セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈能登半島③〉向田の火祭は、ニニギ外寇を弔う事代主一族の国防の灯火?

山梨県富士吉田市大明見『金山神社』。
太神宮七廟『宮守大神(ニニギ夫妻)』と思われる。

 

境内には承久の乱首謀者、藤原光親首塚。
富士朝周辺の村人に学問の重要性を説いた。




2024,1,29,

能登半島を代表する大祭、伊夜比咩神社の『向田の火祭』とは?。

共通項として浮上してきたのが、宮下文書ニニギ外寇親征の役で活躍したコトシロヌシ一族と越後一宮『彌彦神社』。

さらに今回…。能登半島珠洲市『須須神社高座宮』に、なんでニニギとコノハナサクヤが祀られているのか、ちょっとわかったような気がしてきた。

(´(ェ)`)

~目次~

 

〈緊急続報〉能登半島〜房総半島、戸隠神社と寒川神社を結ぶレイラインだった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

<能登と房総①>能登は日本人上陸の聖地、七尾市と七瀬祓と富士朝七廟の接点。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈緊急続報〉安房能登紀伊トライアングル浮上、天比理乃咩命と丹生都姫命を結ぶ?。 - セキホツ熊の謎を追え!







 

ニニギ『外寇親征の役』

外寇親征の役を少し振り返ってみよう。

ニニギ朝時代に大陸勢力が大挙して九州・四国へ侵攻してきた。神皇ニニギが応戦すべく戦地へ向かった。阿族日本人にとってこれがはじめての外国戦争であった。

まず対馬・壱岐島の防衛にあたり、コトシロヌシ御子の天之手長男命夫妻らが派兵された。しかし敵軍の渦中にあり、孤島で援軍を待ちながら戦死したようだ。宮下文書にはとくに記載がないが…。当然敵軍との言葉が通じず、背水の陣の彼らは死にもの狂いで襲い掛かってきた。敵兵に捕まれば、石剣と投石で一方的に嬲り殺しだったと思われる。やむを得ずこちらがとった戦術が『火責め』で、敵を引き付けて、火のついた木を投げ込み、彼らの葦船?を焼き尽くすことに集中したようだ。

スサノオらが提唱した『言向和平』が主流になりつつあった穏やかな縄文社会にとって、あまりに衝撃的な事件であった。そのスサノオに徹底的に教育されてきたニニギには、どうして良いかわからなかったであろう…。

 

 

▲ニニギ(武雄毘古命、金山男命)アマテラス義孫スサノオ孫

▲コノハナサクヤヒメ(菊里毘女命、阿田都毘女命)ツクヨミ孫コトシロヌシ孫

 

 



 

〜コトシロヌシ親族死者〜

  • 天之手長男命(行島=壱岐島に祀る)
  • 手長毘女命(行島=壱岐島に祀る)
  • 事武男命(行島=壱岐島に祀る)
  • 事勇男命(附島=対馬に祀る)
  • 事力男命(附島=対馬に祀る)
  • 大山祇命(娘婿、衰弱死)
  • 加茂澤毘女命(病死、諡別雷命、伊豆三島に祀る)

 

〜尾茂太留(オモタル)尊五子〜

  • 武佐太毘古命(附地見島=筑紫松浦に祀る)

 

※これらが現在まで天皇守護『八神殿』に祀られている、コトシロヌシとイクシマ・タルシマ(生産日神・足産日神)の由来だと思われる。

コトシロヌシ妻はタカテルヒメ、娘カモサワヒメ、孫コノハナサクヤヒメ。ニニギ義祖父であり腹心。兄スクナビコナとともに陣中にて策略を練った軍参謀のポジションだったようだ。大物主命・スクナビコナ・コトシロヌシの三神を知仁勇の賢神と称した。




 

 

 

 

 

コノハナサクヤヒメとコトシロヌシの死

太神宮副宮司オオヤマツミ・カモサワヒメ夫妻は、富士朝で留守番をしていたようだ。しかし、カモサワヒメは家族が心配でならなかった。なかでも娘コノハナサクヤは、皇后とは言え未だ『木の花』を冠する少女神であった。

