2024,12,15
前記事では『妹背』『稚』『若宮』『和歌』というのは、アメノオシホミミを残して早世したマゴコロ夫妻の暗示ではないか?と考察した。
さらに…ホツマツタヱ版アマテラス、男神アマテル(斎名ワカヒト)には、マゴコロタケルが投影されているのてはないかと述べた。今回はこのあたりの可能性を深掘りしてみよう。
それが麻賀多神社ワクムスビ(ワカムスビ)✕ワカヒルメ(ヒルコ)の二柱のコンビネーションとなる。日月神示を解く上でもキープレーヤーとなりそうだ。
いよいよ熊の〜(´(ェ)`)
〜妹背の神々?〜
▲マゴコロタケル(真心武命)
兄クニトコタチ嫡流トヨクムヌ嫡男・阿和武命、アメノオシホミミ誕生とともに死去する。ワクムスビ?、アワナギ?、ホツマ版男神アマテラス?、王子権現若一王子?。
▲マゴコロアイヒメ(真心合比女命)
弟クニサツチ長男ウイジニ九女、松島毘女命、マゴコロ夫妻揃って謎の死を遂げる。ヒルコ?、ワカヒメ?、ワカヒルメ?、ワカザクラヒメ?、ヱビス信仰の一部?、七夕織姫伝承の一部?、ホツマツタヱ版御歳神?
△アマテラス(大日孁貴尊)
富士朝トップ、生涯未婚で遺児アメノオシホミミを養子とする。ツクヨミ姉、月桜田毘女命と松島毘女命の従姉妹。ホツマツタヱでは男神アマテル(ワカヒト)とされ、この場合瀬織津姫ホノコを正后とする。
△瀬織津姫(アマテラス荒魂)
ホツマツタヱ版男神アマテラスの正后。ワカザクラヒメ実姉。ワカヒルメ義妹。クニサツチ御孫?、ツクヨミ妃月桜田毘女命?、マゴコロアイヒメ実姉?。
~目次~
- 宮下文書版熊野とは?。
- 大宮司タマノオヤ色の熊野が、なぜスサノオ一色に染まったのか?。
- 若宮と若一王子とは?
- 宮下文書における忌部氏祖と熊野の関係?
- ホツマツタヱ版『浜王子』とは?
- 阿波忌部による若宮祭祀。
- ホツマツタヱ版ワカヒルメの夫、オモイカネとは?
- 全国のマゴコロ夫妻関係神社?
〈東国祖家大国〉瀬織津姫・稚日女命・丹生都姫も祖家女系だった?。忌部は隠蔽された皇族史を祀っていた。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈妹背解明〉ヒルコ筑波山誕生説と、ワクムスビとワカヒルメの日月神示レイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈筑波桜川めぐり〉瀬織津姫・稚日女命ふるさと説、ヒムカの謡曲桜川との関係とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!
宮下文書版熊野とは?。
宮下文書版熊野とは、宮下文書版アメノオシホミミの八王子第二皇子で、富士朝2代目大宮司タマノオヤの御子ウサミと御孫クマノクスヒコの三代が寄与した祭祀拠点。
神代ニニギ外寇親征の役の後、南海・西海が大いに荒れタマノオヤが平定することになる。タマノオヤは西征して活躍するも、佐波国穴門の宮『周防一宮玉祖神社』付近にて急死、御子ウサミがこれを継いだ。記載がないが、どうやらすぐ対岸にある宇佐八幡信仰ともリンクしていたようだ。同社は高千穂峰〜宇佐神宮のレイラインの延長線上となる。
つまり『三つ巴神紋』である八幡・熊野とは、阿族祖霊信仰そのものであり、それを富士朝大宮司タマノオヤ家族神が名代(祖霊への窓口的な立場)となっていた可能性あり。実態は親子のような信仰ではないだろうか?と見ている…。
熊野には、高天原よりイザナギ・イザナミ・アマテラス・アメノオシホミミを分霊し、さらに父神タマノオヤを合祀し、久眞野(熊野)山社大神とした。木が生い茂っていたので木野(きの)国と称した。これをウサミ御子クマノクスヒコ(久眞野久住毘古命)が宮守として継承した。
(´(ェ)`)
〜宮下文書現代訳p72〜
宇佐見命は、西方の諸々の州国を久眞(クマ)なく治まったので、その繁茂した木立の大山を久眞野(熊野)山と名付け、その麓に宮を造営して住んだ。これを久眞野の宮という。
〜宮下文書版熊野神比定?〜
▲家都美御子大神(富士朝大宮司タマノオヤ?)
