セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

大和国のミワとカモ、クシヒコの大国主・事代主・大物主の混在の証明?。

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別雷命と大田田根子を祀る古社『鴨大神御子神主玉神社』(茨城県桜川市加茂部)

源頼義が鳥居に山姥の首を晒した、右上に白いモヤモヤが...。

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その鳥居は壊され、参道には注連縄の『生鳥居』。

 

2020,3,6

古事記版コトシロヌシは、オオクニヌシの御子と認識されており、ホツマツタヱにもカモミワは同族とされ繋がる。ただ宮下文書ではこの両勢力は完全なる別系統、他文献での系譜の交わりが大きな謎として立ちはだかる。

結論から言えば、系譜的にありえないのだ。

オオクニヌシ信仰とコトシロヌシ信仰と大物主信仰が何故一つに、どうしてこうなった?。

背景に、なにがあったのだろうか?。

今回はこのあたり考察してみたいと思う。

 ※内容的に、前記事を振り返って再考察が必要となってきた。前記事と重複箇所が多いが、既読の方にもおさらいになるよう考察をすすめていく。

全国300社以上の『賀茂神社』正体解明。富士朝ウガヤ朝・日本最大級の欠史鎮魂神社。 - セキホツ熊の謎を追え!

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宮下文書版・別雷命とはカモサワヒメ(加茂澤毘女)のこと。オオヤマツミの妃、イワナガヒメ・コノハナサクヤ姉妹の母、三嶋神=寒川毘女=別雷命、そしておそらくは伊豆能売、速開都姫、ナキサワメ、水神、雷神、鳴神、カヤノヒメ...。

カモとは富士朝高天原の『加茂山』由来、ツクヨミと月桜田毘女の陵墓であり、御子オオヤマツミとカモサワヒメが祀られた『山守の宮』があったとされる山。現在、山梨県南都留郡忍野村・山中湖北畔『飯盛山』『イモ山』と呼ばれている周辺ではないかと推測。

賀茂建角身は八咫烏ともいわれ、神武東征を導いたとも氏族との説あり。『山城国風土記』で、賀茂県主の祖・賀茂建角身命は神武軍を、大和国葛城』を経由し山城国へ先導したと伝えている。宮下文書比定『八咫烏』とは、神武の富士朝東征祈願の折に大久米命と高座日多命が『布都の神剣』と『八咫烏』を皇軍指導者に遣わしたと神勅される。彼らが神武の元に帰還して、ふと見上げると、屋根に八咫烏が多数止まっており、それを知った皇軍がたちまち奮起したという。

 

宮下文書から推測すると。

△天神系賀茂氏とはオオヤマツミ・コトシロヌシ信仰?。

△カモ信仰源流・富士朝と伊豆『三嶋大社』?

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伊豆一宮『三嶋大社』(静岡県三島市大宮町)

▲地祇系賀茂氏は三輪氏オオクニヌシ信仰?。

▲ミワ信仰源流・遠州『小国神社』?

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遠江一宮『小国神社』(静岡県周智郡森町一宮)

現代に伝わる賀茂神系図は、いろいろな神社の思惑・利権が見え隠れし、諸説あり過ぎ。宮下文書視点でホツマツタヱをみると、系譜もメチャクチャなので注意。本来ならば彼らは、カモサワヒメやオオヤマツミやコトシロヌシを祀る三嶋信仰の流れをもつ氏族とみるのだが、ホツマツタヱでは三輪氏を介してスサノオ・オオクニヌシ地祇系に編入されている。

 

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大和葛城の地、鴨神が繋がった。

カモ族で注目すべきもう一つの地域は、大和国葛城山の東麓。先に述べた『葛城』である。

山背国を含めてカモのつく神社の総本宮は、奈良県御所市『高鴨神社』と言われ、周辺には飛鳥時代までの勢力図が残っている。これはカモ勢力の活動拠点がもともとは現在の奈良県御所市の『鴨三社』(後述)にあったわけで、周辺の信仰はその名残であろう。『葛城氏』とは武内宿彌の御子とされる葛城襲津彦の氏族だが、謎も多く、便宜上葛城氏と呼称されているに過ぎない。記紀での21代雄略天皇記述の比較では、葛城氏とヒトコトヌシ(コトシロヌシに比定)信仰の衰退が浮き彫りとなるという。

