セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

春日大社に蘇我氏の影、史実確認のため藤原不比等は富士朝を訪れていた?。

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フツヌシを祀る『香取神宮』(千葉県香取市香取)

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タケミカヅチを祀る『鹿島神宮』(茨城県鹿嶋市大字宮中)




2020,7,12

富士山参拝するものたちは、匿名希望者が多いのかもしれない説。

 まず宮下文書から、武藤氏と富士朝について。

建長四年(1252)、武藤左衛門尉景時なる人物が富士朝詣でにきた。しかし武藤景時なんて人物は各系図にはいない。誰なんだろう?。

武藤資頼の嫁が、梶原景時娘なので、足して二で割ると(笑)、結局は年代的にも武藤資頼の子が浮上する。少弐資能、武藤頼茂、武藤為頼、武藤頼基…あるいは代理人か。

背景的には元寇前(1274と1281)、武蔵国夏至レイライン・瀬織津姫三所之宮創建(1232年)は、モンゴル側が朝鮮半島高麗に侵攻しが始まった時期(1231年)と重なり、早期に大宰府にも情報が入っていたのか?。この時期、大宰府防衛の武藤氏(のちの少弐氏)は緊張感をもって、平和・必勝祈願を富士朝や夏至レイラインに祈願していたのかなと思う…。ま、あくまでその結果として神風が二回来たわけだが。

<人見稲荷神社>瀬織津姫を三陣並べて、元寇『神風』を二度も呼んでしまった少弐氏おじいちゃんのお話。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

問題は、この参拝時、武藤氏が偽名を使っているのではないか?というところだ。

富士朝にとっても微妙な立場であった。北条得宗家が三浦氏宮下家と敵対していたがゆえに、おのずと参拝者の立場的も微妙だったろう。現代でいう靖国問題のような、右翼左翼が騒ぐ微妙さがあったのか?、なら偽名もわかる。

また宮下文書には、宮下家の三浦義顕など、歴史上まったく無視されている人物もいるので、実に隔絶された歴史生態系を持っているのかもしれない。いわば富士朝は日本史のパラレルワールドというか…、ガラパゴス諸島みたいな側面もあり、もしかしたら新種の武藤氏が発見されてのかな?と…(笑)。

前置きが長くなったが、まずはこの富士朝の匿名参拝を頭に入れておいて欲しい。

 

書を『あらためる』とは、何を意味する?

 さて本題、不比等の件に移るが。不比等も富士朝詣でに偽名を使っていた可能性があるのだ。

富士朝に『中臣藤原物部麿』なる人物が来朝、宮下文書を改めたという。

 

天智天皇四辛未年(665)八月、第二十二代福地太夫元長が大宮司の時、中臣藤原物部麿が阿祖谷に来て元長に頼み徐福伝を見せて貰い、初めて神代に於ける物部家の祖先、並びに蘇我家の祖先を知った。ところが、その徐福伝は殆ど腐朽しかけていたので、これが消滅するのを恐れ、これを書き直し、副書を作った。



中臣藤原物部…麿って(笑)。おそらくこれも匿名、家柄だけは公表したのか?。ただ私のブログを読んでいる方にはわかるであろう、中臣…藤原…物部と、これらすべて同祖同族なのだ。そしてこの人物が誰か、おおよそ年代的に考えると、藤原不比等が浮上してくるわけだ。

問題は、『これを書き直し、副書を作った』という部分。

最近読んだ、古史古伝の研究家・佐治芳彦氏は、著書『謎の宮下文書』において、この『中臣藤原物部麿』の来朝理由から、藤原不比等により宮下文書は修正されたと論じている。

この書物の劣化による書き直し作業を、『作正宇津須(ウツス)』つまり『改訂』と解釈すると大問題になるわけだ。考えてみれば『改めさせてもらう』という日本語自体が、とても曖昧に取れてしまうのだ。

うーん…、これは解釈というか翻訳の問題であり、漢文が苦手な私にとっては、正直難しいところだ。

 

宮下文書がどこかに修正をうけたことは、私も同意する。宮下文書は幾多の天災人災をくぐり抜け、断片的に欠如しているにしても。卑弥呼・応神天皇・仁徳天皇・聖徳太子、日本史の最重要な箇所だけ記載がごっそり抜けているというのは、いくらなんでもこれは不自然だろう。時の権力者の全国規模な介入があったのではないかとみる(佐治氏曰く、九鬼文書では、聖徳太子の時代に大々的な歴史修正・焚書が各地あったとされている)。