夫妻は富士朝を脱して、西国のニニギ本営へ出向く計画をした。しかしカモサワヒメは伊豆国三島への途上に病死。残されたオオヤマツミは単身で旅立ち、偶然にも伊予愛媛で愛娘と再会を果たした。ただ亡くした妻を不憫に思ったのか、自らを咎め、最終的には衰弱死する。最後に私は『三嶋に伊久よ』と遺言を残した。これが伊予と愛媛の語源になった。

 

そこへ、附地見島(筑紫)の最前戦線からニニギが戻っきてきた。久しぶりにあった皇后コノハナサクヤが『玉体』である事に驚いて、『誰の子だ?』と言い放った。どういうわけか…彼はそのまま怒って、再び九州へ立ち去ってしまったという。

父母を失ったばかりのコノハナサクヤヒメにとっては、到底容認できる問題ではなかった…。『大変恐れ悲しみ且つ悔しい』と言って、外祖母タカテルヒメとその姪シタテルヒメ(大国主命の娘)を連れて富士朝へ帰還してしまった。

富士朝に戻ると、宮守川と御座野川の合流地点に無戸室を作り、そこで男児を三柱出産した。そして『頼む・頼む・頼む』と三唱すると、大鹿に跨り富士山麓に向かい、青木ヶ原の火の噴き出したる岩穴に身を投げた。追随していた侍女も岩穴に身を投げたという…。すると高千穂峰(富士山)噴煙を上げ、突然噴火。後に溶岩が神代満流尾となって、母カモサワヒメが眠る伊豆三島方面へ流れたという。

 

〜コノハナサクヤ三皇子〜

▲火照須命(海幸彦)

▲火須勢理命(農幸彦)

▲火遠理命(山幸彦ヒコホホデミ)

 

皇后崩御の報はすぐさま戦地に伝わり、ニニギは高天原へ一時帰国した。皇后の亡骸・遺骨を捜索させるも、附島の前線が危険な状況であったために、戦地へ戻らざる得なかった。複雑な思いを秘めつつ、ニニギは最後まで戦い抜いた。敵軍を壊滅させ辛くも勝利することができた。

しかし勝利の後にも平穏はなかった。幼い皇后の死因がニニギにあると知れると、たちまちそのニュースは列島を駆け巡った。ニニギ朝に対する大バッシングが起こっていた。

〜開闢神代歴代記(岩戸本p56)〜

『このことを伝え聞いた四方の国々の神々は、神都高天原に集り、口々に、神皇仁人木尊の不徳を訴え、喧々囂々として休む所なく、万の国々悉く大騒動となった。』

 

 



宮守川と御座野川の合流点『無戸室』付近?、河川はかなり移動していると思われる。

 

 

 

おそらくニニギにも、言いたいことは山ほどあったであろう。

ただ晩年のニニギは、高天原の阿田都山西尾張『笠砂の碕』の宮にて、何をするでもなく、ぼーとっ過ごしていたようだ。皇后を追慕する毎日で、無戸室などに出かけては感慨にふけったという。さらに残された三児が成長するに従い、自分に似てくるのを見て、居た堪れなくなった。彼の中では、善と悪が頭の中でグルグルまわり、常にせめぎ合っていたと思われる。

これが縄文社会での、二元性の幕開けだったのかもしれない。

このようなニニギを見かねて、右臣アメノコヤネと左臣フトダマが何か策はないか?と古老サルタヒコ(作田毘古命)に相談した。猿にそっくりと評判のサルタヒコは、神皇を笑いで元気付ける為に『猿踊り』を提案した。妃アメノウズメらとお供の猿2匹とともに、白髪頭を打ち振って。イシコリドメ(大物主弟)が焚器を叩き音頭をとった。ニニギの左右にタカテルヒメとシタテルヒメが並び、三皇子を抱きかかえ見つめていた。

しかし…、もはやニニギに笑顔は戻らず、ついに容体を崩し衰弱死した。

これに責任を感じたのか…、コトシロヌシとタカテルヒメも追随して殉死した。

 

 

岩間本p50p55曰く、ニニギは『性来気象強情』『粗暴なること又天下無類』とあり、もともと誤解されやすい性格だったようだ。おそらくは記紀・ホツマツタヱで描写されているスサノオの凶悪性は、この宮下文書版の悪童ニニギの投影なのではないか?と見ている。困り果てた義祖母アマテラスは、信州出雲の外祖父スサノオに、ニニギの再教育を求めた。

