2024,5,12
前記事『東西ダブル小野神社レイライン』の続きを予定していたのですが、ちょっと旅行に行ってまして記事を用意していません。
m(_ _)m
毎年恒例となるGW貧乏ボッチ旅行ですが…、今年は紀ノ国へ参りました。
当ブログでも和歌山県内『日前宮』『丹生都比売神社』『伊太祁曽神社』『玉津島神社』は以前から取り上げておりましたが。おかげさまで行きたい場所へしっかり参拝できました。
ま、能登半島にも行きたいのだけど…。
そんな中でも、今回は丹生都比売神社境内にて、宮下文書研究的に『佐波国』の意義ある発見をしたのでご報告を。
(´(ェ)`)
~目次~
紀伊国一宮三社の解明?。瀬織津姫誕生とタマノオヤの栄光が消されてゆく過程。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈緊急続報〉能登半島〜房総半島、戸隠神社と寒川神社を結ぶレイラインだった?。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈能登半島②〉安房能登紀伊トライアングル浮上、天比理乃咩命と丹生都姫命を結ぶ?。 - セキホツ熊の謎を追え!
丹生都比売神社とは?
創建は15代応神時代以前。『播磨国風土記』によると、3世紀初頭三韓征伐の折に神託があり、戦勝へ導かれたという。その後、15代応神天皇により広大な神領が賜れ、神社が創建された。
旧鎮座地は紀ノ川支流丹生川の川上である水源、九度山付近で紀ノ川に合流する。和歌山県伊都郡高野町上筒香の東の峰付近にあった。これは現在地からかなり東の山奥となり違和感もあるが…。宮下文書版神武東征における、『丹生本営』『丹生の川』『丹生の川上』から比定してもドンピシャと思われる。東征のための祈願をしたところ吉兆が現れ、士気が一気に高揚したとのこと(三輪本現代訳p115)。おそらく神武天皇らは、神代の先達タマノオヤの神威に肖ろうとしたのであろう。
816年空海による高野山開山にあたり、広大な神領地一部が譲渡される。その際に現在の天野の里へと遷座されたと思われる。以降の高野山参拝は、まず丹生都比売神社を参拝する習わしとなっている。空海死後は高野山へ帰属し神仏習合の道をとる。
1208年、北条政子と行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神と厳島神社の市杵島比売大神がそれぞれ勧請合祀された。
鎌倉時代までの第三殿には、『蟻通神』が祀られていた形跡がある。鎌倉以降は現在の祭神が確立された。
◯『丹生都比売神社』(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)
〜御祭神〜
- 丹生都比売大神
- 高野御子大神
- 大食津比売大神
- 市杵島比売大神
〜境内摂社〜
- 佐波(さわ)神社
〜奥宮・三沢明神〜
- 奥之沢明神
- 中之沢明神
- 柳沢明神
主祭神の丹生都比売神は宮下文書には登場しない。通説水神の特性を持ち、玉津島神社などに祀られる稚日女尊と同一視する説あり。
高野御子神も宮下文書には登場しない。通説では丹生都比売神の御子神とされる。
オオゲツヒメ=瀬織津姫か?。
前述のように、大食比売大神(オオゲツヒメ)とは、越前一宮気比神宮から遷座されている御神霊。現在の気比神宮の御祭神は伊奢沙別命、その別名が御食津大神(男神?)とされるのでその妃神という位置づけだろうか?。以前当ブログでもご紹介した、信州皆神山『待従神社』の御祭神でもある。
宮下文書的視点から考察すると…。宮下文書版ツクヨミの別名『大月(おおげつ)留男命』、ここから推測するにツクヨミ妃『月桜田毘女命(つきさくらだひめ)』ではないかとみている。白玉毘古命ことオオヤマツミの生母であり、瀬織津姫命の御正体ではないかと。
古事記版スサノオは高天原を追放され流離い、オオゲツヒメに食事を求めた。彼女は口・鼻・尻から様々な食物を須佐之男命に与えた。スサノオは『汚いものを食わせおって』という旨で憤慨して、オオゲツヒメを殺害してしまった。
もともとホツマツタヱでは、これをツクヨミが食事をくれたウケモチを殺した説話となっており、日本書紀はこちらを踏襲したようだ。これらの説話はすなわち、旧勢力となった富士朝ツクヨミ家系の自滅を暗に示しているわけだ。これには以降歴代皇后は皇族であるべきとの考えもあり、皇后女系の加茂山に埋葬された富士朝有力部族末裔は国史から抹消された…。
宮下文書版ツクヨミ夫妻は、富士朝高天原宇宙峰『加茂山』に埋葬され、そこから流れ出た宮守川が日本人阿族祖先の宗廟『阿祖山太神宮』の入口を潤した。これが祓戸四柱の原型と思われる。しかし2世紀前後?ホツマツタヱ成立以降、西国天皇勢力からその月と加茂山の権威を危険視され、富士朝の歴史とともに葬られる。また記紀成立時代までに、月輪+雲を紋章とする代々皇后は皇族近縁に限定されたわけで、他に神皇の女系の家系があることも知られるわけにはいかなかった。
これが各地にかぐや姫伝承や、七夕伝承などとして残されていると思われる。
〈加茂山解明①〉祓戸四柱浄化システム、阿祖山太神宮の宮守川の流れの見立か? - セキホツ熊の謎を追え!