▲速玉之男神(御子ウサミ?)
▲熊野夫須美大神(御孫クマノクスヒコ?)
※鈴木貞一『日本古代文書の謎』p76注釈参照。
※※通説、家都美御子(けつみみこ)大神または櫛御気野(くしみけぬ)命はタマノオヤ外祖父スサノオと解釈されている。
◯熊野三山
〜熊野本宮〜
上四社
・第一殿西御前
熊野牟須美大神・事解之男神(千手観音)
・第二殿中御前
速玉之男神(薬師如来)
・第三殿證証殿
家都美御子大神(阿弥陀如来)
・第四殿若宮
天照大神(十一面観音)
中四社
・第五殿禅児宮
忍穂耳命(地蔵菩薩)
・第六殿聖宮
瓊々杵尊(龍樹菩薩)
・第七殿児宮
彦火火出見尊(如意輪観音)
・第八殿子守宮
鵜葺草葺不合命(聖観音)
下四社
・第九殿一万十万
軻遇突智命(文殊菩薩・普賢菩薩)
・第十殿米持金剛
埴山姫命(毘沙門天)
・第十一殿(飛行夜叉)
弥都波能売命(不動明王)
・第十二殿勧請十五所
稚産霊命=ワクムスビ(釈迦如来)
〜熊野速玉大社〜
上四社
第一殿結宮
熊野夫須美大神(千手観音)
第二殿速玉宮
熊野速玉大神(薬師如来)
第三殿証誠殿
家津美御子大神・国常立尊(阿弥陀如来)
第四殿若宮
天照大神(十一面観音)神倉宮(高倉下命)
中四社
第五殿禅児宮
天忍穂耳尊(地蔵菩薩)
第六殿聖宮
瓊々杵尊(龍樹菩薩)
第七殿児宮
彦火火出見尊(如意輪観音)
第八殿子守宮
鵜葺草葺不合命(聖観音)
下四社
第九殿一万宮
国狭槌尊(文殊菩薩)
十万宮
豊斟渟尊=トヨクムヌ(普賢菩薩)
第十殿勧請宮
泥土煮尊=ウイジニ(釈迦如来)
第十一殿飛行宮
大戸道尊(不動明王)
第十二殿米持宮
面足尊(多聞天)
〜熊野那智大社〜
上五社
第一殿瀧宮
大己貴命=飛瀧権現(千手観音)
第二殿證証殿
家津御子大神、国常立尊(阿弥陀如来)
第三殿中御前
御子速玉大神(薬師如来)
第四殿西御前
熊野夫須美大神(千手観音)
第五殿若宮
天照大神(十一面観音)
中四社
第六殿八社殿
禅児宮 忍穂耳尊(地蔵菩薩)
聖宮 瓊々杵尊(龍樹菩薩)
児宮 彦火火出見尊(如意輪観音)
子守宮 鵜葺草葺不合命(聖観音)
下四社
一万宮・十万宮
国狭槌尊、豊斟渟尊(文殊菩薩、普賢菩薩)
米持金剛
泥土煮尊(釈迦如来)
飛行夜叉
大戸道尊(不動明王)
勧請十五所
面足尊(釈迦如来)
熊野信仰はとくに皇祖男系のイメージが強い感がある。とくに若宮と称される『若一王子』という存在に着目、さらには熊野本宮下四社第十二殿勧請十五所のワクムスビが気になるところ。
もしこのホツマツタヱにおける男神アマテラス(斎名ワカヒト)が熊野信仰にも投影されているのであれば、マゴコロタケルが祀られていてもおかしくはないのである。奇しくも、ホツマツタヱ5文におけるイザナギ・イザナミが手掛けた熊野開拓『みやつくり』には、ワカヒルメも呼び出されて参加していた。
果たしてこれらは偶然なのだろうか?。
(´(ェ)`)
大宮司タマノオヤ色の熊野が、なぜスサノオ一色に染まったのか?。
熊野はヤタガラス神紋と、大宮司タマノオヤ末裔の影響下にあり、西国屈指の古神道エリアだったと考えられる。後世平安時代以降に熊野詣でが盛んに行われた。また南北朝時代に富士朝と組みした南朝が、吉野を拠点とした理由も、紀伊半島方面に支持者が多かったからという説がある。
前述のように宮下文書では、この地にアマテラスが勧請されていたのは確かだろう…。ただ以降にホツマツタヱ神道大系による干渉が入っている形跡もあるのだ。wikipediaによると、熊野本宮は10代崇神天皇時代、速玉大社は12代景行天皇時代の創建。つまりこの時代成立した大和国朝廷による同調圧力があったと考えるのが自然であろう。
