セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

タマノオヤ子孫による瀬織津姫信仰①、日前神宮と日祀部日奉氏はタマと太陽信仰を紐解くカギ。

 

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2014日野にまた出てきた平安期大型遺跡、『平山八幡神社』(東京都日野市西平山)

2020,9,20

 

・タマノオヤ=八幡神の可能性を探った。

・タマノオヤ=小野氏祖神の可能性を探った。

・玉神タマノオヤと多摩との関係を探った。

 

宮下文書研究家・鈴木貞一氏は、安曇氏や小野氏の祖・宇都志日金折命がタマノオヤ・イワナガヒメの御子という推測を示した。即ち、彼ら子孫が瀬織津姫を信仰していた実態が浮き彫りとなり、『伊豆大神』≒『梓水大神』≒『小野大神』、アズミ族の太陽信仰の影がチラつく。

ここまでの記事では、 武蔵国多摩に祀った東征祈願所が、夏至レイライン周辺に残される傾向があり、そもそも『多摩』にはタマを祀る土壌があったのではないかと思い始めてきた訳だ

 結論から言うと、タマノオヤ信仰と瀬織津姫信仰の共通ヒントは、多摩地区『日野』にあった。まず直感的にみて、紀伊一宮・日前神宮(宮下文書表記・日野前宮と関係がありそうだ。

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多摩地区『日野』の由来は日前神宮アビカシハラ?

今回は、タマノオヤ・イワナガヒメ・瀬織津姫・武内宿彌・15代応神天皇・太陽信仰・多摩の繋がりが見えてきたのだ…。共通ワードは、日前宮こと『日前神宮・國懸神宮』だ。

 

〇日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市秋月)

~日前神宮・御祭神~

日前大神(日像鏡を御神体とする)

・思兼命

・石凝姥命

國懸神宮・御祭神~

國懸大神(日矛鏡を御神体とする)

・玉祖命

・明立天御影命(天目一箇神)

・鈿女命

 

f:id:sekihotu:20200811161711p:plainまず日前神宮・國懸神宮を紹介、宮下文書とホツマツタヱによる比較から見てみよう。

△宮下文書版『日前宮』は、タマノオヤ御子ウサミと孫クマノクスヒコに起因する。

▲ホツマツタヱ版『日前宮』はアビカシハラ(阿備柏原)といい、ムカツ姫(瀬織津姫)を祀る地とされる。

…即ち、ここで名草『日前宮』はタマノオヤ×瀬織津姫のクロスポイントとなる。

 

日前大神と国懸大神は『準皇祖神』待遇を受け、当ブログではタマノオヤ=八幡神とみており、承久記による八幡神=皇祖神という存在定義に近いわけだ。

宮下文書によれば、そもそも『日前宮』はタマノオヤ子神・ウサミが父神を『玉神』として祀ったもの。その社家は、タマノオヤの娘『国玉毘女命』と家臣イシコリドメ子『大力雄命』の子孫、これが後世にタマノオヤとイシコリドメを祖とする玉造部・鏡造部氏族に発展していった可能性はある。このような成り立ちからみても、ウサミの母イワナガヒメと瀬織津姫のシルエットが重なってくるわけだ。

ただ、宮下文書においてのタマノオヤ・イシコリドメ日前宮の子孫は辿れず、確証は持てない。彼らの末裔がどうなったのかは、他文献から探るしかない。

ホツマツタヱにおいて、武内宿彌子孫紀氏は日前宮と関係が強く、紀氏=紀国としてイシコリドメ子孫に代わり台頭した感もあるが、日祀部は玉作鏡作(職人集団)という祀祭的裏方として残った可能性も高い。武内宿彌の父・屋主忍男武雄心はアビカシハラ(太陽の前宮)にて、ムカツ姫(瀬織津姫)を祀るために九年間住み、武内宿彌はこの地で生まれたとされる。

彼らの出自は両文献ともに胡麻化されている感があり、イマイチ見えてこないが…、彼らにとって瀬織津姫はアイデンティティに近い存在であったとみらる。さらに武内宿彌は15代応神天皇の腹心であり、全国八幡社にも多々相殿されている存在、タマノオヤや応神天皇ともシルエットの重なりが見えてくる。日前宮は、八幡神を探る上でもクロスポイントにもなりそうだ。

想像するに、安曇氏や小野氏を含めたタマノオヤ子孫は、何かしらの理由で富士朝伊豆勢力タマノオヤの『西征』を語ることができなくなった。さらに彼の妃・伊豆大神イワナガヒメを祀ることもできなくなり、瀬織津姫を代理信仰『伊豆大神』として祀り始めたのではないかと…。タマノオヤ=八幡の歴史を改竄し、日前宮『アビカシハラ』に新しい女神『瀬織津姫』を祀ろうと画策されていたのは、このホツマツタヱの時代、武内宿彌勢力ではないかと思い始めている…。


