2023,3,4
前記事の続き。
與杼神社などに祀られる淀姫(豊姫)が、宮下文書版ウサミ妃・小幡毘女命に比定できるのではないか?というお話をした。さらに天比理刀咩命も同神の可能性が急浮上してきた。
天比理刀咩命=淀姫(豊姫)=小幡毘女命???。
そしていつものように、天速玉姫命『泉神社』と天比理刀咩命『品川神社』を地図上をレイラインで結んでみようという発想になった。すると…なんと、これがウサミの本拠地『伊東の宮』を指し示しているではないか!!。
熊オッサン的には…、これで天比理刀咩命がウサミとクマノクスヒコの家族神であることに確信が持てた。
(´(ェ)`)
今回のテーマは天比理刀咩命を取り巻く源頼朝、太田道灌、徳川家康の関係、歴代権力者からも洲崎明神が崇敬されていた姿が浮き彫りとなってきた。
天比理刀咩命の、その実力に迫る(´(ェ)`)。
~目次~
- 源頼朝と天比理刀咩命レイライン
- 太田道灌と天比理刀咩命レイライン
- 徳川家康と天比理刀咩命レイライン
- レイライン上の初島、初木姫伝承とは…。
- では、イトウに相応しい女神とは誰か?(妄想)
- 武藤少弐氏が伊豆国発祥の可能性(妄想)。
玉祖命と応神天皇のシンクロニシティ②、 天比理刀咩命・淀姫・豊姫はウサミ妃?。 - セキホツ熊の謎を追え!
<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈宗像三女④〉イツクシマ・イチキシマの正体。対馬国は伊豆の痕跡でいっぱい。 - セキホツ熊の謎を追え!
〜天比理刀咩命レイライン〜
- 泉神社(天速玉姫神社・天比理刀咩命同神)
- 水戸城跡(茨城県水戸市三の丸)
- 水戸東照宮(徳川家康、東照公)
- 常陸三宮吉田神社(宮下氏族那珂氏?)
- 新治神社新治の井(ヤマトタケル伝承)
- 葛西神社(宮下氏族葛西氏、徳川家康公)
- 柴又帝釈天(富士山信仰)
- 亀戸天神社(東京都江東区亀戸)
- 水天宮(アメノミナカヌシ)
- 富岡八幡宮(1kmズレ)
- 佃島住吉神社(東照御親命こと徳川家康、本来は女神信仰?)
- 御殿山(江戸築城までの太田道願の館)
- 品川神社(洲崎明神・天比理刀咩命)
- 蛇窪神社(東京都品川区二葉)
- 夢見ヶ崎(太田道灌の江戸城第一候補地)
- 天照皇大神(撞榊厳魂天疎向津姫命)
- 熊野神社(後北条氏祈願所)
- 師岡熊野神社(関東随一大霊験所熊埜宮)
- 師岡郷獅子ヶ谷(武藤資頼の義父頼平墓)
- 洲崎大神(横浜市神奈川区3kmズレ)
- 東神奈川熊野神社(洲崎大神裏の権現山から遷座)
- 白旗神社 (神奈川県藤沢市、寒川神)
- 鵠沼皇大神宮(神奈川県藤沢市鵠沼神明)
- 初木神社(伊豆山関係社・初木姫伝承)
- 葛見神社(宮下文書版ウサミの拠点『伊東の宮』)
- 火牟須比神社(おとどいの橘と千鶴丸伝承)
- 稚児ヶ淵(千鶴丸殺害現場)
- 鎌田城(小野寺氏族同族、鎌田氏拠点)
※天比理刀咩命(天比理乃咩命または天速玉姫命ともいう)、天太玉命の后神で忌部氏の祖神の一柱とされる。本ブログでは宮下文書版小幡毘女命、フトダマ娘、ウサミ妃、クマノクスヒコ母ではないか?と見ている。宮下文書研究家鈴木貞一氏推測によると、熊野速玉大神=ウサミのこと。
源頼朝と天比理刀咩命レイライン
