セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

春日蘇我氏族が武蔵国で大繁栄、藤原氏への復讐を果す。ウワハルとシタハルの正体。

 

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武蔵七党児玉党の祖霊社・有氏神社。児玉氏の祖先がウマシマジだ。

2019,4,27 


オモイカネとウワハルとシタハルの正体

前記事にて、蘇我系統ウマシマジの正体は『表春桟男玉命』、これはもしかするとウワハル・シタハル兄弟となにか関係があるのではないか?と述べた。そこでシタハル所縁の地、埼玉県秩父付近(知知夫国)を調べてみると、武蔵七党・児玉氏族の系図には、確かにウマシマジが始祖として登場するのだ。つまり児玉氏は宮下文書版・蘇我大伴系統ではないかと。

 

一般的に、ウワハル・シタハルはオモイカネの子で、神代を舞台にしたホツマツタヱや先代旧事本紀のニギハヤヒ随伴神として登場する。

・オモイカネはウワハル・シタハルの父神とされ、戸隠神社・中社(長野県長野市戸隠)や阿智神社(長野県下伊那郡阿智村)や秩父神社(埼玉県秩父市番場町)の御祭神とされる。知知夫国造・知知夫彦の祖ともいわれる。

・ウワハルは信乃阿智祝部の祖先とされ、信州の祖国神。戸隠神社・宝光社や阿智神社など信州に祀られている。

・シタハルはウワハルの弟神とされ、大伴部氏の祖といわれている。知知夫(武蔵秩父)国造の祖先、また関東地域祖神として小野神社系(多摩市・町田氏・厚木市)に祀られている。

 

一方で宮下文書では、シタハル・ニギハヤヒは登場せず、オモイカネとウワハルは、どうやらウガヤ朝後期~神武時代の人物のようだ。

オモイカネ『思兼堅石彦命』の自出は不明、神武天皇の大嘗祭を掌っており、大臣浜荻命、中臣忌部八重垣命と思兼堅石彦命と並ぶ。掲載箇所は一か所のみで、ウワハルとの関係もわからない。

ウワハル『表春桟男玉命』の正体は、『可美眞手命(ウマシマジ)』と推測する。

ウガヤ朝・51代鵜茅葺不合尊の左大神太玉砺波主命の第三子で、左臣・蘇我大伴系統となる。幼名『太玉若道命』、後に『表春桟(機?)男玉命』あるいは『中臣春建命』。神武天皇即位後『中臣蘇我春建命』の名を賜り、最終的には可美眞手命となる。

また、ウマシマジの別名は『春』という言葉を多用している点も注目、大和国春日の地にも関係していそうだが…。

因みに神武天皇右臣は藤原物部系統『天日方奇日方命』、速玉緒命の第二子、幼名『太玉大苔命』、後に速玉山田命と改称している。

残念ながら、シタハルの正体は不明。しかし『春』という言葉から見ても、蘇我大伴系統に関与していたとみる。さらに武蔵一宮小野神社の御祭神でもあり、やはり蘇我大伴系統とみるべきではないだろうか?。

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もともと知知夫国は大伴部氏所縁の地とされ、ある意味、宮下文書においての蘇我氏・大伴氏の同祖直系論が裏付けされたわけだ。そして、一般的にウマシマジは物部氏や穂積氏の祖とされるだけに、これは日本史がひっくり返る可能性もある。

 

豊富な鉱山で武蔵から独立。

秩父と武蔵は兄弟のような関係であった。宮下文書によると、アマテラス時代の小国48国区分で秩父地方は『武佐志国』に含まれている。それから祟神天皇の代になり『和銅遺跡』など鉱山で有名であった秩父は、裕福な国となり、武蔵国から一時的分離して独自の国造を置いたようだ。現在秩父周辺だけでも、武蔵四宮・秩父神社と五宮・金鑚神社があり、さらには関東屈指の霊場三峯神社もある。この地域が、いかに経済的にも信仰的にも発展していたかがわかる。大化の改新で无邪志・胸刺・知知夫が『武蔵国』に再併合されるものの、もともとの母体であった武蔵国に対する存在感はあった。

秩父神社には諸説あり、Wikipediaによるとかつては天下春命と大己貴命が祀られていたとの説もあり。この二柱は現在の一宮・小野神社の御祭神と共通する。おそらくは武蔵国と知知夫国の、分離併合史に関係しているのではないだろうか?。

 

児玉氏の祖ウマシマジは蘇我系統?

