2022,7,31
宮下文書の考察です。新しい読者さんもいらっしゃるようなので、今回は基本的な概念、天津神と国津神を纏めます。熊オッサン的にも、宮下文書を読み返しつつ、今になってやっと追いついてきた知識も多いと実感中です。
前記事の修正箇所もあり。。。(´(ェ)`)
~目次~
- 『天津神』と『国津神』のコンビネーション、本当の意味。
- 国津神の意外な役割
- 系譜大改竄、いつ頃起こった?
- 『国譲り』とは、一体何だったのだろうか?
- なんで『国譲り』の舞台が、中国地方なのか?。
- ミワとカモの系譜づくりへの影響?
- 最後に陰謀論っぽくなってしまうが…。
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『天津神』と『国津神』のコンビネーション、本当の意味。
宮下文書とホツマツタヱ記紀を比べるに、各神系の系譜が大改竄されているのは明らかだろう。
ホツマ記紀における国津神系は、宮下文書登場の数多の寄せ集めでしかなく、全く別モノの集団。少なくとも系図というのは、ネズミ算式に横に膨張すべきもので、地祇系とかいわれる最小単位の系図に収まる集団ではないだろう。まず、宮下文書における国津神とは何かを説明してみよう。
~天津神と国津神の定義~
宮下文書三輪本現代訳p162〜163によると。
▲天つ神とは、クニトコタチとクニサツチ二柱の子孫のこと。基本的には天皇家のことだが、当然、皇別神も多数含まれているようだ(後述)。
▲国つ神とは、イザナギ以降の左右大臣として補佐する『左右大神』子孫のこと。すなわち、後世の右大臣・藤原物部系統と左大臣家・蘇我大伴系統のこと(後述)。
〜イザナギ左右大神〜
- 天之茂登太手比古命(フトダマの祖父)
- 天之茂登太足比古命(アメノコヤネの祖父)
※イザナギ以降から左右大神=『国つ神』と称させた。
ニニギ時代の富士朝『阿祖山太神宮』は、右臣アメノコヤネと左臣フトダマが、ニニギ弟で二代目タマノオヤ守護司長を補佐して、副司長として兼務していた。
さらにウガヤ時代〜大和国時代には、この右臣と左臣のことを、広義に『中臣』と呼んでいた時代もあるようだ。つまり、藤原氏族と物部氏族と蘇我氏族と大伴氏族どちらも『中臣』だった。
国津神の意外な役割
国津神の大きな役割の一つは、天津神との婚姻関係にもありそうだ。
宮下文書版神武~11代垂仁天皇は、右臣と左臣の婚姻関係を歴代螺旋状三つ巴に継承させており、天津神と国津神の婚姻を基軸として継承させている。なんで、こんな複雑怪奇なことをしているのか?といえば…、皇別神(天皇兄弟)から皇位継承権を禁じているシステムにも見える…。右左臣の遺伝子の防壁により、皇別神が皇位継承権に返り咲く主張を防いでいたのではないか?と。
つまり、右左大神の承認の上に即位がなされるわけで、それだけ国津神の責任が大きかったと言えよう。
〜宮下文書における歴代皇后(出自)~
- 初代媛踏鞴五十媛尊(神武伯父・高座日多命)
- 2代五十鈴媛命(右臣・天日方奇日方命)
- 3代渟名底津媛命(左臣・彦湯支命)
- 4代天豊津媛命(右臣・大稲主命)
- 5代世襲足媛命(左臣・蘇我政吏命)
- 6代押日媛命(左臣・蘇我政我命)
- 7代穂祖媛命(右臣・吉備蘇彦命)
- 8代欝色謎媛命(左臣・蘇我武日命)
- 9代伊香色謎媛命(右臣・武部大夫命)
- 10代御間城媛命(右臣・平群武雄命)
- 11代日葉酢媛命(右臣・武部伊莒命)
- 12代播摩稲日大郎媛命(右臣・平群水菟命)
※以降不明、宮下文書未記載。
※右臣アメノコヤネ子孫=藤原物部氏系統
※左臣フトダマ子孫=蘇我大伴氏系統
平群水菟命=吉備武彦命のこと。藤原・物部・吉備・平群氏は同族右臣家となる。