1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆国三嶋大社例大祭の騒ぎに便乗して旗揚げする。しかし石橋山の戦いにて敗走し、そのまま房総半島安房国へ逃亡した。そして命からがら辿りついた安房一宮洲崎神社にて再起の祈願をした。この洲ノ神または洲崎明神が、天比理刀咩命(天比理乃咩命)。鎌倉幕府成立後は再起の祈願成就のため神領を洲崎神社に寄進し、さらに武蔵国品川に勧請され品川大明神(のちの品川神社)が創建される。
また神奈川県横浜市神奈川区青木町『洲崎大神』は鎌倉幕府直轄の神社で、神紋は八幡・熊野信仰共通の三つ巴紋、神職は吉田家…。天比理刀咩命がいかに源頼朝に崇敬されていたかを示すものとなる。因みにホームページによると、『洲崎大神』は安房一宮洲崎神社ではなく安房一宮安房神社を勧請したようなので注意。御祭神にはどちらも天比理刀咩命(天比理乃咩命)が祀られている。
そしてレイラインは源頼朝が配流された伊豆国伊東へ。伊東祐親の娘・八重姫の拠点としていたのが、伊東の葛見神社。さらには源頼朝の嫡男となるはずであった千鶴丸が、八重姫の父・祐親の手下に殺害された稚児ヶ淵がある。その付近には義朝の忠義を尽くした鎌田氏族の城跡があるのだ。
通説、源頼朝の父・義朝が長田忠致(富士朝宮伴・長田氏)に殺害されるまで随伴していたのが鎌田政清。その子・鎌田新藤次俊長が1189年築いたのが『鎌田城』。この山内氏や小野寺氏と同族が、何故か稚児ヶ淵の直上に築城したことになる。
これは何を示しているのか?(´(ェ)`)
太田道灌と天比理刀咩命レイライン
室町時代に活躍した太田道灌とは。
宮下文書から推測するに富士朝神官家系で、15代応神天皇根鳥皇子子孫の太田氏族(伴氏)と見られる。母方は、富士朝に縁が深い鎌倉氏族長尾氏となる。このように1404年富士朝陥落後の富士朝氏族の多くは、室町幕府初代関東管領・上杉憲顕の配下に編入されたとみている(宮下文書現代訳の表記は、上杉顕憲)。
武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰であり、学者でもあり、霊能力を備えていたとも言われる。富士山高千穂峰レイライン上の武蔵一宮小野神社や井草八幡宮なども崇敬し、室町以降の武蔵国と江戸の祭祀基盤を作り上げた人物。
◯『品川神社』(東京都品川区北品川)
〜御祭神〜
- 天比理乃咩命
- 素盞嗚尊
- 宇賀之売命
※東京十社
1478年(文明10年)には品川神社へスサノオ(天王神)を合祀させ、本人は付近の御殿山に居館があったという説あり。品川湊は伊勢・熊野との太平洋航路で栄え、熊野三山とのつながりが深かった。さらに安房一宮『洲崎明神(洲崎神社)』は江戸城鎮守の神田明神にも勧請しており、これが現在の境内社『八雲神社』とされる。こうしてみると太田道灌は、牛頭天王スサノオと天比理刀咩命を同所に祀りたい思惑が見て取れる。
一般的に熊野信仰はスサノオに関係が深いと思われている。宮下文書では八幡信仰と熊野信仰は兄弟的な成立であり、これも牛頭八王子権現と八幡信仰の重複性に由来するのか…???。少なくとも、相乗効果を期待できた同系信仰ではないかと…。
※当ブログでは、牛頭天王八王子権現と八幡信仰と熊野信仰に共通性を見出そうとしている…。
◯『天照皇大神』 (神奈川県川崎市幸区)
〜御祭神〜
- 天照大神
- 撞榊厳魂天疎向津姫命
- 天満大自在天神(菅原道真)
- 誉田別命(応神天皇)
- 市杵島姫命
- 白山比咩命
- 第六天神
- 石神
◯『熊野神社』
~御祭神~
- 伊邪那岐命
- 伊邪那美命
- 速玉男命
- 事解男命
- 倉稲魂命
そして当レイライン上には、なんと!夢見ヶ崎がある。
