セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

武内宿禰子孫が祀る『真王神社』の真相、オオヤマクイとミシマミゾクイとは。

 

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コトシロヌシ祭神とタカテルヒメ、ミゾクイヒメ配祀の埼玉県越谷市『久伊豆神社』。

 

 

2021,3,20

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前記事からオオヤマクイと別雷命を考察している。

前回は、カモとミワ、オオヤマクイやコトシロヌシが何故地祇系に編入されたのかを説明した...、この二柱を追えば富士朝が浮き彫りになるのでは?と思うのだ。

いつものように基本知識から説明させていただくと...。

 

〜カモサワヒメ(加茂澤毘女)とは〜

・オオヤマツミ妃コトシロヌシ娘

・イワナガヒメとコノハナサクヤ母

・三嶋神・別雷命・寒川毘女命・泣澤女命?・伊豆能売?・速開都姫命?・瀬織津姫命の一部?・鹿屋野比売神?・溝咋姫命?・鳴神?・水神や雷神の一部?・溝咋姫命?・玉櫛媛?

 

 『秦氏本系帳』によると賀茂別雷命=大山咋神という説まであり、松尾山の別名は別雷山。宮下文書研究家・鈴木貞一氏は、注釈として、このオオヤマクイとオオヤマツミを同神と見なしている。

〜山の神〜

・大山咋命(山末之大主神)・大山積神 ・大山津見神 ・大山祇命 ・和多志大神

▲クイ=貴(クイ)すなわち、『君』の意味。

△オオヤマツミの『つみ』も、『君』の意味。

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オオヤマクイは山背国開拓の祖、有力氏族秦氏の氏神。比叡山は、表向きは天台宗最澄が、中国天台山『地主山王元弼真君』を見立てた事になっているが、ホツマツタヱには山背国ヤマクイの開墾残土により、富士山を見立てとして作られたと記されている。

日吉大社において『山王』とは、オオヤマクイと大物主の2柱総称、ただ全国的には、この大物主をオオクニヌシと解釈される日枝系神社が多数あり、オオクニヌシとオオヤマクイを並祀する傾向にあり。地域解釈により、地祇系譜の混同が発生しているとみる。宮下文書におけるこの二柱の関係は、富士朝の『阿祖山太神宮』の守護司長オオクニヌシと副司長オオヤマツミとなる。

宮下文書版・最澄は800年延暦噴火の翌年、高天原に来朝しており、富士山噴火で犠牲となったすべての御魂、人畜含めて鳥魚草木の供養をした(806年には空海が田村麿同伴で入麓している)。このとき最澄は、高天原にある行満寺を修復し、不二山延暦寺と改号している。

後世慶長12年(1607)、江戸時代の天台宗天海は比叡山探題執行、富士朝関係親族の三浦氏族蘆名氏の末裔であり、やはり富士山との深い関係が見えてくる。



オオヤマツミ版・八王子とは。

古事記における『日枝山』とは、比叡山の一部で『金大巖』という磐座のある八王子山単体とする説あり。この場合の八王子神とは、宮下文書比定ではオオヤマツミ版八王子とみる。宮下文書版タクハタチヂヒメ御子ニニギ8王子、牛頭天王版『八王子権現』とは別神なので注意。

ツクヨミ御子オオヤマツミは9王子、うち紅一点・月結毘女を除くと8王子、日本全土の山々の統治者を意味する。オオヤマツミ亡きあと、奥山住命・倉山住命・繁山住命・葉山住命・原山住命・外山住命の6柱は、富士朝から遷都された神都『霧島山』の宮殿造営を担当。霧島神宮北側の『山神社』(鹿児島県霧島市霧島田口)は、まさに彼らオオヤマツミ関係神ではないかと。また八ヶ岳権現岳『檜峰神社』(山梨県北杜市)にイワナガヒメと共に祀られている八雷神も、オオヤマツミ版八王子かと思われる。

