セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈前記事補足〉鎌倉幕府と富士朝再興の舞台裏、富士朝から尾張ルートの重要性。

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山梨県富士吉田市大明見『北東本宮小室浅間神社』境内


2022,4,9

前回は、『宮下文書』三輪本の記述から、鎌倉幕府と富士朝の関係を説明したのだが…。今回は、さらに深堀してみようと思う。前記事を読まないとわかり辛いので、未読の方は是非読んでいただきたい。

源頼朝と東国氏族カンパの富士朝再興計画、北条に狙われた和田・三浦・畠山氏滅亡の後先。 - セキホツ熊の謎を追え!

武蔵国清和源氏はどこに消えた?、富士朝副宮司柏木氏と山本義経と柏木義兼。 - セキホツ熊の謎を追え! 

(´(ェ)`)

~目次~

 

富士朝と天皇家にとって、清和源氏とは?(まとめ)

 

清和源氏と富士朝信仰の繋がりには、思い当たる節はいくつかある…。

清和源氏といえば八幡神信仰なのだが。相模国鎌倉の周辺に点在する、源氏の祖・頼義らを崇敬していた『さば(鯖・左馬・佐波)神社』系列神社。宮下文書における周防国佐波(さば)郡に由来するとおもわれ、穴門の小名で佐波(さは)国という。これは、宮下文書版・神代の富士朝二代目大宮司タマノオヤの死亡比定地で、『周防一宮・玉祖神社』(山口県周防市大崎)の所在地のことではないか?。高千穂峰〜宇佐神宮レイライン上にあり、彼岸で対を成す宇佐神宮とも関係深いと思われる。

個人的には、古八幡神の正体ではないかとみている。

 

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源頼朝の父で、長田忠致に殺害された?義朝を祀る、神奈川県藤沢市石川『佐波神社』。

宮下文書版56代清和天皇は、864年の貞観噴火の折焼失した宮殿を、翌年865年には七廟中三座再造営を命じている。太神宮に正一位一幣を授け官社とするなど、噴火が頻発しているタイミングでは異例の対応である。また清和天皇が信頼していた伴善男は、富士朝伴氏(菅原道真の母方)の可能性あり。その嫡流子孫の源頼義も、38代親明の子・大森頼親の烏帽子親として、富士朝入麓の形跡がある。

49代宮下源太夫(源甚吾重成)は男系賀茂次郎義綱、女系八幡太郎義家の末裔。富士朝大宮司家は、ここからまた新しい時代の幕開けとなる。



一般的に清和源氏は、二度の大東征により東国氏族の支持を得ていたと言われる。さらには、『武家の棟梁』『征夷大将軍』とされ、歴代天皇からも武家からも特別視されてきた。富士朝の清和源氏に対する信頼…このあたりが、西国天皇勢力が清和源氏を特別視たらしめる由縁なのではないかと…。

全国に祀られているヤマトタケルや15代応神天皇、そして清和源氏の共通点は…、東国をつよい絆で繋ぎ止めた西国人たちであり、東西に遺伝子を残す架け橋でもあった。さらに神代から代々、オオクニヌシやタマノオヤ、オオヤマツミやスサノオ、ヤマトタケルや15代応神天皇の遺伝子によって継承された太神宮大宮司家は、新しい遺伝子たちの流入により、大幅に清和源氏ナイズされることになる。

 

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※因みに、49代義仁こと源重成には、美濃源氏に同姓同名者がいるので注意。1160年平治の乱のときに、義朝になりすまし自害、自ら顔面を傷つけた上で果てたという。1247年宝治合戦の『三浦光村』の自決シーンにも、全く似た描写が見られる。宮下文書版光村は、富士朝に逃れて隠棲しているハズであり、富士朝側の子孫が保身のために、このような嘘を広めていた可能性もあり。。。



古代からの、美濃〜尾張〜三河〜駿河〜富士朝人脈ルート。

富士朝が源頼朝を支持した理由はもう一つありそうだ、それが『熱田神宮』(愛知県名古屋市熱田区神宮)である。

 

前回を振り返ることになるが…。頼朝から、太神宮神領・社家領の富士十二郷免賜をされた対象者たち。彼らは基本的に、平治の乱にて源義朝に従軍し、敗走後は美濃や尾張から駿河へ逃れて、三浦義顕の逃亡に同行していた面々なのだ。その証に宮下文書では、先代義朝よりの忠義心『その父等(先代)の功』による免状であることを強調している。



〜富士十二郷・免賜対象者~

・太神宮大宮司・宮下源太夫義仁とその三兄弟

・柏木伊予守(源)義隆の次男・柏木忠七郎義政

・渡部美濃守綱広の嫡男・庄太郎綱高(後述)

