2024,1,21
能登地震被災地の1日も早い復興をお祈りします。
m(_ _)m
事の発端は、2023年12月23日午前11時11分に、私が安房一宮洲崎神社にてひふみ祝詞を三唱して、9日後の2024年1月1日に能登半島にて地震が起こった。それはもちろん、偶然なのだろうが…。安房一宮洲崎神社から相模一宮寒川神社と、九頭竜神を祀る戸隠奥宮を介して、レイラインが見えてきた。天比理乃咩命さまや九頭竜さまが、このラインについて調べてみろと…、訴えかけている気がしてならなかった。調べてみると、これが実に阿族日本人の進行ルートとシンクロしていた。さらに言えばフォッサマグナに見えなくはない...。
今回はさらに新しいレイラインを発見。西側、能登半島から琵琶湖を経由して、紀伊国丹生都比賣神社方面へ到達するラインが浮上してきた。白山比毘命さまと丹生都比賣命さまの影もチラついてきた。。。
~目次~
〈緊急続報〉能登半島〜房総半島、戸隠神社と寒川神社を結ぶレイラインだった?。 - セキホツ熊の謎を追え!
<能登と房総①>能登は日本人上陸の聖地、七尾市と七瀬祓と富士朝七廟の接点。 - セキホツ熊の謎を追え!
〜能登・白山〜丹生都姫レイライン〜。
- 能登地震・震源予想地付近?
- 玉津嶋神社(珠洲市柏原)
- 玉津島神社(鳳珠郡能登町・衣通姫命)
- 伊須留岐神社(合鹿町・国常立尊)
- 神目神社古社地(式内社・伊豆伎比古神社)
- 伊夜比咩神社(向田火祭り・大屋津媛命)
- 伊夜比咩神社旧地イヤミ
- 大地主神社(伊許保止命・ 安房国造の祖)
- 能登二宮・天日陰比咩神社(天日陰比咩大神 伊須流支比古大神)
- 瀬織津姫神社(瀬織津姫神 大禍津日神)
- 金劒宮(瓊瓊杵尊・大山咋神・事代主神など)
- 加賀一宮・白山比咩神社(白山比咩大神・伊邪那岐尊・伊弉冉尊)
- 九頭竜川
- 須波阿湏疑神社(建御名方神・大野手比売など)
- 白鬚神社(猿田彦大神)
- 大津伊豆神社(伊豆大権現・神紋二葉葵)
- 唐崎神社(女當別神・おみたらし祭・七瀬祓)
- 関蟬丸神社上社下社
- 牛尾山
- 醍醐山・上醍醐(世界遺産)
- 宇治上神社(菟道稚郎子命・15代応神天皇・16代仁徳天皇)
- 宇治下神社(菟道稚郎子命)
- 平等院鳳凰堂
- 橋姫神社(橋姫こと瀬織津姫命)
- 宇治縣神社(木花開耶姫命)
- 水度神社(天照皇大御神・高御産靈神・少童豐玉姫命)
- 荒見神社(天香語山尊、阿比良依姫尊など)
- 淀姫祠?(木津川沿い)
- 河内国分寺
- 美具久留御魂神社(河内国三水分社 、1kmズレ)
- 丹生神社(丹生都比売神社末社?、丹生津姫大神・善女龍王)
- 丹生酒殿神社(丹生都比売大神・高野御子命、2kmズレ)
- 鎌八幡宮(丹生酒殿神社の元宮説あり)
- 鞆淵八幡神社(石清水八幡宮の別院?)
