2022,3,12
前記事でちょっと触れた、頼朝の父・義朝を殺害した家系・長田氏だが…。よくよく読んでみたら宮下文書に記載があった!。通説では、長田忠致なる人物が登場するが、宮下文書では登場しないどころか…、系図がだいぶ違う。さらに裏には、富士朝の阿祖山太神宮と関係があったみたいだ。
…現代訳は結構読んでいるつもりなのだが(苦笑)、まだまだ見落としている箇所がありそう。
(´(ェ)`)
~目次~
- 通説では?。
- 宮下文書では?。
- 妻が、サルタヒコ子孫菅原道真7代孫・天野景信の娘だった件。
- ここで尾張国の背景を説明しておくと。。。
- 長田氏族末裔・永井氏、江戸時代後の変遷。
- 古河藩『永井寺』の思い出。
通説では?。
諸説あるが、『源義朝襲撃事件』要旨を説明すると。
長田忠致は、道長四天王の1人と称された平良兼流・致頼の5世孫にあたる。
『平治物語』などの要旨をまとめると…。平治元年(1159年)、源頼朝の父である義朝は、平治の乱に敗れて東海道を敗走。随行していた鎌田政清(首藤山内氏や小野寺氏と同族・藤原秀郷流)の舅・長田忠致の許に身を寄せる。しかし忠致・景致親子は、法山寺境内の湯殿で入浴中の義朝を襲撃。その首は六波羅の平家に差し出し、恩賞を要求した。義朝に同行していた鎌田政清も同時に殺害されたため、政清の妻(忠致の娘)は悲しみのあまり入水自殺している。現在、愛知県知多郡・野間大坊に義朝の墓がある。
この悍ましい計画に、兄・長田親致も誘われていたというが…、弟の不義を諭して袂を分っていた。この兄子孫が武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説もあり、山梨県に今でも長田家が存在している。後述する徳川氏譜代家臣『永井氏』『甲斐武田家臣・長田氏』に繋がると言われている。
1180年源頼朝挙兵の折、長田忠致はノコノコと頼朝の元へやってきて、その列席に加わっていたという。頼朝は特に何も咎めず、『恩賞に、美濃尾張をやるから働け』と言われ、恩賞目当てに従属していたという。しかし、1190年(建久元年)平家討伐後の頼朝上洛に、突然掌を返され、『のぞみ通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる』と、処刑されてしまったという。長田氏の嫡流はここで途絶えた。
また『吾妻鏡』によると、1180年頼朝と先陣を争いをし、武功に焦っていた甲斐源氏の武田信義『鉢田の戦い』にて、橘遠茂とともに、長田入道なる人物の子二人が成敗されている。彼こそが、長田忠致ではないか?との見解もある。
宮下文書では?。
一応、お断りしておくと。宮下文書の場合、そもそも保元の乱にて、源為義と義朝親子の対立そのものが再考の余地あり、当然通説とはアチラコチラ矛盾点がでてくるハズである…。宮下文書には長田忠致なる人物は登場せず、長田致信と長田資致という親子が登場し、因幡国高庭氏を称していた。
つまり宮下文書では、長田氏=高庭氏となる。
宮下文書版『長田氏』は、藤原葛野麿(藤原葛野麻呂のこと)の末裔で、高庭介資経からの派生氏族となる。藤原葛野麿は、藤原北家・藤原小黒麻呂と、太秦嶋麻呂の娘の間に生まれた。妹の上子が、桓武天皇の平安京内裏・後宮入りした事で出世コースを歩む。
801年(延暦20年)遣唐大使に任命されるも、船が荒波で破損。804年(延暦23年)8月に大陸の福州に漂着する。その際、空海と最澄と接点ができるが、宮下文書では、空海が唐へ留学する通説にも、年代的に矛盾点が発生する。