Wikipediaにはウマシマジはニギハヤヒの子供であり、ウマシマジ=物部氏始祖にされている。それゆえ、その子孫である児玉氏族も物部氏系統と考えられており、宮下文書を読むのと読まないのとでは真逆の見解に至るので注意が必要だ。

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 前記事の宮下文書・蘇我氏系図と比べてほしい。蘇我系統『彦湯支命』で枝分かれしたようだ。

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児玉氏の仮冒説。関白・藤原伊周の子孫

そもそも知知夫国造をしていたのが知知夫彦命とは、10代祟神天皇により任命され、本姓は大伴部氏嫡流である。前述のように、宮下文書版蘇我氏と大伴氏は同祖同系列で、秩父という地は蘇我氏系統の土壌であったと見える。

平安末期に登場した児玉氏族は、埼玉県秩父市の周辺(児玉郡~本庄市)を拠点にしていた武蔵七党最大勢力である。別記事にて後述するが、桓武系平氏の秩父氏や小山田氏とも関係しているようだ。児玉氏は関白・藤原伊周の家司をしていた有道惟能を祖として、更に系図を遡ると可美眞手命(ウマシマジ)になる。

この児玉氏祖有道氏は枝氏が非常に多く、『武蔵七党系図』などによると関白藤原伊周家司時代に仮冒説も存在する。伊周は叔父・藤原道長の策略で大宰府に左遷させられ、その僅か前に元家司有道氏の娘と関係を持ったと…。その真偽はともかく彼らは立場上、蘇我氏子孫であったとは公言できなかったろうと想像する。

宮下文書では蘇我系統も藤原系統も、左右臣関係にして日本最古級家系、児玉氏にも当然高貴な血が流れている。645年乙巳の変後、藤原氏による蘇我氏に対するネガティブキャンペーンにより、イメージは失墜。その朝敵イメージが現世の歴史教科書にも及んでしまっている訳だ。仮冒は見栄を張るだけのものではなく、要は『訳あり』氏族である事を隠すためでもあった。

また児玉氏族の『玉』は、蘇我大伴系統の通字みたいな言葉と想像。神代より祖家(蘇我系統)は玉という文字に拘りをみせていた。尤も『児玉(こだま)』氏と表記し始めたのはかなり後世だそうだが…。 

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上写真は『有氏神社』(埼玉県児玉郡神川町)、児玉氏祖である有道氏の祖霊社で、墓所も兼ねている。神社神紋?は日月の軍配で、児玉氏家紋も軍配である。個人的には月日軍配は八幡神の象徴ではないかとみており、宮下文書版アマテラス義孫タマノオヤとツクヨミ孫イワナガヒメ、月と日の子孫。その子供がウサミで孫がクマノクスヒコ。

児玉氏の『玉』とは、阿祖山太神宮で初代玉臣となった宮下文書版タマノオヤ(古八幡)を象徴しているのかな?とも妄想する…。

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

周辺には『岩上神社』(下写真)がありイワナガヒメとイシコリドメが祀られていた。これは貴重且つ面白い神社なのだが…残念なことにかなり廃れている。付近にはタマノオヤ西征随伴神のイシコリドメを祀る神社も多く、古来の八幡神信仰が今も残っている地域なのだ(個人的に注目している)。

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神代からの関東での、蘇我大伴勢力の流れを考えてみる。

ここで宮下文書とホツマツタエを合体させて考えてみよう。

 

