セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

玉祖命と応神天皇のシンクロニシティ①、安曇族の衰退が新しい八幡信仰を生んだ。

レイライン上の静岡県掛川市八坂『遠江一宮・事任八幡宮』。
お城のような立派な石垣の上にある。


2023,2,5

宗像三女神シリーズが終わったわけではないのだが、たまたま面白いレイラインをみつけたのでご紹介しようかと。

宗像三女神と宗像大社を知るために玄界灘上のレイラインを、あれこれ地図上で探してみた。とくに宗像大社は、辺津宮よりも中津宮にいくつかのレイラインが集中して見える。wikipediaによると、もともと辺津宮は中津宮をモデルに造営されており、先行されて造営されたという説もある。

今回は、この中津宮を貫くレイラインに…タマノオヤ死亡地と応神天皇死亡地を結んだポスト八幡神?のお話。レイライン上の各ポイントを順序バラバラで説明しつつ、全国神社数8,000~40,000社とも云われる八幡信仰の正体に迫ってみようと思う。

(´(ェ)`)

~目次~

 



〜タマノオヤ応神天皇レイライン〜

 

  • 高塚不動尊奥の院と富士浅間神社
  • 安房一宮・安房神社(相殿タマノオヤ)
  • 伊豆国八幡宮・八幡宮来宮神社
  • 遠江一宮・事任八幡宮
  • 油山寺
  • 走湯神社(伊豆山走湯権現)
  • 羽豆神社
  • 香良洲神社
  • 物部神社(式内社)
  • 国見山城跡(吉田兼好の終焉地)
  • 都祁水分神社(速秋津彦神・水分神)
  • 河内国分寺跡
  • 応神天皇陵古墳(ドンピシャ)
  • 誉田八幡宮
  • 淡路一宮・伊弉諾神宮
  • 伊予一宮・大山祇神社
  • 飛龍八幡宮(京都男山から降臨伝承)
  • 阿弥陀寺(防府市)
  • 周防一宮・玉祖神社
  • 玉岩屋(タマノオヤ墓所)
  • 玉祖神社八籠山(12代景行天皇祭器埋所)
  • 宗像大社・中津宮
  • 壱岐島月讀神社
  • 壱岐島国分寺




なんで筑前・筑後は八幡信仰が盛んなのか?

 

まず、レイラインに関係してくる筑前筑後の傾向から。

八幡信仰は全国的に盛んであるわけだが、とりわけ筑前筑後に拠点神社が集中しているのがわかる。…今更ながら、これについて重大なヒントが出てきた(苦笑)。

宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p132を要約すると。

初代・神武天皇の時代、タマノオヤ次男・崎玉男命の50世孫の御鉾倉魂命が、神武東征後の論功行賞において筑前筑後の県令に任命される。この地域はタマノオヤ子孫?安曇族によって繁栄してきたわけで、さらに別アプローチも加わっていた訳だ。伊都国付近の天孫降臨伝承やイワナガヒメ信仰に、筑前筑後の八幡信仰が合流した可能性あり。しかも、これらは秦氏族が来日する遥か以前のお話である。

※本ブログでは宮下文書をベースに、元祖八幡信仰=タマノオヤまたは御子ウサミではないか???と推測している。

(´(ェ)`)

<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

 

 

 

 

※PC版はクリックで拡大できます。

かつての古八幡???、タマノオヤとその子孫。



一般的にタマノオヤは影の主役であり、ニニギ天孫降臨伝承における五伴緒神の一柱として知られている。宮下文書では、タクハタチヂヒメ八王子のニニギ弟に当たり、阿祖山太神宮の2代目大宮司となる。外寇親征の役により再起不能になったニニギと、その御子の幼いヒコホホデミに代行して富士朝西征した将軍職の人物。しかしながら…彼は富士朝大宮司という大職であり、衰退した安曇族の祖神であるがために、隠蔽改竄対象に見做されたと思われる。

宮下文書における彼の家族の活躍を要約すると。本領地伊豆国から、御子・宇佐見(ウサミ)を引き連れ、西国を隈無く統治し穴門の宮(玉祖神社比定)にて死去した。ヒコホホデミはこの宮を宇都志日金命に守護するように命じ、ウサミは紀伊半島へ帰途する。そこでさらに息子の久眞野久住毘古命(古事記比定のクマノクスビ)が、日前宮と熊野大社原型を創建する。すなわち、彼らは現在の神道の根幹を作り上げた家族として意義深い。

