セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

梶原景時がピンチの源頼朝を見逃した理由、鎌倉氏族は隼總別皇子副司家系・古屋氏?。

800年延暦火山の折、富士朝300余人が田村麿により高座郡岡田原へ避難した。
神奈川県高座郡寒川町岡田『菅谷神社』


2022,4,24

今回はちょっとマニアックだが…。明見神社という小さなお社から始まる『鎌倉氏族・古屋氏』のお話。そして、梶原景時と加藤景廉の接点。歴史研究者たちはみんな知らない、加藤景廉がいかに重要で不自然な存在であるかをご紹介。予め言っておくと、今回の記事は『サカオリ』とは無関係なので、悪しからず。

(´(ェ)`)

~目次~

源頼朝と東国氏族カンパの富士朝再興計画、北条に狙われた和田・三浦・畠山氏滅亡の後先。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈前記事補足〉鎌倉幕府と富士朝再興の舞台裏、富士朝から尾張ルートの重要性。 - セキホツ熊の謎を追え!




サカオリを探していたら…、かわりにご先祖さまの神社を見つけた件。

前記事では、現在の山梨県甲府市『酒折宮』と、宮下文書版『坂下の宮』は全然違うことを指摘した。

〈レイラインの美学⑰〉酒折宮連歌に隠された真実、日本武尊と山県大弐は新治・熱田の架け橋。 - セキホツ熊の謎を追え!

では、宮下文書版『坂下の宮』比定地は一体何処なのだろうか?富士吉田市周辺は、937(承平7年)1083(永保3年)の溶岩流により、湖や河川、地形も変わっているハズで、地中に埋もれている可能性もあるだろう。個人的に土地勘もない、大明見の地域名称や河川名などを把握できていないせいもある。

m(_ _)m。

宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』の巻末地図によると。高天原阿祖谷・東海道加吉駅、阿祖山太神宮と山守太神のちょうど中間、現在で言う大明見小室浅間神社跡地〜大明見山神社の中間地点に、『坂下宮』が表記されている。どうやら古屋川沿いに、福地八幡旧跡と並んでいたようだ(個人的推測)。富士朝に行くたびに、バイクで探してはいるのだが…、正直わからない。ちょうどこのへんかな?…とバイクをとめた…。

 ◯『明見神社』(山梨県富士吉田市大明見)

~御祭神~

  • 不詳、鎌倉氏族権正氏の祖神か?

※因みに南側の鳥居は入口ではない。地元の方の私有地なので、むやみに入らないようにお願いします。裏側に明見湖方面の道が整備されており、写真の向きの裏手(北側)から境内へ入れます。

山梨県富士吉田市大明見『明見神社(鎌倉神社)』

 

ええ…?、熊オッサンの父方推定ご先祖さま、鎌倉氏族が祀ってる!?と…。グーグルマップの『愛知県のおひろどん』という方の口コミで、面白い情報が載っていた。この方は小さい祠などを専門的に巡っている方?で、かなりの情報通の方のようだが…。鎌倉氏族古屋氏の屋敷跡に、鎌倉氏族権正氏の祖、鎌倉景道(景通?)なる人物を祀る別名『鎌倉神社』と記載されている。これはホントなのだろうかと…??? 




そもそも平姓鎌倉氏→古屋氏おかしい。

 

一般的にはこの古屋氏や権正氏は、平姓鎌倉氏族とされている。

wikipedia鎌倉氏によると、桓武系平氏鎌倉景正の子・景経のさらに子、『鎌倉景縄』が甲斐古屋氏(降矢氏)を称した。これは梶原景時の伯父に当たるとみられるが、甲斐国山梨郡後屋敷村をはじめ、甲斐各地に拡散していったという。

 