ただ記紀ホツマには、彼がこの国を命懸けで救った『国防の祖』でもあったとは一切記されていない。どんな武将とて、戦場では精神状況が臨界点に到達しているわけで、情状酌量の余地和もあったとおもう。私自身、正直はじめはニニギのイメージはよくなかった。しかし宮下文書では、彼も感情をもつ人間だった事がよくわかった。

そしてコトシロヌシは、孫婿ニニギと孫コノハナサクヤヒメをすぐ近くで見ていたのだ。当然、孤独な王族にしかわからない苦悩に気付いていた可能性がある。コトシロヌシにとっては、家族総出で神皇に尽くしてきたわけで、その孫婿ニニギが糾弾されるのは身を裂かれるほど辛かった。息子たちは、なんのために死んでいったのだろうか?と…。これが赦されない世界ならば、私達の居場所はない。妻と死んだ息子や孫たちの元へ行こうと…。

 




 




ヤヒコの火

宮下文書版コトシロヌシは、もともと伊豆国を拠点としていたと思われる。当初ヱビスも伊豆国淡島を本貫地にしているため、これが西国でヱビス≒コトシロヌシと混同されてしまったようだ。宮下文書研究家加茂喜三氏推測では、伊豆三島で早世した娘カモサワヒメ(三嶋神)を埋葬したのは、他ならぬのコトシロヌシだという。また伊豆国『大瀬神社』『引手力男神社』や、壱岐国『天手長男神社』などに祀られているタヂカラヲは、彼の御子・天之手長男命と混同されているので注意。このように外寇には、初戦から動員された伊豆神が多く、対馬や壱岐島で犠牲を払うことになった。こうして、離島の各戦場には伊豆に因む地名が刻まれた。

 

 

ニニギ外寇後、コトシロヌシは活躍が評価され東北総司令頭長に任命された。宮下文書におけるニニギ勅定17軍神割譲国によると、東北〜能登〜加賀に及ぶ広大な地域を賜っている。ただこれらの割譲国の支配体制はよくわからない。大国主命子孫一族を北国守護司頭長の家と定めており、コトシロヌシ系の東北総司令頭長との重複地域?共同管理?もあったのではないかと見ている。

秋田県大仙市花館松山『伊豆山神社』にはコトシロヌシとナキサワメが祀られる。中でもナキサワメは、神名帳考証神名帳注釈『寒川神社』御祭神と同一視され、807年(大同二年)坂上田村麿により鎮座祭が奉祀されている。さらに大和三山の天香具山(あめのかぐやま)、その西山麓・畝尾都多本神社にもナキサワメが祀られているので、天香護山命の妹神・カモサワヒメに比定できそうだ。

 

 

 

 

コトシロヌシの新しい拠点は、蒲原の伊夜の宮『伊彌宮』となった。現在の西蒲原郡弥彦村弥彦の式内社越後一宮彌彦神社に比定される。

初代ウガヤフキアエズ時代には、コトシロヌシ御子・天香護山命が、父神を継承し本州東北地区の総司令頭長を賜った。忠義臣一族の生き残りの家系として神聖視され、コトシロヌシ信仰も継承されたと思われる。

ところで…、なぜ北国の奥の国々?と思われるかもしれないが…。この阿祖北地域は信州出雲への玄関口でもあり、阿族社会においては要衝と言える。佐渡金山も神代のスサノオ時代から知られていたようで、筑紫方面からの対馬海流を利用した広範囲での交易もあったのかもしれない。千曲川方面の野尻湖などでは、多くの縄文遺跡が発掘されている。年代的には阿族日本人より古い可能性もあるが。。。

そして信州出雲『天獄』では1000日に一度、全国の天つ神と国つ神が、出雲谷の山陰杵築の大宮に集い、諸国悪神の罪状のための評議会が慣例化していた。その西国出席者たちは、日本海→能登半島→出雲崎→千曲川(信濃川)という航路が主要ルートだったのではないかと見られる。西日本からはウガヤフキアエズ朝からの天つ神も出席するので、『伊彌宮』の存在感は大きかったであろう。