※宮下文書研究家・鈴木貞一氏の推測によると、ヒコホホデミが宇都志日金命に穴門の宮を預けたのは、タマノオヤの親族であったからだとしている。ここにも、『子孫が祖先を祀る』富士朝御祖霊信仰スタイルの原点が垣間見れる。

 

 

◯周防一宮『玉祖神社』(山口県防府市大字大崎)

〜御祭神〜

  • 玉祖命
  • 不詳一座

※玉祖神社は延喜式神名帳の玉祖神社二座、周防国 佐波郡(山口県防府市大崎)にある周防国一宮。鈴木貞一氏の推測では、不詳一座は宮を預かった宇都志日金命(古事記比定の宇都志日金命)ではないかとしている。

 

 

※航路と宇佐神宮はあくまで推定、宮下文書には記録はない。




神社社伝によると玉祖命の死亡地とされ、社殿を造営して祀ったのに始まる。神社北側に墳墓比定地の『玉の石屋』がある。さらに日本書紀によると、12代景行天皇が熊襲征伐の折に戦勝祈願をしている。その際にこの地の長であった神夏磯媛が神器を捧げ、それを800mほど北の『八籠山』に埋めたとされる。

神社は創建時より現在地のままといわれるが、現地よりも北方500mの厄神の森一帯の字江良から遷座して来たという伝承もあるようだ。



※また宮下文書によると、かつてこの地は『佐波国』と呼ばれており、現在も玉祖神社のすぐ南を流れる川を佐波川(鯖川)という。個人的妄想だが、これが神奈川県鎌倉北部『大庭御厨』に点在していた源義朝を祀る神社群、これが『サバ系神社』の由来ではないかとみる。






 

アズミ族敗退、封じられたタマノオヤ。

527年(継体天皇21年)『磐井の乱』にて筑紫を拠点にしていた安曇族は、筑紫君磐井側についた為に大和朝廷の反感を買い各地へ離散させられた。その後彼らは、滋賀県安曇川・信州安曇野・熱海日金山・鳥海山飽海郡・渥美半島などへ各地に離散してゆく。

タマノオヤ・イワナガヒメ信仰は、2世紀頃のホツマツタヱ成立によって既に消されかかっていた。それに加え、大和朝廷側は『なんで敗者安曇族の神を、勝者の天皇が祀らねばならないのか?』という矛盾が生まれた。こうして敗者のタマノオヤ・イワナガヒメ信仰が完膚なきまでに封じられたのではないのかな?と…。

 

 

しかし、朝廷側も御祖霊を邪険にすれば祟り神が怖い。それを安曇族と交流が深く富士朝祭祀に詳しい秦氏族のアイデアで、八幡=応神天皇信仰として改良を加え、延命させていたようだ。宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』によると、大山守皇子には秦氏族の遺伝子が入っていると明記されており、当然父親の応神天皇も入っていた可能性があり。

アズミ族に秦氏エッセンスが加わったことにより、八幡信仰は生まれ変わった。秦氏族に乗っ取られた感も否めないが…。

 

※後世には、6世紀までは奈良盆地東北部に、安曇族子孫と思われる和邇氏が残っていた。のちの小野氏祖となる。通説の和珥氏族は、孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)からの皇別派生説あり。ただし天足彦国押人命は実在性が問われている。

※※通説に反して、タマノオヤ安曇族とヱビス海神系は別系統となるので注意。両者の経緯からどちらも伊豆半島起源の神と分類することはできそうだ。

 

かつては小野氏祖・天押帯日子命を祀っていたという説がある。
瀬織津姫命を祀る武蔵一宮・小野神社

長野県松本市安曇『梓水神社』、かつての御祭神は瀬織津姫命とも云われる。
安曇族の地には、何故か瀬織津姫命が関係する。










新生八幡、なぜ応神天皇なのか?。

 

応神天皇が八幡神となった経緯をおさらいしてみる。

宮下文書から紐解くに、神功皇后と15代応神天皇は富士朝回帰主義者であり、東国や富士朝氏族からも信頼されていた。さらに山守と海守による山川林野や海島の宗教的な?管掌を計画していた。

この山守を任されたのが、秦氏族の遺伝子をもつ大山守皇子(のちの宮下家)である。海守りは定かではないが、安曇族の和珥氏族の日触使主をの娘・宮主宅媛の血をひく菟道稚郎子だったのではないか???と想像している。すなわち15代応神天皇が譲位の際に、16代宇治天皇として即位するハズの人物であった。この時代は安曇族も秦氏族も大きな政治的影響力を持っていた訳だ。

 

〜15代応神天皇の二大体制?〜

▲山守=秦氏族遺伝子・大山守皇子

△海守=安曇族遺伝子・菟道稚郎子???