・大森駿河守頼茂の嫡男・茂二郎頼重

・天野遠江守景信の三子・源太郎景国

・武内紀助蔵長定の次男・兵三郎長貫

・長田藤七郎資家の嫡男・源二郎忠利

 

※案主 鎌田新藤次俊長(政清の子)←ここ注目。

 

三浦義顕は源義朝と青墓駅で別れた後、熱田大宮司尾張源太夫忠住の館を目指して逃走していた。これは、義朝の妻・由良御前が、熱田大宮司・藤原季範の娘であったことが大きい。さらに興味深いことに、48代宮下記太夫政仁の妻が、尾張源太夫忠住の七女なのだ。48代政仁は、源甚吾重成を娘婿にするとき、妻の実家である尾張源太夫国住に相談をしている。このとき48代政仁は『その義を感じ』、運命的な巡り合わせであることを示唆している。深読みすれば、富士朝大宮司家と尾張ヤマトタケル子孫の人脈が続いていた事をも意味していたのであろう。

 

但し…疑問点もある。この時期には、熱田神宮大宮司が二人もいたのだろうか?。

wikipediaによると熱田神宮大宮司は、1114年(永久2年)から尾張氏外孫・藤原南家の藤原季範に譲られ、1155年(久寿2年)に季範の子・範忠が継承し、尾張氏は『権宮司』職として代々関与してゆくハズだ。そして、頼朝の母・由良御前の祖母が、尾張氏族尾張職子とされる。しかし、宮下文書では、1160年時点の熱田大宮司が、『尾張源太夫忠住』とだけ記されている。これは尾張氏族とみて良いのだろうか???。

また藤原南家が、本当に、大宮司を継いでいたのかは少々疑問もあり…。例えば『富士浅間大社』の大宮司家・富士氏も、一般的には和邇部豊麿と言われているが、男系は富士朝氏族。宮下文書で調べてみると、分社山宮浅間神社宮司・福地又八良元宮麿の弟である。801年、和邇部豊麿の娘への婿入りであった。おそらくは、仮冒や名跡を変更しなければならない事情があったのだろう…。尾張氏も、ヤマトタケル男系・天別火明命女系であることは伏せられているようだ。

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尾張国と富士朝

宮下文書における尾張国は、いつの時代も『第三極』の大きな拠点だった。神代には、大物主・スクナビコナ(大國魂御神)・天別火明命(真清田神社)という富士朝中核神が任された土地。また、山奥の立地であった信州出雲を、富士山と田場国真井原(京都府亀岡付近・出雲大神宮か桑田神社?)レイライン上中間点に移転させたようだ。それが、牛頭天王と八王子権現の発祥地『津島神社』である。

多角的に見ると、尾張〜駿河〜関東圏ルートには、多くの富士朝氏族や秦氏が点在しており、後世の足利氏や徳川氏にも連動している。時代を遡ると、多くの前方後円墳の多出が確認されており、発祥は関東よりも東海道エリアだという。

考古学者、若狭徹氏の著書『前方後円墳と東国社会』では、関東古墳時代の幕開けは、東海地方からの人の動きと連動していくという。そこには東海系の外来土器が大量に発見されている。さらには、元屋敷式土器を用いる集団の波が、東国から西国への流れとなる。その境界線がちょうど東海地域という。

個人的には…、宮下文書版『吾嬬惣国』と重なって見えてしまう(妄想)。

 

2世紀以降は、尾張における『熱田神宮』の存在が大きくなる。富士朝大宮司家にとってもヤマトタケルは特別な存在で、彼の残した姉弟の関係を連綿と続けていたと思われる。

 

〜ヤマトタケルの御子・姉弟~

▲富士宮下家の祖  美夜受媛の娘『福地媛』

▲熱田尾張家の祖 美夜受媛の息子『長田王』



美濃〜尾張〜三河〜駿河~富士朝、これこそが鎌倉将軍家のルーツそのものであり、清和源氏と富士朝親派を繋いでいた人脈ルートであった。注目すべきは、前述した富士十二郷免賜の案主が、鎌田政清の子・俊長という点。父・鎌田政清は義朝と共に、長田氏族に殺されているハズの人物である…。なのに親の仇である長田氏族に、恩賜を取らせる提案をしているわけだ(苦笑)。それ故、源氏勢力を排除した北条得宗家とっては、面白くないルートであり、改竄の標的にされた感もある。後世の富士朝・長田氏や鎌田氏のように『源義朝湯殿襲撃事件』の汚名・失態をつけられてしまったのであろう。