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前記事では神代からのシステムと述べてしまっているが...、訂正します。神武朝以前にはヒコホホデミ後妻で、アメノコヤネ一女・石割毘女尊以外確認が取れなかった。少なくとも、富士朝高天原天神7代〜ウガヤ朝51代の時代には見られないシステムである。
イザナギはクニサツチ御子であり、イザナミはクニトコタチ御子となる。アメノオシホミミの妃のタクハタチヂヒメは、スサノオの娘。ニニギの妃・コノハナサクヤヒメは、オオヤマツミの娘。ウガヤ3代・阿蘇豊王尊の神后が、皇別ホノアカリ系統尾張勢力の佐登鈴毘女命(諱・3代多摩夜里毘女)が入内している。高天原天神の殆どが、天津神同士の婚姻であり、右臣左臣近親婚はシステムとしては扱われていなかった。
その後突如として、ウガヤ時代以降の神武〜欠史八代時代に、この右臣左臣近親婚が登場した。…これはなぜか???。
一番の理由は、皇別神のリスク。
このブログでは、皇別信仰の不遇な歴史を語ってきたわけだが…。
ウガヤ時代末期、神武東征『闇黒の世』17年の原因こそが、この皇別神の台頭だったわけだ。渡来系白木人・禍津亘理命が、皇別神(46代ウガヤ天之明立農鋤命の玄孫・真佐勝彦命)を担ぎ上げ、皇位継承権を主張し武装蜂起してきた。紛れもなく皇別家系の反乱であった。
さらにつづきBC582年、神武天皇御子タギシミミがクーデターの動きをみせ、即座に鎮圧される。皇子は信州諏訪に追放され埋葬される。
神武朝は、皇別神による皇位継承主張の危険性を再認識した。その上で、右臣左臣近親婚システムを採用し、皇位継承の保護に徹するべきであると…。そう考えると神武天皇~欠史八代まで天皇は、富士朝御祖霊を崇敬しつつ、次世代の国政の在り方までを見越していたことになる。堅実思考の天皇だったのではないかと。
系譜大改竄、いつ頃起こった?
なのにこれが…、10代崇神天皇~12代景行天皇時代のホツマツタヱに記載されてないことが、そもそも怪しいわけだ。記紀でも、上記の12代皇后たちの出自が、ことごとく改竄されているのは明らか。右臣左臣近親婚システムは、史上から抹消されたと見ていいだろう。
この時期の天皇は、側室や臣が急増しており、皇家の利権が複雑化しすぎていた。家臣たちとは一線を画す統制が必要となっていた。富士朝の神託的オーダーにも傾かず、大和国支配者に権力を集中させる必要があったのではないか?とみている。
では一体いつ頃から、この地祇的系譜にスリ替えれれたのだろうか?。
宮下文書版2代綏靖天皇〜7代孝霊天皇は、いずれも儀典に乗っ取り即位式をおこなった。また初代神武天皇〜12代景行天皇まで、連続して富士朝詣をしていると明記されている。ここから察するに、天皇家2代〜9代(欠史八代)は、富士朝に適応した祭り事ごとを、恙無く行えてきたハズだ。即ち、歴史を改竄する必要性は皆無であろう。
ただ、10代崇神天皇時代に天災・事件が立て続けに起こり、政情不安のスパイラルに陥った。これが富士朝詣不要論を生んだきっかけとみられ、リストラの槍玉に挙げられたと想像する。
天皇家による富士朝参拝には、莫大なコストがかかっていたようだ。高天原麻呂山アマテラスを強制的に大和国へ遷座させたり、三種神器のレプリカを作成させたり…、御祖霊に対する信仰はあれど、徹底的に効率が重視された。当然のごとく、富士朝との関係は急速に形骸化する。
西国天皇勢力からみれば、もはや『富士朝阿祖山太神宮を大和国につくってしまえばいい』『新しい神話を作ればいい』とすら思っていたかもしれない。全ては、富士朝〜ウガヤ朝時代を欠史にし、新生出雲と調和するための大改竄であった。当然のごとく蝦夷と熊襲の人々が大激怒、怒りの決起を促し、それをヤマトタケルが鎮圧した。
このように、国家主導で富士朝+ウガヤ朝おおよそ3000年をゴッソリなくす計画は、ツケが高くついたハズだ。それでも、国家が強制介入でもしなければ、あちらこちらで反対勢力が起こり、達成することは不可能だったろう。
