セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈再考察〉別系統天孫降臨ニギハヤヒと尾張勢力 、籠神社海部氏は混同されている?。

巨木に守られ、ホツマ神話ニギハヤヒを祀る千葉県印西市『大森鳥見神社』。
やはり10代崇神~12代景行時代に由来、さらに807年(大同2)再建。


2022,7,24

前記事で、ホノアカリ尾張勢力が、葛城山周辺にて富士朝やカモ神祭祀をしていた可能性をご紹介した。また、尾張勢力ホノアカリ拠点『真清田神社』は、かつて三輪明神こと大物主大神の拠点であった。尾張勢力こそがミワとカモの架け橋となった可能性は…あるのではないかと(妄想)。

今回は、その尾張勢力の祖ホノアカリと同一視されるニギハヤヒを、宮下文書ベースで、尾張勢力側から再考察してみたい。

(´(ェ)`)

 

ニギハヤヒは、宮下文書には一切登場しない。一般的には、尾張勢力ホノアカリと同一視されているものの、この尾張勢力のルーツが掴みづらいために、現代人の我々にも様々な憶測を呼んでいる。

宮下文書版大和国は、富士朝尾張勢力によって東から開拓された。このあたり、文明が西から拓けたという『記紀』アプローチでは、パラドックスは永久に解き明かされない…。何度も繰り返すが、宮下文書版尾張勢力は、ウガヤ朝神武東征以前に大和国を管理していた大和国のパイオニア。大和国はから尾張ホノアカリ子孫が開拓した。記紀はこれを誤魔化さなければならなかった。ニギハヤヒ研究はこの東西逆転の発想がなければ、何も始まらないと思う。

 

※本ブログでは、宮下文書版ヤマトタケル男系統『尾張氏』と混同が予想されるため、尾張勢力と呼称する。

 

~目次~

 

前記事で紹介した、大蔵経寺山登山道入口にニギハヤヒを祀る『物部神社』。
しかしなんでニギハヤヒなんだろう?。

 

 

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宮下文書とホツマツタヱの微かな共通点

以前にも紹介したが。

岩間尹著『開闢神代暦代記』9〜10pによると、大日本根子彦国牽天皇(8代孝元天皇)が徐福に、『開闢神代暦代記(同名注意)』の編纂を勅命した。このコピー本が朝廷の宝庫に蔵され伝えられており、それを645年(皇極4年)蘇我蝦夷が焼失させたのだという。つまり、飛鳥時代までは西国にも富士古文書があったハズなのだ。

<驚愕>蘇我蝦夷が自殺前に燃やしたものは、宮下文書コピー本だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

このような歴史の流れから察するに、日本の古文書の原点は、宮下文書→ホツマツタヱ→記紀と変遷してきたのではないかと…。なぜならば、ホツマツタヱにも、記紀にも、登場人物や内容は違っても、言い回しが酷似している記述が多分にあるからだ。

 

例えば…前記事で紹介したとおり、宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』では、当初51代ウガヤ神皇の皇太子であった海津彦五瀬王命(神武天皇の兄)が、敵軍ナガスネヒコ勢力と遭遇したときのエピソードがある。渡来系白木人のナガスネヒコが、皇別神ホノアカリ尾張勢力を偽って、ウガヤ朝を阻止しようとしていた。

 

…前略・五瀬王が賊軍に問いかける

賊の頭はこれに答えて、『畏れ多くも我が総大将は天照皇大日霊尊の玄孫の天別火明命の遠孫にあたる富明彦主命であられ本島中国の主であらせられるぞ』と叫んで盗んだ弓矢を誇示した。

皇太子はこれを見て告げた。『あれは哮峰(イカルガノミネ)に祀り置いた火明命の御神体ではないか、ならば試しにこの弓矢を射返すが、それが本当ならば的中しないであろう』と弓矢をつがえた。(宮下文書三輪本現代訳神皇紀p106)

 

このとき皇太子により放たれた矢が、白木人ナガスネヒコの息子・長髄足(ナガスネタル)に命中して戦死、これが長い神武東征の幕開けとなった。このイカルガ峰が、尾張ホノアカリ勢力の最西端にあたる『川地(かわち)国』国境。後世の、ニギハヤヒ天孫降臨伝承が残る、河内国河上哮ヶ峯であり、尾張勢力ホノアカリとニギハヤヒのシルエットが重なる。