また前記事に記載したとおり、葛城襲津彦は応神天皇時代に、秦氏祖『弓月君』を百済から帰化させてきた張本人であり、その葛城氏と山背国秦氏との関係が繋がる。そのほか、『葛城一言主神社』『葛木坐火雷神社』『葛城天神社』『鴨山口神社』や『鴨三社』、伊豆国『三嶋大社』同様にカモサワヒメ家族神が共通項となりそうだ。

また『葛木水分神社』『宇太水分神社中社』『吉野水分神社』『都祁水分神社』の水分四社のミクマリノカミ・速秋津彦命信仰の水神祭祀システムが、遷都後の平安期以降、山背国賀茂神社に代替されていると見られる。現在の賀茂別雷神社は水神傾向も強く、平安京の治水を担っている側面もありそうだ。ミクマリノカミは速開都姫の御子にあたり、カモサワヒメとの関係を匂わせる。

 

・『鴨山口神社』オオヤマツミ(宮下文書版カモサワヒメの夫)

・『葛城一言主神社』ヒトコトヌシ(宮下文書版コトシロヌシ、カモサワヒメの父)

・『鴨都波神社』タカテルヒメ(宮下文書版カモサワヒメの母)

・『葛木御歳神社』御歳神?オオヤマクイ?(オオヤマツミ???)



◯上鴨社『高鴨神社』(奈良県御所市鴨神)

〜御祭神〜

阿遅志貴高日子根命

〜配祀〜

・下照比売命

・天稚彦命

・事代主命

・阿治須岐速雄命

※鴨氏一族の発祥の地、全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社を称す。

 

◯中鴨社『葛木御歳神社』(奈良県御所市東持田)

〜主祭神〜

御歳神

〜相殿神〜

大年神( 御歳神の父神)

高照姫命

〜境内社〜

・味鋤高彦根命神社

・事代主命神社

・一言主命神社ほか

ホツマツタヱ末巻編集者、地祇系賀茂氏オオタタネコの末裔が神職を務めた。御歳神は大年神(スサノオの子)と香用比売(かよひめ)の御子と解釈されている。因みに古事記版オオヤマツミ妃はカヤノヒメとなる...。

『先代旧事本紀』や『大神分身類社鈔』の記述から推測するに、もともとの御祭神はタカテルヒメ(高照光姫)であった可能性が高い。



◯下鴨社『鴨都波神社』(奈良県御所市宮前町)

 〜主祭神〜

・積羽八重事代主命

・下照姫命

葛城氏・鴨氏由来の神社で、当社が事代主神の信仰の元といわれる。大神神社(桜井市)の別宮とも称し、三輪氏とも繋がる。10代崇神天皇が、オオタタネコ孫・大賀茂都美命に創建させた。



中鴨社こと『葛木御歳神社』に祀られているのは大歳神の御子こと『御歳神』、山背国・賀茂別雷神社境内『賀茂山口神社』にも祀られている。古事記ではウカノミタマまたは大年神(オオヤマクイの父)と連想されるが、ニ柱ともに秦氏と縁が深い。

ホツマツタヱでは、オオヤマクイ(ヤマクイ)の父神がオオトシクラムスビとなり、オオナムチカツラギヒトコトヌシの兄弟にあたる。どうやらホツマツタヱは、もともと関西圏に点在していた有力氏族を系譜上の兄弟として束ね、強引に一つの氏族化している節がある。これが大和国地祇系の正体とみる。

宮下文書版タカテルヒメはオオクニヌシの妹、イワナガヒメとコノハナサクヤの祖母。シタテルヒメはオオクニヌシの娘。ニ柱ともにコノハナサクヤの保護者?のように付き添っていた。コノハナサクヤ死後、ニニギ3皇子を見守っていた存在。

 

ここから察するに、『葛木御歳神社』と『鴨都波神社』はコトシロヌシ夫婦二柱を祀る神社であったのではないかと。こうしてみると奈良盆地では、公にオオヤマツミ・カモサワヒメ・コトシロヌシ・タカテルヒメらが富士朝系譜を誤魔化されずに『家族』として揃い、堂々祀られていたのではないか?とも思えてくる。現代の研究者たちには『天神系賀茂氏』と呼ばれているようだ。

※鴨神アジスキタカヒコネについては、今回は割愛させていただく。簡単にいえば、アジスキタカヒコは蘇我大伴系統・塩土老翁命の御子でカモサワヒメとは別系統、御子が高加茂王命と称して南島四国(土佐神社付近)を拠点としていた(別記事参照)。