素朴な疑問として...、『雷神』とか『火雷神』『鳴雷神』というのは、オオヤマツミ親族が多いのだろうか?。

 ただ、理由がイマイチわからない。

オオヤマツミとオオヤマクイが、仮に同一神としても、なんでわざわざオオヤマツミを模すイメージを残すのか?。富士朝に縁が深い秦氏は、オオヤマクイ信仰で何がしたいのか?。

そもそもオオヤマクイや雷神が、富士朝にとって敵だか味方だか分からないのだ。

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ミシマミゾクイ

この賀茂神・松尾神と皇族タマヨリヒメに、系譜上繋がっていくのが、ミシマミゾクイ(三島溝咋命)である。オオヤマクイとミシマミゾクイは、宮下文書には登場しない。そもそも皇祖タマヨリヒメは51代続くウガヤ朝の妃神(世襲制度)であり、神武天皇より遥か以前の御神霊である。

 

〜『杭』『咋』(クイ)がつく神〜

オオヤマクイ

ミシマミゾクイ

ミシマミゾクイヒメ

 

▲オオヤマといえば、オオヤマツミ。

▽ミシマといえば、三嶋大社。

 さらには

▲ヤマ、、、凸?

▽ミゾ、、、凹?

 

これも、富士朝三嶋神の『見立て』ではないかと…。このブログを読んできた方ならお気付きだろうが、オオヤマツミとカモサワヒメは富士朝の象徴神、明らかにオオヤマとミシマを標的に、系譜を誤魔化そうとしている意図がミエミエだろう(苦笑)。

一般的には、オオヤマツミは伊予国経由で百済から渡来してきたといわれており(伊予国風土記逸文)、ミシマミゾクイも伊豆国三嶋とは無関係のように思われている。というか、伊豆国三島は伊予国御島(大三島)を起源にすると思われているので、自ずとミシマミゾクイと伊豆国の関連性を問うものなどいない...(苦笑)。ただ三大三島社『三島鴨神社』(大阪府高槻市)の近くに、玉櫛媛を祀る『溝咋神社』(大阪府茨木市)があるので、ミゾクイも鴨神と無関係とは思えない。逆説的に考えて、ミゾクイを解くカギは必ず伊豆にある。

個人的には、亡き娘の為に三嶋大社を創建した鴨神コトシロヌシを凖える、男神イメージがあるとみている。



◯『三島鴨神社』(大阪市高槻市三島江)

~御祭神~

・大山祇神

・事代主神

16代仁徳天皇時代創建。社伝によると、時期不明として(飛鳥時代?)、摂津国御島を分社して、伊予国大山祇神社と伊豆国三嶋大社を創建しているという。

少名彦命末裔の三島県主が奉祀、少名彦命=鴨建角身命という説有。17世紀以前は『幾島大明神』と称した。宮下文書においてはスクナビコナはコトシロヌシの実兄、二柱共にニニギの参謀として大陸人と戦った。イクシマ(壱岐=生島=行島)は第一次『外寇親征の役』の舞台であり、コトシロヌシ子孫5柱ほぼ全滅した地。壱岐一宮『天手長男神社』とは命の御子。また宮中八神イクシマタルシマとは外寇戦の戦没神のこと。

スクナビコナとコトシロヌシを軍神として祀るのは、かなりの古社とみる。

 

◯溝咋神社(大阪府茨木市)

~御祭神~

・玉櫛媛命(三島溝樴姫に比定)

・媛蹈鞴五十鈴媛命(神武皇后)

一般的に玉櫛媛命は、初代皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命または賀茂別雷命の母。

媛蹈鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后であり、大物主神または事代主神の娘とされている。宮下文書によると、大物主は藤原物部系統、コトシロヌシ女系は賀茂系統、ココにも前記事で指摘した地祇の混在性が見られる訳だ。

宮下文書版・媛踏五十鈴媛命も神武皇后だが。神皇51代鵜茅葺不合尊王の子、神武天皇同母(51代玉多摩夜里毘女尊・諱は照玉毘女)弟・高座日多命の娘。つまりは出雲系ではなく神武天皇の姪っ子。

