セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

鎌倉氏族と大庭御厨めぐる騒乱、源義朝は富士朝氏族解放のヒーローだった?

三浦氏拠点近く『衣笠神社』(横須賀市小矢部)、三浦義明も合祀されている可能性あり。
ここで突然、パラパラ降ってきた。

2022,5,29

前記事『鎌倉氏族と古屋氏』のお話まだまだ続く。

(´(ェ)`)

1144年『大庭御厨濫行事件』の歴史的意義を考察してみたい。結論から言うと、頼朝の父・義朝は富士朝氏族の英雄だった可能性あり。説明上、前記事と重複しがちになります、前半はほぼまとめ記事なのでご了承ください。

m(_ _)m

~目次~

 

鎌倉発祥の鎌倉氏族の由来

 

事の発端は、鎌倉発祥の鎌倉氏だった。

通説では、もともと鎌倉は平国香流・平直方の所領であったが、平直方は実質平安京を本拠としていたはずなので、何かの事情で鎌倉を所領していたという…。平直方の娘は源頼義と結婚し、これが八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光の三兄弟母にあたる。平直方曾孫が北条時政となる。

平国香の弟・良文子孫である平景成は、鎌倉の大倉ヶ谷に館をかまえ、鎌倉姓を称していた。1083年『後三年の役』後、鎌倉景成と景政の親子が、八幡太郎義家に大倉ヶ谷の土地を寄進した。彼らは由比ヶ浜甘縄に退いて、後世この館跡に創建されたのが『坂ノ下御霊神社』(神奈川県鎌倉市坂ノ下)と言われる。

また、大倉地区は後世の鎌倉幕府中枢となり、桓武平氏から清和源氏の土地へと変遷していった。

 

一方の宮下文書では…。1051年『前九年の役』前頃、39代宮下源太夫政明の子、大森頼親は鎌倉権正景任?なる人物の娘・鶴司を娶っている。その子・大森頼高は三浦平太夫為道の次女を娶り、以降の大森氏族は義家〜為義〜義朝と一貫して清和源氏に従い続けた。1160年『平治の乱』では大森頼茂が義朝側にて参戦、義朝は尾張国にて殺害され富士谷まで敗走、そこで賀茂次郎義綱孫・三浦義顕と合流して潜んでいた。

となると…清和源氏は平穏であり、富士朝の関係は良好であったとみるべきで、一般的にいわれている義家・義綱の不仲説とか、1156年『保元の乱』における為義・義朝の親子対立があるとは考えにくいのだ。

 

 

※因みに宮下文書では、1108年以降この賀茂次郎義綱の子・源義明が相模国に下向、三浦半島の豪族三浦氏に婿入り、三浦平太夫為道の娘『浦浪姫』を娶る。これが三浦義明の正体である。因みに、通説での妻は秩父重綱の娘とされている。

彼の実孫・源甚吾重成が大宮司宮下家に婿入り、49代宮下源太夫義仁となる(源重成は同姓同名がいるので注意)。

 

 

鎌倉氏成立と、三浦氏との対比関係?、大庭御厨の誕生。

通説では、鎌倉氏族と三浦氏族は平姓同祖ありながら、八幡太郎義家らに従軍していた。

1083年(永保3年)『後三年の役』で、1087年鎌倉権五郎景正は初陣にして、敵に右目を射抜かれてしまう。従兄弟にあたる三浦平太郎為次がこれを救出、顔に足をかけ右目の矢を引き抜こうとした。すると景正は『武士の顔に足をかけるとは無礼な!』と、為次に刃を向けて叱ったという。為次(為継)はすぐに謝ったので事なきを得たのだが…。ただ裏を返せば、このエピソードは平安武者たちによる忠義心の確立と、鎌倉氏族と富士朝三浦氏の親しい間柄を現しているのだと思われる。

さらに宮下文書では、800年延暦噴火以降の富士朝阿祖山太神宮は2つの宮家を中心に祭祀され、二所明神時代とも呼ばれていた。その一角が、山宮宮司福地家の家系・古屋氏の屋敷『古原長江屋敷』と称しており、鎌倉氏と三浦氏の両氏族が対極的な分類をされている点も気になる。通説と比較すると、古屋氏も長江氏も鎌倉氏族に仮冒していることになり、一般的に平姓と言われている三浦氏族・鎌倉氏族に、富士朝氏族が多数混在しているのが浮き彫りとなる。

 

〜二所明神~

▲大宮司家大多和館…三浦氏族・大多和氏と関係あり?