大同5年(810年)『薬子の変』が発生した際には、平城上皇の東国挙兵を事を、左馬頭・藤原真雄と共に諌めていたという。平城天皇と対立していた嵯峨朝では、この諌言が評価され、処罰を免れている。
宮下文書版・藤原葛野麿の二男は、尾張国造となり、沼の内の長田庄に居住し、この長田の地名により長田氏を称した。それより11代孫が、宮下文書にのみ登場する長田致信という。
長田致信の次子・長田庄司二郎資致は、源義家東征(おそらく後三年の役?)に従軍、因幡国法美・八上・巨濃・知頭の四郡を賜り、八上郡高庭に住まう。さらに嫡男は長田高庭介資経と称した。
1160年(平治元年)『平治の乱』後、平清盛は源頼朝を殺さずに伊豆に配流、その際には資経のさらに次子・藤七郎資家を外護として追尾させたという。これは通説でも一致しており、頼朝の伊豆配流に付き添ったのは、祐範の郎従と頼朝の父・義朝の家人で因幡国住人・高庭介資経が送った親族の藤七資家(長田資家)のみであったという。 こうしてみると長田氏は、伊豆国にて源氏嫡流頼朝の動向を見守っており、清和源氏再興の功労者に違いないのだ。
妻が、サルタヒコ子孫菅原道真7代孫・天野景信の娘だった件。
前記事と重なるが。。。宮下文書では、柏木伊予守義隆の妻・柏姫と義隆次子・時若丸(柏木忠七郎義政)が三浦義顕に同行して近江国を脱出、東国を目指すわけだ...。
1160年平治の乱敗走後、三浦義顕は源義朝と青墓駅での別れた直後、近江の佐々木秀義の館→熱田大宮司尾張源太夫忠住の館へと移動。彼らは、柏木氏妻子などを連れ、行動がかなり制約されており、おそらくは娘婿である源義朝の紹介で、三浦義顕や時若丸たちが潜むことを許可されたとみている。三輪本現代訳には『(義朝の)身の異変を聞き、そこをさって駿河に行った』とだけ記載している。三浦義顕一行は尾張を去ることを決意し、相模国三浦への帰還を目指しつつ箱根峠や足柄峠の閉鎖に気づき、現在の静岡県駿河東小山地区に迷い込む流れとなる。
三浦義顕が富士谷に潜んでいる噂を聞きつけ、遠江秋葉城主(現在の秋葉本宮上社)・天野遠江守景信が合流してきた。さらに偶然、彼らは48代宮下記太夫政仁と巡り合い、富士朝に招かれ、同行していた三浦義顕の息子・源甚吾重成が婿養子となり48代政仁の娘・春子を娶り、49代宮下源太夫義仁を襲名した。このブログでは何度も紹介しているが、宮下文書版・天野景信とは、サルタヒコ子孫の菅原道真7代孫。富士朝『菅原』というのは、クニサツチこと『寒川大神』鎮座地であり、菅原道真≒火雷天神と恐れられる理由はここにあると見ている。一般的に天野氏は、藤原南家工藤氏と仮冒され、子孫の天野遠景が、源頼朝により太宰府の九州惣追捕使に補任されている。理由は明白、遠景が大宰権帥・菅原道真子孫であることに他ならない。
- 寒川大神=クニサツチ夫妻
- 寒川毘古命=オオヤマツミ
~20年後~
1180年8月22日(治承4年)源頼朝が伊豆国にて挙兵するも、直後『石橋山の戦い』にて敗走する。このとき伊豆国にいた長田資家と妻・秋野は、身の危険を感じ箱根山中に潜んでおり、その後も三島周辺の立花屋弥兵衛という旗亭にて潜伏生活を送っていたという。
1180年12月、これに先立ち、49代義仁の妻・春子が病に倒れ、三島明神で快気祈願をしたとのこと。奇しくも春子は回復し、49代義仁が妻に代わり礼参を兼ね、三嶋大社三島明神大祭(日付的には、例大祭ではない)参詣する運びとなる。その旗亭に投宿し、資家と巡り会うことになった。長田資家と79代義仁は面識がなかったようだが、実はこの妻の秋野が、前述の天野遠江守景信の娘だったという…。
