2025,5,18
GWに本州最南端の潮御崎神社を参拝した約10日後、潮岬の『黒潮大蛇行』が終息の兆し…というニュースが飛び込んできた。黒潮大蛇行は実に2017年から八年間弱ずっと続いており、沿岸の漁業に大打撃を与えていたようなのだが…。xは過疎ってて誰も構ってくれず、仕方がないので一日中オッサン一人でニヤニヤしていた(苦笑)。これもシンクロニシティなのだろうか?、だけど一人の放浪オッサンの祈りの力とも言い切れないわけで…なんか複雑な心境っス。
(´(ェ)`)
で…今回あらためて『潮御崎神社』の地理状況を見直すと。なんと今回熊オッサンが巡礼した神社数社が潮岬までレイラインとなっていたことが判明。前回は出雲からのラインであったが、今回は伊勢からのラインを見つけた。カギとなっていたのが神武東征時代にこの地域で入水した?二柱の王子。宮下文書三輪本現代訳p116にはその驚愕の真相が隠されていた。
彼らが祈願した謎の海神の影がチラついてくる。
(´(ェ)`)
~目次~
- 宮下文書における『神武東征』とは?
- 激戦比定地がレイラインに。
- あらためて記紀の不可解さが露呈した。
- なぜ熊野にヤタガラス伝承が残るのか?
- なぜ神風武勇伝は歪んだ?。
- 〈おまけ〉レイラインってなんだ?
<神社めぐり>本州最南端出雲『朝貴神社』『潮御﨑神社』と、出雲と熊野すり替え解明レイライン? - セキホツ熊の謎を追え!
宮下文書における『神武東征』とは?
宮下文書ウガヤフキアエズ51代即位36年。
中国(おそらく中国地方)を拠点としていた白木人(新羅人?)禍津亘理命が、ウガヤフキアエズ46代皇子・天之明立農鋤命玄孫の真佐勝彦命を奉じて蜂起した。総司令として長髄彦命を立て勢力を急拡大させた。大河山・山表・山背・木山・泉津の五区国(おそらく関西圏)の令を殺害し、ウガヤ勢力である海津彦五瀬王命を襲撃した。
関西〜中国地方半数は既に白木人らに操られており、皇軍は東国旧勢力オオクニヌシ・コトシロヌシ・スサノオ・タケミナカタ・タケミカヅチ・フツヌシら末裔に援軍要請せざる得なかったようだ。東国神は鹿に乗っており、大和国春日大社鹿伝承はこれらと東国戦士たちを指していると思われる。
51代神皇は伊勢口から、四皇子の日高佐野王を皇太子として久真野口(熊野口)から反撃。東国軍は東海口などから日栄山(比叡山)方面へ、これが17年間の神武東征『闇黒の世』の幕開けとなる。
〜宮下文書ウガヤ51代弥真都男王尊皇子〜
- 皇太子 海津彦五瀬王命(戦死)
- 二皇子 稲飯王命 (戦死)
- 三皇子 三毛野入野王命(戦死)
- 四皇子 日高佐野王命(のちの神武天皇)
- 五皇子 阿田美椎津彦王命
- 六皇子 高倉日本王命(八咫烏伝承?)