また、wikipediaによると、山内首藤氏祖が、美濃国席田郡の郡司時代の尾張氏族守部氏(熱田神宮大内人家)の後裔だったとのこと。平安時代頃から藤原秀郷流を称するようになったという。つまり、山内首藤同族の鎌田氏・小野寺氏もこの清和源氏義朝軍尾張組に入っていたのかもしれない…。そうなると鎌田政清が信頼され、美濃から源義朝を護衛していた理由も見えてくる。また俊通の妻山内尼は源頼朝の乳母となり、小野寺氏が頼朝近侍として信任されていたことも頷ける。

推定・小野寺子孫としては困惑している…、いったいどっちなんだ???(泣)。一応今回は、富士朝復興の功績は、富士朝氏族だけではなく、長田氏や鎌田氏などの尾張氏族も混在していることを強調しておきたい。

源頼朝父『義朝湯殿襲撃事件』、長田忠致は冤罪?。子孫は富士朝太神宮の宮伴だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

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山梨県富士吉田市下吉田『福地八幡神社(渡辺大明神)』

 

前述の免賜対象者の、渡部美濃守綱広とは?

宮下文書版・渡部美濃守綱広は、桓武皇子52代嵯峨天皇子孫『嵯峨源氏』で、渡部綱道の6代孫にあたる。多田満仲の嫡男・源頼光に従い四天王と言われた。綱道は武蔵国美田(埼玉県箕田)で生まれ幼名は多摩丸、美田(箕田)源氏とも称した。武蔵国に勢力をもっていた清和源氏・多田満仲の娘を母とし、満仲とともに摂津国へ戻り、摂津国渡部に住まう。以降、摂津源氏とも称した。

源仕wikipediaによると、52代嵯峨天皇→源融→源昇→源仕→源宛→渡辺綱。嵯峨天皇の曾孫の源仕が、919年(延喜19年)武蔵国司として下向、これが武蔵国箕田源氏の基盤となった。

 

1160年『平治の乱』の折、渡部美濃守綱広と天野遠江守景信も源義朝に仕えていおり、賀茂次郎嫡流・三浦義顕に合流してきた。事前に、義顕らが富士谷(裾野)に潜んでいたという情報を掴んで、探し求めていたようだ。こうして綱広も、48代宮下記太夫政仁に発見され、富士朝へと招かれてゆく。柏木伊予守(源)義隆と同様に、太神宮『宮伴』をしていたと記されている。

仲間であったサルタヒコ菅原道真子孫・天野氏族とみられる遠景も、頼朝に召し抱えられ、1185年(文治元年)太宰府の鎌倉初代・鎮西奉行九州惣追捕使に就任している。やはり富士朝氏族は代々清和源氏に円が深く、頼朝からも高い評価を得ていたことが伺える。

 

◯『福地八幡神社』山梨県富士吉田市下吉田

〜御祭神~

  • 天照皇大神
  • 寒川彦命
  • 息長帯比賣命
  • 誉田別命
  • 渡辺綱命

 

※渡辺大明神とは、渡邊源次綱=おそらく宮下文書版の源頼光四天王・渡部綱道のこと。

渡部綱命は、現在『福地八幡神社』にて渡辺大明神として祀られている。かつては福地八幡神社を崇敬しており、現在は富士北麓開発の御先祖である渡辺姓一族祖霊として祀っている。この正一位・福地八幡大神は、もともとは大明見阿田都山日向にあった。現在、阿祖山太神宮の後継と比定される『北東本宮小室浅間神社(大明見小室浅間神社)』にも、渡辺大明神が相殿されているという。

※現在の北口本宮富士浅間神社にも、鳥居近くに境内社としてある。

※宮下文書の地元である富士吉田市内の神社でも、宮下文書が公的に語られることは少ない。

※寒川大神とは、本来クニサツチ夫妻のこと。寒川毘古命は曾孫オオヤマツミのこと。



富士朝井手氏、『曾我兄弟の仇討ち』と関係があったのか?

 

前記事で、一般的な『曾我兄弟の仇討ち』に登場する『井出の屋形』は、富士山の西麓(現在の静岡県富士宮市)であることを述べた。しかしその後、加茂喜三氏『富士王朝の滅亡』にて確認してみると、やはり…東麓小山にも関係ありそうなのだ。宮下文書『富士十二郷大地頭宮司宮下源太夫義仁書置』として、以下の文が記載されている。

 

『…同時同国同宮副司井出少輔謙真家長男井出弾正忠正長、富士十二郷の内、北山一円を賜わり、井出氏の居る小山(東麓?)を富士見城井出館と申す也。この所は井出氏の往古の館跡にして、源頼朝公富士野巻狩の時の御本陣の跡也。是れは富士西巻狩(西麓?)の御本陣也。』

