セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

玉祖命と応神天皇のシンクロニシティ②、 天比理刀咩命・淀姫・豊姫はウサミ妃?。

 

茨城県日立市水木町『泉神社』、今回のテーマである天速玉姫命を祀る。
重大なヒントが眠っていた。





2023,2,18

前記事の続き。

九州や玄界灘からいきなり安房国(房総半島)のお話になる。…ちょっと解りにくいかもしれないが。今回はフトダマとその后、天比理刀咩命のお話。これがどうやら、八幡信仰+熊野信仰の祖ウサミと密接に関係してくる事が判った。

※なんで八幡信仰と熊野信仰が関係にあるの?という方はコチラを読んでください→

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

さらに宮下文書版フトダマが、蘇我大伴系統であることを説明しなくてはならない。

通説のフトダマは忌部氏の祖神とされているが、宮下文書におけるフトダマは、左右大神左臣・祖家(蘇我大伴系統)となる。このステレオタイプをクリアーにしていただかないと、この記事は半分も理解できない。

だけれども…このステレオタイプを外すと…、房総半島に大きな勢力があった蘇我氏族の末裔たちが、なんでフトダマや天比理刀咩命を祀るのか?。そのカラクリが一気に見えてくる。

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった。中臣・物部・藤原編。 - セキホツ熊の謎を追え!

<欠史八代の家系図>繰り返される近親婚、彼らは両臣という遺伝子防御システムであった②。中臣・蘇我・大伴編 - セキホツ熊の謎を追え!

 

最近、前説明がどんどん長くなるのは気のせいだろうか…。

ゼエゼエ(´(ェ)`)

~目次~

 



左右大神とは?

簡単に左右大神を説明すると…。

概念上わかりやすく言えば、全国の神社神門に神像がある『豊石窓命』『櫛石窓命』に近い存在と思われる。宮下文書では、これが後世の右大臣と左大臣の概念へと変わる。因みに…後述する安房国の忌部氏や大伴連の祖神にも、『天石門別神(2柱の総称)』の名前が挙げられているという。

 

富士朝以前から、神皇のサポート役として左右大神システムが綿々と続いてきた。右大臣の家系が後世の藤原物部系統、左大臣の家系が蘇我大伴系統だ。これらが歴代皇家と三つ巴状態の婚姻関係を繰り返してきて、事実上外部からの遺伝子の防壁になっていた。ウガヤフキアエズ朝時代からは左右両勢力が、臣の中枢を担っていたことで、『中臣』を称していた時代もあった。つまり、藤原系統も蘇我系統も『中臣姓』を称していた時代もあるので注意。



そして宮下文書では、ニニギとタマノオヤ二人の天孫降臨に密接に関係してくるのも興味深い。この天孫兄弟の部下として、政治と宗教をサポートしていた。

〜宮下文書版八王子〜

  • 天日子火瓊瓊杵尊(ニニギ)
  • 天太眞祖命(アメノタマオヤ)
  • 天母岬毘女(アメノコヤネ妃・藤原物部系統)
  • 太八重美命(フトダマ妃・蘇我大伴系統)
  • 不明
  • 不明
  • 不明
  • 不明

 

アメノオシホミミとタクハタチヂヒメの間の八王子(皇子五人・皇女三人)で、ほかの四柱は宮下文書現代語訳には記名なし。

▲兄ニニギの右大臣がアメノコヤネ、左大臣がフトダマ。

▲弟タマノオヤが阿祖山太神宮2代目大宮司、その副宮司としてアメノコヤネとフトダマが兼任している。

 

 

〜ニニギ朝の左右大神〜

右守大神アメノコヤネ(藤原物部系統祖神)

左守大神臣フトダマ(蘇我大伴系統祖神)



〜富士朝阿祖山太神宮大宮司〜

2代守護司長タマノオヤ(ニニギ弟)

副司長アメノコヤネ

副司長フトダマ

※左右大神が副司長を兼任していた。

※※因みに初代守護司長オオクニヌシ、副司長はオオヤマツミ。当初は大宮司家による世襲制はなかった。



この両臣システムは、10代崇神天皇から12代景行天皇のホツマツタヱ成立とともに終焉を迎える。すべては天皇家が、権力の象徴『三種神器』を所持しつづける為に、富士朝時代とウガヤフキアエズ朝時代を欠史にする必要が出てきたのだ。さらに…その欠史のために、歴代皇后と有力豪族たちの系図が木っ端微塵に大改竄され、天津神と国津神、ミワとカモなどに再編されてしまった。これら歴史改竄のインパクトが強すぎて、日本史はもはや修復不可能。めちゃくちゃにされてしまった。







