2023,4,9
当ブログは、宮下文書における神代のタマノオヤ親子三代の進軍ルートを中心に、八幡信仰と熊野信仰と日前宮信仰の重複性を追っております。
前記事の続き。
今回は、主に紀伊国一宮を称する三社にクローズアップしていこう。
(´(ェ)`)
〜日前宮・比叡山レイライン(追加あり)〜
- 石名清水寺(佐渡市石名・807年大同2年開基)
- 熊野神社(新潟県佐渡市石名)
- 御禮智神社(新潟県佐渡市北田野浦 国常立尊)
- 善知鳥神社(佐渡市、祓戸ノ九神)
- 鉛練比古神社奥宮(滋賀県長浜市余呉町)
- 鉛練比古神社(アメノヒボコ伝承)
- 須賀神社(滋賀県長浜市西浅井町)浅井姫
- 鎌足神社(滋賀県高島市新旭町)
- 阿曇比羅夫の墓(滋賀県高島市新旭町)
- 安曇川河口付近
- 国狭槌神社(滋賀県高島市安曇川町)
- 比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本本町)
- 月吉大明神(京都市左京区一乗寺)
- 熊野若王子神社(京都市左京区若王子町)
- 日向大神宮(京都市山科区)
- 将軍塚青龍殿(桓武天皇由縁)
- 清水寺(京都市東山区)
- 豊国神社(京都市東山区400mズレ)
- 新日吉神宮(京都市東山区)
- 智積院(京都市東山区)
- 新熊野神社(京都市東山区)
- 式内社真幡寸神社跡(若宮宮)
- 城南宮(京都市伏見区)
- 真幡寸神社(城南宮境内)
- 淀古城跡(秀吉が淀殿に築城)
- 與杼神社御旅所(京都市伏見区淀大下津町)
- 石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)
- 和氣神社(京都府八幡市西山和気)
- 交野天神社(大阪府枚方市楠葉丘)
- 片埜神社(大阪府枚方市牧野阪)
- 意賀美神社(大阪府枚方市上之町)
- 八剱神社(大阪市城東区)
- 大阪城豊国神社(大阪城内1.3kmズレ)
- 生国魂神社旧社地(詳細不明)
- 玉造稲荷神社(かつて比売社を称していた)
- 三光神社(大阪市天王寺区玉造元町)
- 比売古曽神社(アカルヒメ1.3kmズレ)
- 久保神社(大阪市天王寺区勝山・熊野大神相殿)
- 四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺)
- 安倍晴明神社(大阪市阿倍野区)
- 安倍晴明生誕地伝承
- 帝塚山古墳(大伴金村伝承あり)
- 住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉)
- 開口神社(住吉大社・奥の院)
- 岸城神社(岸和田だんじり祭り)
- 金熊寺(泉南市 役小角伝承)
- 日前神宮・国懸神宮(和歌山市秋月)
- 玉津島神社(和歌山市和歌浦中)
- 鹽竈神社(祓戸大神四座)
- 和歌浦天満宮(和歌山市和歌浦西)
- 紀州東照宮(和歌山市和歌浦西)
- 浜宮神社(日前宮元宮説あり)
〜紀伊一宮三社とは?〜
- 日前神宮・國懸神宮(タマノオヤ・イシコリドメ)
- 伊太祁曽神社(五十猛命)
- 丹生都比賣神社(丹生都比売命)
~目次~
- 日前宮=タマノオヤ本営ではない?。丹生都比賣神社の存在とは?。
- 日前神宮・國懸神宮は変遷した。
- 地主神の本命は伊太祁曽か?、五十猛命の理由。
- 日前国懸両大神が、八幡宮に祀られていた痕跡?『木本八幡宮』。
八幡・熊野神解明、比叡山・石清水八幡宮・日前宮レイラインを結ぶタマノオヤ家族神。 - セキホツ熊の謎を追え!