この51代に及ぶウガヤ朝欠史のために、媛蹈鞴五十鈴媛命(神武皇后方)が出雲神系に付会されている感があり。簡単に言えば、現在ある『出雲神系』『地祇神系』とは、富士朝ウガヤ朝を欠史にしつつ、渡来系出雲に配慮を加えた、壮大な創作ではないだろうか?。

※ウガヤ時代に関しては、藤原物部系統と蘇我大伴系統の両臣体制の一貫性ない。

ミシマミゾクイヒメ。

ミシマ由来の女神イメージなのだが、母タカテルヒメなのか、娘カモサワヒメなのかで、正直迷うところ。火雷神とミシマミゾクイ(玉櫛媛)の子が賀茂別雷命(カモサワヒメ)という系譜もあるので、カモサワヒメの母タカテルヒメの可能性も捨てきれない。

あくまで個人的妄想でいえば、系譜上の賀茂別雷命に『男神イメージ』を付けたいが為に、ミシマミゾクイヒメという『ヒメ』要素が、系譜的に付会されているのではないかと。実質は、どちらもカモサワヒメではないかと...。

いずれにせよ神社単位で諸説ありすぎる故に、宮下文書による比定も難しい。

◯『広瀬神社』(静岡県伊豆の国市田京)

〜御祭神〜

・溝樴姫命

・不詳二神

※背後に、祖霊社あり。

 

以前から紹介している、三嶋大社遷都伝承のうちの一社、伝承自体が宮下文書と矛盾している。不詳の祭神二神はアマテラスとコノハナサクヤを合祀したとの記録あり(前記事参照)。三嶋大社wikipediaによると、伊古奈比咩神社→広瀬神社→三嶋大社という順に遷座経緯があるので、御祭神の溝樴姫命=伊古奈比咩命=カモサワヒメの可能性もある。

 

◯伊豆佐比賣神社(宮城県宮城郡利府町)

〜御祭神〜

・伊豆佐比賣命または溝昨比咩(かうさひめ)

 

wikipediaより、『延喜式内陸奥一百座 平成巡礼記』に、享保4年(1719年)『圭田28束三毛田所祭溝昨比咩也』と記載。東北地方には多数の田村麿英雄譚あり、東征者の坂上田村麿と紀伊国公家の姫との間に千熊丸という御子あり、2代目田村麿となるとされる...という興味深い伝承あり。

社名が『伊豆』を冠しているのは諸説あるが、お隣山形県内鶴岡市にも『由豆佐賣神社(ゆづさめじんじゃ)』という同系統社があり、御祭神は『溝樴姫命』ほぼ一致。

加えて以前から紹介している、『伊豆神社』(岩手県遠野市上郷町来内)には瀬織津姫が伊豆権現として祀られ、『伊豆山神社』(秋田県大仙市)でもコトシロヌシとナキサワメを祀る。このことからも東征者・坂上田村麿は、やはり伊豆を特別視していたことが浮き彫りとなる。

 

武蔵国『久伊豆神社』とは?

武蔵国背景。

2世紀前半、もともと関東はヤマトタケル東征後、『吾妻惣国』と呼ばれ秦氏富士朝影響力がさらに濃くなる。瀬織津姫が関与している『武蔵一宮・小野神社』にも、4世紀には2代宮下源太夫明政の四子・吉田四奈摩古男(陸佐志国県主)の影響力があったのではないかとみている。またかつて瀬織津姫が祀られていたとする『調(つき)神社』(さいたま市浦安区)の宮司が、近年吉田氏なのも気になる。ただ吉田氏をググっても、多数出てくるので迷うところ。

延暦噴火(800年)後の関東地方は、桓武平氏や清和源氏が下向、信仰的には富士朝寄りの土地柄。宮下文書には、平安後期までに武蔵国の半分以上が源氏系領地と記載されている。裏を返せば鎌倉期以降の関東地方には、桓武平氏以上に、隠れ富士朝、隠れ源氏が多数いたとみる

 