実は、ホツマツタヱ側にもこれと酷似している記載がある。

宮下文書における神武東征を模倣したと思われる描写が、ホツマツタヱ29文となる。ナガスネヒコが白木人(渡来系)であることや、矢を『盗んだ』ことは触れられていない。あくまでナガスネヒコをニギハヤヒ勢力に組みしたい意図が感じられる。

 

〜ホツマツタヱ29文~

ながすねが たたかひやめて 

きみにいふ むかしあまてる

かみのみこ いわふねにのり

あまくだり あすかにてらす

にぎはやひ いとみかしやお

きさきとし うむみこのなも

うましまち わかきみはこれ

にぎはやひ あまてるかみの

かんたから とぐさおさづく

あにほかに かみのみまこと

いつはりて くにうははんや

これいかん ときにすへらぎ

こたえいふ なんちがきみも

まことなら しるしあらんぞ

ながすねが きみのゆきより

ははやてお あめにしめせば

かんをして またすへらぎも

かちゆきの いだすははやの

かんをして ながすねひこに

しめさしむ すすまぬいくさ

まもりいる ねんころおしる 

にぎはやひ



▲ナガスネヒコ曰く『アマテル御孫ホノアカリが飛鳥親王として君臨され、その子が正統なる子孫ニギハヤヒなのに、なぜ、他所からやってきた貴方が皇孫を偽り、この国を奪おうとするのか?(要約)』

▲神武天皇曰く『お主の仕える君が皇孫なら、尊璽を持っているはずだ!』

ナガスネヒコがニギハヤヒのハハ矢を天に掲げると、確かに神の璽がついていた。神武天皇もナガスネヒコにハハ矢を取り出し、同じ璽を見せあった。

もはやコントである(´(ェ)`)

 

 

 

すべては、富士朝ウガヤ朝を欠史にするための系譜大改竄。

ニギハヤヒにも諸説あるが、古事記においてはニニギの兄となり、ニニギに先駆けた別系統の天孫降臨神話をもつ。なおかつニニギの随伴神と一部重複がみられる。

先代旧事本紀による随伴神には、尾張氏祖・天香語山命、賀茂氏祖・天櫛玉命(賀茂建角身命の父)、タマノオヤにも比定される天明玉命、天背男命、天下春命も含まれている。

また『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒ=天火明命とされる。『新撰姓氏録』ではニギハヤヒ=天神、天火明命=天孫と、別神と解釈されている。

神武天皇による大和国開闢後、皇家よりも先んじて開拓していたのが、尾張ホノアカリ勢力であった。ホツマツタヱ以降、これを誤魔化すためにニニギ天孫降臨とは別系統で、先行した天孫降臨伝説が必要となった。あれこれイジっているウチに、出自すら分からない謎多き神が続出してしまったと...。



ホツマツタヱ版ニギハヤヒは、ホノアカリの御子で、ナガスネヒコ妹ミカシヤヒメとの子がウマシマジ。当然、当初はナガスネヒコ勢力に属していた。故にこの地域では、ホノアカリ=ニギハヤヒにすり替えられていると見てよいだろう。丹後宮津藩主本荘氏の『本荘家譜』によると、ナガスネヒコはコトシロヌシの子?という情報もあるが…。いずれにせよ、メチャクチャである。

一般的にニギハヤヒ≒物部氏祖と考えられているが、宮下文書版ウマシマジは蘇我系統祖。先代旧事本紀ニギハヤヒとウマシマジ=物部氏祖という認識は、宮下文書を読むときはいっそ脳裏から消し去ったほうが良いかも…。宮下文書の物部氏は藤原氏族と同祖、大物主命の子孫となる。ウマシマジは物部氏を滅ぼした側、蘇我系統『祖家』の祖神となる。

ゴチャゴチャになるよ(´(ェ)`)





ホツマツタヱのニギハヤヒ誤魔化しテクニック。

以下、あくまで個人的憶測なのだが…。

ニギハヤヒとは、宮下文書における『ウガヤフキアエズ朝』約2600年欠史の国史矛盾を、打開すべく登場させた付会の神ではないかとみている。簡単に言えば、神武東征以前に、大和国における尾張勢力の開拓精神を、真相を歪めつつ、チラつかせて登場させる必要があったのだ。