ゆえに熊野の家津美御子大神と、出雲の櫛御気野命が、タマノオヤ外祖父スサノオと解釈され始めたのはちょうどこの頃だったのではないだろうかと推測できるのだ。
宮下文書におけるスサノオは、全国行脚して悪神を改心させた神。ゆえに何らかの形で紀伊半島へやってきた可能性はある。しかし基本的にはスサノオ末裔とは無関係な土地のはずなのだ…。
ではなぜ、こうも強烈に、熊野=スサノオのイメージに染まったのだろうか?。
まず時系列をおさらいすると…。
そもそも欠史八代は富士朝信仰に帰依してきたわけで、富士朝神道大系と歴史の改竄をする必要が全くなかったわけだ。
しかし10代崇神天皇以降、九州ウガヤフキアエズ朝と東国富士朝、旧勢力たちの既得権益と、西国天皇の権益が被る場面がでてきたと思われる。そのため彼らは、古代にさかのぼって、天津神と国津神の神系ごと完膚なきまでに改竄することを思いつく。地方神はすべて国津神地祇系統に再編され『国譲り』と称されることになる。宮下文書三輪本現代訳には崇神天皇以降に、古代の習わしを無視して、政治システムが急変していく様が刻銘に記されている。
こうしてホツマツタヱ『富士山なしの神道大系』が誕生。この歴史改竄によって、熊野信仰も富士朝色を排して、タマノオヤ外祖父であるスサノオ色に染められてしまった。
その理由の一つとしては考えられるのが、富士朝大宮司家の存在である。ちょうどこの時代の富士朝阿祖山太神宮大宮司家が、タマノオヤ系ではなく、スサノオ系だったのだ。
三輪本現代訳p244によると、BC241年、孝霊天皇が富士朝詣に出る。宮下文書における7代孝霊天皇時代西国天皇勢力による富士朝信仰が最高潮であった時代となるが…。
このとき尾羽張国から随伴してきたスサノオ68世孫尾羽張田彦命を、阿祖山太神宮の宮守司長(守護司長)に任命した。おそらくは日本総社津島神社と関係があると思われる。因みにこの二十数年後に徐福一団が、大陸から熊野を経由して富士朝に到来してきた。
前記事で述べた通り、イザナギ・イザナミは富士朝信仰の立役者である。その後7代孝霊天皇〜ヤマトタケル東征時代の7代福地佐太夫命に至るまでは、日本国の宗霊廟のトップがスサノオ系大宮司だった時代が続いていたわけだ。そのあと15代応神天皇御子大山守皇子(宮下始祖)が婿入りするわけで、八幡と熊野信仰の背景において、その時代その時代の富士朝大宮司祖神が重要なファクターとなるのが浮き彫りとなる。
もっと言えば、八幡・熊野信仰は富士朝大宮司家と呼応関係にあったのだ。
一方で中国地方出雲の場合、神武天皇東征にてスサノオ55世孫・出雲大神主命が活躍して白木人を平定した出雲・尾木(隠岐)の国造を賜り、信州出雲から国替えのような形で進出している。このとき残された信州出雲は、信州諏訪タケミナカタ勢力に譲り、八坂刀売命・御穂須須美命信仰に発展したと思われる。
このような経緯もあり、出雲一宮熊野大社に祀られる熊野神・櫛御気野命は、スサノオと混同されたと思われる。
熊野・出雲の両地域にて共通することだが…。10代崇神天皇以降、前代未聞の国史改竄をするにあたって、段階を踏む必要があった。当時の日本宗霊廟スサノオ系大宮司家の反応を伺う必要があった。西国天皇勢力側の一方的な弾圧的急変は、『神殺し』『朝敵』を疑われる世論を生んでしまう。富士朝信仰に近い熊野にて、大宮司家祖神スサノオを祀ることによって、暗に富士朝を牽制していたという見方もできるのだ。
(´(ェ)`)
若宮と若一王子とは?