千葉県千葉市中央区蘇我『蘇我比咩神社』

 

房総半島と蘇我系統の関係性。



一般的に言われているが、房総半島は蘇我勢力と関係が深い。

蘇我比咩神社由緒書によると、ヤマトタケル東征のオトタチバナヒメ入水自殺の折、5人の姫も後に続いて相模湾上飛び込んだ。その中で房総半島へ漂着した一人の姫がいた。これが蘇我氏族の娘で、村人たちの看病もあり無事西国へと帰郷した。しかし後日、ヤマトタケルが西国帰還中に命を落としたことも伝わり、村人たちが社を建てこれを弔った。

後世の応神天皇がこの話を大変気に入り、蘇我一族を国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を守護神としており、両社を分霊して蘇我比咩大神を祀る『蘇我比咩神社』を創建したという。現在でもこの海辺は蘇我町と呼ばれている。




◯『蘇我比咩神社』(千葉市中央区蘇我)

〜主祭神〜

  • 蘇我比咩大神
  • 千代春稲荷大神

〜配祀〜

  • 天照皇大神
  • 春日神(経津主神・武甕槌神・天児屋根神・天児屋根比売神)
  • 八幡神(応神天皇・比咩大神・神功皇后)

※中世には春日大明神と呼ばれていた。



〜春日大社の四神〜

  • 武甕槌命(宮下文書版蘇我大伴系統)
  • 経津主命(宮下文書版蘇我大伴系統)
  • 天児屋根命(宮下文書版藤原物部系統)
  • 比売神(詳細不明、蘇我系の姫か???)

 

※宮下文書ではアメノコヤネ以外の春日神、タケミカヅチとフツヌシは左臣、蘇我大伴系統の祖神となる。




しかしながら…、15代応神時代に蘇我氏族が国造として派遣されたというこの由緒は、宮下文書的におかしいだろう。ヤマトタケル東征後の東国には富士朝『吾嬬惣国』が存在して、応神天皇の時代には御子・大山守皇子が阿祖山太神宮大宮司になっていたハズである。そして富士山以東は、富士朝大宮司家の子孫『吉田氏族』が遍く東国を掌握していたはずだ。

ただ、房総半島に蘇我系東国氏族がいた確率は高いようで…。宮下文書三輪本現代訳p133によると、神武天皇時代のフトダマ55世孫の申食国政大夫、曾賀可美眞手命(そがウマシマジ)の第二子・御鉾海辺命を武両富佐の県令とし、安房の宮に移るとある。因みに宮下文書版ウマシマジは、物部系統ではなく蘇我系統祖神なので注意。

そもそもそれ以前から、東関東圏は大きな蘇我系統の勢力下であった。宮下文書版タケミカヅチとフツヌシは藤原神系ではなく、蘇我大伴神系だったわけだ。後世の飛鳥時代の権力者・蘇我蝦夷は、これら祖神の古豪が統治していた関東圏に強い憧れを抱いていた。宮下文書研究家加茂喜三氏の言葉を借りれば、『蝦夷(えみし)』とは蔑称ではなく、高貴な血筋を意味していたという。

 

~宮下文書版・蘇我大伴系統系図~

※豊玉男命(ワダツミ系)と豊玉武毘古命(蘇我系)は別系統なので注意。

 

逆に。これらの東国史を、西国天皇勢力は封じ込める立場にいた。後世に、富士朝からの影響力を根絶するために、西国からの影響過程を強引に創作・追記しておく必要性があったのだ。古語拾遺によれば、神武天皇元年にフトダマと天比理乃咩命の孫・天富命が阿波(安房)国へ上陸し開拓したという記述もある。宮下文書版フトダマは神武天皇の遥か神代の人物であり、時代背景がまったく合わないのは明白だ。

個人的に思うのが、西国で失脚後に東国流れた物部・大伴・蘇我の説話は各地にある。鳥海山や諏訪湖の物部氏伝承は有名である。これらは古来からの富士朝東国史を撹乱し、西国天皇勢力の影響をアピールするための創作の可能性はないだろうか?。全国各地の物部・大伴・蘇我・尾張氏の史跡は根本的な見直しが必要かもしれない。