〈加茂山解明②〉大祓詞・寒川・相模湾の役割、真相を底根へ流す歴史封じの呪法だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!
市杵島比売大神はイワナガヒメか?
宗像三女神と市杵島姫命は宮下文書には登場せず。
当ブログでは、いつき三女神あるいは、イワナガヒメではないかと見ている。
宮下文書版タマノオヤは、富士朝高天原阿祖山太神宮の2代目大宮司で、伊豆を領していた。妻イワナガヒメは早世し、熱海日金山(伊豆山神社西側・十国峠)に伊豆大神として埋葬された。
つづいて御子ウサミは、イトウの宮(静岡県伊東市葛見神社)を拠点としており、フトダマ四女小幡毘女命を娶りクマノクスヒコを生んだ。
『外寇親征の役』にて、ニニギはコノハナサクヤを失い再起不能となる。皇子ヒコホホデミはまだ幼い故に、その後の西征の任をニニギ弟タマノオヤと御子ウサミ、また彼らの家臣イシコリドメらに託した。
彼らは紀伊国の和歌山県伊都(いと)郡付近を拠点として西征、穴門の宮(周防一宮玉祖神社)に到達した。宮下文書曰くこの国を佐波(さは)国とよんだ。レイライン上ドンピシャで、対岸の宇佐神宮と対を成しているのがわかる。自ずとウサミ関与を推測できるわけだ。宮下文書ウガヤフキアエズ朝時代にはいると、九州北部の筑紫国=附地見島から筑市島(ちくししま)に変更した。これが市杵島姫命の語源ではないか?と見ている。
宮下文書には穴門以西の具体的記載がないが、その痕跡はしっかり残っていると言える。かつての伊都(いと)国、福岡県糸島(いとしま)市志摩船越『若宮神社』に、苔牟須売神ことイワナガヒメが祀られている点にも着目する。現在糸島市内にはニニギ天孫降臨伝承の『天降神社』が複数あり、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメを祀る『細石神社』などがある。丹生良広著『丹生神社と丹生氏の研究』によると、丹生氏ははるか大陸から渡来して、この伊都国を足掛かりにして紀伊国へ入ったという説あり。丹生都比売信仰ルーツとも言われている。
〜タマノオヤ三代〜
▲タマノオヤ=家津美御子大神
▲ウサミ=熊野速玉大神
▲クマノクスヒコ=熊野事解之男大神
※宮下文書表記ではクマノクスヒではなく、クマノクスヒコとなる。
結果としてタマノオヤ・ウサミ・クマノクスヒコの三代は、この西征が『久眞なく治まったので、久眞野と呼んだ』と、熊野信仰の創始者となったと明記されている。当ブログでは八幡神の御正体を、タマノオヤ家族のうち複数神?と見ている。
丹生都比売命・トヨヒメ・ヨドヒメ・天比理刀咩命の接点は?
和歌山県伊都(いと)郡付近は、宮下文書におけるタマノオヤ本営地『日高野原の川上(現代訳p71)』に比定されるだろう。おそらくは縄文海進の影響もあり、かつての紀ノ川の水量は多かったとみられる。タマノオヤ軍は葦船で奥まで遡り、駐留してきた可能性がありそうだ。
当ブログではフトダマ四女ウサミ妃、クマノクスヒコ母である小幡毘女命を丹生都比売命と見ている。出自側である蘇我大伴系統『祖家』末裔らは、神代から安房・信州・常陸・上野・武蔵に拡散されており、同族の誇りとして厚い信仰を持っていたと推測できる。
〜当ブログ比定『小幡毘女命』の可能性〜
- トヨヒメ(ホツマ版クマノクスヒ母)
- ヨドヒメ(川上さま、トヨヒメ同神説あり)
- 丹生都比売命
- 天比理刀咩命(フトダマ妃説あり)
- 蘇我比咩命(蘇我系で春日神を祀る神社?)