レイラインを北から説明。
◯玉津島神社(石川県珠洲市宝立町)
御祭神は衣通姫命。まず能登半島珠洲市に玉津島神社があることに驚いたが、3㎞南西に同名社が一つある。
前記事のように、玉津島神社とは高野山とともに、日本列島中央構造線付近に鎮座している有名な神社だが、なんで能登半島に、しかも当ライン上にあるのかは不明。奇しくも和歌山県和歌山市和歌浦『玉津島神社』には衣通姫命・息長足姫尊(神功皇后)・稚日女尊命が祀られており、稚日女尊命は丹生都姫命は同一視されることもある。
◯伊須留岐神社(石川県鳳珠郡能都町合鹿)
そもそも能登半島は、ニニギ勅定十七軍神割譲国においてのコトシロヌシ領。宮下文書研究家加茂喜三氏によると、コトシロヌシのもともとの活動拠点は伊豆だったという。その三嶋神の影響か?イヨ・イヤ・イスというキーワードがあちらこちら見えてくる。当社の御祭神は国常立尊で、伊須留岐神は能登二宮・天日陰比咩神社の御祭神でもある。
◯神目神社古社地(石川県鳳珠郡能登町)
延喜式内社の『伊豆伎比古神社』とみられ、現在は港側藤波地区に遷座している。迦弥米雷命が祀られているのだが。。。カヤノヒメ+雷?、別雷神カモサワヒメか?。
◯伊夜比咩神社(石川県七尾市能登島向田町)
伊夜(いや)比咩神社には、能登半島を代表する火祭り『向田の火祭』がある。注目すべきは大屋津媛命が祀られていることか…。前回述べたが紀伊一宮は3社以上あり、その伊太祁曽神社祭神が五十猛命であり、大屋津媛命の家族神にあたる。宮下文書には登場しないが、五十猛命の方は日本近海を守護しており、航路の守護神としてワダツミ系子孫が崇拝していた形跡がある。佐渡一宮『度津神社』の御祭神として一致する。能登半島には伊豆国と共に、紀伊国信仰の影響もみえてくる。
〜紀伊一宮比定〜
- 日前神宮國懸神宮(タマノオヤ配祀)
- 竈山神社(彦五瀬命、神武皇兄)
- 伊太祁曽神社(五十猛命)
- 丹生都比賣神社(丹生都姫命)
◯大地主神社(石川県七尾市山王町)
前回説明したが、かつて能登国府があったと推定される七尾市府中町隣接した神社。安房国造祖である伊許保止命を祀るが、そこに日吉大社からの勧請を合祀した。ゆえに御祓川(桜川)を挟んだ関係社の唐崎神社も、日吉大社境外社・唐崎神社をセットで勧請したと思われる。
◯白山比咩神社(石川県白山市三宮)
御祭神は白山比咩大神・伊邪那岐尊・伊弉冉尊、その信仰は中部・東海・関東広域に伝播している。同系神社が能登半島にも分布している。静岡県熱海市の伊豆山神社では『伊豆大神奇魂』として白山社がある。
宮下文書現代訳『神皇紀』p51によると、白山毘女尊とはイザナミのこと。彼女はクニトコタチ娘であるために、副元帥として阿祖北地方を巡狩していた。悪神を鎮めて慰め、良民を兄弟のように労っていた。彼女の止まる場所を家賀野と呼んでいた。高天原小室日向にてイザナミが崩御したことが彼らに伝わると、家賀野原の家賀山の石川に祠を立てて御神霊を祀った。
一方でククリヒメは宮下文書に登場しない。一般的にも『日本書紀』異伝(第十の一書)に一度しか登場しない。
宮下文書記載のキクリヒメ(菊里姫命尊)とは、コノハナサクヤヒメ諱のこと。のちに阿田都毘女尊と改めた。すぐ近くの『金劒宮』の主祭神がニニギであることを鑑みれば、この地にコノハナサクヤヒメが祀られていてもおかしくはない。
白山の地は、ホツマツタヱ成立時代より根の国として語られ、なぜだかウケステメ(西王母)が絡んできて、大陸系信仰とすり替えられた感がある。さらには朝鮮白頭山と同一視されてしまった。このあたりの経緯も気になるところ。富士朝由来の信仰が、富士朝から目を逸らす目的で、仏教や渡来系帰化人信仰にすり替えられてきた痕跡がある。祖霊信仰神道において、渡来帰化系の神々を代々的に祀ることは少ないのではないか?と…。個人的に九頭竜神も日本の神だと思っている。
◯金劒宮(石川県白山市鶴来日詰町)