続く、宮下文書版11代垂仁天皇の頃から、富士朝客人勢力秦氏が西国へ移住拡散したとみられ、31年出雲国罪囚500名が脱獄する大騒動となる、徒党して諸国へ乱入。出雲平定に3年を要する。ここに、中国地方出雲との協調を模索する動きがありそうなのだが...。残念ながら、宮下文書にはこれ以上の記載がない。
12代景行天皇の時代には、左臣右臣婚姻制度が撤廃され、東夷征討が行われ富士朝へのヤマトタケル武力介入があったわけだ。
宮下文書岩間本における14代仲哀天皇は、富士朝を死守しようとしたオトタチバナ妃の実子となる。さらに15代応神天皇は、宮下氏族の祖・大山守皇子を派遣して富士朝を再興、そしてタマノ族和邇氏系の血が入る菟道稚郎子を皇太子と定めた。つまり富士朝回帰主義を唱えていた人物である。
つまり、10代崇神天皇〜13代成務天皇の間に、歴史の大規模改竄が行われたのではないか?という推論が立つ。奇しくも…この時代、ミワでありカモであるオオタタネコにより編纂されたのが『ホツマツタヱ』である...。これが一番怪しい。
むしろ他に思い浮かばない(´(ェ)`)
『国譲り』とは、一体何だったのだろうか?
今回ちょっと、素人オッサンが身の程知らずにも妄想を膨らませて…、拡大解釈をさせていただくと(平常通り)。出雲神話『国譲り』とは一体何だったのだろうか?。
通説を一言で言えば、オオクニヌシを中心とした出雲国津神が、天津神勢力に領地を返上したことに由来する。しかし宮下文書には、それにあたるイベントが見当たらない。それどころか、宮下文書における『出雲』、『国津神』という概念は全然別物だということは述べた通り。そもそもスサノオやオオクニヌシの本貫地は、中国地方ではない。現在語られている出雲国というのは、富士朝史でも特に語られる土地ではなかったとみている。
記紀で、西国天皇勢力が語っている『天津神』とは、おおよそ皇祖神の事と捉えて良いだろう。...問題なのは、彼らが『国津神』と定めた概念を、どう捉えてるべきかだ。
ここで、記紀における国津神に指定されている神々をみると、宮下文書では全く別々の神系であることがわかる。つまり、天皇勢力につかえていた数多ある豪族たちのオールスター選抜グループにも見える。これらを天皇の御前にて、別々の豪族たちが横一列の系譜に纏められ、『国津神』と呼んでいたらしいのだ。
すると、各豪族たちは発祥地・歴史を犠牲にして天皇に献上したうえで、系譜大改竄がおこったのか?と…。彼らは、御祖霊が富士山ルーツであることや、ニニギ勅定割譲国を語る資格を、その時代の勅命により剥奪されていたわけだ。
〜ニニギ勅定割譲国(本貫地と関係あり)~
- 大物主命と少名毘古那命 尾治田・伊瀬・山間登の総司令頭長
- 事代主命 東北国総司令頭長
- 雅武王命と建御名方 北中国守護司頭長
- 経津主命と武甕槌命 東国一帯守護司頭長
- 塩土老翁と豊玉武毘古命 附地見一円守護司頭長(九州)
- 興玉命と味耡託彦根命 南島一円守護司頭長(四国)
- 玉柱屋命と顕国玉命 西中国守護司頭長
- 豊城入毘古命と前玉命 東大原野守護司頭長
- 五十猛命 津久島・行島・佐渡島守護司頭長(対馬・壱岐・佐渡)
- 大国主命 北国守護司頭長→ヒコホホデミ朝に遠久見国造となる。
- 石掘留目命 木野国(紀伊国)
※この豊玉武毘古命はワダツミ系統ではなく、塩土老翁の嫡男のこと。
なんで『国譲り』の舞台が、中国地方なのか?。
前述したが、宮下文書における中国地方の記載が非常に少ない為に、困っているのだが…。
ただ注目すべきなのは、奇しくも、神武東征の論功行賞において中国地方を賜ったエリートたち、オオクニヌシ・スサノオ・大物主命の子孫だろう。実に彼らは、後にミワ『地祇系』『国津神』と呼ばれている神々の子孫なのだ。なかには、東征に大活躍したがゆえに、神武天皇にもっとも頼りにされたウマシマジもいた。