- 七皇子 軽身大久保王命
※ホツマツタヱ版ネ州におけるシラヒト・コクミ事件、中国地方の白兎(はくと)伝承もこの白木人と関係がありそうだ。因幡の白兎では、ワニ(安曇族和邇氏?)を騙して海を渡ってきた伝承も合点がゆく。
皇太子は行宮『日高の宮』(湯野崎水門?日高郡御崎神社付近か?)を拠点とする。高座日多命・稲飯命・三毛野入野王命に、牟婁の鬼山付近に終結している長髄彦賊軍討伐を命じた。『白木の賊徒を塵にせよ、もし遁走させれば天地神明ともに許さぬ罪となろう』と皇兄らに檄を飛ばした。
稲飯命と三毛野入野命の兄弟は、曽根山から三木浦・錦浦に逃げ込んだ白木軍船50隻と援護船500余りを追う。皇兄に先陣を願い出たのが忌部若道命。あらかじめ海兵隊持参で参戦してきたようで、宮下文書には『忌部氏』と呼称されていた。
しかし皇兄らはこの時点では許可しなかったようだ。
翌早朝三木浦から錦浦を眺めたところ、白木軍は撤退して跡形もなかった。漁師に尋ねると前日のうちに消えたという。皇太子の詔から察するに…稲飯命らはどうしても逃がすわけにはいかなかった。そこには神武に対する皇兄のプライドもあったのかもしれない。
焦った稲飯命は『皇祖は天つ神、母は海神である私が、どうして賊軍に海路を譲ることができようか?』と、龍船に乗って疾電のごとく船を走らせ白木軍に追いついた。稲飯命は大剣を振りかざして、高天原の神祖神宗の天つ大御神に祈願する。『神あらば、速やかに暴風を起こし、数多くの賊船を覆してください…』と大剣を大海に投げ入れた。
倣って弟・三毛野入野命も天神地祇に祈り大剣を大海に投げ入れた。そして血気盛んな忌部若道命をはじめとする強兵2000人が吶喊!と大声を張り上げ鋭く戦った。
そのとき南西から大風が巻き起こった。さらに北西から暴風がおこり皇軍と賊軍とともに津久島に吹き付けられた。そこに南東の未曾有の大暴風が叩きつけ、結果として皇軍も賊軍も強兵『2500神皆』が水底に沈んだ。
※この忌部氏の出自は不明。ただ神武東征後の大嘗會にて、思兼堅石彦(オモイカネカタイワヒコ)命らとともに、中臣忌部八重垣命が掌ったと記載あり。宮下文書における中臣とは、フトダマ祖家系かアメノコヤネ武部系の2系に限定されるハズである。おそらくこの場合の忌部氏はフトダマ祖家系ではないか?と思われる。
※※因みに九鬼文書に関わった熊野本宮大社の八庄司一派?九鬼氏の本貫地がこの周辺であった。ここにもスサノオと熊野信仰がシンクロしており、彼らはなぜか古代出雲王朝の正統性を主張している。
激戦比定地がレイラインに。
宮下文書三輪本現代訳p116、タイトルは牟婁の鬼山と記されている。牟婁(むろ)とは紀伊半島南部の総称で熊野灘を指すことが多い。前記事の朝貴神社・潮御崎神社もこの牟婁郡域に含まれる。
鬼山は不明であるが鬼ヶ城?または九鬼町八鬼山か?。曽根山(大曽根山?)から三木浦(三木浦漁港?)が舞台だと見られる。いずれも熊野灘リアス海岸として知られる景勝地だ。
錦浦(にしきうら)は二木島(にぎしま)と見てよいだろう。宮下文書では錦村戸長・今登志麻が白木軍に組みして反抗してきたとされている。日本書紀では熊野の荒坂津で神武天皇が丹敷戸畔(にしきべ)を討伐した故事による。かつては二鬼島という表記もあった。ただ一般的には錦浦比定地は、前記事紹介の浜の宮王子跡(神武天皇頓宮跡)に比定されてしまっているので注意。
今回これがなんと、室古神社→浜王子→浜の宮王子跡→潮御崎神社へのレイラインとなっていることに気づいた。
レレレ…レイラインになっている!(´(ェ)`)
〜稲飯命レイライン〜
- 潮御崎神社
- 志津の窟(潮御崎神社旧跡)
- 雷公神社
- 橋杭岩・蛭子大明神
- 補陀洛山寺
- 熊野三所大神社(浜の宮王子跡)
- 浜王子(王子ヶ浜)