自称新八幡こと豊臣秀吉、自己顕示欲が暴露した八幡神と淀姫の関係?。 - セキホツ熊の謎を追え!
<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!
日前宮=タマノオヤ本営ではない?。丹生都比賣神社の存在とは?。
宮下文書版タマノオヤ・ウサミの進軍ルートについては、諸説ありそうだ。
三輪本現代訳神皇紀によると、伊豆半島を出発して、日高野原の川上に本営を置いた。
〜宮下文書における日高野原〜
(宇佐見命は)天太玉命の四女の小幡毘女命を娶ったが、 是に至って、父元帥天太眞祖命に従い、西征に就いた。 進んで日高野原の川上に本営を置いた。元帥の住み居た所を住居国という。その水戸より、舟にて軍勢を西島・ 南島へ渡したことにより、その所を小名佐波国という。
中略。。。
そして、穴門の宮を宇都志日金命に守らせ、日高野原の川上の木立の中の長久佐宮を宇佐見命・石堀留目命に守らせ、(日子火火出見)尊は諸軍勢を従えて、高天原に上り還った。
中略。。。
又、石堀留目命は、長久佐宮を守ってから一、◯一二(三年)でなくなった。小名・久佐奈国日高見の岡に葬った。その御子の大力雄命は、天太眞祖命の三女の国玉毘女を娶って、父神の職務を襲ぎ、父神の御霊宮をその墓前に造営して、母神の御神霊を合祀し、父母二柱の墓前の宮であるので、これを日野前宮(ヒノクマノミヤ)と称し、久佐奈(奈久佐?)の宮に住んでこれを守護し奉った。(玉祖記、海伊記)
神奈川徐福研究会宮下文書三輪本現代訳神皇紀p71〜72引用
※鈴木貞一氏推測によると、住居国→周防国の語源と思われる。
※※天太玉命と天太眞祖命が混同しやすいので注意。
日前宮はタマノオヤ死後、彼の家臣であったイシコリドメの御子が創建した祖霊信仰的な要素が強い神社であった。今まで紀伊国に土地勘がなかったので細部までは気にしなかったのだが(苦笑)、なるほど…日前神宮・国懸神宮は宮下文書版タマノオヤ本営地とはズレているようだ。
ここで気になるのが日高野原比定地だが、これってもしかして…高野山???。そして現在この地域は、伊都(いと)郡と呼ばれており、個人的に思うのは真国川の川上、紀伊一宮の一社『丹生都比賣神社』付近かなと睨んでいる…。
◯紀伊一宮『丹生都比賣神社』(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)
〜御祭神〜
- 丹生都比売大神
- 高野御子大神
- 大食津比売大神
- 市杵島比売大神
宮下文書によると神武東征の折に、初代神武天皇が本営を置き、『丹生の川上』で高天原天つ神、諸々の天神地祇の祷祀をしたと明記されている(三輪本現代訳p114)。これは神代の先達タマノオヤに肖ったと見るべきであろうか?。神武天皇は即位するまで、ウガヤ51代の皇子『日高佐野王』を称しており、『日高』とはこの紀伊国広域ではないかとみている。長久佐宮(日前宮)が古来からの軍事と祭祀の要衝であれば、彼らが九州から何故この地を目指したか頷ける。
丹生都比売神社社伝によると、15代応神天皇が社殿と広大な神領を寄進し、後世の空海が丹生都比売神を崇敬していた。宮下文書版空海は、延暦噴火後807年(大同2年)、富士朝にて坂上田村麿とともに復興・鎮火活動をしており、宮下文書についても知っていたと思われる。密教の禁断秘術とは、もしかして宮下文書も含まれているのではないだろうかと…(半分冗談)。