49代義仁が美濃国から逃げてきた清和源氏・賀茂次郎嫡流という事実…、さらに長田資家が源頼朝の外護であった事実…、同行していた天野景信の娘であった事実...、こりゃ三人が意気投合しないわけがないだろう。彼らが、賀茂次郎にも縁のある守護神・三嶋明神のお導きを強烈に感じたことは…容易に想像できる。毎回クドいようだが、ホントにこれが偶然だと言えるのだろうか…?(笑)。
〜宮下文書版・カモサワヒメ~
- 別雷命
- 寒川毘女命
- 三嶋神
- オオヤマツミ妃
- コトシロヌシ・タカテルヒメ娘
- コノハナサクヤヒメ・イワナガヒメ母
こうして49代宮下義仁は、この資家親子三人を富士谷に招き、阿祖山太神宮の宮伴とした。資家が死去すると、子・亀丸が元服して長田源二郎忠利と称し、職を継いだ。
前述したが、宮下文書では、長田忠致という人物は登場しないし、彼が清和源氏を裏切り、源義朝を殺害したとも書かれていない。ただ、この忠利の『忠』という字が宛てがわれ『忠致』と付会された可能性もあるのかな???と…。 さらに前述した甲斐国長田氏の流れはここからではないのか?と…(妄想)。
ここで尾張国の背景を説明しておくと。。。
源義朝の正室は、熱田大宮司・藤原季範の娘『由来御前』で、尾張国にて生まれた。源頼朝の母親に当たる。
もともと尾張国は、天別天之火明命(ヒコホホデミ御子・ウガヤフキアエズ弟)61世孫・中島の松子嶋源太夫・建稲種命の土地であり、彼の妹が宮下文書版ヤマトタケル正室の美夜受媛命(宮簀媛)。111年(景行41年)ヤマトタケルが能煩野で亡くなると、112年(景行42年)5月5日、美夜受媛命御子・長田王が誕生する。
景行年間?、建稲種命と美夜受媛命の伯母・中島根媛が、宮守司長・川山田彦命に嫁ぎ、美夜受媛命一女・福地媛の養育係をしており、富士朝とは上古から縁が深い。この辺りは、また別記事で纏めたい。
137年(成務7年)、建稲種命嫡男・小止與命を尾羽張国造とした。夏の熱い日、高岡の長田を埋め立てて宮殿を造営、ヤマトタケル遺品である草薙剣を祀り、ヤマトタケルを合祀して、『熱田大神』を創建。13代成務天皇より、ヤマトタケル御子・長田王へ『尾羽張』姓と『源大夫』官名を賜われる。これがおそらく後世の尾張氏とみる。
また愛知県内には『長田(オサダ・ナガタ)』という地名がかなり点在しており、『長田』『長田池』『長田庄』などがある。長田氏族の由来はこの地名に由来する。
※通説の宮簀媛には、御子がいないので注意。
※因みにwikipedia小野寺氏によると、藤原秀郷流を自称する下野小野寺氏は、天火明命の末裔である尾張氏族の熱田神宮大内人家・守部氏を祖にしている説もあり。
長田氏族末裔・永井氏、江戸時代後の変遷。
後世・鎌倉時代の北条執権政治は、清和源氏や頼朝貢献者や富士朝色を一掃し、権力独占をさらに強化しており、頼朝の恩人である三浦氏や和田氏、長田氏はスケープゴートされた可能性あり。北条執権政治・吾妻鏡・ウエツフミ・三宅記は、富士朝と伊豆史を消した大要因となるであろう。
通説では、義朝殺しの長田忠致の兄である長田親致子孫が、三河国幡豆郡大浜郷(愛知県碧南市付近)に残っていたようだ。前述のとおり、長田親致の子・政俊から派生し、平内左衛門信広が甲斐国に移り、武田信綱に仕えたとする系図が存在する。