一方で、宮下文書版古屋氏は、鎌倉氏族が誕生する以前から存在していた(苦笑)。

富士朝27代宮下源太夫仁元の副司が、古屋元太夫元宮麿を称する。元宮麿は、応神御子・隼總別皇子の嫡流で、太神宮副司兼山宮宮司『福地家』の29代孫。806年(大同元年)延暦噴火を逃れて八代郡山梨郡の間の中山に避難、その地の豪族とされる古屋彦九郎の養子となり、古屋元太夫正彦と称した。二所明神時代以降より、太神宮副司家系は、隼總別皇子系・古屋氏族に統一されている。平安期以降の阿祖山太神宮の別名『二所明神』の語源は、大宮司家大多和の館(宮下家)と副司家古原長江館(福地家)が対となり、古屋川を挟んでいた事に由来するはずだ。なのに…こうしてみると、富士朝のど真ん中で、平姓鎌倉氏族を仮冒している古屋氏の不自然さが浮き彫りとなってくるわけだ

※因みに、また元宮麿の弟・大宮麿が、和邇部豊麿の養子となり、富士又八郎を称した。これが後の富士浅間大社大宮司家『富士氏』となる。この辺、前記事で何度も紹介してしまったが…、過去記事で、私が兄弟混同して記載してしまった可能性あるのでご注意。

m(_ _)m

宮下文書版『三十六神戸』に由来すると思われる、大明見36屋敷?。
この中になぜか、平姓権正氏がいる...。

鎌倉景通と藤原景通、同一人物説

さらに、鎌倉景道なる人物をネットで調べてみると…。

安田元久氏『日本初期封建制の基礎研究』によると、鎌倉景通=藤原景通という仮説があるというのだ(藤原景通は景道とも表記される)。一般的には、両者の活動域も時期も異なる故に反対意見も多いのだが、もしこれが本当ならば波紋を呼ぶのは間違いない。簡単に言えば、梶原景時加藤景廉が、同族だった可能性が出てくるからだ…。

 

これがどういうことか?。

宮下文書記載では。1180年(治承4年)7月10日、頼朝の伊豆挙兵に先んじて、三浦義顕の弟・三浦次郎義澄が、小室大多和の館に偲び込み宮下氏族と密議していた。これは富士朝による頼朝へのバックアップ体制確立を意味する。しかし一般的には、『石橋山の戦い』にて、待ち合わせしていた三浦勢本隊の到着が、大雨で大幅に遅れた為に頼朝軍は惨敗を喫することになる。

このとき。頼朝はこのとき、遅延した三浦氏の状況を求めるなり、増援を求めるなりの策を講じていたハズであり、富士朝への密使は必須であった。そんなときに、頼朝側の加藤景廉が甲斐国吉田郷方面へ向かい、その入れ替わりのように大庭側の梶原景時が源頼朝と『しとどの窟』にて接触してきた。少なくともそういう流れが確認できるうちは、同族説にもそれなりにの説得力をもつのではないかと…。さらに言えば、なぜ敵方であった梶原景時が、絶体絶命の源頼朝を助けた理由なのではないかと…(妄想)。

神奈川県足柄下郡湯河原には鍛冶屋が住んでいたという『鍛冶屋』という地名あり、『梶原(かじわら)』と関連性があるとの指摘も在るようだが。。。???、周辺には、金山彦命を祀る『五郎神社』があるが、新編相模国風土記稿によるともともとは鎌倉権五郎景政を祀っていたという。前記のように、この地を領していた中村氏族土肥氏族も宮下家と婚姻関係があったと明記されている。

※鎌倉・大庭・梶原氏族には異なる多くの系図があるので注意。鎌倉景通が登場するのは、『別本鎌倉氏系図』のみ。『尊卑分脈』には登場せず、鎌倉権五郎景政の曾孫が、直接的に梶原景時に繋がっている。

 

 

みんなは知らない。加藤景廉がいかに重要で、不自然な存在かを…。

残念ながら、加藤景廉は宮下文書には一切登場せず。

一般的には、『石橋山の戦い』に参加した頼朝旗揚げメンバーの一人。通説では藤原利仁流・景通の子孫で、加賀国を賜われたため加賀+藤原=加藤を称した。

Wikipedia加藤景廉によると、1170年(嘉応2年)加藤景廉は伊豆国に配流され、源鎮西八郎為朝を討伐した恩賞として伊豆国を賜る。個人的には、前記事のように鎮西八郎には、土肥実平の姉と婚姻関係がある宮下氏族深巣二郎清国が従軍しているハズなので、この辺りは懐疑的に見ている。挙兵後に石橋山にて敗戦すると、甲斐国大原荘(現在の富士吉田市、富士河口湖町)に逃れ、鎌倉幕府成立後は頼朝の側近として仕えている。頼朝の信任が厚く、彼が病床に入った折、破格の気遣いを受けたエピソードが残っている。