しかし宮下文書岩間本によると、仁徳天皇と武内宿禰による裏切り行為があり、菟道稚郎子は自決を迫られ崩御する。応神統治計画が宙ぶらりんとなったことに富士朝大山守皇子が激怒。さらに東国勢力が富士朝を奉持して、結果的に日本は四季島統治『東西分治』の分断された時代に突入する。こうして応神天皇の悲願である全国統治は、無惨にも引き裂かれた。腹心・武内宿禰に裏切られ、この世に大きな未練を残す結末となった。

このような経緯を見るに、後世に誕生した、応神天皇八幡信仰+水神みつき三女神は、富士朝御祖霊の祟りを鎮めるための御霊神信仰的な要素も持っているとみている。また応神天皇を八幡神として奉じることによって、富士朝御祖霊、大宮司家の宮下家、東国氏族たちも黙らせることができたわけだ。

 

〜現在の『八幡大神』の定義〜

  • 応神天皇
  • 神功皇后
  • 比売大神(基本的に宗像三女神)



平安時代になると、富士朝を重んじた56代清和天皇と清和源氏が東西の架け橋になり、日本全国に八幡信仰を定着させた。そして、賀茂次郎義綱の子孫が宮下家婿入りを果たし新生宮下家が発足、源頼朝により富士朝が再興された流れとなる。東国の富士朝氏族が、15代応神天皇と八幡大菩薩のもとに結束したのは自然な流れであった。

鎌倉氏族と大庭御厨めぐる騒乱、源義朝は富士朝氏族解放のヒーローだった? - セキホツ熊の謎を追え!












八幡神の新生、きっかけは仏教だった。

レイライン上の誉田御廟山古墳は、宮内庁により第15代応神天皇の古墳と治定されてきた。近隣には大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)があり、南隣りには応神天皇を八幡神として祀った最古の八幡宮『誉田八幡宮』がある。

※ただし、誉田八幡宮創建以前に宇佐神宮が存在しているわけで、新旧の八幡信仰が擦り得られているのは明らかである。

 

◯応神天皇陵古墳『誉田山古墳』(大阪府羽曳野市誉田

 

◯誉田八幡宮

〜主祭神〜

  • 応神天皇
  • 神功皇后
  • 仲哀天皇

※社伝によると559年(欽明天皇20年)に、任那再興を目指した欽明天皇により創建。もともと応神天皇が幼少の頃に住居で、皇后仲津姫の父方・誉田真若王の領地でもあった。




この29代欽明天皇が、応神天皇信仰の大きな鍵となる。彼は応神天皇6世孫で、応神天皇傍系の出自26代継体天皇の御子にあたる。前述したように先帝26代継体天皇が『磐井の乱』によってアズミ族を追放した為に、安曇族亡きあとのポスト八幡神の処遇について議論が続いていたと思われる。そのうえで天災が起こり、朝廷は窮地に立たされていた。

 

簡単に背景を説明すると…。

552年(欽明13年)に百済から仏像と経文が伝来、これが日本への本格的な仏教伝来『仏教公伝』とされる。

このとき29代欽明天皇は、仏教の可否について群臣に意見を求めた。物部尾輿と中臣鎌子らは従来からの神道派で、蘇我稲目が仏教派であった。これにより稲目は天皇から仏像と経文を授かり、私邸を寺として仏道帰依に励んだ。しかし疫病が大流行し周囲からの反発を集め、物部尾輿ら神道派は国津神の祟りの原因とし、寺を焼き払い、仏像を難波堀江に捨ててしまった。

 

宮下文書における10代崇神天皇ケースと酷似しているが、天皇家は大天災ゆえに御祖霊信仰に回帰するパターンがあるらしい(苦笑)。ともすれば、その理由の一つとして、安曇族亡きあと八幡信仰祭祀を疎かにしたせいではないのか?との嫌なウワサもあっただろう。当時はそれほどまでに八幡信仰は大きな存在であった。

このように、仏教伝来前から、海外遠征や疫病などで宗教改革の機運が確かにあった。ただし基本的には、富士朝撹乱政策の延長線でなくてはならないわけで、富士朝神道が破壊されてゆく経緯には違いない。




550年(欽明11年)仏教公伝の2年前となる。

安曇族祖の宇都志日金命の聖地熱海日金山。伊豆国伊豆山神社に伝わる『走湯山縁起』によると、天下大疫のための臨時祭祀が伊豆山神社にて挙行され、金銅鏡・権現御体が奉納された。すなわち、朝廷は安曇族亡きあとの疫病祈願にイワナガヒメを頼っていた。しかし疫病が全く終息しないために、仏教に縋ってゆく経緯が浮き彫りとなる。