 

天神系と地祇系賀茂氏の間、 天香久山のナキサワメ。

では、これがどうやって三輪氏オオクニヌシ地祇系(地祇系賀茂氏)と混同されていったのか。

ホツマ編集者オオタタネコは、賀茂氏でもあり、三輪氏との接点でもあるといわれる。

ここが宮下文書とホツマツタヱの大きな相違点となる。

 

ホツマツタヱ(20文)によると。

ニニギの時代。大和国はツワモノヌシ?(ココトムスビ?、ヰチヂ、アメノコヤネの父)が三笠の春日山を治めていたが、老齢引退する事になり、ホツマ版ニニギの兄クシタマホノアカリが統治する運びとなる。

クシタマホノアカリがクシヒコ(大国主)やカグヤマツミを従えて大和入り、カモ船にてナニワからイカルガ峰入り、そこに宮を造り拠点とする。クシタマホノアカリについてはホツマ版ホノアカリとは別神なので注意、宮下文書ではヒコホホデミ二子、ウガヤフキアエズ弟、尾張の祖『天別火明命』比定かと思われる。ただし、宮下文書においてはニニギ八兄弟はすべて明かされていないので注意。また神武東征の項にて、哮峰(いかるがのみね)に天別火明命が祀られている旨記載がある。

そこからホノアカリがカラスを毛嫌いし、すぐさまアスカ遷都の流れとなるのだが...、クシヒコ曰く『遷都しすぎじゃね?』と、カグヤマツミと意見の対立を見せている。このカラスは、もしかしたら神武時代の富士朝の八咫烏を暗示しているのかもしれない(妄想)。

結果を言えば、このカグヤマツミ勢力なる者たちが、オリジナル富士朝カモ信仰や三嶋信仰を継ぐ神系なのではないかと、系譜的にはホツマ版オオヤマツミの祖・サクラウチの孫であり、瀬織津姫の甥に当たる。

 

〜ホツマ・ホノアカリ大和国勢力〜

・クシタマホノアカリ(ホツマ版ニニギの兄弟、宮下文書版ウガヤフキアエズの兄弟)

・クシヒコ(ホツマ版大国主かつ事代主・大物主宮下文書版ミワ勢力) 

・カグヤマツミ(宮下文書版オオヤマツミ勢力)

・フトダマ(宮下文書版の蘇我大伴系統と推測)

・ツワモノヌシ(宮下文書版の藤原物部系統と推測)

 

このように西暦100年前後の12代景行年間には、カモ勢力(葛城山)とミワ勢力(三輪山)が大和国において大きな勢力を持っていたことになる。宮下文書ベースでは、藤原系統と蘇我系統の捻じれ解釈が必要となるので常に注意、さらに宮下文書版大物主は三輪系ではなくて藤原物部系統となる。いずれにしても、これが後世の大和国勢力図の雛形とみる。

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そして、ちょうど西側カモ勢力と東側ミワ勢力の間にあるのが『天香久山』、混同が起きていたのではないかと。 天香久山西麓『畝尾都多本神社』(奈良県橿原市木之本町)には、現在は哭澤女神(ナキサワメ)が祀られている。神名帳考証寒川神社項によると、ナキサワメ=寒川比女命=カモサワヒメと推測。

天香久山wikipediaより『伊予国風土記』逸文によると、天から山が2つに分かれて落下し、1つが伊予国『天山』、もう一方が大和国『天加具山』となった。この愛媛県松山市にある『天山』とは標高50メートル弱、山中にある『天山神社』は櫛眞知命を祀り、奈良県橿原市『天香山神社』と同神。ただもっと注目すべきは、小野川を挟んだ『伊豫豆(イヨズ)比古命神社』(愛媛県松山市居相)、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱を祀る。やはり『山』に関する信仰であり、『イヨ』と『イズ』が繋がる。

この天香久山は、『山』に関するカモ信仰の勢力圏でもあり、その名残りとみる。

 

では、宮下文書版カグヤマとはなにか?