もともと太田道灌は、この孤立丘を『江戸城』の候補地とみなしていた。しかし霊夢のお告げにより鶴が飛び立ち、北東江戸の方角へ飛び立つのをみて考え直したという。この霊夢が元となり『夢見ヶ崎』と呼ばれるようになった。そもそもココは古墳が集中していた墓陵で、信仰心の厚い道灌は城塞化を躊躇っていた事だろう。その後の小田原後北条の祈願所となり、現在は『天照皇大神』『浅間神社』『熊野神社』『了源寺』が並んでいる。『天照皇大神』にはアマテラスと撞榊厳魂天疎向津姫命(瀬織津姫の別名)が同所に祀られている珍しい神社となる。
ここは2018年秋、雨のシトシト降る夕方、仕事が早く終わったのでフラりと立ち寄った神社。今となってジワジワとその重要性に気付かされた。
だから…熊の神社があるのか!!(´(ェ)`)
徳川家康と天比理刀咩命レイライン
室町期の富士朝氏族・太田道灌が築城した江戸城を継承したのが徳川家康。道灌が残した祭祀ネットワークの基盤の上に、17世紀には100万人の世界一の大都市を構築した変革者となる。
1600年関ヶ原の戦いの折、徳川家康が品川神社にて戦勝祈願し、その祈願成就に5石の社領の朱印と、『葵神紋』の使用を許可されている。葵紋を用いている神社は徳川家の厚い庇護を受けており、天速玉姫命を祀る『泉神社』もその一社である。YouTubeでの宮司さんのインタビューによると、やはり江戸幕府の東征祈願に所縁があるそうだ。
・御三家水戸藩
常陸水戸藩は、徳川将軍家の分家御三家の一角、水戸徳川家が藩主を勤め、東北諸藩の反乱に備えた北関東の拠点としての特性を持つ。すなわち東征の意味合いから、天速玉姫命(天比理刀咩命)を軍神として祀っていたのではないか?と推測できる。しかしながら常陸国佐竹氏が出羽国へ転封されたのち、この水戸藩主たちが常陸国古社をめちゃくちゃにしたと言わざる得ない。
もともと常陸国は、5世紀頃に宮下氏族那珂氏らを軸とする、富士朝信仰や蘇我(祖家)氏族の信仰が盛んに行われていた地域ではないかと見ている。
・葛西神社
葛西三十三郷の総鎮守。葛西三郎清重公が香取神宮フツヌシを祀ったことに由来する。江戸時代には徳川家康が訪れ、当社伝来の操り人形芝居の神事を見て感銘し、これを奨励させた。以降、徳川家の紋である葵御紋の使用を許され、朱印地を授けたと伝わる。これに由来して、現在まで徳川家康公が祀られている。
葛西氏族は、5世紀頃に富士朝大宮司家から派生した宮下氏族、大山守皇子第十王子・益田日高彦宮下文書の日高見国国造子孫となる。また葛西清重は、源頼朝の妻・政子が出産直前に、武蔵総社大國魂神社にて安産祈願をした人物でもある。葛西神社境内には祓戸神社と富士塚がある。
※因みに通説では畠山氏族と同族、桓武平氏良文流秩父氏族とされているので注意。因みに富士朝再興に尽力した畠山氏族の本貫地は秩父吉田郷、富士朝氏族の可能性あり。
・佃島住吉神社
徳川家康が大阪にて住吉神を参拝の折、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が家康一行を船で案内し、白魚などを献上した。徳川家康はこれに感謝していた。以後、漁民たちは西国海上隠密の用を、大坂の陣の際には軍船や物資の調達などを依頼されるようになる。恩賞として家康は漁業権を与え、徳川家康と奇妙な共生関係が生まれていた。