568年(欽明29年)勅命にて、大和国大神神社社家の大神比義命が宇佐に派遣される。宇佐神宮にて、3年間五穀を絶ち、籠居精進して御幣を捧げた。

571年(欽明32年)、宇佐神宮に初めて応神天皇八幡神が顕現したという。大神比義命曰く、八幡大神が応神天皇を称する三歳の童子が、菱形池の畔の笹の上に現れたという。

※因みに、武蔵国久伊豆神社などの伝承によると、武蔵国に出雲族土師氏が進出したのもこの時代といわれている。出雲族親神を語り、三輪氏族祖神代の大已貴命を祭り始めたとされる。





苦悩の末に、29代欽明天皇が祭り始めたのは、富士朝2代目大宮司タマノオヤではなく、直接的な天皇家祖先15代応神天皇であった。

故に、15代応神と26代継体子孫の29代欽明天皇が、秦氏の遺伝子をもつ応神天皇に本格的に置き換えたのではないのか?と…。タマノオヤとイワナガヒメを貶めたというよりは、大山守皇子子孫・宮下氏族をはじめ誰もが納得できる上で、朝廷の嘘を貫き通すための苦肉の策であった。

(´(ェ)`)

 

 

 

 

静岡県伊東市八幡野『八幡宮来宮神社』。

タマノオヤ・ウサミの本拠地伊豆国。

 

このレイラインが、まさか熊オッサンに馴染み深い伊東市八幡野『八幡宮来宮神社』を通るとは思わなかった。苔とシダに覆われた神秘的な神社、どこか苔牟須売神(コケムスメ=イワナガヒメ)を思い出した。

(´(ェ)`)

◯『八幡宮来宮神社』(静岡県伊東市八幡野)

〜主祭神〜

  • 誉田別命           (八幡神)
  • 伊波久良和気命(来宮神?で地主神)

 

タマノオヤ御子ウサミの本拠地・伊東にある稲取村以北九ヶ村の総鎮守。大昔に、来宮の神が瓶にのって半島東岸の金剛津根に漂着したと言われる。この神を海岸近くの洞窟にお祀りしていた。来宮神は無類の酒好きで、西岸を航行する船を止めては、お酒を強請り奉納させていた。住人たちは困り果て、船の見えない丘陵地帯へと遷座させられた。

769年(神護景雲3年)一国一社『正八幡宮』として勧請され、その際『来宮神社』は別社であった。富士山噴火の延暦年間に再建された折、社殿を一殿両扉の形にて2社が合祀された。

 

ここで注目したいのが、そもそも漂流してきた来宮神が、なんで伊豆の地主神として祀られていたのだろうか?。言い換えると、なんで他所から漂着してきたのに地主様なのだろうか?。

来宮信仰とは、伊豆東海岸に点在する五十猛命を祀る神社群。五十猛は紀伊一宮『伊太祁曽神社』の御祭神であり、ワダツミ族やアズミ族海人らが吉野造船のために『木』の国の神として信仰していた節がある。かつて紀の国『紀伊国』は木の産地であり、木の国『木日国』と呼ばれた。これは宮下文書における五十猛命は、壱岐島・対馬・佐渡ヶ島・伊豆諸島などの離島を統治していた神であり、海人らに信仰された経緯ある。ただし、イワナガヒメの聖地熱海日金山ちかくの『来宮神社』には、もともとは伊豆山神社の地主神であったという伝承もある。

 

同じ紀伊一宮は『日前神宮・國懸神宮』はタマノオヤ御子ウサミと孫クマノクスヒコが、タマノオヤを祀る神社であった。すなわち伊豆国来宮信仰というのは、紀伊国から伊豆への伊豆神の凱旋帰国的な要素がありそうだ。また伊豆半島には熊野神社が多いところにも、ウサミやクマノクスヒコの痕跡が残されているのがわかる。

御祭神の伊波久良和気命という御神霊は、イワナガヒメの家族神であり、伊豆の地主神であり、尚且つ紀伊信仰にも所縁が深い…。タマノオヤまたはウサミ、またはクマノクスヒコではないだろうか?とみている。






次回は、レイライン上の房総半島の最果ての地『安房神社』のフトダマとタマノオヤの関係に迫る。與止日女神社のトヨヒメや(ヨドヒメ)に影響しているかもしれない…。

②に続く(´(ェ)`)

 

 

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