『日高野原の川上』『丹生の川上』…。とにかく川上というキーワードが何度も繰り返されており、タマノオヤ本営は日前宮よりも上流域にあった可能性あり。社伝によると、かつて周辺は聖地につき紀の川から二里ほどの『天野』という地には人が住んではならず、神職は毎日登山して奉仕していた。余程の御神霊が鎮座されていたのだろう。さらには、高野山からさらに東奥にある丹生川上神社(上・中・下社)、も神武東征に関係あるのかもしれない。
というか『川上さま』ってもしかして…???。
心当たりがあるのだが、調査中…(´(ェ)`)
※静岡県熱海市伊豆山『伊豆山本宮社』由緒書によると、なんと。。。もともとこの地には『丹生川上神社』分霊が祀られていたそうだ!!。しかしいつの頃か行方不明とされてきた。2021年すぐ隣で発生した伊豆山土石流災害を受け、新たに祀ることにしたという。ただ…現在の本宮社は日金山(十国峠)からもズレている。
日前神宮・國懸神宮は変遷した。
まず結論から言うと。
もともと日前宮元宮は、和歌川河口にあった『浜宮』であった。現在の名草郡毛見郷紀三井寺近く、元伊勢・紀伊国 奈久佐浜宮にも比定地とされ、現在も浜宮神社としてアマテラスを祀る。これが紀伊国地主神系の神社を巻き込んで、日前+国懸神社となったのではないかとみている…。始まりは、伊勢系統にはアマテラスまたは瀬織津姫、地主神系統がタマノオヤ・イシコリドメだった可能性あり。
◯『日前神宮・國懸神宮』(和歌山県和歌山市秋月)
〜日前神宮主祭神〜
- 日前大神 (日像鏡と解釈される)
〜相殿神〜
- 思兼命
- 石凝姥命(宮下文書版タマノオヤ家臣)
〜國懸神宮主祭神〜
- 國懸大神 (日矛鏡と解釈される)
〜相殿神〜
- 玉祖命(宮下文書版ニニギ弟タマノオヤ)
- 明立天御影命
- 鈿女命
※日前神宮・國懸神宮は同境内に二社並んでいる構造。
ホツマツタヱ一文曰く。
神代のキシイ国に稲虫(害虫)が発生し、男神アマテルの姉ワカヒルメと、アマテルの妃の瀬織津姫が稲虫祓いのために派遣された。これがきっかけとなり、玉津宮(ワカヒルメ)と日前宮(瀬織津姫命)を創建されたという。ワカヒルメは玉津島にて死去し、兵庫県西宮市廣田神社にて埋葬された。日前宮は伝令などが各国へ向かう際の中継基地で、『国懸』と呼ばれるようになった。つまり日神を国懸(地主神)と祀る必要性があったようにも思える…。理由は不明だが記述を素直に解釈すれば、害虫による食料難が原因だったのかもしれない。
〜ホツマツタヱ一文〜
きしゐくに あひのまゑみや
たまつみや つくれはやすむ
あひみやお くにかけとなす
わかひめの こころおととむ
たまつみや かれたるいねの
わかかえる わかのうたより
わかのくに
※ホツマ版のワカヒルメ=ヒルコ姫=シタテルヒメのこと。
後世の人皇時代(12代景行天皇3年)、紀の国にて日神 を祀ろうとするが、占術により直接の御幸は不吉とされた。天皇の代理として武内宿禰の父・ウマシウチ(ウマシタケヰココロ)が派遣された。その後この地で、日前に向かう姫こと瀬織津姫命を九年間祀ったとされる。これを日前宮『アビカシハラ』または『アヒカシハラ』とよんだ。
因みに、このアビカシハラと橿原神宮を結んだレイラインは、かつて2mの大きな水晶のタマノオヤの御神体があった山梨県甲州市塩山竹森『玉諸神社奥宮』と繋がる。
ホツマ版の武内宿禰が、この様な環境で誕生したのは興味深い。
<神社めぐり>玉諸神社奥宮、明治初年に消えた2m水晶御神体の行方?、鉄道王の雨宮敬次郎飛躍の奇跡。 - セキホツ熊の謎を追え!