 

例えば、ホツマツタヱ版ホノアカリ。

ニギハヤヒの父、フトダマとオオヤマツミ系カグヤマツミを左右臣としている。つまりカモと尾張勢力の連携を感じる。

またホツマ版カグヤマツミはオオヤマツミ系だが、笛吹神社天香山命は尾張勢力の祖。ここにもまた、カモと尾張勢力の連携を感じる。

ここから察するに、神武東征前には、やはり大和国創成期にカモと尾張勢力の影響を、なんとなく国史に刻みたかったのだろう。

〜ホツマツタヱ系図~

 



また、ホツマツタヱ時系列では、欠史にされたウガヤフキアエズ時代をワープゾーンに例えるなら(苦笑)、入口と出口にホノアカリが登場する特殊構造となっている。

①一柱クシタマホノアカリは、ニニギの兄として大和国を開拓させ、すぐ子孫を残さず断絶している。

②もう一柱は甥にあたる別神ホノアカリ、息子ニギハヤヒはナガスネヒコ支配から脱却して、子孫は神武東征を支えたとされている。

 

これを宮下文書視点からみれば、どちらも大和国における尾張勢力時代とみて間違いない。神武東征以前に大和国を実効支配していた尾張勢力下を誤魔化したいが為に、大和国のホノアカリ時代を登場させているのではないかと…。しかしクシタマホノアカリは子孫を残せず、断絶したことにした。さらに全くの別神ホノアカリを尾尻に配して、家系的実効支配を否定している。実質的な影響力は、神武東征直前の二柱目ホノアカリ以降、あくまで限定的『仮』の支配ということだろう。

 

 

 

 

また、通説の大和国イカルガの峰に降りた、ニギハヤヒ天孫降臨説も同様。ウガヤフキアエズ〜神武東征以前の大和国に、尾張勢力がいたことを誤魔化すために、ニニギの兄として開拓者の存在を描く必要があったのだろう。

このように宮下文書視点から解析すると、大和国に残るニギハヤヒの痕跡とは、ウガヤフキアエズ朝時代欠史を補う尾張勢力のチラつきであり、『後付け』なのだ。しかし基本的には、尾張勢力の大和国開拓精神のアピールにもみえてくる。

 

その後信仰は、皇別信仰や太陽信仰など、秦氏らのアイデアを取り入れて、独自に発展していった感を受ける。とくにホツマ版ニニキネ(ニニギ)の兄を称する、クシタマホノアカリの『クシタマ』というのは、宮下文書版タマノオヤ信仰を内包しているのではないかと感じる。




 

ニギハヤヒ論争に拍車をかけた、籠神社『ホノアカリ』海部氏勢力?。

前記事で少し触れた、籠神社海部氏の祖先について。これはかなり大きなインパクトを受けた記述なので、取り急ぎご報告すると…。

 

通説では、尾張氏系図と海部氏系図が酷似しており、『尾張国熱田太神宮縁起』に海部氏これ尾張氏の別姓と書かれているなどの理由から、両氏族は同族とみなされている。

然るに、籠神社が元伊勢と呼ばれる特性からも、ホノアカリ=ニギハヤヒが伊勢神宮外宮とも関係しているのではないか?と憶測を生んでいる。おそらくは伊勢神宮のアマテラス荒魂・瀬織津姫と夫婦仲であるという噂は、ここから発しているウワサではないだろうか?と…。これが、無用の論争を呼んでしまっている感は否めない。

※ホノアカリは天照国照彦火明櫛玉饒速日命と同一視もされている。瀬織津姫は伊勢神宮のアマテラス荒魂と言われている。ネット界隈では、この二柱は夫婦仲ともツインレイとも云われている。



今回は、伊勢外宮と元伊勢『籠神社』の関係を、宮下文書視線で紐解いてみよう。



そのあまりにも長すぎる経緯を、ごく簡単に書かせていただくと…。

宮下文書日本創世の『四季島統治』時代、北海道を除く日本列島を4等分割し、クニトコタチとクニサツチが2国ずつ統治した。クニトコタチ夫妻は西国丹波の田場真井原『桑田宮』を拠点とし、トヨクムヌとイザナミの一皇子一皇女を生み、イザナミを富士朝へ嫁がせ、東国にも影響力をもっていた。宮下文書研究者加茂喜三氏らによると、愛宕山の南麓の式内社『桑田神社』比定で一致している。