- 室古神社(稲飯命)
- 伊勢外宮
- 別宮月夜見宮
- 伊賀八幡宮
- 大樹寺(徳川松平菩提寺)
- 恵那山(ホツマ版アマテルの胞衣を祀る)
- 守屋山(西峰)
- 守屋神社奥宮(物部守屋末裔伝承)
- 諏訪大社上社本宮
- 白樺湖・女神湖
- 浅間山
- 立石寺(山寺、円仁慈覚開山)
- 薬萊神社(坂上田村麿伝承)
- 遠野倭文神社(アマテラス・下照姫・瀬織津姫、ホツマツタヱ版下照姫はヒルコのこと)
- 明神崎・加茂神社
※スクナビコナ志津の窟比定地として、島根県大田市静間町魚津『静之窟』がある。
〜三毛入野命レイライン〜
- 補陀洛山寺
- 熊野三所大神社
- 浜の宮王子跡
- 王子ヶ浜
- 阿古師神社(三毛入野命)伊勢内宮
- 二見浦公園
〜紀伊筑紫神風レイライン?〜
- 田島神社(名神大社、宗像大社元宮説、ニニギ外寇の戦場、1.4kmズレ)
- 能古山・白髭神社
- 筑前一宮筥崎宮(元寇激戦地)
- 風治八幡宮
- 網敷天満宮
- 高忍日賣神社(式内社、1.4kmズレ)
- 惣河内神社(八王子神)
- 石鎚神社中宮(役行者開山)
- 劔山本宮・古劔神社
- 剣山
- 御崎神社(日高郡美浜町)
- 玉置山・玉置神社
- 大馬神社(1kmズレ)
- 室古神社(稲飯命)
- 阿古師神社(三毛入野命)
◯『室古神社』(三重県熊野市二木島町)
〜御祭神〜
- 稲飯命
- 底筒男命
- 稲倉魂命
由緒書によると、御祭神は豊玉彦命・熊野大神・稲飯命の三柱説があるという。
神武天皇東征中に暴風雨にあって船団は漂流し。皇兄の稲飯命と三毛入野命は入水した。後に地元の村民が奉葬した。稲飯命の御陵(墓)を尊崇して産土神として祀った。
◯『阿古師神社』(三重県熊野市甫母町)
~御祭神~
- 三毛入野命
- 天照皇大神
- 大山祇命
- 蛭子命
- 倉稲魂命
室古神社対岸の三毛入野命の御陵を尊崇して産土神として祀ったのが阿古師神社。
由緒書によると、御祭神は豊玉姫命・伊勢大神・三毛入野命の三柱説があり。昔はこの錦浦を挟んで郡域が、熊野牟婁と伊勢英虞(あご)に分かれていたようで、それぞれの地元民が祭祀していた。毎年11月3日にはそれぞれの名代として2隻の舟40人が早漕ぎ競争をする。
◯『浜王子』(和歌山県新宮市熊野地)
〜御祭神〜
- 稲飯命
- 三毛入野命
境内由緒書によると熊野九十九王子のひとつとされる。古来から海神を祀っており、その怒りを鎮めるためにこの二王子が海中に投身した。だとすると…ヤマトタケル東征における三浦半島沖淡水門のオトタチバナヒメ入水事件と動機が一致する。
1322年(元亨2年)に武蔵国豊島郡領主・豊島右近太夫景村に王子権現として勧請されて『王子神社』となる。これが現代の東京都北区王子の由来で、隣の王子稲荷神社にはワクムスビが祭られる。このあたりはまた別記事で纏める。
浜王子の方は1879年(明治12年)、和歌山県新宮市阿須賀の古社『阿須賀王子』に合祀された。周辺には徐福上陸地伝承があり、日本書紀における熊野神邑に比定されるという。
あらためて記紀の不可解さが露呈した。
今回あらためて通説の不可解さが露呈した。さらにホツマ+記紀が富士古文書(宮下文書)を元ネタとしている疑惑が浮上してくる。
記紀版稲飯命は、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と海神の娘の玉依姫との間に生まれた神武天皇の皇兄。表記として稲飯命・彦稲飯命・稲氷命がある。
日本書紀曰く、神武東征中に熊野に進んで暴風に遭い、『我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか?』と言って剣を抜いて海に入水し、鋤持神(さいもちのかみ)となったとされる。