伊太祁曽神社wikipediaによると、『続日本紀』曰く11代垂仁天皇16年に紀伊国で国替えによる明渡しがあったようだ。奇しくも、前述の武内宿禰の父・勢力の関与と瀬織津姫祭祀が開始した時期と符合する。伊勢神宮を創建させたこの垂仁天皇は、各地で伊勢神を祭祀を推進し、比叡山とレイラインで北東鬼門に正対するこの日前宮にも、何か特殊なカラクリを施していたのか?。
経緯は不明であるが、このとき古代から祭祀されてきた地主神、タマノオヤ・イシコリドメが淘汰されてしまったようだ。西国天皇勢力にとっては、開拓の英雄が富士朝阿祖山太神宮2代目大宮司の家系であることが何よりも都合が悪かったのだろう…。その歴代は伏せられ、別の神名で祀られることになった。ホツマツタヱではタマノオヤ西征の記述は一切なく、八幡神や熊野神は直接的には語られていない。その一方で、伊勢内宮アマテラスと瀬織津姫命の太陽信仰が台頭してきたのがこの時代なのである。
一方、宮下文書に視点を戻すと。
神武東征の論功行賞において、紀日国造にイシコリドメ54世孫・名草武器命が就任している。つまり、この嫡流子孫が日前宮を奉祀を継承していた様子が伝わる。残念ながらその遺伝子がいつまで続いたのかは記載がない。
その後この地に強い影響力をもっていた紀氏は、主に二系統あったと言われている。通説では古代より天道根命を始祖とする紀氏(紀伊国造)が治めていたようだ。ただし宮下文書には天道根命は登場しない。平安時代中期には武内宿禰系紀氏が婿入りしているので、男系武内宿禰の女系継承となる。江戸末期には公家の飛鳥井家が婿入りしている。
何れにせよ、当レイラインにて、武内宿禰と紀氏のシンクロニシティが発生するスタートだったのかなと…?。
(´(ェ)`)
地主神の本命は伊太祁曽か?、五十猛命の理由。
では、遷座された日前神宮・国懸神宮の現在地には何があったのか?。実は、もともとは紀伊一宮を称する一社『伊太祁曽神社』があった。しかし神社は社地を明け渡して、713年(和銅6年)現在地の和歌山県和歌山市伊太祈曽の地に遷座している。
この日前宮と伊太祁曽神社の譲り合いからも、伊勢系『日前』と地主神系『國懸』の二社の、合体もしくは混同が生じていた可能性がわかる。もしかして、日前神宮・国懸神宮の地主神要素の出処は、伊太祁曽神社の方ではないのだろうか?。
そもそも…、なぜ五十猛命なのだろうか?。
◯紀伊一宮『伊太祁曽神社』(和歌山県和歌山市伊太祈曽)
〜御祭神〜
- 五十猛命 (大屋毘古神と解釈される)
〜配神〜
- 大屋都比賣命 (五十猛命の妹神と解釈される)
- 都麻津比賣命 (五十猛命の妹神と解釈される)
宮下文書版・五十猛命とは。
富士朝ニニギ勅定17軍神の一柱であり、藤原物部系統祖・大物主命の五子。日前宮比叡山レイライン上の対馬・壱岐島・佐渡ヶ島の離島統治者であった。神代に続きウガヤフキアエズ朝時代には、離島管理がヱビス子孫トヨタマヒコ八子(ワダツミ系統)たちに継承された故に、各地の五十猛命祭祀も継承していたようだ。ただ宮下文書における紀伊国は、五十猛命と直接的な関係はなく、祀られる理由も正直疑問であった。
そして一般的には、スサノオ版地祇系八王子の1柱なのだ。他方で宮下文書版八王子は、ニニギやタマノオヤとなる。
ここからは熊オッサンの妄想だが…(´(ェ)`)。
すなわち五十猛命とタマノオヤは、八王子繋がりでスリ替えられた可能性はないだろうか?と。