ただ藤原不比等がもし介入して、藤原勢力のなすがまま修正が施されたとしたら、まず蘇我氏(二大臣家の祖家)の歴史を徹底的に消すとおもうのだ。全てが藤原氏に改竄された訳ではないだろうとも思う。はたしてこの人物、何を目的に富士朝来訪したのか?。

 

今までの記事を引用して考察すると…。

もともと日本の御祖信仰の拠点、賀茂神社もスサノオ三輪氏系とされる賀茂氏という架空氏族の独占祭祀にされ、もはや西国史は修復不可能メチャクチャになっていた。

全国300社以上の『賀茂神社』正体解明。富士朝ウガヤ朝・日本最大級の欠史鎮魂神社。 - セキホツ熊の謎を追え!

具体的にいうと、三輪氏族クシミカタマや大物主は、宮下文書では藤原系統。このクシミカタマ=天日方奇日方命(鴨王)=速玉山田が、後世ホツマツタヱ編集者と勝手に言われている。後世に、強制的に三輪氏祖にされて、編集者にされているのだ。この子孫が三輪氏オオタタネコと言われている。

神代から政治表舞台で生き抜いてきた藤原系統は、ご先祖を他氏族から奪い、自身も奪われもうメチャクチャ。さらにホツマツタエにより、家系図を木っ端微塵にされたのだ。ある意味、長期に権力闘争を生き抜いてきた氏族は、こうなって当然なのかもしれない。

歴史改竄者の代名詞ともいわれている藤原氏も、この氏族間の捻れ現象に巻き込まれ、祖先を改竄されてきた。加害者、当事者であり被害者なのだ。

 

しかしそれはなんと、彼ら自身が受け入れてきた節がある。

景行40年(110年)ヤマトタケル東征時代。東国蘇我系統タケミカヅチ子孫反乱を鎮圧するのに、西国蘇我氏勢力が介入することは同族として色々問題が出てくる。やむを得ない理由で、同僚である藤原系統吉備武彦に、タケミカヅチとフツヌシ祭祀権を移管することになった。これには西国蘇我氏大伴武日も納得せざるえなかった。

こうして藤原系統が東国を平定。

後世の和銅3年(710年)に不比等が蘇我の地『春日』に、『春日大社』を創建したわけだ(厳密にいうと、はじめは御蓋山に祀られた)。これが後世の春日神、蘇我系統と藤原系統の捻れ現象の始まりとなる。

 

ホツマツタヱ(16文)に辛うじて、それを匂わせる一文がある。

ほつまくに  をさまるのちに

ふつぬしの  かとりのみちお

ことことく  こやねにさつけ

かくれます  かしまのみちの

おくもみな  こやねにさづく

かすがとの  たまかえしなす

おくのりも  こやねにさつく

このゆえに  よものまつりも

おのづから  ひとりにつけり

かしまみち

 

ホツマ州(東国)カスガマロ(アメノコヤネ)を領主に新体制が確立、タケミカヅチとフツヌシの領地と祭祀権がカスガマロ(藤原系統)に集約された。彼らは正統氏族史を犠牲にしてまでも、現利益を受け入れてしまっている姿が浮き彫りとなる。こらこら…プライドはないのかと?。

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一般的に春日大社は、藤原祖神を祀る神社と思われている。しかし、タケミカヅチとフツヌシは蘇我系統。単に藤原氏が蘇我系統タケミカヅチを御祖として奪い取るだけではなく、本来は、蘇我氏系統の神々を鎮魂する目的が強かったとみる。

即ち、二大臣家の痛み分けの神社なのだ。

アメノコヤネと大物主子孫である藤原氏としては、その修復不可能なまでに改竄消失されてしまった歴史を改める(確認する)意味合いで、富士朝に赴いたのではないだろうか。一番の目的はやはり『ご先祖探し』であろう。

佐治氏は鎌足亡き後不比等が、権利闘争にうって出る為に、地場固めの出自を確認したと論じている。しかし、今さら政権争いのために、富士朝まで行って家系図を知りたいなんて言うのかなと…。いままで誰もが富士山を散々無視して、隔絶されてきたわけだから、もはや富士朝に政治的説得力などない。西国人たちが家系図を滅茶苦茶にしてきたのだから、宮下文書の系図など誰もピントこないであろう。