富士朝は室町時代1404年2月2日に陥落しており、甲斐武田が滅びた1582年『甲州征伐』以降、太田氏・井伊氏・井手氏などの富士朝関係氏族の多くが、『甲信両国信玄衆誓詞』の協約などにより、三河国徳川家に召し抱えられる運びとなる。長田(永井)重元が、徳川家康の三河への逃亡劇『伊賀越え』の危機を救い徳川に召し抱えられると、大江姓永井氏に改姓される。これは長田氏族・忠致が源義朝を討ちとった、曰く付き家号であるためとされる。
その後、この宮下文書記載の富士朝宮伴・長田氏族がどうなったかは不明…。ただ、賀茂氏族末裔説がある徳川家康や、三浦氏族蘆名氏・天海という人物は、富士朝の存在を知っていながら、これら多く謎を秘めていた節があるのは事実である。
江戸時代になると、長田重元の子・永井直勝が、かつて藤原秀郷の領地であった『田心姫命』を祀る古河藩下野国寒川を領していた。個人的には、この田心姫命の正体は、寒川毘女ことカモサワヒメではないか?と見ており、下野国広域が関東でも重要な富士朝信仰拠点だったと思っている(大妄想)。
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賀茂『七瀬祓い』と寒川『七郷めぐり』の類似性、やはり隠されていたのは別雷神カモサワヒメ? - セキホツ熊の謎を追え!
<前記事追記>カモサワヒメと寒川神と田心姫命、歴史が繋がった??? - セキホツ熊の謎を追え!
現在でも茨城県古河市西町に存在している『永井寺』は、永井直勝による開基であり、御本人の墓所である。もし仮に、永井氏が富士朝関係氏族であれば、徳川からこの下野国寒川を任された理由も見えてくるような気がするのだ…。
前記事でも紹介したが、古河藩小野寺村周辺『三島神社』(栃木県栃木市岩舟町三谷)で住民の方からお聞きした話では、江戸時代この古河藩検地からハズされていたという。詳細は不明、藩主がどういう意図を持っていたのかも全くの不明だが、もしかしたら…永井氏は三島神カモサワヒメにご恩を感じていたのかも…???。まあ、偶然なのかは不明なのだが…、19世紀幕末新撰組らと行動した永井尚志の玄孫には、作家の三島由紀夫が登場している(苦笑)。
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古河藩『永井寺』の思い出。
因みに2021年秋の頼政神社を参拝している。理由は『正一位頼政大明神』のいう肩書で、さぞかしスゴいんだろうなぁという…煩悩まみれの浅はかな理由であった。
この時この『大手町』の住宅街で道に迷い、ホント偶然にもこの『永井寺』の前に迷い込んだ。あれれ?神社じゃない、寺か?、と首をかしげつつ、後ろ髪引かれる経験をした。
いま思えば…、お寺もお参りしとけばよかった。
結局、渡良瀬川方面から古河公園を回り込み、水神宮側の南鳥居から、頼政神社へと入った。鳥居前にロープが貼られていたのだが、割とよくある駐車禁止かと思って跨いで入る。境内が荒れ放題、ヤブと蜘蛛の巣をかき分け、千匹くらいのヤブ蚊の大群に瞬殺フルボッコにされた…。これが正一位か?と不思議に思いつつ、帰りはハアハアいいながら東側の鳥居から出ようとする。すると、鳥居にまたロープが貼ってあり、『蜂の巣があるので入らないでください』と注意書きが貼ってあった(笑)。東鳥居から入っていたら、まず参拝は諦めていたのだろうな…と思いつつ、汗だく泥まみれでトボトボと歩いた…。
蚊もいるお(´(ェ)`)。
叔父が残した『オカン家系図』によると、私の祖母の父方に永井氏が登場する。ま、詳細は不明だし、十中八九は偶然…。しかし、このご先祖さまの生誕地、とある西国の『葵町』の大きな賀茂神社の目の前で生まれたようだ。周辺は吉田さんだらけ。やはり、カモサワヒメとの不思議なご縁があったのかなと…。