古事記では、母方の海神の国(妣国)である海へ入り坐したとだけある。
ホツマツタヱでは神武東征に随伴しイワタテの沖で暴風雨に遭う。『我が祖天の神よ、我が母ワダカミよ、陸でも海でも我らを苦しめてどうしようと言うのか?、せめて荒波だけでも鎮め給え』と悲壮感に身を任せ、剣を振りかざしたまま入水自殺したという。彼の犠牲のおかげで東征が達成されたため、戦後にサヒモチの海神として祀られたとある。やはりこの地には古来から謎の海神信仰があったことを匂わせている。
※また新撰姓氏録ではなんと…宮下文書における敵側であった、新羅王の祖と記されている。これは当人に対する侮辱なんじゃないのかな…と。
(´(ェ)`)
一方で記紀版三毛入野命は、稲飯命同様に彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と海神の娘の玉依姫との間に生まれた神武天皇の皇兄。三毛入野命・三毛野命・稚三毛野命・御毛沼命とも表記される。
日本書紀によると、神武東征中に熊野へ進軍するが暴風に遭う。『母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか?』と言って、波頭を踏んで常世に行ったとされる。
古事記では、波頭を踏んで常世の国に渡ったとだけ記されている。
ホツマツタヱでは、タマヨリ姫が白羽の矢によって生んだ子。初め出雲の御子と呼ばれタマヨリ姫と共に宮内に召されウガヤの養子となる。このあたりは釈日本紀や山城風土記の賀茂別雷命伝承に酷似している。因みにホツマ版別雷命はニニキネ(ニニギ)のこと。神武東征に随伴し、イワタテ(天磐盾=神倉神社ゴトビキ岩)沖で遭遇した暴風雨にて死亡。
ここまでそれぞれセリフが若干違うが、基本的には宮下文書記述に準じているのがわかると思う。
二柱兄弟は神武皇兄なわけで、後世末裔が皇位継承主張をしてくるのを懸念した理由もありそうだ。フトダマ忌部氏の出自が曖昧にされたのも、645年乙巳の変などで祖家勢力(蘇我大伴の同祖)が失脚したのが大きいだろう。いずれにせよ彼らの犠牲なくして日本国はなかった可能性があるわけだが…、政治的にはこの鬼神の如き英霊たち、この武勇伝を後世に残すわけにはいかなかったようだ。
なぜ熊野にヤタガラス伝承が残るのか?
宮下文書版ヤタガラスとは富士朝の神託『八咫烏を皇軍の指導者とさせる』による。
日本書紀版神武天皇が登った天磐盾が神倉神社『ゴトビキ岩』に比定されており、ここの御祭神・高倉下命がヤタガラス伝承と深い関係が指摘されている。
◯『神倉神社』(和歌山県新宮市神倉)
〜御祭神〜
- 天照大神
- 高倉下命
宮下文書には高倉下命は登場しない。
前記事から述べているように、六皇子・高倉日本命は東征中に神武天皇の勅使として富士朝へ渡り、富士朝から神皇の宣旨を奉じて伝えた人物。また東国援軍を募り活躍した人物。宮下文書における熊野が神武東征の主戦場だったわけで、神武天皇がヤタガラスの御神託を賜ったことを暗に示しているのだろう。
これが高座日多命(媛蹈鞴五十鈴媛の父)と混同されている節がある。宮下文書三輪本現代訳には高座日本と記されているが、神武の皇弟となっているので原本?の誤植だと思われる。ほぼ同時期に富士朝へ神武勅使として渡り、フツノミタマを賜り、ヤタガラスの神託を持ち帰った人物。混同されてもおかしくはないであろう。
因みにホツマツタヱ29文ではこの高倉下命が富士山へ行かず、霊夢でタケミカヅチから布都の神剣を授かり、それを神武天皇に『奨めた』という内容に変更されている。ここから見ても高倉下命≒高座日多命とも言えそうだ。
~宮下文書表記:第二の皇弟高座日本皇子とは?~
▲高座日多命…神武天皇叔父で義父?
▲高倉日本命…神武天皇第二の皇弟(第六皇子)?