多加王スサノオの叔父を金劒清という。三輪本現代訳p55によると金劒清の御子が劒刀知(のちの金山毘古命)。タジカラヲ夫妻(テナツチ・アシナツチ)とともに、佐渡ヶ島から金銀鉄を三種を掘って、『三品の大御宝』を製造した人物。もともとはここは金劔清を祀る神社だったのかもしれない。ニニギの墓陵が高天原『金山』なので、全国の金山系信仰は、ニニギと金山毘古命が混同されている気もする。
※前述した白山信仰が朝鮮半島と同一視されるのも、この多加王スサノオ一族のルーツに関係あるのかもしれない。宮下文書版スサノオはタカミムスビの曾孫と記されているが、どのようなルートで朝鮮半島から来たのかは不明。スサノオの娘がタクハタチヂヒメであり、その皇子が御祭神のニニギとなる。
◯日吉大社境外社・唐崎神社(滋賀県大津市唐崎)
日吉大社境外社で七瀬祓の神・女別當命を祀る。これは女『別雷命』とも読めそうなわけで、暗に加茂山寒川神カモサワヒメを指していそうだ。このレイライン上に沿って能登半島に勧請され、前述の大地主神社『青柏祭』に奉祀する神官たちの祓い場とされた。
別記事にてご紹介予定。
◯宇治神社(京都府宇治市宇治山田)
宇治天皇(菟道稚郎子)は、15代応神天皇以降の八幡信仰に多大な影響を与えた人物。
15代応神天皇は、タマノオヤ・アズミ族女系皇子・菟道稚郎子に皇位継承を与え、信仰の中心として大山守皇子を阿祖太神宮大宮司として派遣した。12代景行天皇後の東西の蟠りを越えて、再統合を試みた人物。
しかし16代仁徳天皇と武内宿禰が、その遺言に反し、皇兄の菟道稚郎子を自決に追い込んだ。自らが天皇となったことにより、東国富士朝勢力圏を大激怒させた。こうして西国天皇勢力と宮下家吾嬬惣国による東西分治時代が生まれた。これが世にいう『空白の4世紀』である。
後世、応神天皇5世孫の29代欽明天皇時代に、菟道稚郎子・大山守皇子・16代仁徳天皇の共通の父神である応神天皇を、八幡神として奉祀した。これは歴史鎮魂と皇家のカルマ精算を目指す目的があったのだろう。後世平安期に、富士朝とも縁が深い源頼義と子・八幡太郎義家が東征し、東西再統合の象徴として関東~東北地方に拡散された。
◯平等院鳳凰堂(京都府宇治市蓮華)
そもそもは阿弥陀堂と呼ばれており『鳳凰堂』は後世によるもの。ただ当ライン上で、しかもこの宇治の地に、火の象徴を表している点は注目すべきかと。平等院の鎮守社・縣神社にはコノハナサクヤヒメが祀られ、神紋がヤマザクラ。
もともとは、52代嵯峨天皇子孫である嵯峨源氏の別荘だったという。嵯峨天皇は、809年(大同4年)即位して橘嘉智子を皇后とした。橘氏は酒解神としてオオヤマツミ・ニニギなどを信仰していた氏族であり、この地にコノハナサクヤヒメが祀られているのも頷ける。その後998年(長徳4年)摂政藤原道長の別荘として宇治殿となり、創建は1052年道長の子・頼通によるもの。
◯荒見神社(京都府城陽市富野荒見田)
御祭神の一柱が天香語山尊。通説では高倉下ともいわれているが、宮下文書ではコトシロヌシ系とオオクニヌシ系が存在するので注意(別記事にて)。
ニニギ外寇親征の役にて、コトシロヌシファミリーは最前線に送り出され多くの犠牲を払った。戦後PTSDで総大将ニニギが衰弱死すると、コトシロヌシ・タカテルヒメ夫妻が責任感を感じ、後追い自殺する。これら防人たちの忠義心が美談となって、結果的に唯一残った天香護山命の系統が神聖視されることになった。父コトシロヌシが他界すると、本州東北地区(陸奥~越国〜能登半島)の総司令頭長の家を継承した。
拠点は新潟県出雲崎近く『越国一宮・彌彦神社』に比定され、宮下文書表記は『伊夜(伊彌)の宮』という。Wikipedia記載の古名、伊夜日古大神・伊夜比古大神・伊夜彦大神とほぼ一致する。1000日ごとに信州出雲戸隠に集う天津神・国津神たちの渡航管制塔?または灯台?も担っていたと推測。前述のように、能登半島能登島『向田の火祭り』を奉祀する伊夜比咩神社『向田の火祭』にもリンクしてくると思われる(調査中)。