話を若一王子に戻すと…。
若一王子(にゃくいちおうじ)とは、熊野信仰の神仏習合神で若王子(にゃくおうじ)とも表記される。
wikipediaによると、熊野三山の熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分類される。若宮とも称され、五所王子の第一位でその重要性が伺える。本地仏は十一面観音で、アマテラスあるいはニニギと解釈される。全国『王子権現』の総本宮となる。
一方で八幡系『若宮』は諸説あり。
宇佐神宮や石清水八幡宮では若宮五神として、16代仁徳天皇(大鷦鷯命)が祀られている。ただし前述のように、宮下文書における八幡信仰と熊野信仰の創建背景には、かなり類似点が残っていると思われる。さらには、タマノオヤ末裔がマゴコロ夫妻を祭祀していた形跡を鑑みると、両『若宮』信仰が同一神であっても何らおかしくはないのである。
また当ブログでは何度もご紹介している神奈川県鎌倉市材木座『由比若宮』にも着目する。鎌倉幕府の鶴岡八幡宮創建に際して、元宮とされる由比若宮の古神体を、頼朝の腹心である梶原景時が賜った。それを武蔵国多摩郡由比牧付近である『梶原八幡神社』へ遷座して、戦国時代には八王子という地名が誕生したとされる。これもアメノオシホミミ=八王子信仰根源神と考えると辻褄が合うのだ。
※宮下文書ではアメノオシホミミが生んだ八王子、ニニギ、タマノオヤが含まれるので注意。
宮下文書における忌部氏祖と熊野の関係?
宮下文書における若宮信仰の関わりを探ってみると、やはり『忌部』が関わっていた。
宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p117から118要約。
神武東征の時代、高座日多命・稲飯王命・三毛野入野王命、中臣道足命以下19将が紀伊半島錦水門(白浜付近)にて、白木軍(新羅?)賊船と海と陸をまたがって交戦した。皇軍の死傷者だけで2000神に及ぶ大戦であり、白木軍は錦浦方面へ敗走した。これを皇兄軍が必死で追った。そこに勇猛果敢な忌部若道命なる人物の海軍が合流して追討軍が組織された。
※三重県紀勢町錦。比定地は地図上かなり広範囲に渡るが、紀伊半島の南端から東側の三重県紀勢町錦漁港〜大曽根山〜三木浦付近?と思われる。
▲高座日多命(神武伯父、媛蹈鞴五十鈴媛命父)
▲稲飯王命(神武皇兄、三王子)
▲三毛野入野王命(神武皇兄、二王子)
△忌部若道命(出自不明)
津久島沖?、おそらく紀伊半島の東側の海原で白木軍団に追いついた。賊船は白木の軍船約50余艘、周辺国の援護船500余艘であったという。
稲飯命は船上で、高天原の神祖神宗諸々の天つ神らに祈り、大剣を海中へ投げ込んだ。三毛野入野王命もそれにならって、天神地祇に祈って神剣を大海へ投げ入れた。すると周囲に大風が起こり、その嵐に便乗して皇軍が白木軍を撃破することができた。しかしそれが未曾有の大暴風に変わり、敵も味方も巻き込んで強兵2500神以上皆沈滅させられたという。
このあたりは元寇などの神風伝承や、ヤマトタケル淡水門での暴風を彷彿とさせる。
因みに忌部若道命になる人物。
出自は不明ながらも『臣』『諸将』『かつては侍従長』と称されており、フトダマ祖家系だった可能性は強いのではないか?とみている。皇太子海津彦五瀬命に懇願し、皇軍の先陣となっており、勇敢な戦士であったことが伺える。個人的に気になっているのは『若』がついている点だが...、彼も最終的には船諸共に熊野灘へ沈んでしまったようだ。
ホツマツタヱ版『浜王子』とは?