宮下文書版コトシロヌシの御子『天香護山命』、カモサワヒメの兄。どちらかと言えば、カモ族信仰に属する。

ところが後世神武東征時代に、ミワ勢力から同名別神カグヤマが登場する。オオクニヌシ56世孫・豊徳知貴命が遠州から橿原宮の城上を拠点とし、『三輪の里』と称する。この御子に天香護山命という人物がおり、彼が越後の国造となり蒲原の伊夜の宮を拠点とする。天之香具山命を祀る『彌彦神社』(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)は、宮下文書において壊滅したコトシロヌシ家族の唯一の生き残り、御子・天香護山命とみられる。初代ウガヤ時代に、本州東北地区の総司令頭長に任命されている。

即ち、同名別神のミワ勢力に『彌彦神社』は淘汰されている可能性あり。すでに神武時代からカモ信仰とミワ信仰の、勢力変化があった事を物語っているのではないかと。

その後オオクニヌシとコトシロヌシら様々神系が強制的にスサノオ系譜に取り込まれ、カモ勢力でもあり、ミワ勢力でもある系譜にされた。

 

オオクニヌシ氏族と、オオヤマツミ・コトシロヌシ・別雷命氏族の融合。さらには藤原物部系統の大物主や天日方奇日方命(クシミカタマあるいは鴨王)も、ホツマツタヱでは『大ミワ勢力』に編入されている。タケミナカタ・タケミカヅチ・フツヌシは蘇我大伴系統である。

謎すぎる...

ただ宮下文書の背景として、ホツマツタヱが成立したと言われている11代垂仁〜12代景行年間は、渡来系出雲の勢力が蜂起した頃と合致している。出雲台頭という国難に備え、大和国における氏族の団結も否定できない。

ここで、一般的に知られている古事記版オオクニヌシとコトシロヌシの関係を振り返ってみよう。父オオクニヌシは『息子コトシロヌシの言うことに従う』という対等な関係を見せていた。またホツマツタヱにおいてクシヒコは、大国主であり初代事代主、2代目大物主(ホツマではコトシロヌシ、大物主は役職名)という兼任。オオナムチが賢い息子クシヒコに相談させてほしいといい、クシヒコは『父が出雲を離れるならついていく』と返答した。因みにホツマツタヱでは、オオナムチの御子が大国主クシヒコ。

なるほど...、カモとミワ、ある程度の協調もみられると。

 

本ブログ記事では、単純に三輪氏が渡来系に乗っ取られたと書いてきたが...、素朴な考えとして、これほど短期間かつ大規模に複数の神系を束ねることができるということは、ホツマと三輪氏の横暴とは思えない。これは氏族を跨がり、利害を越えた大きな協約、調停、...いや勅令のようなものがあったのではないだろうかと。

ホツマツタヱとはその記録なのではないかと。

それこそが後世に『出雲国譲り』と呼ばれる、大事件だったのではないだろうかと。やはり国譲りは、ホツマツタヱ成立12代景行年間前後に起きているとみるのが妥当か

 

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三嶋大社と賀茂氏の正体。

では、上記のホツマ版カグヤマツミが宮下文書比定されると氏族とは?、どこから来たのだろうか?。

あくまで可能性のお話だが、私はオオヤマツミとカモサワヒメの子孫なのではないかと推測している。宮下文書における祭祀権は、豊受大神と出雲大神の関係など一部例外もあるが、基本的には子孫、土地に所縁のある者が取り扱うのが習わしにみえる。

 ならば、伊豆国三島『加茂国』が有力候補ではないかと。

 

ニニギの時代、外寇戦地から生還したコトシロヌシは、亡き娘のため『三嶋大社』の原型を創建、カモサワヒメニ子・加茂雄命を宮守として世襲させたという。孝霊年間(BC241頃)、伊豆に大きな地震があり、伊須浜の内海が陸地になり大規模開墾されたという。57世孫加茂雄命の記載が確認でき、その地を『加茂国』と呼んでいた。現在でも瀬織津姫を祀る『瀧川神社』北側には三島市加茂の地名が残る。

伊豆国三嶋大社・加茂澤毘女にトコトコついてくる瀬織津姫の不思議①。 - セキホツ熊の謎を追え!