◯丹生酒殿神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷)
現在の御祭神は、丹生都比売大神と高野御子命。丹生都比売命が降臨した聖地が榊山、当社はこの麓に位置する里宮説あり。明治42年(1909年)に付近の鎌八幡宮が合祀されて、現在は境内社とされる。
伊豆国から西征したタマノオヤ・ウサミ親子の最初の本営地『日高野原の川上』も近かったのではないか?と...。因みに付近を紀伊國伊都(いと)郡という。前述したウサミは伊豆伊東(いとう)の宮を拠点としており、安房一宮洲崎神社にも伊戸(いと)という地名がある。当地ではお酒をササ(笹)と読み、何処か伊豆國賀茂郡 佐々原比咩命神社・笹原姫命を彷彿とさせる。ホツマツタヱでは、宇佐神宮の比売大神をイトウと呼んでいた。
◯鞆淵八幡神社(和歌山県紀の川市中鞆渕)
創建不詳ながら、石清水八幡宮の別院として創建されたとのこと。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・比売大神。、配祀神は家都御子大神・事代主命。明治期に村内12社を合祀している。宮下文書研究家鈴木貞一によると、配祀神・家都御子大神はタマノオヤに比定される。
第三のレイラインは、小幡毘女命の御正体を示している?。
さらに三本目のレイラインをご紹介。これは以前に紹介しているのだが…、朝インスピレーションが湧いた。あ…今だから重要なんだと。
(´(ェ)`)
前記事では、天比理乃咩命≒丹生都姫命≒ヨドヒメとした。その御正体は宮下文書版フトダマ四女ウサミ妃で、クマノクスヒコ母『小幡毘女命』ではないか?と推測した。これが現に、伊豆国伊東→日前→宇佐神宮という彼らの西征推定ルートが、記載の通り一直線になって地図上に残っているのだ。
さらにライン上では、熊オッサンの推定祖先、武藤少弐氏流『鍋島氏』拠点もしっかり繋がっているのだ…。その末裔の父が佐賀県を出て上京、巡りめぐって伊豆国伊東に住み着いた。つまりは、ここまで熊オッサンが、タマノオヤ解明のために辿ってきた人生そのものでもあるのだ。
子供の頃、『ネバーエンディングストーリー』という映画があったが、まさにそんな感じ。。。うまく説明できなくて恐縮だが、中年オッサンがなぜこの激ヤバ古文書に魅了されたか、ご理解いただけるかと思う。記載内容と読者の居住環境がレイラインになってしまう...。こんな芸当が他文献でできるのか?...と。
これがホントに偶然???(´(ェ)`)
〜宮下文書ウサミ妃・小幡毘女命とは〜
- ヨドヒメ?
- トヨヒメ?
- 丹生都姫命?
- 天比理乃咩命?
- 天速玉姫命?
- 蘇我比咩命?
〜安房伊豆宇佐肥前レイライン〜
- 安房一宮・洲崎神社
- 八幡来宮神社(国府八幡)
- 高天神城跡(土方歳三同族?宮下氏族土形氏)
- 二見興玉神社
- 伊勢外宮
- 関蟬麻呂神社遙拝所(能登丹生レイライン↑とリンクしている?)
- 水屋神社(春日大社のお水取り、大楠が有名)
- 丹生川上神社上社〜中社の中間点
- 金峯山神社
- 丹生川上神社下社
- 丹生酒殿神社
- 鎌八幡宮(丹生酒殿神社の元宮説あり)
- 麻生津九頭神社
- 高津神社(大屋都比賣神・五十猛命、式内論社)
- 岩橋千塚古墳群
- 鳴神社
- 紀伊一宮・日前國懸神宮
- 高忍日賣神社
- 宇佐神宮元宮・大元神社
- 佐嘉神社(鍋島氏祖)
- 佐賀県庁
- 與賀神社(ヨドヒメ、與止日女神社勧請)
- 與賀神社境内・少弐神社
- 福母八幡宮(景行天皇熊襲征伐と神功皇后、鍋島氏崇敬。源頼朝の再興)
- 武雄神社(鍋島氏崇敬、武雄とはニニギの諱)
◯来宮八幡宮(静岡県伊東市八幡野)
伊豆国府八幡宮。東南の金剛津根に漂着したという来宮神・伊波久良和氣命(いわくらわけのみこと)を祀る。通説の来宮神は五十猛命とされる。
ウチのオカンが、『あそこフツーじゃない』とススメてきた神社(´(ェ)`)。
◯與賀神社(佐賀県佐賀市与賀町)
