にそんなことが許されたのかな?と最近思い始めたのである…。



平安末期から鎌倉時代の仮冒

日本人は同族意識が強いゆえに、『恥』の文化とよく形容される。

平安時代後期~鎌倉時代にかけては、無鉄砲な武士道精神が確立した時期にもなる。勇気と無謀を履き違えた、鎌倉権五郎景政の武勇伝などはその最たる例で、武士は周囲の視線を気にしていたからこそ見栄を張ってしまう。その一方、『讒言』の横行で、加茂次郎義綱・梶原氏・和田氏・三浦氏らが、社会的な制裁を課され衰退していってしまう。

例えば第二次世界大戦ユダヤ人迫害や中国文化大革命などは、互いが密告し合うのが当たり前の社会、彼らが一番恐れたのは隣人、特に何も理解していない子供が告げ口していたという。つまり身分を弁えない嘘がバレたら、恥をかく以前に一族滅亡が待っている世界なのだ。こういう汚い嘘は日本人は絶対許さないであろうし、そこまでリスクを冒してまで、上流階級になりたいのかなと?。こうして平安鎌倉時代の武士たちは、常に互いを監視し、同時に周囲の視線を気にしていた。

 

もう一つの理由は

土地がない。12世紀末までは貨幣経済が、確立していなかった。つまり恩賞や資産は『土地』のやり取りで行われていたわけで、肥沃な土地は有力氏族が押さえていた。こんな状況下で、下級氏族の成り上がりができる状況が起こるわけもなく、宮下文書平安期においては、武蔵国領地の半分は清和源氏が押さえていたとの記述もある。下級武士が成り上がる『下克上』とは、まだ先の時代のお話である。

その後、平安時代末期。全国的な平家の台頭があり、身の危険を感じた周辺国の源氏は、桓武系平氏や藤原氏族を名乗り、事態を乗り切ろうとした。しかし、鎌倉時代に入ってからも桓武系平氏『北条氏』が三浦氏などの源氏を妬み、ライバルへのイジメや挑発行為に発展していたので、いまさら源氏を公言するのは得策ではなかった。

周囲の氏族は状況が状況なだけに、『辛いのはお互い様』とお互いに見て見ぬふりをする集団意識が生まれ、仮冒を容認していく社会風潮となったのではないだろうか?。前記のように、幸いにして武蔵国内には源氏が半分を占めて、隣人同士コミュニティが形成されていたのだ。私が考えるに、ある程度の集団意識や社会的風潮を巻き込まなければ、日本人が仮冒を続けることは不可能だということだ。

まあ、あくまで日本人的な小市民的な発想として(笑)。

 

~例えば~

・宮下文書によると、三浦氏祖はもともと桓武系平氏『三浦平太夫為道』ではあったものの、途中から加茂次郎子孫・三浦義明が婿入りする。源氏といっても過言ではない。

・また、三浦氏と親しい仲にあった大森氏も、藤原北家伊周の仮冒と言われているが、富士朝宮下家からの派生である。宮下記太夫親明の曾孫、大森駿河守頼茂(大森頼親)は源頼義が烏帽子親となり元服、鎌倉権正景任?なる人物の娘を娶る。

・鎌倉期に武蔵守となった武藤氏も、一般的には藤原道長子孫を名乗る。しかし個人的には、清和源氏源満仲の孫、武蔵国の半分を賜った『柏木右衛門佐義季』とみる。

 

このように仮冒という『嘘』は、下級氏族がのしあがる為ではなく、上級氏族が難局を乗り越えつつ、ある程度高貴な立場を保つケースが多かったとみる。いたずらに身分を遜れば領地が奪われ損をするのは明白、それは自滅と同義であろう。

さらにもっと踏み込んでいえば、この時代の関東では『隠れ源氏』や『富士朝関係者』がゴロゴロ出てくるのではないかと(笑)。現状これらの仮冒への偏見が、富士朝の歴史解放の最大の障壁になっている。源氏が富士朝に深く関与していたこともあり、これらの歴史的嘘が皮肉なことに、富士朝の歴史隠蔽を後押ししているのだ。即ち、我々が仮冒への偏見を払拭しない限り、富士朝史は明らかになることはまずない。 

富士朝史は我々ご先祖様のついた多くの嘘に、埋もれて隠れてしまっているのだ。

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私の仮冒?

今年の正月からずっと、Wikipedia等で様々なルートの御先祖家系図を、可能な限り調べまくってきた。このブログを始めて、私もそれなりに歴史的知識もついたし、改めて家系図を調べたら何か気づくことがあるかもしれないと思ったのだ。

まあ祖父が死んでしまった今となっては、激動期であった幕末~明治時代の方が、家系図不詳だったりする。私の祖父は、本家と喧嘩した家出人の立場ゆえ、孫から見ても『マジかよ?』と思うことが多々ある人物でもある。ただ曾祖父が大日本陸軍近衛師団、祖父兄が◯◯省副次官だったので、家系的にはかなり宗家に近い存在であったと判断した。

それを踏まえた上で、近代までを辿ると、…どうやら我が家は三浦氏と鎌倉氏と関係が深いようだ。

 

とりあえず、私のウチの家系図を大きく分けると、AルートとBルートがあり、後世に二つが合流する。

『Aルート』は謎が多すぎ、資料も乏しく、もはや永久に判明しないと諦めている。一般的には藤原北家出身ということだが、十中八九こんなもんは仮冒であろう(笑)。

ただ気になる点は、我が家系図に謎の人物が一人紛れ込んでいるのだ。時代は鎌倉時代宝治合戦の三浦氏集団自決直後、遥か遠くの伊豆国三島から突然、三島神を引っ提げてやってくる。さらに同時代同地域、ナキサワメを単一祀る立派な神社を創建している。ナキサワメを単一祀ること自体も珍しい。あまりいうと身バレするのだが、どー見ても富士朝関係のあの氏族…としか思えない点が他にもあるのだ…。