埼玉県越谷市鎮守の『久伊豆神社』は、応仁年間に伊豆国から宇佐美三八郎重之が進出、埼玉郡騎西の地を領し、当社を尊崇。宇佐美氏は伊東氏・狩野氏の同族であり、宮下文書版狩野氏は、15代応神天皇御子の大山守皇子6子、榛原須留賀彦(須留賀国造)の子孫とある。

この伊豆国伊東氏族は一般的に藤原南家と称しているのだが、ある程度の再考が必要かと...。宮下文書的には伊豆国は富士朝の影響が強く、宮下文書版『加茂国』があったハズだ。しかし世間的には全く語られていない、彼らが忽然と消えてしまったとも考えにくいが...。やはり一部、駿河国藤原氏族や桓武系平氏として仮冒されているのではないか?。



◯『久伊豆神社』(埼玉県越谷市)

〜御祭神〜

・大国主命

・言代主命(ことしろぬし)

 

〜配祀〜

・高照姫命

・溝咋姫命

・天穂日命



久伊豆神社とは。

武蔵国の元荒川流域、武蔵七党である私市党勢力下に『久伊豆神社』と称する神社が大小数十も点在する。総本社は埼玉県加須市『玉敷神社』で、江戸期まで久伊豆大明神と称す。13代成務天皇アメノホヒ子孫で、出雲臣エタモヒによる創建。主体はオオクニヌシ信仰。

時期はバラバラであるが、岩槻市の『久伊豆神社』には、29代欽明天皇時代にも、やはり出雲族土師氏が関与している。あくまで、出雲族入植によるオオクニヌシ信仰を強調しているようだ。前述のように、この社は宇佐美氏の関与があったので、伊豆カモ要素が感じられるのかもしれない。

後世16世紀の江戸期には、本姓『賀茂氏』の徳川家康が、神社神紋として『葵紋』の使用を特別に許可しており、御存じのように『二葉葵』とは山背国『賀茂別雷神社』の神紋だ。奇しくも『葵(あふひ)』とは『阿扶利(あふり)』を彷彿とさせ、甲斐国や相模国などに点在する『阿扶利信仰』とは、オオヤマツミ・雷神・高龗神による雨乞い信仰である。

その他、タカテルヒメとミゾクイヒメが別神と解釈されている点、また出雲族の祖アメノホヒが祀られる点にも注目。別記事でも述べるが、この出雲族、宮下文書版菅原道真や、坂上田村麿ら、サルタヒコ子孫と同族の可能性が出てきた。サルタヒコ子孫とは富士朝・伊勢・出雲祭祀のエキスパート集団とみる。

どうやらこのアメノホヒとは、出雲におけるサルタヒコ子孫や、富士朝影響力を示唆している神系らしい。

 

前記事で紹介したように、ヤマトタケル東征により、信州出雲は武蔵国『氷川神社』に強制的遷座させられたとみる。その信州出雲近くと思われる処に、なんと!、実は坂上苅田麿(田村麿の父)の所領があった...。比定地は現在の長野県『飯縄山』『伊豆毛神社』付近。

信州出雲・武蔵国出雲族・九頭竜・アメノホヒに関しては、まだまだ再考察が必要かもしれない...(泣)。

坂上田村麿が本州重心点へ行った本当の理由、富士噴火鎮魂『富士山重心点レイライン』。 - セキホツ熊の謎を追え!

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山梨県富士吉田市小明見『小明見富士浅間神社跡』、隣が境内社『松尾社』

そして、富士朝『真王』とは誰なのか?