前記事でも紹介したが、『カシハラ』『アビ・カシハラ』のレイラインは『玉諸神社・奥宮』へ繋がる。玉諸神社・奥宮(山梨県甲州市塩山竹森)はタマノオヤを祀り、玉造部?子孫が水晶を採掘して2mの水晶の御神体があったとされる。

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時代は変わり、飛鳥時代。

29代欽明天皇の時代に、15代応神天皇が宇佐の御許山に顕現した。既に八幡信仰は、応神時代の遥か昔から存在していたが、これをきっかけに八幡神=15代応神天皇という図式が西国に浸透され始めた。何故15代応神天皇かというと、富士朝をすり替えた宮下家をはじめ、各地で影響力を強めていた秦氏の祖神でもあるからだろう。即ち、新しい富士朝の顔であり、旧来富士朝勢力の代役としての台頭ともいえる。

富士朝は緩やかに渡来系秦氏に淘汰され、富士朝以東の東国勢力を黙らせるためにも応神天皇信仰は全国的に有効であった。各時代の西国東征者が、東征祈願に八幡神タマノオヤではなく応神天皇を祀る理由もこの辺にありそうだ。

<富士朝めぐり①>先現と徐福、新旧二つの富士朝。八幡神をすり替えたのは徐福富士朝だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

その第二皇子、30代敏達天皇(他田天皇)は廃仏派・物部守屋と中臣氏と手を結び、崇仏派・蘇我馬子と対立、神道回帰を試みた30代敏達天皇(他田天皇)が、新しい太陽信仰を作り出そうとした模様。そして神代から日本の根幹をなしてきた左臣家『祖家』=蘇我氏が滅び宗教観も変化、かつては親族であり同僚であった右臣家中臣氏(藤原氏)が、蘇我氏の痕跡を消すために数々の古文書が焚書し、神代からの家系図を滅茶苦茶に改竄していくとみる。

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!

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このような激動の時代の中でどこからともなく登場したのが日祀部で、太陽神アマテラス崇拝の部民として30代敏達天皇の設置した祀祭的集団であった。大伴氏同様にタカミムスビを祖とし、イシコリドメを氏神として祀る傾向あり、伝統的に大きな影響力をもっており、他田宮後『他田坐天照御魂神社』などに奉仕していた。Wikipediaによると、祭神の正体は諸説あり 、天照大神之荒魂(神祇宝典)ともニギハヤヒ(神名帳考証)とも言われている。

 

日祀部はタカミムスビ子孫大伴連と比べても異質な存在、謎も多い。大伴連は日前宮にも密接な関係をもっていた他、この時代富士朝を足掛かりとして、徐福勢力や三宅連、紀氏勢力らが西国に勢力を持っていたようだ。ただ宮下文書に言わせれば日本人の殆どがタカミムスビの子孫なので、これは単なる出自のトリックであろう。ミホツヒメもタクハタチヂヒメもタカミムスビ子孫といわれるが、タカミムスビ曽孫のスサノオの娘であることを系図上、隠されているのだ。

佐伯日祀部との繋がりは不明、ホツマツタヱによると佐伯氏はヤマトタケルと縁が深く、景行時代にタカミムスビに由来する東国ヒタカミから西国へ流れてきたようだ。

玉造部・鏡造部がイシコリドメを祖神・氏神としていても、東国を含め複数氏族が混ざり合って見えることもあり、玉作鏡作集団と呼んだほうが良いのかもしれない。

…まだまだ日祀部の全容は見えてこない。

・鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町)

鏡作部が遠祖イシコリドメを氏神として祀る。

・鏡作伊多神社(奈良県磯城郡田原本町宮古)

三宅連が祖神としてイシコリドメを祀る。

・鏡作伊多神社(奈良県磯城郡田原本町保津)

物部姓保津氏が祖神としてイシコリドメを祀る。

・鏡作神社(奈良県磯城郡三宅町)

鏡作坐天照御魂神社式内社?イシコリドメを祀る。

・木嶋坐天照御魂神社(京都府京都市右京区)

秦氏と関係あり?。

 

宮下文書によるオリジナル出雲『天獄』は何処に存在していたのだろうか? - セキホツ熊の謎を追え!

※前記事でも書いたが三宅連は新羅系アメノヒボコと言われているが、富士朝秦氏『宮下家(みやけ)』と関係がありそうだ。

※なお坐天照御魂神社については、皇別神タマノオヤとニギハヤヒも絡んできそうなので別記事で考察したい。

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日野は、富士山レイラインから見て『日』の『野』であった?。

…で、なんで多摩地区日野が関係あるのか?ということだ。

東京都日野市は、清和天皇由来の高幡不動尊、以前紹介した清和源氏祈願所『真慈悲寺』(百草八幡神社)があり、小野神社(多摩市一宮)や大國魂神社(府中市)とともに源頼義・義家に関係する。

武蔵国から忽然と消えた『真慈悲寺』の謎、覇者線『夏至レイライン』上の源氏祈願所。 - セキホツ熊の謎を追え!