 

『Bルート』を極限まで辿ると、武藤資頼の可能性が濃厚である。

なんと彼は、貞永元年(1232)大国魂神社社殿の修造し、四代後頼次は人見稲荷神社を造営、旧記を屋敷にて保管していたという。どちらも私がよく行く神社である。

Wikipediaによると、武藤資頼は武藤資平の猶子で、代々武蔵国に知行を持ち武藤氏を称す。もともと藤原氏子孫で平知盛の部将であったが、梶原景時の介在により投降。その後三浦義澄に預けられてから源頼朝の家人となるという、…何とも意味深すぎる生涯である。

… さて、ここからはいつもの妄想だが。

上記の三浦義澄と梶原景時の謎の『介在』で気づいたが…。武藤資頼は、出自不明の猶子という身分にありながら、梶原氏の娘を娶り。頼朝の子・頼家の元服式典にて、有職故実の指導をする立場にあったという。その後奥州合戦(1189年)にて功績を残し、武家としては初めて『大宰少弐』という位に出世する。さらに以降『少弐氏』と、大宰府役職名を名乗る辺りも謎である。その息子・少弐資能は1274年元寇『文永の役』にて総司令官となり、元軍を撃退している。

因みに我が家の家紋は、この少弐氏に似た『目結紋』であり、源氏系に多い。

 

資頼は、源頼朝の落胤である伊東氏千鶴丸とほぼ同じ年(1160年)の生まれで、『頼』の字がつく…、これってまさか…(笑)。

もともと三浦義澄は伊東祐親と縁戚関係にあり、梶原景時は当時、源頼朝に絶大な信頼をおかれていた有力御家人。落胤引き渡しの舞台としては、お誂え向きではないかと?。

さらに武藤資頼と同時期『鎮西奉行』となった大友能直も、母親が源頼朝の妾であり頼朝落胤説あり、大友能直の叔父が武藤頼平とされている。つまり九州鎮西奉行というのは、源頼朝の落胤が揃って差し出されたということか???。

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葛見神社の裏山にある伊東祐親墓(静岡県伊東市馬場町)

前記のように武藤氏の家系図的には、宮下文書における源満仲の孫、武蔵国の半分を賜った『柏木右衛門佐義季』のではないかとみている。両者とも同時代に、武蔵『久良岐郡師岡郷』を拠点にしていたこと等が共通している。これは平安末期の関東で、桓武系平氏と同じぐらい、源氏のバックボーンがあったことを意味している。結果として頼朝は落胤の存在を、同族たちの仮冒で隠していたことになる。

以上まあ、いつもの妄想だが…。

この武藤資頼の嫁が梶原景時の娘、景時の母親は小野篁の子孫横山氏となる。梶原氏は鎌倉景通を祖としている。しかし『尊卑分脈』では、大庭景義・大庭景親・梶原景時はそれぞれ鎌倉権五郎景政の3世孫となる。

 

掻い摘まんでいうと。

当ブログ。過去記事でネタにしてきた人々が、ズラリ御先祖さまだったでござる(笑)。

 

 

家系図は後世の付会もあるし、当時は婿養子も多いので、何処まで遺伝子が影響しているのかは不明。ソースはWikipediaと宮下文書、私自身何度もWikipediaには騙されているので、一喜一憂せずに、あくまでも目安としてみている。あくまでネット仮想空間でのお話である。

 

…それにしても実体験として偶然がありすぎ、というか心当たりがありすぎる。

私の人生を振り返れば。

初宮参り七五三が武蔵野八幡宮で、初詣は大国魂神社で、厄払いが小野神社…。それはみごとな夏至線オトコぷりである。個人的には、これが夏至レイラインの存在に気づけたきっかけとなったのだ。

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東征鎮護の大国魂神社に関係していた武藤氏少弐氏は、その後元寇で大活躍した。小野神社の小野氏も御先祖さまの可能性がある(横山氏仮冒説については別記事にて)。もし仮に三浦氏の血が入っていれば、平将門も秩父氏も児玉氏も伊東氏も御先祖さま。別ルートで、太田道灌子孫もおしいところで親族の可能性もあり、そんな私がいま鎌倉権五郎景政『御霊大神』に興味を持っている…。彼らは私が過去記事でネタにしてきた人物であり、何の意図もない、…全部たまたまである。

 

たまたま立ち寄った神社が御先祖さまの関係神社とか、たまたま記事ネタにしたら御先祖さまだったとか…。たまたま気紛れに寄っただけの源頼朝の墓が、三浦氏集団自決の場所だとは知らなかったのである…。

ほんとにたまたまなのか?これが運命なら出来すぎていやしないか?。というか…もう嘘でいいから、オッサンをビビらせるのはやめてほしい(;つД`)。

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三浦氏が集団自決した源頼朝の墓(神奈川県鎌倉市西御門)

まあ、皆さんもおっしゃるとおり、そもそもソースがWikipediaと宮下文書の段階で、みんな信じてくれないだろうなとも思う。また『妄想ブログ』と謳いつつも信憑性も疑われるのがコワいので(笑)、こんな妄想を記事にするのは躊躇した。もしかしたら私自身が仮冒を助長してしまっている可能性もあり、その危険性は念頭に入れておくべきだろう。

しかし、これが本当かどうか…自分自身で確かめたい気持ちもあるし、私のご先祖探しはまだまだ始まったばかりである。

皆さんも、ご先祖探しをしてみたら意外な有名人にたどり着くかもしれない。

 

 

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