ホツマツタヱ(29文)にも似たような記載がある。ただしホツマツタヱでは、宮下文書における渡来人勢力である長髄彦が、大和民族同士の対立として描かれている。そのため近畿圏にて大規模戦争があったことが、全体的に抑えられてしまっている節がある。
ホツマツタヱでは全51代ウガヤフキアエズ朝を完全に欠史にしてしまった。その代わりに、クシタマホノアカリなる謎の皇神が、大和国イカルガ宮とアスカ宮に神都を置いていた歴史となっている。後世にこれが謎の神ニギハヤヒとして混同されてしまったようだ。
そのお膝元近畿圏において、外国勢による大規模戦争を語ってしまうとマズイのである。
ホツマツタヱ版イナヰイ(稲飯命)はウガヤと内局タマヨリ姫御子、タケヒト(神武天皇)の皇兄。神武東征にて熊野灘『磐盾』沖にて暴風に遭遇、サビモチ(剣をもったまま沈んだ)の海神(わだかみ)として祀られるという。
ミケイリ(三毛入野命)とはタマヨリヒメが白羽の矢によって生んだ子で、出雲の御子と称された。タマヨリ姫と共に宮内に召されウガヤの子となる。イナヰイとともに磐盾沖にて水死。いずれも自然現象を強調している。
◯『室古神社』(三重県熊野市二木島町)
〜御祭神〜
- 稲飯命?
◯『阿古師神社』(三重県熊野市甫母町)
〜御祭神〜
- 三毛入野命
下述の神倉神社は、ホツマツタヱ成立時期の128年(景行58年)創建、熊野速玉大社の摂社、御神体は山上のゴトビキ岩。記紀における神武東征にて、神武天皇が登った天磐盾の山に比定される。前記事でご紹介した熊野三山レイラインも、熊野速玉大社よりかはこちらの神倉神社を座標標準にしたほうがレイライン精度が上がる。御朱印には熊野三山元宮と記載されているという。
また相模国に謎の神『石楯尾大神』を祀る石楯尾神社が点在しており、この信仰と深い関係がありそうだ…。相模原市佐野川の論社『石楯尾神社』では御祭神は神日本磐余彦尊(神武天皇)である。
◯『神倉神社』(和歌山県新宮市神倉)
〜御祭神〜
- 天照大神
- 高倉下命
※高倉下命は宮下文書比定、富士朝祈願をした神武皇弟・高倉日本王命のこと、あるいは神武伯父・高座日多命の可能性もあり。ヤタガラスとは富士朝阿祖山太神宮の神勅のことだと思われる。
◯『浜王子』(和歌山県新宮市熊野地)
〜御祭神〜
- 稲飯命
- 三毛入野命
※神倉神社の2km東。熊野権現の御子とされる『王子社』といわれている。熊野九十九王子信仰の一社。
船団の転覆地比定地の一つが、熊野速玉大社近く『浜王子』付近といわれる。熊野信仰の九十九王子とは、阿族歴代皇祖神に纏わる信仰なのではないか?と推測…。いずれにせよ熊野若一王子信仰=全国王子権現と関わりがあるとされる。当社は海に沈んだ稲飯命らを暗に『王子』と見立てているようだが、本来ならば大嵐を起こした海神の方を鎮魂祭祀していたような気もするのだ。
また熊野那智大社近くには『紀の松島』なる景勝地があるのも気にかかる。
阿波忌部による若宮祭祀。
前記事で、安房忌部氏がマゴコロタケルを祭祀していた形跡をご紹介したが、今回は阿波忌部氏もその深い繋がりを見せている。その証明として、阿波には『若宮』『若一王子』系神社がたくさんある。
ここで思い出していただきたいのが…トヨクムヌ御子であるマゴコロタケル(阿和武命)の故郷が、淡路島または阿波国と考えられる点。トヨクムヌ崩御後に、遺児は東国富士朝に保護された。その後関東平野に渡りウイジニの領地であった淡津佐国(房総半島全域)を賜り、ウイジニ9女松島毘女を娶った。安房国比定の『阿和礼住』を拠点とした。