◯越国一宮『彌彦神社』(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)

〜御祭神〜

  • 天香山命 (天香語山命)

 

※伊夜日古大神・伊夜比古大神・伊夜彦大神などとも称される。

弥彦山頂にある御神廟(奥宮)が、天香山命と妃・熟穂屋姫命の神廟とされる。

 



 

弥彦山は、日本海と越後平野の境界に位置しており、新潟県三島郡出雲崎町の北側に聳える。奥宮付近では越後平野を監視塔のように一望でき、新潟平野部は近世まで信濃川とその支川が堆積させた土砂によって形成された干潟だった。長年にわたり河川の氾濫などで大小の潟湖を生み出し、それらが平野に点在していたという。葦船ならかなり内陸部まで入れそうな地形だ。

現在の越国一宮・彌彦神社には、重要無形民俗文化財『灯籠まつり』が盛大に催行されている。弥彦山から渡航上のガイド信号を、火や狼煙で発していた可能性もあるのではないか?と…。また、弥彦山の麓には吉田の地名が残るのも気になる。

 












国譲りとは?


この天香護山命の系譜をすり替えたのは、『国譲り』であった。

コトシロヌシ系信仰は、天皇家守護の神系として大和国賀茂朝臣氏らが葛城山などに祀られていた。二世紀前後?ホツマツタヱ成立時代にはミワとカモの系図が統合されて、出雲地祇系という概念が創出され、その出自が曖昧化された。しかしWikipedia一言主によると、少なくとも記紀成立時代までは、信仰勢力の影響力は保たれていたようだ。賀茂朝臣氏が失脚すると、その出処がさらに不明となり、各地で謎の信仰と化してしまった感がある。

12代景行天皇ホツマツタヱ成立時代に入ると、全国の系譜大改竄が行われ天香護山命はニギハヤヒ系高倉下命と同一視された。以降、賀茂・尾張・物部氏の祖神がゴチャ混ぜに解釈され始めた見ている。

このように西国天皇勢力による中央集権制の名目で、各部族の本貫地『クニ』が剥奪された。信州スサノオ、遠州オオクニヌシ系を筆頭に多くの部族が、富士朝時代から綿々と続く系譜と本貫地を返上させられ、中国地方出雲地祇系統に集約されてしまったのだ。これが系譜上の国譲り国譲りとはあくまで系譜上の改編作業を指している。

全ては、富士朝とウガヤフキアエズ朝、蝦夷と熊襲旧勢力の影響力を全国から除去する為であった。そのために人々の目を、富士朝とウガヤフキアエズ朝から逸らす必要があった。そのうえで中央集権化を進めようとした。これが歴史改竄のはじまり。

 

話を宮下文書版・伊夜の宮『伊彌宮』に戻すと。

少なくとも富士朝ヒコホホデミ朝〜ウガヤフキアエズ51代までは、コトシロヌシ系天香護山命の家系が、この地を統治していたことであろう。

神武天皇時代からは、オオクニヌシ56世孫豊徳知貴命の御子『天香護山命』が登場。遠州からのオオクニヌシ三輪系統の同名異神がこの要衝に赴任してきた。なんで同名?かといえば、このころは大和国でもコトシロヌシ系天香護山命が崇敬されている時代であり、純粋に彼らの信仰心で名付けられたと考えてよいだろう。ただこの事により、後世12代景行天皇以降にコトシロヌシ系天香護山命の出自が薄まり、混同されてしまった感がある。

※因みにこのときに、天香護山命の兄にあたる尾羽喰男命が越〜加川(加賀)の県令となっており、『能登の宮』に入っているのが気にかかる。

 

 

 

そのオオクニヌシ系とコトシロヌシ系の彌彦神社信仰の、国譲りによる各地のドタバタ劇的統合の影響を暗示しているのが、信濃二宮・小野神社彌彦神社ではないのかと…。弥彦神社の御祭神にオオクニヌシとコトシロヌシが祀られている点に注目。まさに宮下文書版『伊彌宮』の歴史的経緯を裏図けているではないか!?。

(´(ェ)`)

 