ここで静岡県熱海市西山町『来宮神社』を振り返ると…。御祭神は伊太祁曽神社と共通する五十猛命でありながら、伊豆山神社の地主神的な要素があるともいわれている。宮下文書における伊豆山日金山は、タマノオヤ妃イワナガヒメの陵墓であり、この周辺に家族神が祀られていたとしてもおかしくはない。もし仮にそうならば伊豆山の地主神的要素を持つことも頷ける。五十猛命は、タマノオヤの代理的特性をもつ御神霊なのではないかと…。
これは、後世に五十猛命がスサノオ版八王子として出雲地祇系に再編された折に、木の国(紀伊国)における木の神として、とおく佐渡国から呼び出された御神霊なのかもしれない。タマノオヤ・ウサミたちの栄光は、地主神でもあった伊豆国でも、紀伊国でも忘れられてしまった。現在は、僅かに日前神宮・國懸神宮の玉神として、御祭神として残っているようだ…。しかし名残惜しくもあり、現地の人々は紀伊国の伊太祈曽の地名にも残したのではないかと…(妄想)。
〜伊太祁曽の意味?〜
- 伊…伊豆?
- 太…天太眞祖命?(阿祖山太神宮2代目大宮司)
- 祈…祈る?
- 曽…祖先?阿祖?
※ここで、佐渡ヶ島における当レイラインをご紹介すると。
まず、南西部にある佐渡一宮『度津神社』の御祭神が、五十猛命とされており、宮下文書記述と符合している。Googleマップ熊野神社で検索すると分かるが、島一周を熊野神社に包囲されているのは興味深い。
熊の楽園…(´(ェ)`)。
また佐渡市相川下戸村には、宗像三女神イトウの語源とされる善知鳥神社があり、御祭神は珍しい『祓戸ノ九神』。このブログで何度か紹介した式内社甲斐國山梨郡『神部神社』と同じ御祭神である。またレイライン上には807年(大同2年)に石名清水寺(佐渡市石名)が開基され、島中心部にも808年(大同3年)に清水寺(佐渡市新穂大野)が開基されている。
日前国懸両大神が、八幡宮に祀られていた痕跡?『木本八幡宮』。
日前宮の創建にあたり、日前国懸両大神を八幡宮で祀っていた形跡もあるようだ。これは宮下文書版タマノオヤや御子ウサミの八幡神的影響とシンクロして見えるが…。
◯『木本八幡宮』(和歌山県和歌山市西庄)
〜御祭神〜
- 應神天皇
- 神功皇后
- 日靈大神
wikipedia木本八幡宮によると、前述の紀伊国造家の伝承いわく、神武天皇東征の際に紀國造家祖天道根命が、日前国懸両大神を奉じて淡路国御原山に降臨したという。その後、葦毛の馬に乗って加太浦(田倉埼)→木本(八幡宮)→毛見浦(浜宮)へと遷った。
このとき日前国懸両大神を、厳橿山(いつかしやま)の橿の根に祀ったのが起源とされ、これが『木本八幡宮』創建とされる。
つまり紀伊国造家が祀った神社が、八幡宮になったということになる。なら…日前国懸両大神=八幡神という可能性があるのだろうか???(苦笑)。
~前記事補足~
宮下文書三輪本現代訳、p123 摂津国住吉大社に祀られる『住吉大神』。当初は神武天皇の皇兄・五瀬王命のことであったと明記されている。また機会があればご紹介します。
読者の皆様、応援のメッセージ等うれしく思います。この場をお借りして御礼申し上げます。一人でも多くの方が宮下文書に興味を持っていただければ幸いです。また読者様のブログでご紹介して頂けたようで、ありがとうございます。
熊おやじじゃなくて、熊オッサンだよ。。。(´(ェ)`)
※地図はクラフトマップ使用。