 

◯『桑田神社』(京都府亀岡市篠町山本北絛)

〜主祭神〜

  • 市杵島姫命 

〜配祀神〜

  • 大山咋命
  • 大山祇命 

※丹波国桑田郡の式内社。後世には秦氏の影響力が強い土地となる。

※※宮下文書岩間本p19によると、クニトコタチ夫妻陵墓を田場山とし、御霊は桑田宮で奉祀したとのこと。田場山の比定地は不明だが、丹波一宮『出雲大神宮』奥宮と関係していると推測する。

 

 

しかし、クニトコタチの子・トヨクムヌが早世し、孫のマゴココロタケル(阿和武男命)は子が産まれず、後継者問題でたいへん苦悩していた家系でもあった。それは自ずと、田場真井原の皇祖クニトコタチ信仰の行き詰まりを予期していた。その後、マゴココロタケルが富士朝詣に一命を捧げ祈願、其のかいあってアメノオシホミミが誕生。奇しくも夫妻は、子の誕生まもなく早世してしまう。アメノオシホミミは生まれながらにして孤児となってしまい、未婚のアマテラス養子として育てられる。

西国に残された田場山(丹波)のクニトコタチ陵墓は、信州出雲の主であるスサノオの娘・ミホツヒメ(出雲毘女命)を派遣しこれを継承させた。これはアマテラスの勅命だが、阿蘇山太神宮宮司オオクニヌシの采配でもあったろう…。一般的にミホツヒメはオオクニヌシか大物主命の妃神とされているが、宮下文書視点からは仕事上の関係が浮き彫りとなってくる。こうしてクニトコタチ夫妻は、『豊受大神』として祭祀された。

 

結局ミホツヒメには配偶者・後継者がいなかったのではないだろうか?…。彼女は人徳も厚く、桑田宮近く『田場山』(場所不明・出雲大神宮の奥宮?)に『出雲大神』を称し埋葬された。これはやはり、宮下文書版信州出雲のスサノオに由来して命名されたと考えるのが、自然であろう。そして、この出雲の名称が中国地方へ伝播して、『出雲』論争にて、後世の我々を大混乱させる要因ともなってしまったのだろう。

さらには、このミホツヒメこそが、『斎王』概念の始まりかもしれないと考えている。アマテラスもミホツヒメも未婚で奉祀を尽くし、後世伊勢神宮の宗教観に多大なるインパクトを与えた。

しかし、残念ながらこのミホツヒメの死によって、『豊受大神』祭祀はまたしても存続の危機を迎えてしまう。

※出雲の変遷、①信州→②丹波→③中国地方出雲

皇家にとっては、クニトコタチこそ男系嫡流の祖となるわけで…。後世、これに危機感をもったアメノオシホミミ孫・ヒコホホデミ富士朝は、自らの三子・若武毘古を北越・山陽・山陰の大将とし派遣した。さらに、産道分岐・和加佐礼の国を拠点に据えつつ、西大陸(朝鮮・支那)の大軍を撃退した。父母神ヒコホホデミと豊玉比女命を『遠宿住大明神』(若狭一宮・若狭彦神社『遠敷明神』か?)として祭祀、さらにミホツヒメの姪にあたる真留比女を娶り、三穂武男命を称した。

こうしてまたも、信州出雲神スサノオ系統の血が入り、丹波で豊受大神・出雲大神祭祀が再興された。これが後世に元伊勢とも呼ばれる『籠神社』と関係しているのではないか?と。現在の奥宮『真名井神社』は、この田場真井原から転じているのだろう。



◯『籠神社』(京都府宮津市字大垣)

〜主祭神〜

 

  • 彦火明命 (海部氏の祖)

〜相殿神〜

  • 豊受大神(御饌津神ともいう)
  • 天照大神
  • 海神(社家海部氏の氏神)
  • 天水分神

※元伊勢を称す。

 

〜富士朝ヒコホホデミ御子四兄弟〜

一子・鵜茅葺不合尊(九州ウガヤ朝・皇家の祖)

二子・天別天之火明命(尾張一宮・眞清田神社)

三子・若武毘古命(若狭一宮・若狭彦神社)

四男・阿田都彦(阿祖山太神宮の宮守)