後世にそれを忌部氏勢力が、阿波忌部と安房忌部として鎮魂祭祀していた。つまり神武天皇時代以降に全国に散らばった忌部氏拠点とは、マゴコロタケルはじめ神代皇祖神の軌跡を追っていたのだ。もっと言えば彼らは、史上で抹消された皇祖神の祭祀を任されていた。
(´(ェ)`)
神武天皇時代に阿波国に阿波忌部がやってきて、氏祖である天日鷲命を祀った。以降の大嘗祭には同氏族が織る木綿や麻布などを貢納する習わしとなっており、現在も伊勢神宮神御衣祭には荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上している。妹背ワカヒルメに見え隠れする『織姫』『機織』の要素が、伊勢祭祀と結びついているわけで、忌部祭祀と辻褄が合うなと…。因みに忌部山忌部神社御祭神にも『衣織比女命』という謎の神が祀られている。
また新抄格勅符抄によると、忌部子孫による古語拾遺成立前年、806年(大同元年)には朝廷より封戸20戸が充てられた。因みに翌年807年(大同2年)忌部氏末裔・斎部広成により古語拾遺が成立している。富士山噴火鎮魂祭祀により、忌部氏の古神道が見直された時期と見て良いだろう。
◯『忌部神社』(徳島県吉野川市山川町忌部山)
〜御祭神〜
- 天日鷲翔矢尊
- 言筥女命
- 天太玉尊
- 比理能売命
- 津咋見命
- 長白羽命
- 由布洲主命
- 衣織比女命
〜境外摂社(お七社詣り)〜
- 若宮神社(稚宮社) 思兼尊・長白羽命
延喜式神名帳名神大社・阿波国麻殖郡忌部神社の有力論社。広大な神領をもち、忌部大神宮とも称されていた。旧鎮座地は、神社後方忌部山の『黒岩』付近と思われる。応永年間(1394-1428年)に地震があったのと、中世以降の兵火などにより行方不明となり論争が絶えなかった。当社はその有力論社で、明治以前は天日鷲神社と称されていた。しかし長らく王子権現の境内に祀られていたため王子権現と表記されていた。
現在忌部山中には、お七社詣りこと忌部七摂社『若宮神社』があり、これがなんとグーグルマップ上では『稚宮(わかみや)社』と表記されている。御祭神は思兼尊と長白羽命。
ホツマツタヱ版ワカヒルメの夫、オモイカネとは?
因みにホツマツタヱ版オモイカネはヒルコ(ワカヒルメ)の夫神、聡明な臣神であり二柱は和歌を詠み合って交流を深めた。夫妻はアマテルと瀬織津姫が生んだ病弱なアメノオシホミミを養育する。滋賀県草津市岡本町『若宮神社』の御祭神でもある。
宮下文書比定は、神代ではなく神武天皇時代の思兼堅石彦(オモイカネカタイワヒコ)命であろう。つまり時代背景が全く違うので二柱が夫婦であるはずがない。三輪本現代訳p139にて神武天皇勅命の大嘗會を掌った人物で、大臣浜荻命・中臣忌部八重垣命(祖家?忌部氏?)とともに名を連ねている。宮中祭祀トップに近いと見て良い。
前述の熊野灘に水死した忌部若道命と、中臣忌部八重垣命の関係は不明。両者とも出自は不明。ただ同じ神武時代の御人であり『忌部』同名の意義は大きいだろう。
〜宮下文書版左右大神とは?〜
▲右臣アメノコヤネ末裔、武部藤原物部系統
▲左臣フトダマ末裔、祖家蘇我大伴系
※全国神社神門に祀られる、豊磐間戸命と櫛磐間戸命(両神合わせて天石門別神という)の原型モデルと思われる。紀伊国造・大伴連・忌部氏・日奉連は、高皇産霊命玄孫の天石門別神の末裔を称していることで一致する。
当ブログでは何度もご紹介しているように、宮下文書における『中臣』とは、左右大神を指している。この時代の大嘗會であれば、左右大神の末裔である祖家・武部が取り仕切るのが自然であろう。思兼堅石彦命なる人物も、この左右大神末裔の一翼である可能性が高い。通説忌部氏とはフトダマの末裔を称しており、忌部氏=古代蘇我氏を裏付ける記述になりそうだ。
全国のマゴコロ夫妻関係神社?