頼朝が死去した後1200年正治2年(1200年)、梶原景時は自らの讒言が原因となり、御家人たちに糾弾・追放される。梶原景時との交流が深かった加藤景廉も所領の一部を収公されているが、その後は幕府方に従順となり大事には至らなかった。

 

ここまでこのブログを読んできた方なら、アレ?…と思うはずである。

前記事でも紹介したが。宮下文書によると1193年制定の『富士山24里四方12郷』は、阿祖山太神宮大宮司・宮下源太夫義仁が大地頭として賜っており、各郷司は太神宮神職も兼務しているハズなのだ。

  • 河口郷の郷司は、三浦庄九郎重泰で、太神宮禰宜兼元老職。
  • 大原郷の郷司は、渡部庄太夫綱高で、勅額伴(226ページ)。

 

仮に、加藤景廉が甲斐国大原荘(現在の富士吉田市、富士河口湖町)を領することが出来ていたならば、それは富士朝大宮司家の信任がなくてはならない。宮下文書におけるその免状『富士山阿祖谷免定事』には、連名で梶原景時の花押もある。頼朝からも信任厚く、富士朝からも信任され、さらには梶原景時とも仲がいい...、そのような立場の人間も少ないだろうと…。

 

子孫には、美濃国の岩村遠山氏・明知遠山氏がおり、戦国時代の武蔵遠山氏は後北条の重臣となり、江戸城を守護していた。かの有名な『遠山の金さん』こと、遠山景元の祖とされる。実は、この恵那郡遠山庄を領した岩村遠山氏の出自には、前述の安田元久氏の説を裏付けるごとく、平姓鎌倉氏のものと、藤姓利仁流の二つが存在するという。『遠山氏史蹟』によると鎌倉氏族末裔説は、江戸時代中期遠山地方に広まったとされ、遠山地方で複数の八幡社の信仰しており、『鎌倉八幡』を称させていたという。

 

ま…ここで私が一番言いたいのは、鎌倉氏族・古屋氏・梶原氏・加藤氏が怪しいこと…。さらには、宮下文書を読む人と読まない人では、全然史観が異なってくるということなのだ。宮下文書を読まない研究者は、加藤景廉がいかに重要で、不自然な存在なのか見えてこない。この件でどれだけの研究者が宮下文書で裏付けをしているのかは疑問…。

もったいない(´(ェ)`)

 

 

 

相模国寒川岡田原近く『応神塚(大神塚)』、日本最大級の岡田遺跡がある。
南方には鎌倉氏の大型寄進型荘園『大庭御厨』登場する。

富士朝に暗躍する鎌倉氏・梶原氏の謎(おさらい)。

字数が余ったので、鎌倉氏の補足説明すると…。

諸説あるが、三浦氏族(平姓)の派生氏族であり、大庭御厨を管理していた大庭氏を筆頭に、梶原氏・古屋氏・板倉氏・安積氏・長江氏らを誕生させた。さらには後の上杉家へ養子となった景虎(上杉謙信)を誕生させた長尾氏族の家系となる。甲斐国武田氏に『塩』を贈ったのは、意味深なエピソードである。宮下文書ではかつて甲斐国は巨大な底大湖があり、塩の生産地であったのだ。謙信と信玄のライバル関係に、そのようなメッセージが含まれていたのかは不明。通字にはやはり『景(かげ)』が多く付き纏う氏族だ。