もともと東国広範囲は、タケミカヅチとフツヌシ子孫『東国一帯守護司頭長』の領土であった。現在の群馬県(貫前神社)~茨城県(鹿島神宮)~東京都や神奈川県(小野神社系)なども蘇我系統配下とみる。

 

年代はニニギ~ウガヤ朝51代~12代景行天皇の御宇。

景行年間には大きな政変があり、蘇我系統と藤原系統による神代からの両家左右臣システムも終焉を迎えたとみる。

 

そして景行年間。この大規模政変に反抗して東国蘇我系統、タケミカヅチとフツヌシ子孫が富士朝と結託して、12代景行天皇勢力に対峙した。

天皇勢力はヤマトタケルと吉備武彦命(藤原物部系統)と大伴武日(蘇我大伴系統)を派遣し東征、そのまま富士朝を抑え東国に攻めて入る。

西国蘇我系統が東国蘇我系統を抑えると、それは単なる同族間争いになるので、地域の完全鎮圧の疑念が出てくる。故に、藤原物部系統が東征と鎮護を引き受け、西国蘇我系統もこれに同意せざる得なくなった。

こうして戦後、『軍神』の性質を持つタケミカヅチとフツヌシの祭祀権と領土権は、藤原物部系統に移管され、以降『春日神』という名称が生まれる。

これが現代でも全国に残されている、蘇我大伴系統と藤原物部系統の捻れ現象の発端とみる。

 

~ホツマツタエ16文~

ほつまくに をさまるのちに

ふつぬしの かとりのみちお

ことことく こやねにさつけ

かくれます かしまのみちの

おくもみな こやねにさづく

かすがとの たまかえしなす

おくのりも こやねにさつく

このゆえに よものまつりも

おのづから ひとりにつけり

かしまみち…。 

 

このような複雑な経緯の中、蘇我系統が辛うじて、関東に残せた痕跡が『祖国神』属性のウワハルとシタハル二柱なのではないか?。

しかし奈良時代以降、記紀の登場により蘇我系統そのものの繁栄史が消され、ウワハルやシタハルの出どころがわからなくなってしまうわけだ。

小野神社HPによると・武蔵国開拓の祖として天下春命(シタハル)を祀るとある。13代成務天皇の時代、出雲族エタモヒが武蔵国造就任時に国祖神としてシタハルを祀りだしたとの説もあり。エタモヒは、ヤマトタケル東征に随伴した蘇我大伴系統『大伴武日』と同一人物ではないか?とも思えるのだが…、武蔵国に蘇我大伴系統の痕跡を残すわけにはいかなかった、その理由も見えてくる…。

 

平安末期には、桓武系平氏や藤原氏の子孫も流入してきた。

関白・藤原伊周失脚後、有道氏祖・舟瀬足尼(初代久自国造)が常陸経由で埼玉県児玉周辺に土着。平安時代に中央から派遣されてした蘇我系統小野氏と合流し土着。彼らは都に戻って藤原氏に仕えるくらいなら、いっそ土着した方が良かったのかもしれない。

児玉経行の子・行重は桓武系平氏・秩父重綱の養子となる。小野利春が武蔵国造就任、秩父重綱は小野氏娘(武蔵七党・横山氏)を娶り、蘇我系統は桓武系平氏らと緩やかに融合されていく。秩父氏は児玉党に属し、児玉氏と縁戚関係あり。小野氏は孝昭天皇と世襲足媛命の子・天足彦国押人命が祖、蘇我氏系統が外祖父。

この時代、蘇我系統のバックボーンが縮小したとはいえ、まあ…児玉党と横山党(小野氏子孫)だけでも武蔵国内の蘇我系統勢力はかなり残るわけだ…。

 

そして彼らは平将門子孫や桓武系平氏と結びつき、武蔵七党となり1221年『承久の乱』で蘇我の敵である藤原討伐を成し遂げた。

 

 

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