フトダマは蘇我大伴系統『祖家』の象徴神。

館山には安房一宮が2社あり、もともとこの2社はフトダマと妃・天比理乃咩命夫妻をそれぞれ別宮として祀っていたという説もある。うち洲埼神社には霊峰富士遙拝所があり、さらに安房神社のある地名が『大神宮』という。さらに阿祖山太神宮(北東本宮小室浅間神社古宮)へとレイラインを形成し、高座山・新倉山・神座山を通り、Googleマップ上の山梨県韮崎市大草町『日本列島のヘソ』石碑へ到達。日本列島や本州の中心点または重心点は、その定義により各地複数称しているので注意。

また神座山〜高座山は、太神宮祭祀にとって重要なラインとなっていそうだ。またいつか別記事にてご紹介する。




◯安房一宮『安房神社』(千葉県館山市大神宮)

〜御祭神〜

  • 天太玉命(宮下文書版蘇我大伴氏祖神)

〜相殿神〜

  • 天比理刀咩命(フトダマ妃?)

〜忌部五部神〜

  • 櫛明玉命(通説ではタマノオヤと解釈される)
  • 天日鷲命
  • 彦狭知命
  • 手置帆負命
  • 天目一箇命



◯安房一宮『洲崎神社』(千葉県館山市洲崎)

〜御祭神〜

  • 天比理乃咩命

※霊峰富士遥拝所あり

※※役小角の蛇退治伝承、1180年石橋山敗戦のおり安房国へ逃亡した源頼朝が参拝。鎌倉時代には源頼朝の崇敬厚く、海上航路の神として東京都品川区北品川『品川神社』にも勧請された。室町時代に太田道灌が、江戸城守護として神田明神に分霊したという説有。

さてここで問題なのは、フトダマを祀る意味である。

wikipediaによると、フトダマは忌部氏(後に斎部氏)の祖神、玉作部は忌部氏と深い関係にあり、忌部氏の前身は玉作工人集団であったとの説あり。通説の忌部氏は、中臣氏とともに宮中祭祀を分掌してきた名門、本貫地候補として奈良県橿原市『曽我遺跡』南に忌部町の地名が残り、忌部氏祖神・天太玉命を祀る太玉命神社がある。延喜式神名帳には4座とあるが、うち3座は不明とされる。



その忌部氏族と蘇我氏族も本貫地的にも非常に近い存在とされわけだが…、これらの図式が宮下文書では、フトダマ=蘇我祖神とシンプルに明記されているわけだ。蘇我氏族・忌部氏族が玉作連タマノオヤまでを重要視していたのは確かなようだ。

※因みに、宮下文書の忌部氏族は不明。神武東征時代にも忌部若道命なる軍臣?が登場する。残念ながら出自がイマイチわからない。

 

はたして…。アズミ族祖神タマノオヤが何故、忌部氏神に取り込まれたのか???。この安房国に大きなヒントがありそうだ…。大宮司タマノオヤは氏族を超え、神宝『玉』の象徴神として祀られ祭祀氏族に始めていたようだ。

経緯は不明ながら...、タマノオヤは祭祀のエキスパート忌部氏族たちによって、玉神となったようだ。






蘇我系統の小幡毘女とはトヨヒメなのか?



やっと本題にはいるが…(苦笑)。

今回注目すべきは、この天比理刀咩命(あめのひりとめ)という御神霊。一体どなたなのだろうか?。

宮下文書には未登場。通説では天比理刀咩命や天比理乃咩命と表記が様々あるので注意。通説ではフトダマの妃なので、忌部氏(後に斎部氏)の祖神と解釈されている。

この御神霊、実はちょっと心当たりがある…。

(´(ェ)`)。



まず、宮下文書におけるフトダマの妃は、別神として、アメノオシホミミ八王子の太八重美命。タマノオヤの実姉妹である。

 そしてフトダマと太八重美命の間に誕生したのが四女・小幡毘女命となる。タマノオヤ御子ウサミは、この小幡毘女命を娶り、クマノクスヒコ(久眞野久住毘古命)を生む。

上は宮下文書系図、下はホツマツタヱ系図



さらに、ホツマツタヱ版クマノクスヒに着目して家系図を比定してみた。

すると…なんとホツマ版クマノクスヒとは、父神がアマテルと、西局の乙下侍ムナカタの娘・トヨ姫アヤコの御子なのだ。

ホツマツタヱ神代をおさらいすると、アマテル妃の速佐須良姫ハヤコが、スサノオと不倫関係となる。ところが中宮・瀬織津姫ホノコの知るところとなり、ハヤコはタケコ・タキコ・タナコ三姉妹とともに宇佐神宮(ウサ宮)へと追放されている。その三子の世話役として、トヨヒメが同時派遣されている。