欽明天皇25年、肥前一宮與止日女神社『川上峡・河上神社』を勧請した。現在の御祭神は與止日女神=豊玉姫命と解釈されている。別名は豊姫・淀姫・世田姫。
武蔵国発祥の武藤少弐氏は、実質の元寇総大将家であった。宮下文書記載1252年8月25日に、武藤左衛門尉景時なる人物が、将軍家代参で太神宮に御剣と神馬を奉納している。その後1281年弘安の役にてこのヨドヒメが神風を起こし元軍を壊滅させたとされる(諸説あり)。元寇後少弐氏が勢力争いに敗れ大宰府から落ち延びてきたのが当地、宗家は紆余曲折のち滅亡した。
その庶流を称するのが鍋島氏で、やはり当地に拠点を置いた。祖先の崇敬していた與止日女神に帰依するのは当然の成り行きだったろう。
この肥前一宮與止日女神社は、10世紀応和年間に山城国淀川起点にも勧請されている。御祭神は豊玉姫命・高皇産霊神・速秋津姫命で、やはり豊玉姫命と同神とされている。地理的には石清水八幡宮のほぼ対岸に位置する。ただ境内には川上大神という御祭神不明の摂社があり、やはり川上がキーワードになっていそうだ。
※因みに『イトウの宮』比定地付近、静岡県伊東市音無には『音無神社』があり、源頼朝と八重姫の密会伝承が残る。そこの御祭神が同じ豊玉姫命とされる。
個人的に最近思うのは…、地主神であるべき小幡毘女命を祀っていてもおかしくはないかな...と。
◯武雄神社(佐賀県武雄市武雄町大字武雄)
御船山の山麓に主祭神・武内宿禰祀り、武雄心命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を相殿する。主祭神と相殿神計五柱を総じて『武雄大明神』という。源平合戦後、源頼朝が後鳥羽上皇勅使と名代御家人を派遣して参拝。以降幕府とは密接な関係を築き、源将軍家の関東御祈祷所の一役を担ったという。さらに後世には少弐氏流鍋島氏が崇敬していた。
因みに、宮下文書版ニニギの諱が武雄毘古命という。彼らが対元寇氏族子孫という特性上、国防の祖ニニギを祀るのはごく自然な成り行きだったのかもしれない。ある意味、元寇とニニギ外寇はシンクロしていたと思われる。
◯福母八幡宮と大町八幡神社(佐賀県杵島郡大町町)
12代景行天皇熊襲征伐の地であり、後世に神功皇后も関係している。源頼朝が再興したのち鍋島氏が崇敬している。
私の曽祖父は近衛師団。ただ次男であったために、兵役後は本家から出ざるえなかった。大町の炭鉱労働者を相手に、この地で食料品を販売していた。
曽祖父が再び日清戦争に召集され、曽祖母が独り、店を切り盛りしなくてはならなくなった。日頃の疲れか、居眠りをしてしまい、灯油ランプで火災を起こした。火はたちまち仕事も家も幼い長女も焼き尽くして、一気に人生のどん底を味わったという。
その後、近くの八幡宮で百度参りをして立ち直った。その後は子宝に恵まれ八子を産んだ(うち三子は早世)。残念ながら確証はないが、これが福母八幡宮か大町八幡神社だったのではないか?と。これが我が家が背負った『火』のカルマなのかもしれない。
(´(ェ)`)
ニニギさま、小幡毘女さま。
石川県珠洲市『須須神社高座宮』を調べてまず驚いたのは、御祭神がニニギだった事。佐賀県武雄市『武雄神社』も彼がチラつく。
前の記事でも書いたが…。私の行き着く先にはいつもニニギさまがいた。宮下文書を研究する者の立場と、祖先が対元寇氏族として崇敬していた故に…。この2つの観点から私を見張っているのかなと…。『こいつに何ができるのか?』と。
さらに、自分の子孫たちに名前をバラバラにされつつも、この日本を守り続けた女神がいることを知った。つまり小幡毘女命=天比理乃咩命=丹生都姫命=與止日女(ヨドヒメ)命という図式は、レイライン上の守護を担っているのではないかと?。
たとえ歴史の真相は判らずとも、いまはこれが誰のためでもなく、魂と遺伝子を知る重要な旅であったことがわかってきた。宮下文書とは、神さまやご先祖さまに感謝の気持ちでいっぱいになれる文献である。
みなさんも読んでみては?(´(ェ)`)
※地図はクラフトマップ使用。