どちらかというと、藤原氏族の新しいシンボル『春日大社』創建のための、藤原祖神を確認しに来訪したとみる。あるいはタケミカヅチとフツヌシの子孫を確認しにきたのかもしれない。新しい神社で、確実な祭祀を扱う上では、富士朝のある程度の根拠・指導が必要となるわけだ。

 

何も知らずに潰しあっていた物部・蘇我・藤原。

 藤原系統にとっては、三輪氏賀茂氏や蘇我氏らライバルが政治表舞台から次々と消えていった。富士朝にて、富士山を遥拝しつつ祖先をあらためるという行為は、天下人があらためて閲覧できるゴージャスなひとときでもある。

まあ、もっとも彼らは、自らが中臣も藤原も物部勢力と同祖であることを知らなかったようだ。

 

物部麿『家系図をしりたい』

富士朝『中臣…藤原…物部』

物部麿『はあ?』

富士朝『中臣…藤原…物部…吉備…平群』

物部麿『なんじゃこりは、ひいいいい』

 

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<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった②。中臣・蘇我・大伴編 - セキホツ熊の謎を追え!


『初めて…祖先を知る』ということは、西国人は祖先がわからなくなっていた訳であり、純粋に知りたい欲求があって来訪したのだろう。そしてこのときの藤原氏族の相当ショックは、計り知れない。蘇我氏も大伴氏族と同族であることを知らなかったのかもしれない。いやいや、そもそも天皇家も物部も蘇我も藤原も大伴も同祖なんですよ!。なにも知らず、潰しあっていたわけだ…。

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この時、中臣藤原物部麿…なる人物、何を考えていたのかは知るよしもない。ただこの偽名を名乗るということは、当人が宮下文書記載の藤原氏系統の家系を理解したと思われる。というか単に、この人なりのユーモアなんじゃないのか?(笑)。

そして、こんなユーモアが富士朝側と言い合える状況で、宮下文書を改竄したいと願うだろうか?、むしろ残したいと思うだろう。


家族同族愛の呪縛が戦争を招く、平和も招く。

このあと藤原不比等は春日大社を創建する。藤原氏は裏で富士山をこよなく愛し、独占していた側面もあり、奇しくも『藤(フジ)』と『原(ハラミ山)』どちらも富士を暗示する言葉である。そしてこの不比等子孫のみが『藤原』を名乗ることが許された。不比等も陰ながら富士山を崇敬していた節がある。



〇『春日大社』(奈良県春日野町)

~御祭神~

春日神

・武甕槌命

・経津主命

・天児屋根命

・比売神

※和銅3年(710年)藤原不比等が御蓋山にタケミカヅチとフツヌシを祀るのが始まり。

※景雲2年(768年)藤原永手が枚岡神社からアメノコヤネとヒメを勧請、追加で合祀、春日大社として創建される(諸説あり)。

※比売神は武甕槌命の娘、二代目加茂沢毘女とみる。しかし天児屋根命の妃・天母岬毘女(ニニギ妹・八王子一柱)の可能性もある。

 

興味深いことに、不比等がまず先行して御蓋山に祀り始めたのが、蘇我系統タケミカヅチとフツヌシであった。春日大社とは単に藤原氏のシンボルではなく、本来、蘇我祖神を鎮魂することが目的だったのかもしれない。その後、不比等の孫・永手が藤原氏祖のアメノコヤネを祀りはじめ、藤原色を深めている。

まあ根源は同じなのだが…。

神武時代には、東国タケミカヅチ・フツヌシ子孫が鹿に股がり?、日栄山(比叡山?)にて禍津亘理彦命を撃破した。その剣『フツノミタマ』を神武天皇は富士朝から授かり、蘇我系統ウマシマジと藤原系統クシミカタマの彼らの祖先が力を合わせて、白木人ナガスネヒコから日本を守り抜いたのだと。

その後の狭い島国で、我々は何を争っていたのかと…。

これが春日大社の、平和を願うホントの意味だとおもいたい(願望)。

 

 

という私も、武藤氏が祖先かも…と気づいた時はごく最近な訳で…、藤原の血も何処かで入っている可能性がある。やっぱりショックだった。

この『血』の呪縛のために、この国は悲しい矛盾を招いてしまった。家族や友人しか見えてなくて、潰し合いを繰り返して、歴史改竄という犠牲を払わなければならなくなってしまった。祖先や遺伝子に執着することは、とても危ういともおもう…。

 

 

 

 

※来週は仕事、再来週連休は私用でブログお休みです。次記事はおそらく来月になってしまいます。ゴメンナサイ。

 

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