終わりに。

私がオオヤマクイに着目しはじめたのが...、去年立ち寄った山梨県富士吉田市『小明見富士浅間神社』の境内『松尾神社』だった。宮司は武内宿彌子孫の羽田氏だ。

小明見富士浅間神社は昭和41年に火災があり焼失、再建に際して明日見湖と集落に相対するように若干の遷座がされる。旧社は、溶岩を背にして建てられていたというので、噴火鎮魂のい意味合いもあったそうだ。現在、松尾社には山背国の『東の厳神、西の猛霊』こと、オオヤマクイとカモサワヒメ(別雷命)が祀られている。特筆すべきは、徐福墓のある麻呂山跡地『太神社』(山梨県吉田市向原)に一番近い浅間神社(北に500m)という点。

 

◯『小明見浅間神社』(富士吉田市小明見)

〜御祭神〜

・木花開耶姫命

~境内社~

松尾神社(大山咋命 別雷命 孝元天皇 武内宿称 羽田八代宿禰)

ほか

※現在の宮司・羽田氏、武内宿禰末裔。



小明見富士浅間神社境内・松尾神社石碑引用

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〜羽田一族隆昌記〜

羽田氏の始祖は人皇第八代孝元天皇の曽孫武内宿称である 宿称は徐福の学問に心服し其の子を門人として修業させたが成長の後は徐福の国の秦の意を取り入れて羽田八代宿称と名付けた 父の武内宿称は、景行天皇 成務天皇 仲哀天皇 神功皇后 應神天皇の五朝に歴任して大功があった 

羽田八代宿称は神功皇后摂政五十四年の時 誉田別尊の二皇子明仁彦政本彦を守護して福地山(富士山)に来てこの地に止まった

延歴十九年福地山大噴火の後阿田津山の裏の麓である古原の要害の地に 七社明神大社の祈願所を創建し其の前方に舘を建て其の右方に眞王神社 御祭神として 大山咋命 別雷命 孝元天皇 武内宿称を祀り「再建に付き羽田八代宿禰を合祀」産業発展と子孫繁栄の祈願をなすこの神社は後に松尾神社と改め今日に至って居る 昭和四十一年一月十二日富士浅間神社炎上の折り松尾神社も亦炎上の厄に遇い有志深く之を憂い同四十七年五月松尾神社再建委員会を結成羽田一族貮百戸の浄財を礎にここに新社殿竣工の喜びを見るに至るも 依って羽田一族の隆昌記と再建の経緯を録して後世に伝う

以上


この神社については残念ながら三輪本現代訳には記載なし、ただし加茂喜三著書『富士王朝の滅亡』に関連記事があったので付け加えておく。この武内宿彌御子・羽田矢代宿彌は父を富士朝御舟山に祭り『高良玉太礼神社』として創建した。大松が繁る山のため『松王神社』、またの名を『真王神社』という。

 

マオー...、

マッオー...、

マツオー...、

いや、もしかして、、、『松尾』!?

MAつOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO...。

というか、これが高良玉垂命の始まり???

 

このときはじめて気がついたのだ。

オオヤマクイという存在は、富士朝にとっても『真王』的な神ではないかと...。

ホツマツタヱに記されているように、富士山を見立てたのが比叡山であるならば、当然比叡山の神は富士山の特性を併せ持つ可能性はある。

 

ただ『松』には、以下の解釈もできそうなので注意...。

垂仁時代後期、サルタヒコ子孫・舟田彦命は阿祖山太神宮供物司長をしていたが、伊勢に入り『都波岐』の神田の作事を担当することになる。富士朝では、供物の炊き出しを大きな松の下で執り行われ、倭田山の山田氏を称する。さらに後に松木氏を称する。

つまり、『松』の『王』とは神官の長を示している可能性もある...。

まあ陰謀論の域は出ないが、『松王神社』が転じて『松尾(マツノオ)大社』となり、全国松尾ブランドの原点となった...と?。

この由緒書、何度何度も読み返したし、素人オッサンの読解力が試されるところだが、正直自信が持てない...。今回は、由緒全文を載っけたので皆さんも一緒に考えてみよう~!!。

 

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まとめると。

オオヤマクイとは、山背国の秦氏と富士高天原の強い繋がりを示している。その繋がりには、何故かサルタヒコ子孫がチラホラ絡んでくる。武内宿彌の母方がサルタヒコ神系...菅原氏や羽田氏はその直系子孫となる。彼らもまた、富士朝を解くカギとなるかもしれない...。

 

というわけで、次回はこのサルタヒコ子孫を纏めたい。

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※地図はクラフトマップ使用。

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