- 天速玉姫命(速玉神とはウサミのこと)
※宮下文書における蘇我氏大伴氏は、フトダマ系統『祖家(そが)』とよばれる同祖となるので注意。
この進軍ルートがレイラインとなっている???↓
~タマノオヤ西征ルート・レイライン~
- 安房一宮洲崎神社...天比理刀咩命、南隣に伊戸(いと)という地名あり。
- 伊豆国府八幡八幡来宮神社...伊波久良和気命。
- 日前・國懸神宮...タマノオヤ・イシコリドメ
- 宇佐奥宮・大元神社...宗像三女神イトウ
- 與賀神社...與止日女神。
~泉・品川・葛見レイライン~
- 泉神社...天速玉姫命(宮下文書版速玉神とはウサミのこと?)
- 品川神社...天比理刀咩命(源頼朝勧請)
- 葛見神社...葛見神(宮下文書版ウサミの『イトウの宮』、頼朝八重姫密会伝承)
※源頼朝は伊東での思い入れが深かったようにも思える。
一方で九州との繋がりを考察すると…。
ホツマツタヱ版宇佐の宮は、九頭竜モチコと八岐の大蛇ハヤコ(速佐須良姫命)の流刑地であった。その二柱の世話役兼・お目付け役となっていたのがトヨヒメで、その御子がなんとクマノクスヒ。
八岐の大蛇ハヤコが生んだ三女が宗像三女神に比定され、宇佐に祀られてイトウ神と呼ばれていた。近年まで宇佐神宮を代々継いでいた宮司家は、到津(いとうづ)家という。以降…、八岐の大蛇ハヤコはスサノオに成敗されて、イワナガヒメへと転生したと明記されている。つまり速佐須良姫命=八岐の大蛇=イワナガヒメ、古代神イトウの御正体が浮き彫りになってくる。
このような経緯から、宇佐神宮にも九頭竜神・八岐の大蛇・トヨヒメの痕跡があってもおかしくはないことになる…。京都石清水八幡宮の対岸にも與杼神社があり、神功皇后や応神八幡信仰と呼応関係にあるのがわかる。肥前一宮與止日女神社を勧請させた京都府京都市伏見区淀本町『與杼神社』の境内社に、これらを彷彿とさせる『長姫弁才天社』『豊丸社』『川上社』があるのも頷ける…。
※宇佐神宮での九頭竜神の痕跡に関しては、また別記事でお話します(´(ェ)`)。
さらに丹生都比売神社と與止日女神社の共通点を探ってゆくと。八幡信仰が三韓征伐などの軍神としての要素が強いように、丹生都比売命や與止日女神も単なる水神ではなく、防人の守護の傾向が強い。與止日女神社では、1281年弘安の役元寇において、與止日女大神が敵の船を殲滅させた。丹生都比売神社も神威を表したとして一躍有名となった。以降は紀伊一宮のポジションを得て、公家や武家がこぞって寄進をした。
何と言っても『川上さま』とは、熊オッサンの推定ご先祖様、対元寇氏族武藤少弐氏の氏神さまとなる…。
(´(ェ)`)
このように、宇佐神宮・丹生都比売神社・與止日女神社なども、それぞれシンクロニシティを持っているのがわかる。宮下文書版タマノオヤ西征に深い繋がりがみられるのだ。
佐波神社と三沢明神
本殿参拝が終わり、拝殿へ向かって左側へ進むと、境内摂社佐波(さわ)神社がある。明治39年の国の合祀令にもとづき、上天野地域の産土神・三沢明神などを一社に合祀した。どうやらこの『さわ』と読ませているのは、当社の奥宮にあたる三沢明神の掛け言葉にもなっているようだ。
その後博物学者・南方熊楠らの呼びかけにより、神社合祀政策が廃止された。三沢明神は元の鎮座地にそれぞれ遷座される。
〜三沢明神〜
▲奥之沢明神
▲中之沢明神
▲柳沢明神
※御祭神不明。
宮下文書版佐波(さは)国とは、当ブログにて八幡神比定されるタマノオヤの死亡地。付近の 山口県防府市惣社町には『周防國總社・佐波(さば)神社』が存在する。相模国鎌倉北部に点在するサバ神社群も、八幡神を崇敬していた清和源氏を祀るためのものであり、その本質は同じなのではないかとみている。すなわち、丹生都比売命とオリジナル八幡神とタマノオヤ西征を関連付ける決定打になるのではないかと…。
三沢明神は文字通り3つの地域のサワ、『奥之沢・中之沢・柳沢』として存在しており、熊オッサンが参拝したときはカエルの大合唱が迎えてくれた。中でも奥之沢は丹生明神が天野の里にて始めて入った場所とされる。柳沢明神の場所は、狩場明神が空海を案内し、丹生明神に会わせた場所とされる。ここで高野山割譲の話し合いがあったのだろうか?。この三箇所それぞれに意味がありそうだが、三社あるというのはどこかタマノオヤ家族三世代を彷彿とさせる。
▲兄ニニギ(クニトコタチ玄孫アマテラス義孫)
▲妹コノハナサクヤ(クニサツチ玄孫ツクヨミ孫)
▲弟タマノオヤ(アマテラス義孫)
▲姉イワナガヒメ(ツクヨミ孫)
個人的には、歴史改竄でバラバラにされた日月・火水の神々を融合させることが最重要だと考えている。これは現代日本人に残された解消されるべきカルマだろう。熊オッサンはそれぞれの沢にてひふみを三唱。『タマノオヤ・イワナガヒメ・ウサミ・小幡毘女命・クマノクスヒコのご家族が再び結ばれますように…』『富士山と伊豆の歴史を伝えられますように頑張ります…』とお祈りした。
三沢の最後『柳沢明神』を回れたところに、図らずも帰りのコミュニティバスが来た。
(´(ェ)`)
空海は延暦噴火の犠牲者?