なんとも…、誤解を生みそうな記載だ。せっかく見つけたのに…。結局どっちかわからない…(笑)。富士野というのは、西麓富士宮ではなく、東麓小山なのではないかと思われる。しかし、個人的には、富士山西麓に長期滞在していること自体に、違和感を感じている。井出氏は、前記事でも少し紹介したが800年延暦噴火の折に。朝廷によりドサクサに紛れて、太神宮『甲斐の牧』や『愛鷹の牧』を摂取させられた経緯もある。820年吉禰候部井出麻呂がこれに対して反乱を起こし伊豆の国穀を収奪した騒動があり、なぜか『帰化人』として処理され、伊豆に流されたという。つまり、愛鷹や駿東でも縁が深い家系なのだ。現段階で言えることは、『井出の屋形』は、富士山東麓西麓どちらでもあり得ると…。

 

『保元の乱』『平治の乱』は、嘘だらけ?。

前記事でも紹介したが、楠木左衛門尉正成の母・村子が、二所明神神官家・井手弾正忠正親の娘となる。加茂喜三氏『富士王朝の滅亡』306ページでは、1410年(応永17年)、楠木正光(おそらく光正のこと?)なる人物を紹介している。残念ながらソースは不明。

『二条天皇の永暦元年、平治の乱に破れし源家の落人、三浦、柏木、武内、渡部、天野、大森、石部、中村の人々、小室の大社に落ち来り住む。大宮司記太夫政二の情けによりて、小室惣宮の伴を致し居る。同二年大宮司大統領にて小室大社を再興創立致すなり。それより阿祖山大神宮再興始まるなり。』

 

これが、宮下文書記載の三浦義顕の逃亡劇を指しているのは明らかであろう。

『看聞御記』などによると、楠木光正は諸説あるが楠木正勝の子とみられ、彼は春日大社にて将軍足利義教の暗殺をはかり、1429(永享元年)9月24日京都六条河原で北朝方守護畠山氏(源姓)に処刑された。その時、咄嗟に辞世の漢詩と和歌を残したことが、その場にいた多くの見物人の同情を得た。南朝側の美談として後世に伝えられた。因みに、富士朝と南朝は同盟関係にあり、鎌倉幕府成立秘話を知っていてもおかしくは無いだろう。

楠木正成は本姓橘氏、母方は宮下家派生の富士朝神官・井出氏だった!!。 - セキホツ熊の謎を追え!

また上記の『中村氏』というのは、頼朝挙兵を真っ先に支えた、土肥実平の同族のこと。実は…45代宮下源太夫明富の次男・深巣二郎清国は、この土肥実平の姉・定子を娶っていたのだ。源為義に仕えたあと、その子供為朝に使えた。このブログでは何度も触れたが、後に伊豆諸島・三宅島へ配流となり、『宮下(みやけ)島』を称した。

ここでも、富士朝宮下家+清和源氏が密接に連動しており、彼らが拠点としていた佐賀県三養基(みやき)郡上峰町や神埼郡吉野ケ里遺跡付近にも、山神社が多く、宮下氏族の痕跡があるのではないでろうかとみている…(調査中)。

『保元物語』曰く、源鎮西八郎為朝は2メートル以上、弓矢の名手、平清盛ですら怖気付く巨漢であったとされる。1156年保元の乱では、為義・為朝と為朝の兄・義朝が親子対決図式となっており、前述した鎌田政清は義朝に『こんな敵見たことない』と泣きついている。さらに、義朝と為朝との兄弟対決シーンでは、横から飛び出してきた深巣清国がまるで雑魚キャラ扱いで、為朝に瞬殺されている。為義は一旦退避して、東国にて再挙を図るものの、結局は後白河法皇の命により、息子である義朝によって斬首された。

もう…めちゃくちゃ(´(ェ)`)。

但し、宮下文書における保元の乱前後の記述では、八幡太郎家系と賀茂次郎家系も仲がよく、賀茂次郎家族の一家心中もない。為義と義朝兄弟の対立図式も出てこないので注意。

 

※追記

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『大神宮』!?

記事を書きながら、ぼんやり上野国での神社めぐりを思い出したのだが。。。

群馬県佐波(さわ)郡玉村町に『角渕八幡宮』がある。佐波郡とは、明治29年に佐位郡と那波郡から命名されたとのこと。1193年(建久4年)源頼朝が安達藤九郎盛長に命じて創建。近くの玉村八幡宮の元宮であり、境内には『大神宮』なるお社が存在していた。本殿すぐ背後には熊野神社の石祠があり、個人的にタマノオヤの別名ではないか?と推測している家津御子神こと、櫛御気野(くしみけぬ)命が祀られている。安達氏はもともと、足立氏と称しており、宮下文書における『足立』は、『前9年の役』以降の武蔵国の半分を領していた清和源氏・柏木右衛門佐義季の三男・三郎兵衛頼高に賜われているハズだ。


はたして...、安達氏とはどういう存在なのだろうか???。

 

 

 

 

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