すなわちホツマツタヱ版トヨヒメとは、ムナカタ族であり、当時まだ幼かった三女神イトウの育ての親に比定される。

(´(ェ)`)




さらにさらに、ここから連想して。

これってもしかして肥前一宮・與止日女神社の御祭神、ヨドヒメ別名『トヨヒメ』なのではないのかと…。與止日女神社wikipediaによると、『肥前国風土記』逸文には別名が複数挙げられ、その一つに『豊姫』の名前が出てくるのだ。通説では神功皇后の妹、卑弥呼の関係者等の説があり、神社では豊玉姫に比定されている。これは、ホツマツタヱ版トヨタマヒメとトヨヒメは明らかに別神となるわけで、卑弥呼とも、神宮皇后の妹とは無関係であろう…。そもそも時代が違いすぎる。

 

さらに京都男山石清水八幡宮の北東『與杼神社』に勧請され、実質大阪府を流れる淀川のスタート地点となっている。地理的状況で言えば、男山と呼応しての水神配祀にも思える。因みに現在はトヨタマヒメを祀っており、ヨドヒメと淀川はなんの関係もないといわれる。しかし…淀川の名称由来がわかっていないのに、なんで断言しているのかは不明。ま直感的に、ヨドヒメもトヨヒメも隠されている節があるのかなと…(苦笑)

 

総合すると…、ひょっとしたら、ホツマ版トヨヒメ≒ウサミ妃・小幡毘女命(蘇我系)なのではないかという推論がでてくるわけだ。

 

宮下文書における宇佐神宮は、ウガヤフキアエズ時代に大本営として記載されている。それ以上の具体的な創建理由は記載されていない。ウサミ西征時に宇佐神宮が存在していたのかも明記されていない、あくまで推測。。。

ただ、現在祀られている宗像三女神イトウとは、歴史改竄後のホツマツタヱ成立以降に、その代理人的御神霊祭だったのであろう。つまり、宇佐神宮には宗像三女神以前に祀られていた存在が既にいたはずである。それは、宇佐神宮創建にも起因した根源神の可能性もあり。宮下文書の傾向を分析するに、名草日前宮と同じ。もともとは、タマノオヤ・ウサミ・クマノクスヒコの家族を祀っていたと考えるのが自然かなと…。(具体的に言うとタマノオヤやイワナガヒメや小幡毘女命を含む神々か?…)。

(´(ェ)`)




また小幡毘女命…、八幡信仰の源流に『幡(はた)』の字が現れたことも興味深い。宮下文書にしろ、ホツマツタヱにしろ、今まで八幡信仰の源流として確認できたのは、ワダツミ系統豊玉男命の八子に由来する『八本の旗(はた)』、すなわち『八幡(やわた)』と読ませていた経緯は確認できる。初代ウガヤフキアエズ朝の豊野の里大本営『宇佐の宮』であった。

しかし、決定打となる特定の人物ではない可能性を裏付けるものでもあった。

今回は、そのさらに根源として『幡』の字の神の関与を確認できたことは大きな意味を持ちそうだ。個人的には『八』と『幡』は、宮下文書版タクハタチヂヒメの八王子を意味するのではないかと推測している。しかも秦(はた)氏族が来日する遥か以前のお話である。






茨城県日立市水木町、泉神社境内『厳島神社』



フトダマのヒメの正体?ヒントは速玉!?。

2018年のゴールデンウィーク、125ccバイクで常陸国を神社めぐりした。本来なら日立市大甕町『大甕神社』で終了する予定だったのだが、帰還予定までに時間が多少あったので、常陸国ラストの一社として1キロ程東の延喜式内社『泉神社』を選んだ。エメラルドグリーンの泉にある摩訶不思議な神社。社伝によると、天から霊玉が落ちてきて泉となったという。やはり全国各地の和泉という宮名・地名には、伊豆神の要素もあるのではないかと。

 

◯『泉(いずみ)神社』 (茨城県日立市水木町)

〜御祭神〜

  • 天速玉姫命

※湧水の泉にあるお社は、イチキシマヒメを祀る厳島神社なので注意。

※※茨城県神社誌によると、天棚機姫命の女、天太玉命の后、別名は天比理刀咩命。日本三代実録によれば、天速玉神と同神とみなされる。



ここで…なんと『速玉』が出てきた!!。前記事でも紹介したが、宮下文書研究家・鈴木貞一氏による熊野三神の比定を振り返ってみよう。

 