〜神武東征の部署~
『祖佐男命五十五世の孫、出雲大主・出雲大神主命を、 北越惣国の元帥として、大己貴命五十四世の孫丹馬大主・丹馬但波氣命、大物主命五十六世の孫・針間大主・ 針間宍粟彦命の両神を副帥とし、 北越諸国の各初世太記頭ならびに、諸令諸司、諸首、諸長を従え、軍兵を率いて、丹馬、針間の両口より進軍させた。 士気は益々奮い揚がった。
賊軍(白木人のこと)は、要衝に占拠し、堤を高くし、溝を深くして これを防いだ…。』
以上引用、宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p112
〜神武東征論功行賞~
- 大国主命54世孫・丹馬但波命 丹波国造
- 大臣表春桟男(ウマシマジのこと)田地間、稲葉国造
- 祖佐男命55世孫・出雲大神主命 出雲、尾木(隠岐)国造
- 大物主命56世孫・針間穴栗彦命 針間、三間坂(美作?)国造
- 顕国玉命53世孫・中臣政屋多知玉命 木日津(吉備・備前・備後)
- 大物主命56世孫・伊和武男命 小国針間国造
※宮下文書版ウマシマジは蘇我系統『祖家』の人物。
※※宮下文書では、藤原氏・物部(武部)氏・吉備氏・平群氏は同祖。
上記述で問題なのは、このスサノオ55世孫・出雲大神主命なる人物が、どこから神皇軍に参陣したのかだろう...ということ。
宮下文書三輪本現代訳には、北越惣国軍のスサノオ子孫と記載されているので、これは信州出雲から北越『出雲崎』経由の出兵だったのかもしれない。越後出雲崎は信州千曲川沿いの戸隠(信州出雲?)の主要ルートと見られる。つまり信州出雲から日本海経由の勢力が、丹馬と針間に侵攻し活躍したのではないかと…???。ここでは、信州出雲スサノオ勢力からの馳せ参じた勢力と見られる。
一方で、明治初頭まで出雲大社は『杵築大社』とよばれていたのだが、宮下文書によるとには『き(木)』『ちく(竹)』とは、罪人たちを木と竹で作り上げた監獄で監視していた意味となる。やはり中国地方出雲の根源は、神武東征の戦犯を監視していた警察+裁判所機構『信州出雲』の出先機関に由来する可能性はありそうだ...。
戦後、彼らが配置されたのが、大和国と中国地方出雲の道程の間、丹波・針間、田地間、三間坂、木日津、出雲(中国地方)。渡来系出雲からみれば大和国の防壁として、各地を任されているようにも見える。白木人の本拠点を監視しつつ、大和国の道の防衛を兼務していたのではないかと。その子孫が、欠史八代までに繁栄しつつ、かつての敵であった白木人らとも交易を介して、ごく自然な流れとして融和していたようなのだ。
これが、10代崇神天皇〜12代景行天皇のころには、国政の都合により国史が改竄、彼らは富士朝ルーツと本貫地を語る資格を失ってしまった…。例えば、オオクニヌシ子孫は、ヒコホホデミ朝時代に国造に任命された遠久見国(遠州一宮・小国神社付近)を語る資格がなくなってしまったのだ。自ずと、丹波や中国地方を発祥地とせざる得ない状況なわけで、現代の『出雲大社』というのは、それを実質封じているのではないかと…。
これがホントの意味での、本貫地(国)譲りかと…。
そして通説国譲り神話に登場する、アメノオシホミミが恐れた葦原の中つ国『荒ぶる神々』という描写は、出雲出先機関に戦犯として見張られていた渡来系白木人のことではなかったか?。こうして、高天原から派遣されたエリート国づくり集団が、出雲から戻らなくなったという描写は、この富士朝神と白木人との融和が進んでしまった状況を風刺させていたのかもしれない。
そして最終的に、彼らは、富士朝高天原に戻りたくても戻れない状況になっていたのではないかと…(妄想)。彼らは富士朝ルーツと本貫地の御祖霊に別れを告げた、それは断腸の思いだった。
ミワとカモの系譜づくりへの影響?