宮下文書研究家・加茂喜三氏曰く、延暦19年富士山大噴火絵図にも、『加茂沢媛命ノ御塚ノ社』と記されており、これが『三島大神』の原型としている。つまりこちらが、本来の賀茂氏ではないだろうか?、神武東征前後に京都上下賀茂神社創建したと考えるのが自然ではないかと...。

また、神武の即位式は富士朝太神宮御神殿と橿原にて執り行われたが、当時の高天原総司令神が、オオヤマツミ59世孫・熱都丹波彦命が橿原入りしおり、関係者が橿原や山背に住み着いた可能性もある。いずれにせよ、山背国『賀茂神社』・『貴船大神』は神武時代に既に確認されており、賀茂氏祖先といわれる賀茂建角身命とはこの時代の人物とみる。

※因みに、富士朝と縁が深いと思われる清和源氏新田氏末裔の徳川家康、松平家は三河の賀茂神社神領との説もあり、本姓は『賀茂氏』を称している。

 

また、伊豆国三嶋大社南部にある『葛城山』(静岡県伊豆の国市)も、カツラギヒトコトヌシを祀る葛城氏由来の可能性も出てくるわけだ。修験道の開祖役で、三輪氏族地祇系の賀茂氏オオタタネコ同族ともいわれる役小角の修験霊場とされた。地元大和葛城山の神こと一言主神=コトシロヌシを使役していたとの逸話もあり、伊豆国と大和国がリンクしてくる。

 

 

賀茂氏であり三輪氏でもあるオオタタネコとは、結局何者なのだろうか?

◯『鴨大神御子神主玉神社』(茨城県桜川市加茂部)※表紙写真↑

〜御祭神〜

・主玉神

〜配祀〜

・別雷命

・大田田根子命

〜摂社〜

オオヤマクイほか

『鴨大神』『御子神』、そして謎の神『主玉神』を祀る。神武時代からの古社。

地祇系賀茂氏オオタタネコが、カモサワヒメと祀られている。Wikipediaによると、先述した『生鳥居』や御祭神の主玉神と別雷命は、同市内『大国玉神社』(茨城県桜川市大国玉)と重複しており、両社は論社とみられている。宮下文書においては『大国御魂命』はオオクニヌシではなく、スクナビコナの諡だが...。

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結論として、賀茂氏は天神系と地祇系の区別はないと思われる。そもそも、地祇系譜なんてものは存在しない...、あったのは今も残る混乱だけ。全ての元凶は、素戔嗚命・大国主命・事代主命・大物主命が地祇神であるという囚われから起こっているのだ。

他方で、山背国賀茂氏も、賀茂建角身も、オオタタネコも、富士朝カモサワヒメの子孫の可能性は十分ありうるのだ。賀茂氏オオタタネコにも『太田』という富士朝由来『太田山』『太田川』と思われる地名が残り、後世に応神天皇子孫が『太田氏』を名乗る。賀茂別雷神社第三摂社にも『大田神社(恩多社)』には雨乞いや長寿信仰があり、徐福や富士朝信仰と合致する。 

 

そして、ここでも8代孝元天皇孫・武内宿彌が絡んでくるが…。

武内宿彌子孫・葛城氏は、山背国・秦氏とも深い中にあったが、葛城襲津彦の娘とは16代仁徳天皇皇后が磐之媛命、結果として富士朝大山守皇子(宮下家)の蜂起を抑え込む側に立っていた。

平安期になると武内宿彌子孫『紀氏』が、この神社の宮司となり、賀茂次郎義綱と宮下家に関係し、源頼朝による鎌倉幕府移行を後押しする。

※因みに宮下文書版武内宿彌は蘇我氏祖ではなく、故に葛城氏=蘇我氏の同族とはならないので注意。宮下文書版藤原氏と蘇我氏は古代からの臣家神系。同様に葛城氏も武内宿彌子孫とは言われているが、後世の付会の可能性もあるということだ。ヒトコトヌシや伊豆国『葛城山』からみても、やはり三嶋信仰系ではないかと...。

 

武内宿彌には、女系にサルタヒコ神系の血筋が入る。宮下文書研究者加茂喜三氏は、富士朝神系の血筋も持つ武内宿彌と坂上田村麿について、こうも漏らしている。やっていることが富士朝にとって『敵なのか味方なのか、さっぱりわからなくなる』と。

まさにその通りで、天皇側近の立場上仕方がないが、時として彼らこそが富士朝を破滅に導いた様にも写るのだ。西国に渡った賀茂氏や秦氏が、富士朝利益のために暗躍していた一方で、時として富士朝への仇となり得たコトを忘れてはならない。

前記事で書いたサルタヒコ子孫・菅原道真も同様、立場を利用し、利用されて、権力に目が眩み、嘘が嘘と言えず、組織に組み込まれ、疎まれて、衰退していったのではないだろうか...?。

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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