◯信濃二宮『小野神社・矢彦神社』(長野県塩尻市北小野)

〜小野神社〜

  •  建御名方命

〜矢彦神社〜

  • 大己貴命
  • 事代主命
  • 南殿 天香語山命・熟穗屋姫命(天香語山命妃)

※ヤマトタケル東征祈願あり。さらに803年(延暦22年)坂上田村麿による戦勝祈願あり。

 

※この『小野』の名称は地名からのようだが、武蔵一宮小野神社と安曇野梓水神社のレイライン上にドンピシャの位置にあり、なんと梓水神社が遥拝している『乗鞍大権現』に到達するのだ。八立神社(諏訪大社御柱休めの地)を経由して、タケミナカタを祀る点で一致するのも興味深い。

 

〜小野梓水レイライン〜

  • 武蔵一宮小野神社
  • 高幡不動尊
  • 甲斐金峰山
  • 八ヶ岳権現山・檜峰神社
  • 八立神社(諏訪大社御柱休めの地)
  • 信濃二宮小野神社・矢彦神社
  • 梓水神社(梓水大神?・タケミナカタ)
  • 乗鞍大権現

 

 

長野県上伊那郡辰野町小野、信濃二宮『小野神社・矢彦神社』。
タツノの地名も気になる。

 

 

 

 

トガクシとは?。

 

上述した『国譲り』により、人々の目を中国地方出雲へ逸らす必要があったのだ。すなわち、信州出雲は閉鎖される必要があった。

ホツマツタヱ版ヤマトタケルは、出雲臣らを引き連れ信州の地主神スサノオを武蔵国に遷座させ、武蔵三宮氷川神社を創建させ、その後一行は信州へ向かう。Wikipedia日本武尊によると、古事記版日本武尊は科野(しなの)で坂の神を服従させ、尾張へ帰還したと記されている。それは武蔵国氷川へ強制遷座させられたスサノオ(八佐加毘古命)を制した暗示ではないのかと。この経緯の中で『戸隠』になにかカラクリが仕組まれたとみる。

宮下文書によると、同国大社の裏山の鳥上山にスサノオが埋葬されているという。大社を信州出雲と考えれば、やはり戸隠山?の事ではないだろうかと。。。

 

 

ともかく信州出雲『天獄』とは、縄文人たちがその叡智を結集させて、罪を赦す方法を議論し模索した機関なのだ。しかし日本人は信州出雲の機能停止により、縄文文化のシンボルである『罪を赦す』ことを止めてしまった。これがトガクシ(咎隠し)

▲コノハナサクヤを自殺させてしまったのはニニギのトガ(咎)。

▲自分を赦さず、甘んじて衰弱死を受け入れてたのはニニギのトガ(咎)。

△そのニニギを糾弾し衰弱死させてしまい、コトシロヌシを自殺させてしまった。ニニギの罪を赦せなかったのは日本人のトガ(咎)である。

かつて不良少年と呼ばれたニニギは、信州出雲スサノオによって『言向和平』を叩き込まれて、神皇として再教育された。しかしニニギは人民に赦されず、自らも赦せず、甘んじて衰弱死を受け入れた。それは明らかに、スサノオの言向和平の指針に反する事件であった。

 

コトシロヌシ夫妻の殉死後、その美談がクローズアップされた。今の平和は誰の努力と犠牲の上に成り立っているのか?と、社会全体で考えるきっかけとなった。誰もが赦されるべきことを当時の縄文人は思い出すことができた。もしかしたら、この戦争にたいする善と悪をテーマとして、信州出雲でも評議に掛けられたことがあったのかもしれない。

結果的にそれが、人民の神皇への失望感から忠義へと繋ぎ止めた。しかし信州出雲が閉鎖されている現代、果たして我々はこの善悪二元論の世界で、人を赦す術を知っているだろうか?。

今こそ、現代人が縄文人の叡智を学ぶ時ではないのかと。。。

 

そこへ九州のウガヤフキアエズ朝などの天つ神たちや国つ神たちが、ヤヒコの火に誘われて集結してきた。ヤヒコから出雲へ千曲川方面へと折り返して行ったのではないかと…。それに加えて、彼らはこのニニギに尽くしたコトシロヌシ一族に、崇敬の念を持っていた可能性も高いわけだ。彼らの発した信州出雲への誘導の『火』に、外寇犠牲者に対する哀悼の意を示していた可能性もあるのではないかと…。