最後に、全国にあるマゴコロ夫妻関連社を集めてみた。阿波国や近江比叡山東麓でも複数あり、中には『若一王子』『若宮』を称しつつもワカヒルメ・ヒルコが祀られているという珍現象が見られる。
〜全国マゴコロ夫妻関係神社?〜
- 東京都北区王子本町『王子神社』
- 東京都北区岸町『王子稲荷神社』和久産巣日神
- 静岡県静岡市小鹿『若一王子社』天稚日女命
- 三重県阿山郡大山田村大字下阿波『阿波神社』稚日女神
- 滋賀県大津市仰木町『小椋神社摂社若宮神社』稚日女尊
- 滋賀県大津市千野『若宮神社』稚日女尊
- 徳島県阿波郡市場町大字切幡字神木『鎮守神社』稚日女命
- 徳島県美馬郡半田町字小井野『若宮神社』若日咩神
- 高知県吾川郡春野町東諸木『若一王子宮』若日靈女神
- 高知県吾川郡春野町西諸木『若一王子宮』若日神
- 熊本県玉名郡長洲町長野『四王子神社摂社若一皇子社』若晝女神
※因みに、日吉大社摂社『宇佐若宮』の旧称は聖女、御祭神はシタテルヒメ。宮下文書版シタテルヒメはオオクニヌシ御子、ホツマツタヱ版シタテルヒメはヒルコ(ワカヒルメ)と同神と解釈される。
◯『王子神社』(東京都北区王子本町)
〜御祭神〜
- 伊邪那岐命
- 伊邪那美命
- 天照大御神
- 速玉男命
- 事解男命
※五柱揃って王子大神と解釈される。
東京十社。もともと平安時代の八幡太郎義家奥州征伐の関係地であった。鎌倉末期に豊島氏が上述の熊野新宮『浜王子』より若一王子宮を勧請して『王子権現』となる。300m北西の東京都北区岸町『王子稲荷神社』は関東稲荷総司の一社、なんとワクムスビを祀っている。
そして実は、八幡太郎は駿河国でも若一王子を参拝していたのだ…。
◯『飽波(あくなみ)神社』(静岡県藤枝市藤枝)
〜主祭神〜
- 少彦名命
〜相殿神〜
- 瀬織津姫命
- 蛭子命
- 天忍穂耳命
◯『若一王子神社』(静岡県藤枝市藤枝)
〜御祭神〜
- 若一王子
後世に若宮を称された16代仁徳天皇6年創建の古社。
この『空白の四世紀』には、富士川を協定ラインとした東西分治の時代、駿河国は西国で最も富士山に近い最果ての地であったハズだ。
そしてなんとこの神社、アメノオシホミミ・瀬織津姫・ヒルコが同一社に相殿されている。さらに飽波神社の300メートル北西に『若一王子神社』『若王子古墳群』がある。どういう経緯があったのか謎も多いが全国的に見ても奇跡的な一社、これぞ妹背の道...。
かつて八幡太郎義家が、当社の松の老樹と藤の花のコントラストを見て、和歌『松に花咲く藤枝の一王子宮居ゆたかに幾千代を経ん』を奉納した。察するに…藤=富士、一王子=マゴコロタケル、松=松島毘女命(マゴコロアイヒメ)と解釈できる…。ここまでさまざまな武将や歌人をご紹介してきたが、中世までの政治家・知識人・武将は富士朝信仰や妹背をある程度理解していた節がある…。
この場合の御祭神は、粟島信仰のスクナビコナと、淡路島のマゴコロタケルと、混同されている気もするが…。それはさておき、素直に『アワナミ神社』と読む方が良いのではないか?と…(妄想)。
実は2017年9月に参拝しており、やっと七年越しに『呼ばれた』理由がわかった気がする…。奇しくも本日は、辰年最後の満月です…。
(´(ェ)`)
xやっております。https://x.com/sekihotu
※地図はクラフトマップ使用。