確か、静岡県熱海市『伊豆山神社資料館』によると、その彼が当初は伊豆国での開山を望んでいたという。807年には伊豆半島田方郡『福地山修禅寺』、808年伊豆半島賀茂郡松崎『富貴野山宝蔵院』を開山している。しかしながら大規模な伊豆における開山は勅許が降りず、その次に目指したのがタマノオヤ西征の経由地でもある、この高野山比定地『日高野原の川上』に白羽の矢がたったのではないかと…思われる。
空海の産土神である香川県仲多度郡多度津町西白方『熊手八幡宮』には、空海=八幡大菩薩の御霊分け(ハイヤーセルフ?)であるとされる。生前から八幡大菩薩と話し合っており、『あなたとわたしは同一体、影のようにあなたへついて行く』旨伝えられたという。
空海が入定(死去)すると、神功皇后由来の御神体である熊手と旗竿が、白龍に姿を変え、讃岐から高野山へ向けて飛んだ。高野山近くの伊都郡兄井村の松樹に引っかかり、遠く葛城の峰まで光っていたという。これが鎌八幡宮起縁であり、現在は丹生酒殿神社に合祀されている。今回の神社めぐりにて熊オッサンも参拝済み。興味深い神社なので機会があれば別記事でご紹介したい。
空海が偉人であることは否定しない。
それが。。。ご苦労すぎて言葉を失う程だ。
今後の研究により、彼への見方が一変してしまう可能性はある。
807年以後延暦噴火鎮魂活動に勤しんでおり、富士山阿族御祖霊の祟りを一身に受けた。そもそも803年唐へ行けたのか?、朝廷が延暦噴火で右往左往している最中、留学できる時間があったのか?など疑問点は多い。個人的に考えているのは、彼ははじめから留学などが目的ではなかった。800年延暦噴火鎮魂のための秘術などを唐に求め、早急に持ち帰る任務であったと見ている。
これだけでは言えることは…、西国や仏教界にとっては、富士山の延暦噴火から大衆の目を逸らし、さらにその祟りの受け皿となってくれるスーパーヒーローが必要だったのだ。皮肉にもそれは結果として、彼にとって富士朝の歴史を葬り去る活動ともなった。彼は必要以上に英雄視され、富士山黒歴史封印の要となっていった。
奥ノ院では、現在も生き続けていると信じられている空海に、毎日2回『生身供』という食事が捧げられているという。皆さんはその意味を考えたことがありますか?。西国人たちにとっては、富士山御祖霊に対する畏敬の念で溢れていた。阿闍梨のスーパーヒーロー、空海さまがいつまでも守っておられる必要があったのだ…。
『1200年お疲れ様でした』
『富士山と伊豆と八幡神の歴史を伝えられるよう、頑張ります』と…。
いずれにせよこの御人は日本史にとって、これほど御苦労な御霊を私は知らない。そしていま、この時代に八幡神の御正体を紐解くことは…、これまで彼が溜め込んできた重荷を降ろすきっかけともなりうるのではないかと…。そのようなイメージで熊オッサンは奥の院を参拝させていただいた。
奥ノ院の前では熱心な信者たちが、座禅を組み、無心に御経を唱えていた。宗教の問題はホントに難しい。彼らにも伝統とプライドがあり、家族を守るための既得権益もあり。富士山の真相を世に伝えることの難しさを再確認した。
(´(ェ)`)
※地図はクラフトマップ使用。