安土桃山時代1590年(天正18年)、徳川家康が関東へ進出の折、彼ら漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移住した。正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲付近の干潟を賜り、その漁夫らがこれを埋め立てて島とした。摂津国淀川『佃』に因み、佃島と称した。この際、神功皇后所縁の『田蓑神社』(大阪市西淀川区佃)の住吉三神を当地に勧請した。社前が諸国の廻船が多く通る江戸湊であったので、海運業、各問屋組合からも渡航安全の崇敬を集めた。ただし佃の田蓑神社は近年まで田蓑姫神社(田蓑姫島神社)と称しており、 本来は女神信仰の可能性あるのだという。
住吉境内社の龍神社は1822年(文政5年)龍姫大神としてトヨタマヒメを祀り、1838年(天保9年)にタカオカミを合祀。以降は龍王弁財天を称した。こうしてみると弁財天とは、イチキシマヒメなどの特定の女神だけではなく、水神・龍神・女神たちを総称しているようにも思える。
レイライン上の初島、初木姫伝承とは…。
伊豆山神社創建に深く関係している『初木神社』の由緒書によると。
5代孝昭天皇の時代、初木姫は日向から東国順憮に向かい、初島(静岡県熱海沖)に漂着した。姫は対岸熱海に人がいないかと、火を灯して助けを求めた。すると伊豆山の伊豆山彦という男(男神?)がこれに呼応し火を灯し続けたという。元気付けられた姫は、萩などで小舟を作り伊豆山小波戸崎(今の伊豆山港)に渡ることができた。二人は現在の伊豆山逢初橋付近でめぐりあったという。その後初木姫は、伊豆山の中腹に登り、木の中に棲む日精・月精という二人の子供を見つけ育てた。
この二人を養育して伊豆山祖先とした。いずれにしてもこのレイラインが、小さい初島をドンピシャで通るのは興味深い。
◯初木神社
〜御祭神〜
- 大津海見神
- 豊玉姫命
- 初木姫命
初島にはこのようなサバイバルな伝承があるが…、そもそもは無人島ではなかった。7千年前から人々が住んでおり、全域に渡り縄文遺跡が七つほど見つかっている。さらに伊豆山神社ホームページによると、ご神体懸仏の制作年代から、神社創建は鎌倉以前であると推測される。社殿の下からは古墳時代の磐座祭祀跡が見つかっているという。
宮下文書における伊豆山神社は、神代に日金山に埋葬された伊豆大神イワナガヒメの陵墓。この伊豆信仰こそが八幡信仰・熊野信仰を生み出し、現代神道のスタンダードに繋がったと推測される。ところが通説は宮下文書と大きく異なり、伊豆山創建は5代孝昭天皇の治世とされて、まるで初木姫が実質的な創建者と解釈されているかのような有様だ…。
個人的に思うのは、初木姫は神代の御祖霊を求めて、日向国から伊豆山に来たのではないか?とも思える。あるいは西国の神官家系か…(妄想)。逆に鎌倉時代には伊豆国伊東氏が日向国に進出して、豊前一宮・宇佐神宮にも影響力を持っていた。重ねて言うが、ホツマツタヱ版宇佐神宮には宗像三女神イトウが祀られており、創建当初にはトヨヒメ(ヨドヒメ)が祀られていた可能性もありそうだ。
伊豆山神社は、八重姫と破局した源頼朝と北条政子の縁結びの神社でもある。頼朝の師である走湯権現(伊豆山)の覚淵は、伊豆国挙兵メンバーの一人・加藤景簾の兄弟。奇しくも…二人を初木姫由来の逢初橋で再会させ、頼朝挙兵の後押しした重要人物とされる。
wikipedia加藤景廉によると、所領は甲斐国大原荘(現在の富士吉田駅〜河口湖付近)で、さらに相模国寒川を拠点としていた梶原景時とも親しい仲だ。
また利仁流加藤氏の祖である藤原景通は、鎌倉景通と同一人物という説もあり。鎌倉景通(鎌倉権正景道)は、なぜか…二所明神比定地・古屋氏屋敷跡の鎌倉神社(明見神社)に今も祀られている。二所明神は一般的に伊豆山神社・箱根神社(場合により三嶋大社を含む)とされているが、宮下文書では阿祖山太神宮そのものを指す。つまり名称が改竄されている理由が、覚淵の出自にあるのかもしれない。