〜熊野三神とは?〜

  • 家都御子神=タマノオヤ(天太眞祖命)
  • 速玉神=ウサミ(宇佐見命)
  • 夫須美神=クマノクスヒコ(久眞野久住比古命)

※鈴木貞一著『日本古代文書の謎』p76参照

 

補足すると、家都御子(けつみこ・けつみみこ)神の語源は、ニニギが命名した高天原の家基都(かきつ)のことではないかと推測される。タマノオヤは阿祖山太神宮2代目大宮司ゆえ、家基都の御子神と呼ばれたと推測する。

鈴木貞一氏によると熊野速玉大神=ウサミのこと。神武東征時代に藤原物部系統に速玉之緒命が登場するが、神代ウサミの活躍に肖り命名されたと思われる。速玉之緒命の息子が速玉山田命(天日方奇日方命=鴨王=クシミカタマ)となる。因みに、熊野はウガヤフキアエズ時代には久萬野山と表記されていたのを、野生の熊が敵賊軍を餌食にしたことにより神武皇軍が大いに喜んで、神武時代より熊野山と表記されるようになった。そもそもクマノの語源は、『隈無く(西国)を平定した…』という意味。

 

宮下文書版ウサミの本拠地伊豆国『伊東の宮』は、現在の静岡県伊東市『葛見(くずみ)神社』に比定される。御祭神は謎の神クズミだが、これは宮下文書表記・久眞野久住比古命の『久住(くすみ)命』から推測するに、ウサミの子クマノクスヒコで間違いないと思われる。ただ個人的に思うに、熊野夫須美大神というのはウサミとクマノクスヒコのかけ合わせ、さらに曖昧にするための造語なのではないか?という推測も捨てきれないかなと…。



自ずと泉神社の天速玉姫命とは…、ウサミの関係神の可能性が濃厚である。宮下文書版ウサミ妃・小幡毘女命なのではないか?という推論がでてくるわけだ。すなわち小幡毘女命=天速玉姫命=天比理刀咩命。つまりフトダマ妃ではなく、フトダマ娘でありウサミ妃のこと。ホツマツタヱにおけるクマノクスヒ母神トヨヒメとも、本人もしくは家族神だろう。ただ…まさか千葉県や茨城県に多く祀られるフトダマ妃が、肥前一宮與止日女神社のヨドヒメ(トヨヒメ)と接点があったことはびっくりしたが…(苦笑)。

 

以前、八幡神≒タマノオヤだと思うが、ウサミの可能性は捨てきれないと…述べたのを覚えているだろうか?。まだまだ曖昧な返答しかできなさそうで恐縮だが…。

親子3代、タマノオヤ・ウサミ・クマノクスヒコは八幡信仰と熊野信仰と名草日前宮の架け橋となり、現在の神道のスタンダードとなった。それだけ彼らの活躍は評価されるべきものであった。

(´(ェ)`)

 

タマノオヤ西征、推定の進軍航路。
宮下文書には、ウサミと宇佐神宮の関係は記されていないので注意。






イズミ神社の思い出。

この泉神社は一度しか参拝したことがない。しかし実は、あれから熊オッサンの夢の中で参道と、隣接した『泉が森公園』をフラフラ彷徨っており、その都度なんか行ったような錯覚に陥っている…。私にとっては、ナゾの思い出をもつ神社である(苦笑)。

それが五年後の今となって、その重要性に気づくとは…。

ムフフフフフ(´(ェ)`)

 

対元寇氏族・武藤少弐氏は肥前国にその拠点を移し、肥前一宮與止日女神社のヨドヒメを崇敬していた。Wikipediaによると、1281年弘安の役にて敵船団を與止日女大神の神霊が摧いたとも伝えられる。つまり、神風に関係しているのではないかと…。

ヨドヒメを崇敬してきた熊オッサンの推定ご先祖さま…。これは武藤少弐氏の遺伝子がなせる業なのか?…、それとも全部が単なる偶然なのか?。1232年武藤資頼が創建した武蔵国人見稲荷神社との出会い以降、彼らの遺伝子についていろいろ考えさせられてきた。今回も…呼ばれた感がハンパない…。

これはご先祖さまが、熊オッサンになにかを伝えたがっているのか…???。

 

。。。(´(ェ)`)。

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※地図はクラフトマップ使用。

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