中でも長江氏は、宮下文書版古屋氏の『古原長江館』に因むネーミングなのではないだろうか?。一般的には、清和源氏土岐氏支流や、藤原伊周流・大森氏派生氏族(後述)などといわれている…。やはり、土岐氏(明智光秀の祖)や大森氏が出てきた…。加藤氏庶流にも土岐氏の隣接地域に、明知遠山氏がいる。また前記事の繰り返しとなるが…、宮下文書では宮下氏族と鎌倉氏族にも婚姻関係もあったようだ。38代宮下記太夫親明の子はオトタチバナの由来の『大森』の館で成長し、清和源氏・源頼義が烏帽子親を執り成し元服した。大森頼親を称し、鎌倉権正景任?なる人物の娘・鶴司を娶っている。

 

1140〜1160年(長治年間)になると、鎌倉権五郎景政が、寒川南東地域の相模国高座郡大庭御厨を開拓、伊勢神宮に寄進した。その嫡流大庭氏が、この富士朝影響力の強い寒川地域で台頭した氏族ということであり、さらに派生の梶原景時が館を構えた。一般的には、源義朝の大庭御厨介入により、大庭氏と対立関係にあったというが宮下文書には記載なし。

ただし、梶原景時は宮下文書1194年3月15日の書状のなかで、『梶原平三朝臣・平景時』を称しており、平氏の可能性は依然捨てきれないので注意。

 

 

※前記事訂正あり

前記事で、1228年7月28日梶原刑部亮朝景と梶原七郎景氏が富士朝に逃げ込んで入道したと紹介していたが、…これは、私の誤解釈の可能性あり。

  • 梶原刑部亮朝景 僧名『鍛冶屋坊』
  • 梶原七郎景氏  僧名『上元坊』

両名は既に死亡して、その従士に僧名を号して入道させた可能性あり、つまり、これは同士の『供養』を意味しているのか?。何れにせよ『死んだ』とは書いておらず…、どちらにも取れそうな記載なので迷っている。

もし、間違いでしたらゴメンナサイm(_ _)m

 

※通説では、朝景は1213年和田合戦に参戦して戦死している。

※ここでも、梶原氏を僧名で『鍛冶屋』と呼んでいる事にも注目。祖先が鍛冶屋の氏族だったのだろうか?

古屋敷の権正氏屋敷あと、山梨県富士吉田市大明見『明見神社』
もしかして。。。古原長江館???

明見神社の古屋川対岸にあるのが『金山神社』(山梨県富士吉田市大明見)。
もしかして。。。これが大多和???。




源正霊神と御霊大神、『暫』との関係。

江戸時代の歌舞伎演目『暫』は有名。これはフィクションであり、カマクラゴンゴロウカゲマサなる豪傑が主役となる。もともとは、主役は無名であったが、近年明治28年からなぜか設定が『鎌倉権五郎景政』にすり替えられていたという。ただ、ストーリー上で彼が救出するのが、賀茂次郎(宮下家と三浦氏男系の祖)という設定は…興味深い偶然である。

さらには、尊卑分脈によると『景正 鎌倉権五郎鎌倉御霊大明神是也』とあり、大国魂神社や梶原御霊神社にまつられている『御霊大神』の御正体とされる。神号は桓武系平氏なのに『源正霊神』という。鎌倉氏族梶原氏の娘を娶り、1232年(寛喜3年)武蔵総社大國魂神社の修繕奉行として関与したのが武藤氏族、後の対元寇氏族少弐氏である。この武藤氏族も、現在の山梨県富士吉田市周辺に子孫を残している。個人的には、御霊大神には富士朝信仰的なメッセージもあるのかな?と…感じている(妄想)。

このような側面からも、鎌倉氏族は、富士朝と深い関係をもっていたと見ている。

 

 

 

今回、なんで加藤景廉にこだわるかというと。

前記事でも紹介した…例の母方『オカンの伯父さんの系図』に、加藤姓が出てくるのだ(苦笑)。私の母が伊豆にいた頃、一時、伊豆国狩野川沿いに滞在していたことがあり、近くに『加藤景廉の墓所』があった。今考えれば、お参りしとけば良かったかなと…。母方系図に登場する黒澤姓・永井姓・加藤姓もいくつか系統があるようなので、あまり期待しないようにしたいのだが…。

800年延暦噴火避難民の富士朝神官ら300余人の正体と、阿祖山太神宮の三分社化。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

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