前記事でも紹介したが...加藤氏は熊オッサン母方推定ご先祖さまの一つ。あくまで推定ですが…(´(ェ)`)。
では、イトウに相応しい女神とは誰か?(妄想)
そしてレイラインは伊豆半島伊東市へ帰還?到達する。
ここで素朴な疑問なのが…、仮に天比理刀咩命やヨドヒメが伊豆神ウサミ妃・小幡毘女命ならば、伊東市内に祀られていてもおかしくはないと…???。なぜなら、ウサミは『伊東の宮(葛見神社)』を拠点にしていたからだ。
そんな伊東市内の神社で一社だけ心当たりがある。伊東の北にある小御所に身を寄せていた源頼朝と伊東祐親娘・八重姫のデートスポット『音無神社』である。伊東祐親と頼朝の対立の末、八重姫の子である千鶴丸は稚児ヶ淵にて殺害され、頼朝は伊豆山神社へ逃亡した。伊東祐親の墓〜葛見神社〜三嶋大社へのレイライン上にドンピシャで存在し、現在の御祭神はトヨタマヒメ。
※因みに、通説の頼朝伊豆国配流先は、北条館に近い蛭ヶ小島(伊豆の国市)といわれる。しかし伊豆山への道程を考えると矛盾点も多く、はじめから伊東付近に配流されていたのでは?という説もある。
※※音無神社由緒によれば、千鶴丸は遠方へ逃せられた説もあり。
〜三島伊東レイライン〜
- 伊豆大島大宮神社(式内社阿治古神社)
- 小室山
- 伊東祐親の墓(静岡県伊東市大原)
- 葛見神社(ウサミ『伊東の宮』比定地)
- 音無神社(源頼朝・八重姫密会伝承)
- 最誓寺(八重姫立願)
- 伊東松原八幡神社(伊東祐継創建)
- 雷電神社(静岡県田方郡、日金山大鳥居跡地)
- 三嶋大社(源頼朝崇敬社)
- 長窪東照宮(静岡県駿東郡長泉町元長窪)
- 愛鷹山水神社(静岡県駿東郡長泉町元長窪)
- 松島神社(長野県上伊那郡箕輪・ニニギ)
- 上高地大正池(穂高梓川上流)
- 櫛田神社(富山県射水市串田・武内宿禰勧請)
- 能登一宮氣多大社(大己貴命)
- 入らずの森奥宮(素盞鳴尊、奇稲田姫命)
神社を疑うというのも心苦しいものがあるのだが…。
いまさらながら…(´(ェ)`)。
この前記事でもなんとなく強調してきたのだが…、ヨドヒメ(トヨヒメ)をカムフラージュの手段としてトヨタマヒメを祀るパターンがある。與杼神社Wikipediaによると、トヨタマヒメの別名がヨドヒメ(トヨヒメ)とも伝わるという。対馬一宮海神神社もトヨタマヒメを祀るが、江戸時代までは木板山(またの名を伊豆山)を拝する木板八幡神社を称していた。興味深いことにこの神社にも、異国艦隊を神風が撃退したという伝承がある。つまり、トヨタマヒメはトヨヒメの代理神としての特性が浮き彫りとなる...。
宮下文書における伊豆淡島(静岡県沼津市)は、ヱビス=オオワダツミの本貫地であり、伊豆にもワダツミ系神社がアチラコチラに存在する。ご存知のようにトヨタマヒメもワダツミ系統の御神霊のはずである。ただし…宮下文書記載における彼女は、伊豆にも九州地区にも一切関係のない生涯を送った人物でもある。音無神社を参拝するたびに、正直、なんでトヨタマヒメなのだろう?と率直に思っていた。
しかしこれが…トヨタマヒメではなく、トヨヒメ(ヨドヒメ)であったらどうだろうか?。
ホツマツタヱ版トヨヒメはクマノクスヒの実母、宮下文書におけるクマノクスヒコの実母は小幡毘女命に比定される。さらに現在の葛見神社には、宮下文書版ウサミの御子・久眞野久住毘古命と思われる『クズミ神』が祀られているわけだ。
天比理刀咩命=淀姫(豊姫)=ウサミ妃・小幡毘女命???