東征戦後論功行賞、大和(山表)・山背・川地・泉水・摂津の五道は御家内と称し神皇御領地とされた。そのなかで前述の高倉日本皇子(高倉王命)を大和・山背・川地三国の国造とし、猛田(武田)の大県主を賜る。とくに山背国貴船大神はウガヤフキアエズ皇族や海軍将校の神霊を祀る戦没慰霊地であった。
この猛田比定地は、京都市伏見区竹田の式内社『真幡寸神社旧跡』付近?とみている。かつてこの付近には河川港伏見港があり宇治川水運の要衝とされ、日本紀略によると『鴨雷神之別也』とあり。山背国賀茂別雷神社との関係が指摘される。神社はかつて藤森神社社地にもあり、そこから城南宮へと転々としていたが徳川家康から三葉葵神紋の使用を許された。諸説あるが徳川将軍家出自には賀茂明神神官末裔説があり、賀茂氏族との関係が指摘される。もしこの地が山背国賀茂氏のルーツであるなら、徳川幕府が重要視するのも合点がゆく。
個人的には賀茂氏祖・賀茂建角身命と関係があるのではないか?とみている。宮下文書には賀茂建角身命は登場しないが、ホツマツタヱにおけるタケスミに比定。イソヨリヒメ(ミホツヒメ孫)を娶っているので、この地で語られる出雲要素はクニトコタチ丹波出雲(出雲大神宮)のことだろう。ここでも中国地方出雲と混同されている節があるので注意。
つまりは山城国祭祀とくに賀茂神タマヨリヒメ祭祀は、旧ウガヤ勢影響力を示している。
とは言えこの高倉下命は、他の地域祭祀にも複雑に絡んでおり、一筋縄では説明しきれない部分もある。
例えば、神武東征以前の大和国におけるホアカリ尾張勢力開拓史をすり替えるため、尾張連祖とされている可能性もあるだろう。熱田神宮境外摂社『高座結御子神社』にも祀られているのはこのためだと思われ、神倉神社→熱田神宮→信州出雲戸隠と同ライン上800mズレで結ばれている。通説熊野神はスサノオとされており、ホツマ版ヤマトタケルはスサノオ転生を自称しているわけで、このレイラインの意味合いも深みを増していく(前記事参照)。
ホツマツタヱではこのあたりからホアカリ・ニギハヤヒ伝承、さらに祖家ウマシマジ伝承と出雲伝承が混同されていると思われる。
さらにはホツマツタヱでは弥彦神=高倉下命となっているが、これは宮下文書版神武東征中に行われた丹生川上にて行われた、大和国の天香山埴土の神事に由来していると思われる。
宮下文書における越後一宮弥彦神社=コトシロヌシ『伊彌の宮』、御祭神の天香護山命とはコトシロヌシ二男。現在の天香久山『畝尾都多本神社』に泣沢女神(宮下文書版コトシロヌシ娘、オオヤマツミ妃、カモサワヒメ諡別雷命)が祀られており、天香久山にも賀茂氏との接点がありそうだ。
少なくとも宮下文書から言えることは…、これら高倉下命が同一であるハズがない。
つまり高倉下命という存在は、神武東征以前に大和にもともといた旧ホノアカリ尾張勢力と、九州からきた神武兄弟複数神の影響力を包括した、附会的存在なのではないか?と…。結局ウガヤフキアエズ朝を欠史にした余波から生まれた御神霊であり、誕生したのは10代崇神〜12代景行時代編纂ホツマツタヱ成立前後と見られる。
(´(ェ)`)
なぜ神風武勇伝は歪んだ?。
結論から言えば、ウガヤフキアエズ全51代をまるまる欠史にしていることの余波だと言える。史実は10代崇神〜12代景行時代編纂ホツマツタヱ成立前後に改竄されたと見られる。
そもそもウガヤフキアエズ朝が九州高千穂峰を神都とし全51代も続いた理由は、大陸監視の役割が大きかった。富士朝が言向和平に根ざした調和を目指した時代とするなら、続くウガヤ朝時代は国防のアイデンティティと言っても過言ではない。
・ニニギ朝に大陸勢がなだれ込む。
↓
・ヒコホホデミ朝タマノオヤ大宮司はその戦後処理に苦しんだようだ。
↓
・ウガヤフキアエズ朝24代、外寇船100隻が襲来したが神風により沈没した。
↓
・ウガヤフキアエズ朝36代、100隻あまり襲来して、3年強かけて撃退した。
↓
・ウガヤフキアエズ朝49代、本島南の地に白木人による大規模蜂起があり、平定に17年かかった。
その他にも小さな衝突はあったと思われる。
しかしこのウガヤフキアエズ時代約2000〜3000年間に、渡来人帰化人の侵食がかなり進行したとみられ各地小競り合いが頻発した。これが神武東征が17年近くも手こずっていた理由なのだ。移民たちは存亡をかけて襲い掛かってくるわけで、言向和平の共存は難しい状況にあった。