※宮下文書岩間本p20によると、若武毘古命はヒコホホデミと豊玉比女命の二男か三男、つまりホノアカリの兄となる。岩間本では二男と記載されているが、三輪本では三男と記載されている箇所あり。情報が錯綜しているので、ご注意を…。

※※前記事ではヒコホホデミ三兄弟として紹介したが四男がいたようだ。

訂正いたしますm(__)m。

 

〜宮下文書三輪本現代訳『神皇記』p130〜

神武東征の論功行賞から。

『中臣・天日賢知王命を和加佐、越前前の国造とした。日子火火出見尊の第三皇子・若武毘古命五十一世孫である。 』

 

※奇しくも...籠神社と甲斐御室山と大国魂神社が、12代景行年間ころに結ばれている。

 

 

続いて、宮下文書岩間本p21〜22を要約すると、後世、若武毘古命の子孫、73代目丹波祖始彦の妻が、伊勢神宮と関係していた。

『都間(つま)は、伊勢国山田松麻呂の一女美浄比女と称す』

この時、21代雄略天皇勅願により、この豊受大神を伊勢外宮度会の山田原へ移し、73世孫丹波祖始彦が伊勢外宮創建に関与していた。豊受大神信仰の主流派が、伊勢外宮へ移管されたと考えて良いだろう。

 

〜宮下文書岩間本『開闢神代暦代記』p22〜

建久八年(1197)宮下源太夫義仁記す

『この時従える神官は、丹波祖始彦夫婦(上記73代目)を始め、神官十二家が守護奉り遷座の行事に奉仕した。この宮を伊勢外宮と称す。』

『人皇二十五代、武烈天皇五年間六月三日、三穂津比女の霊魂を、高天原よりこの地に移し、宮殿を造営して、出雲大明神と祭祀した』




宮下文書岩間本と三輪本には、残念ながら詳細は書かれていない。しかしこの末裔こそが、通説ホノアカリ子孫とされている、丹波国造家こと海部氏なのではないか?と…。さらに尾張氏と海部氏が、現状混同されている様子が浮き彫りとなるわけだ。出雲族サルタヒコ子孫や度会氏とも何か繋がっていそうな感じはするが…、現在調査中。

なにか分かり次第別記事でご紹介する。

(´(ェ)`)




ニギハヤヒ情報にご注意

信仰は個人のモチベーションに直結することでもあり、とてもデリケートな問題のようで…。

(´(ェ)`)

いつだったか、千葉県成田市『麻賀多神社』参拝の折、この日は電車で足を延ばして、ニギハヤヒを祀る印西市大森『大森鳥見神社』を参拝した。崇神天皇と景行天皇に由来する古社であり、ホツマツタヱ研究のヒントになるのではないかと、ワクワクしながら向かっていった。この日は晴天だったが、神社に近づくと雨が強くなってきた。折り畳み傘を持ってはいたが、あまりにも雨の勢いが酷いので、参拝はあきらめようと、方向を変えると急に弱雨になった。

 

◯『大森鳥見神社』(千葉県印西市鳥見)

~御祭神~

  • 饒速日命(通説物部氏の祖)
  • 宇摩心志眞知命(通説ニギハヤヒ御子・物部氏の祖)
  • 御炊屋姫命(通説ニギハヤヒの妃)

※上表紙写真。

お、これは大丈夫かなと...、神社に歩んでいくととんでもない土砂降りになった。神社巡りの経験上、こういう日は何かある。。。なんか嫌われているのかなあと...、結局びしょ濡れになりながら、神社にたどり着いた。興味本位で、いろいろ敬意が足りなかったのかなあ~と反省したことがある。奇しくも、これが宮下文書派の私が、ニギハヤヒに興味をもった始まりだった気がする。帰りはコインランドリーで雨宿り、着替えて、コンビニ弁当を食べて帰った

(´(ェ)`)

宮下文書では実証されないからと言って、ここではニギハヤヒ神社を疑惑の目で見ないでほしい...。各地の神社に祭祀され、多くの村々に崇敬され、守護してきたのは事実だし、きっと、なにか重要なことを内包させていた神々なのではないかと思う。

さりとて…、私も宮下文書に記載されていない謎の神・瀬織津姫の神社へと足をはこんでいるわけで…。知れば知るほど、謎が深まる存在なので困っている(苦笑)。

 

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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