富士朝創成期の神々は残しつつ、ウガヤ朝の歴史を欠史する為には、豪族たちの系図を縮小せねばならず。各氏族からのバランスを考えなければ、婚姻関係の辻褄が合わなくなる。先述のように宮下文書では、神武から欠史8代の皇后の出自が、後世から遡って影響されていることが確認できる。このように、系譜改竄は大変な作業となったハズである。
これがあまりにも面倒くさい作業なので、カモ天神系とミワ地祇系に簡略化され、各氏族重要人物のみを少数の神系として再編させた…。前記事でも述べた通り、国史は富士古文書→ホツマツタヱ→記紀という変遷が感じられる訳で、ここから記紀に見られる『天津神』と『国津神』の概念誕生にも、大きく影響している神系なのではないかとみている…(妄想)。
〜古事記版『国譲り』要約~
▲ミワ大国主『国譲り、服従するかは息子コトシロヌシに聞いてくれ。。。』
▲ミワ大国主『私の子供たちはコトシロヌシに統率させれば、背く様な事はしない』
▲カモ事代主『わたしは、父オオクニヌシに従う。。。』
ここに、ミワとカモの相互の同意が見られる。彼ら曰く、ミワであり、カモであることが大いなる平定への近道なのだ。その理由はまだ、イマイチよくわからないのだが…(苦笑)。
前記事のように、このミワ三輪山とカモ葛城山を繋ごうとしていたのが、ホツマツタヱ編集オオタタネコであり、その子孫の神部氏族となる。ホツマツタヱの大国主『クシヒコ』は、父親の大物主であるオオナムチの事代主となる(ホツマツタヱでは、大物主と事代主は役職名)。やはりミワとカモを強引な結びつきこそが、ホツマツタヱを象徴しているのではないだろうか?と。
かつての宮下文書版富士朝高天原比定地、山梨県富士吉田市周辺の神社には、オオクニヌシとコトシロヌシの並祀があちらこちらで見られる。大明見の北東本宮小室浅間神社の古宮跡東隣りの小祠にも大黒様?と恵比寿様?とみられる像が置いてあるので、おそらくはオオクニヌシとコトシロヌシ信仰ではないかとみている。北口本宮冨士浅間神社・小明見浅間神社など並祀があり、富士山下宮小室浅間神社や福地八幡宮には、ヱビス神の境内社が存在する。
富士山への吉田口登山道となる『北口本宮冨士浅間神社』、本殿背後に富士山を向いているのが、『日光だいこく』『富士ゑびす』木像がある(上表紙写真)。この木像は、日光東照宮の彫刻で有名な左甚五郎の作という。日光といえば『日光二荒山神社』の日本書紀版オオクニヌシ妻・田心姫命だが…、ここにもやはり、宮下文書版コトシロヌシ娘・コノハナサクヤヒメ母・カモサワヒメの影がチラつく。コトシロヌシも天神的要素が、非常に強い地祇系国津神だ。
※ただし、もともとコトシロヌシとヱビスとは別神なので注意。宮下文書版オオクニヌシとヱビスの、諸国職業指導の記述から起因していると見られる。いつの頃か、ヱビス≒コトシロヌシにすり替えられてしまったようだ。理由は不明だが、これもミワとカモの信仰の都合なのかもしれない。
最後に陰謀論っぽくなってしまうが…。
結局、出雲論争に拍車をかけたのは明治以降の長州政府なのだろう。出雲大神宮には『元出雲』伝承があり、出雲大社の分霊元であると主張している。出雲大神宮wikipediaによると、出雲大社は明治時代に至るまで杵築大社を称し、江戸時代までは出雲神と言えば出雲大神宮を意味していた。
さらに廃仏毀釈の名目で、信州出雲比定地の戸隠山顕光寺は難を受けた。現在も大袈裟に語られている出雲論争も、邪馬台国論争も、現代のプロ歴史家も、結局は…富士山から目を背けさせる目的もあるのだろう。
真相は富士山にあると思われる(´(ェ)`)
8月は、仕事もプライベートも多忙でして…。
じつは、5月にする予定だったパソコンのメンテナンスも全然終わってません…。また休みがちとなります、ゴメンナサイ。またネタを仕込んでおきますのでよろしくお願いいたしますm(__)m。
次回は、尾張の神社巡りを予定しています。
(´(ェ)`)