戦後神武天皇が拠点を九州から『大和』へ遷した理由は、本土中心部からあまねく全国の移民たちを監視する時代へと移行したことを意味する。
これが…ホツマ記紀ではどうか?。
ご存知のようにホツマ記紀ではニニギ→ヒコホホデミ→ウガヤフキアエズ→神武天皇であり、おおよそ2000〜3000年間ほどのウガヤ朝時代がまるまるオミットされている。つまり渡来人が激増した『戦いの歴史』を説明しきれていない。
そもそもホツマ版ニニギ(ニニキネ)は灌漑用水を広めた天才発明家、農業の先駆者で開拓神の性質が強い。宮下文書版ニニギはコノハナサクヤヒメを自殺させてしまい、善と悪に打ち拉されて再起不能となる。戦士としてのアイデンティティをこれほどまでにねじ曲げられている御神霊はそういない…。
さらにすぐ曾孫が神武天皇となり、神武東征までに西日本が渡来人に侵食されて危機に瀕していた経緯までも、まるまる隠さねばならなかった。歴史改竄の神話作りに際して、天孫族ニニギが高天原から降臨してきた矢先に、渡来人勢力が爆発的に増加している状況は都合の悪いのだろう。天孫ニニギを侵略者として語るわけにもいかなかった。
現にホツマツタヱ版神武東征は、皇別神ニギハヤヒとナガスネヒコが結託。秘密の神宝『春日神庫の代嗣文』の扱いをめぐり東国と対立。きっかけはあくまで大和民族同士の内乱として描かれている。
移民流入の歴史は別途、信州出雲〜中国地方出雲を舞台とした根の国背乗り事件『シラヒト・コクミ事件』として、神武東征から切り離されて集約されている感がある。
通説、日本人にはアニミズムと仏教を受容する和の精神が確かにあった。ただ渡来人と仲良くし同化していったというのはごく一側面でしかなく、海外勢力を全力で阻止してきた血塗られた歴史は確実にあったのだ。それが現代日本人に全く伝わっていないようだ。さらには坂上田村麿のように、富士朝関連氏族を渡来人帰化人と語っている節がある。縄文神代のオリジナリティが海外文化により埋没させられてきたことも知ってほしいと思う。
(´(ェ)`)
〈おまけ〉レイラインってなんだ?
スピリチュアル的に『時間』はなく、パラレルやタイムラインが沢山あるため、一つの真相を追求するのは無用とも云われる。しかし各文献に様々な稲飯命と三毛野入野命のパラレルが並列しているように、重要なのは歴史の因果関係を探る事にある気がする。
神道とは祖霊信仰。つまり祖先がどういう気持ちで、なにと戦っていたかを知る必要がある。なぜなら…私たち末裔にはその遺伝子情報が此処彼処に刻まれているからだ。ウガヤフキアエズの歴代神皇の立場からみれば、末裔たちに戦争の理由を矛盾なく伝えてほしいと思うだろう。その因果を辿ってはじめて戦いのカルマは統合される。だから戦争の善・悪はひとまず置いておいて、一つ一つの遺伝子を確認しつつ癒していく作業となる。
歴史にはいろいろな考えは必要だけど、結局この因果の辻褄を合わせることが私たちにとって一番大切だと思っている。
今回もフラフラ神社巡りをしていたら、それらがすべて同一線上を辿っていて驚いた。因みにクニサツチ本土上陸ルートやヤマトタケル東征ルートにも、このようなレイライン現象がおこっている。例えば熱田神宮→酒折宮→新治神社はレイラインで結ばれており、酒折宮には新治への日本最古の連歌が残されている。最近思うに…レイラインとはこんな因果応報の流れなのかな?と。
声『対元寇氏族の末裔よ…お前に神風の謎が解けるのか???』
熊『…』
声『それでもいい…』
声『その因果で思ったことを、お前の言葉で伝えてくれ…。それがお前のラインとなる』
そういえば私は武藤少弐氏の末裔(推定)だった…。なんの因果かと思ってしまう。奇しくも三本目のレイラインは阿古師神社と室古神社を結ぶレイラインは、ニニギ外寇親征の役と鎌倉時代2度の元寇の激戦地筑紫へ到達する。熊オッサンにとっても他人事とは思えない。
阿古師神社・阿須賀神社・浜王子・熊野三所大神社・潮御崎神社…。行けたら行ってみようかな?位のノリだったのだが、今考えると全神社呼ばれていた可能性あり(苦笑)。唯一心残りなのは室古神社に行く時間がなかったことかな…。
浜王子さまに『富士山と戦争の歴史をみんなに伝えます』と約束してきた。
(´(ェ)`)
x始めたんですけど...。
そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。
↓
※地図はクラフトマップ使用。