上記の天比理刀咩命レイライン的にも伊東の主・ウサミ的にも、これ以上相応しい御神霊はあるだろうか?。もし仮にもそうであれば…富士朝を再興し、八幡神を崇敬した源頼朝が、なんで天比理刀咩命を重視していたのかも頷けるわけだ。
武藤少弐氏が伊豆国発祥の可能性(妄想)。
以降、素人オッサンの身の程知らずな妄想色が強いので、書こうかどうか迷ったのだが...。妄想考察なのでご了承ください(苦笑)。
前記事で紹介した対元寇氏族少弐氏・武藤少弐氏。
彼らは武蔵国から鎮西奉行となり、肥前一宮與止日女神社でヨドヒメを崇敬していた。1281年(弘安)弘安の役では、與止日女大神の神霊が元軍艦隊を撃退したとの伝承も伝わる。ここからも武藤少弐氏にとって、ヨドヒメ(トヨヒメ)がいかに特別な存在なのかが伺えるわけだ。ただそもそもこの御神霊との因縁が、ウサミ本貫地・伊豆国伊東に始まっていたとしたらどうだろう?。
ヒントは天比理刀咩命=淀姫(豊姫)=ウサミ妃・小幡毘女命???。
武藤少弐氏の祖は近藤氏(近江の国の藤原氏)となる。景親の代に駿河権守となって駿河島田郷(島田市)に土着して島田姓を称し、子の八郎大夫(景重)が伊豆に移るが、平治の乱に源義朝側に参戦して戦死している。景重の弟・景頼から派生したのが大友氏と武藤氏で、大友能直の父が近藤能成でその弟が武藤頼平。頼平(武藤資頼は猶子)の墓所は、なんと天比理刀咩命レイライン上の武蔵国獅子ヶ谷にあった。吾妻鏡によると、この島田景重の孫・近藤七国平が頼朝伊豆国挙兵に呼応して、石橋山の戦いに参戦した最古参メンバーの一人となる。その後鎌倉幕府成立後は、頼朝の側近についている。
※因みに、大友能直には頼朝落胤説あり。母は波多野経家養女とされるが、宮下文書版波多野氏族は宮下氏族(佐賀陸国造・大山守皇子第七王子・幣岐佐加陸彦の子孫)。
また曾我兄弟の仇討ち事件にて源頼朝を救ったとされる御所五郎丸は、武蔵国久良岐郡(横浜市戸部付近)の領主、もともと鎮西奉行として九州に渡るまで武藤資頼の領地であった。さらに皇国地誌残稿によると、曾我兄弟の母親・満江御前が、曽我(現在の神奈川県小田原市曽我別所)に住居を移したときに、伊豆から随伴してきた家来に武藤家を称した者がいたそうだ(未確認)。近隣には、奇しくも武藤氏族と親戚関係にある大友氏族の本貫地あり。
などなど...、このあたり奇妙なほど接点が出てくる。
満江御前は、狩野親光の娘という説と、横山時重の娘という説がある。宮下文書版狩野氏族は宮下氏族である。因みに小野氏族・横山重時の姉妹が梶原景時の母、梶原景時娘を武藤資頼が娶っている。しかし何故、梶原景時と武藤資頼は平家方についていた裏切者として語られていたのか?。
実は…『愚管抄』版の梶原景時は、源頼朝を伊豆旗揚げから支えてきた最古参メンバーなのだ。梶原景時を富士朝里宮・寒川神社や大庭御厨を拠点としていた富士朝派と考えれば、何故『一ノ郎党』と呼ばれたのか見えてくる。彼と親しい仲であった武藤資頼、さらには伊東祐親が、伊豆から何らかの参陣をしていてもおかしくはない…。後世の北条得宗家らは、これら富士朝派・頼朝派の痕跡を根絶したかったはずだ。
武藤資頼は頼朝が伊豆国配流された1960年の生まれ。頼朝と三浦勢が盛り返した1180年、伊東祐親(すけちか)は捉えられ娘婿・三浦義澄に保護監視された折に、なぜか同所にて20歳の武藤資頼も保護にされていた。伊東祐親は最後まで頼朝に抗った末に一族を頼むと自決し、武藤資頼は生き残り『太宰小弐』という謎の大出世を果たした。伊豆国で一体何があったのか?。
資(すけ)+頼(より)...(´(ェ)`)。
結局、鎮西奉行として九州大宰府に追放されたのは、彼ら富士朝派や頼朝遺伝子だったのかもしれない。宮下文書によると元寇前の1252年、武藤左衛門尉景時なる人物が、二所明神(富士朝阿祖山太神宮)に将軍家代参をしている。。。もし仮にそうならば、武藤少弐氏遺伝子は伊豆国にて既にヨドヒメに出会っていた可能性もある...。
※地図はクラフトマップ使用。