 

 

 

 

 

 

向田の火祭り。

前記事のように、宮下文書版クニサツチ隊が、はじめて本土上陸したのが能登半島だった。

クニサツチ隊はまず洋上から富士山を捜索していた。日本海を本州沿いに北上する舟は、まず能登半島にぶつかりそうになるが…。そのまま先端部を過ぎると、本州北端に達して、急速に陸地が遠ざかる錯覚を受けるわけだ。彼らは日本本土を通り過ぎたと危機感を感じ、すぐさま周囲の佐渡ヶ島に寄港、そこを足掛かりに海流をターンして、本州北端と思い込んでいた能登半島へ一気に漕ぎ出したのだろう。

つまりここは魔の海域であり、目印となる狼煙や灯台が必要となる。能登半島東端の須須神社奥宮には珠洲市狼煙(のろし)町という地名が残っており、伊夜比咩神社には『向田の火祭』が残る。そしてどうやら越後一宮彌彦神社(古名が伊夜日古大神・伊夜比古大神・伊夜彦大神)と関係がありそうなのだ。

さらに越後一宮彌彦神社と対馬嚴原有明山とのレイライン上に、能登半島能登島の伊夜比咩神社がある点にも注目。対馬有明山は対馬のランドマークであり、渡航の際の目印として語られている。つまりは対馬海流に乗って北上する為の、これは航路レイラインとも言えそうだ。火祭りは渡航祈願を込めた彌彦神社の『分火』的存在ではないか?と…。





◯『伊夜(いや)比咩神社』(石川県七尾市能登島向田町 )

〜御祭神〜

  • 大屋津媛命(紀伊・佐渡の五十猛命の妹神)
  • 天照大神
  • 豊受大神
  • 応神天皇
  • 神功皇后
  • 伊弉册命
  • 菊理媛命
  • 菅原道真

 

延喜式内社、東南1キロの旧社地『イヤミ』より遷宮。現在は地域合祀が多い。



〜彌彦対馬レイライン〜

  • 越後一宮彌彦神社
  • 弥彦山
  • 伊夜比咩神社
  • 嚴原八幡宮神社(対馬国府、石清水八幡宮の起源説あり)
  • 対馬有明山(対馬国府への渡航の目印)

 




〜能登香取レイライン〜

  • 下総一宮香取神宮
  • 金村別雷神社(関東三雷神)
  • 板倉雷電総本宮(関東三雷神)
  • 長良神社
  • 新田氏金山城跡
  • 伊香保神社(2kmズレ、安房国造説あり)
  • 榛名山蛇ヶ岳(日月神示記載)
  • 飯綱山
  • 戸隠奥社(信州出雲比定地)
  • 戸隠山
  • 伊夜比咩神社





 

▲ニニギ(クニトコタチ玄孫)

▲コノハナサクヤヒメ(クニサツチ玄孫)

 

 

このように能登半島の地には、コトシロヌシ一族と、ニニギ外寇親征の役の面影が色濃く残っている。そして前記事で述べたように、地震のあった珠洲市珠洲市三崎町『須須神社高座宮』の祭神が、奇しくも天津日高彦穂瓊瓊杵尊・美穂須須美命・木花咲耶姫命であった…。なぜここにニニギとコノハナサクヤヒメが祀られているのか?。皆さんはどう思うだろうか?。これも偶然だと捉えるべきか?。

戦争の犠牲者コトシロヌシ・タカテルヒメ・カモサワヒメが、最終的に何を望んでいたのか?。未来人の我々になにを託したのか?を想像すれば…。なんとなくわかってきたような気もする…。

縄文の人々はいつしかそれを教訓にして、犠牲者コトシロヌシの信州出雲への導き『ヤヒコの火』を尊ぶことになった。火はいつも導いてくれた。このとき国防の犠牲者への弔いと原点回帰。そして信州出雲で縄文人の叡智が継いだ『言向和平』への祈りを込めたと思われる。

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

 

 

※地図はクラフトマップ使用

www.craftmap.box-i.net