そして、このアビカシハラに准えた東国の僻地が、『日野』なのではないかと…。

実は、私多摩っ子なのだが、別に…京王沿線や多摩地区の観光ステマしているわけではない(笑)。日野市は太陽信仰と密接に関係しており、日野市の語源ともなった日奉氏は日前宮と関係がありそうなのだ。本当にタマタマである…。

周囲の土地柄を考えてみても、タマノオヤと小野大神(瀬織津姫)に所縁がある可能性が非常に高く、瀬織津姫を祀る多摩市の武蔵一宮・小野神社や一宮落川遺跡も、どちらかといえば日野市境に近い。

 

その後の日祀部は諸説あるが、平安時代・承平元年(931年)、日奉氏が武蔵国に国造として送り込まれ、任期後に武蔵府中西隣に土着し、日野宮神社を創建し『日野』と呼ばれるようになる。

また他田日奉直氏(下総国海上国造の後裔)を称し、下総国海上郡では郡司の地位を代々継承、この勢力が武蔵国司についたとの説もある。その後『平将門の乱』を契機に武装化、のちの武蔵七党・西党平山氏をはじめとする屈強な武士団となる。源義経平家討伐についた平山季重の大活躍も、下総国千葉氏から良馬を手に入れたからという証言もあり、下総国との親密ぶりが伺える。

 

話が逸れるが…、この上総国・下総国というのは実に興味深く、そもそも日奉氏は自ら志願して海上郡へと赴任されたのだ。周辺には玉に纏わる史跡・地名が多く、上総一宮・玉前神社(千葉県長生郡一宮町)の御祭神も天明玉命(推定タマノオヤ)という説があり、宮下文書ではニニギの時代、武蔵国~房総半島は前玉命(大物主命四子でイシコリドメ甥)の管轄であった。とはいえ、3000年前の関東平野多摩地区以東は殆ど海と島で、房総半島はまさに『海上郡』であった。

日月神示の発祥地『麻賀多(マカタ)神社』(千葉県成田市台方)も延喜式以前は『真賀多真(マガタマ)神社』と称し、15代応神天皇に印旛国造に派遣された伊都許利(いつこり)命も、古事記イシコリドメ表記の『伊斯許理度売命』を彷彿させ、キーワードはまさに日の出・太陽信仰・タマである。いずれ記事にしたい。

 

このように西国天皇勢力が玉造部・鏡造部の日奉氏に、富士山の夏至レイラインを祭祀・管理させようという思惑があったのではないかと…思えてならない。

前記事にて、小野氏がタマノオヤ御子『宇都志日金折命』子孫の可能性があると述べたが、別ルートタマノオヤ御子『国玉毘女命』で、タマノオヤ遺伝子のが小野神社周辺『多摩』にいたかもしれない訳だ。まあ…正直どれも断言できず、偶然なのかもしれないが…タマノオヤと瀬織津姫と多摩の『縁』がなんとなく見えてきたと、個人的には確信している。

 繰り返すが、日祀部=タマノオヤとイシコリドメの子孫である確証は未だない。太陽信仰を基本として、玉作鏡作集団としてイシコリドメを祖神・氏神としている事ぐらいしか判らないのである。

 

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さて… 前記事で何度も触れたが、夏至レイラインは正確には『夏至』ではない。

『日の出日の入マップ』というサイトで調べると、富士山を起点軸にして小野神社を夏至レイラインか通過するのは、ここ直近1980~2020年の7月17日前後である。

※…去年の『ポールシフト騒動』は、このサイトでは触れられていないようだ。

正確に見てみると、富士山からの夏至21日レイラインはもっと西の、日野市役所付近を通る。ただそうなると当然、レイライン南端『高千穂峰』がズレてしまい、富士山と高千穂峰を繋ぐというホツマツタヱ26文にある『歴史的意義』は薄れてしまうのだが…。その平均値は大体日野市内~小野神社(多摩市)に収まっていおり、富士山を起点とした夏季日の出の方角、日野はまさしく『日』のフィールドなのだ。

そもそもこういったズレが長い歴史の中で、太古縄文人による観測的なエラーなのか、霊能力的予知なのか、はたまた自然に後世に地軸がズレたのかは分からず、現状ズレは認めなくてはならない。それを差し引いても、この(仮)夏至レイラインは重要な意味を隠しているとみられ、手探り的に何度か変更しているのではないかとみる。

 

結果として、この多摩地区に祈願所が多い気がする…。

  

※記事が長くなるので、『タマノオヤ子孫による瀬織津姫信仰』を数シリーズ化することにした。次回は日野市に残るタマノオヤ信仰の痕跡。


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※地図はクラフトマップ使用。

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