▲副司古原長江館…鎌倉氏族・長江氏と関係あり?

 

 

1104〜1106年、鎌倉権五郎景政が、相模国高座郡(現在の高座郡〜藤沢市周辺)を開拓し、1116年前後これを伊勢神宮に寄進して、大庭御厨が誕生する。

領家は伊勢神宮に移り、1134年(長承4年)に鎌倉景継が大庭御厨の下司として記録されている。鎌倉氏族には養子が多かったとみられ、系図も複数存在しているので注意。鎌倉幕府成立後は、権五郎景政の子孫・長江太郎義景が伊勢大廟神宝奉行となり、頼朝からも信任されていた。義景は、妻に三浦義明の娘を娶っており、祖父である鎌倉権五郎影政を祀る『御霊神社』を葉山に創建したと伝えられる。創建は三浦為通という説もあり。

この頃から自称坂東平氏の三浦氏族・和田氏族・鎌倉氏族は、なぜか…桓武平氏同士で対立を繰り返すようになり、打倒平家を掲げる清和源氏との関係を密にしてゆく。

 

 

大庭神社旧跡説がある『熊野神社』(神奈川県藤沢市大庭)

 

大庭御厨濫行事件

『天養記』によると、1144年(天養元年)9月、高座郡内鵠沼郷にて大庭御厨をめぐる騒動が起こる。清和源氏嫡流・源義朝が、清原安行と国衙の役人らを鵠沼郷伊介神社(現在の鵠沼皇大神宮)に差し向け、神官らに危害を及ぼした。また神饌となるはずであった魚・大豆・小豆なども強奪、さらに1000騎ほどで大庭御厨に侵攻、当時の御厨下司であった大庭景宗の屋敷を荒らして、一方的に御厨の廃止を宣言し終焉させた。

これに対して領家の伊勢神宮は、相模国司に義朝の処罰を要求するが、我関せずの対応を終始され、全く取り合ってもらえなかったという。これだけを見ると、源義朝がとんでもない邪悪な略奪者にみえるのだが(苦笑)。ただ気になるのは…、三浦義明も騒動に参加しているのだ。



〜義朝側メンバー~

  • 上総曹司源義朝名代清大夫安行(清原安行)
  • 源朝臣頼清
  • 中村庄司同宗平
  • 三浦庄司平吉次(義継)と吉明(義明)
  • 和田太郎助弘?

 

勿論、この件で一番の被害者は伊勢神宮だろうが…、富士朝氏族は伊勢神宮の存在自体を面白く思っていないことは前記事のとおり。加えて大庭御厨は、神奈川県央地域の平野中心部であったのに対して、三浦氏や中村氏は丘陵部の水田を押し付けられていた。つまり富士朝氏族たちにとっては、美味しいところはみ〜んな伊勢神宮に取られてしまっていたのだ。

◯源頼清と中村宗平とは?。

通説の源頼清とは山県頼清のこと、山県氏の祖とされている。このブログでは何度も紹介したが、大山守皇子第八王子・香古坂海井彦(海伊国造)の子孫で、宮下氏族にあたる。ただ、山県氏族にも多系統あるので、不明な点も多い。

『桓武平氏諸流系図』によると、義朝に従っていた中村宗平の祖先は、笠間押領使の平常宗で、鎌倉景政に討たれたとのこと。これが大庭御厨運営サイドに怨恨を残した可能性あり。ただ鎌倉氏族も中村氏族も、富士朝と婚姻関係あり、中村宗平の娘(土肥実平の姉)は、宮下氏族45代宮下源太夫明富の子・深巣二郎清国の嫁となっているハズだ。

この宮下氏族深巣清国が、三宅島配流にされた清和源氏鎮西八郎為朝に律儀にも付き従っている面からも、義朝と為朝が1156年『保元の乱』で兄弟対立していたと思えないのだが...。

 

◯和田氏はどうか?。

和田義盛の母親が大庭景継の娘であり、大庭氏と和田氏は縁者になっていた。またこの騒動以降、伊勢神宮との関係を深めたのか?、豊受大神宮の禰宜(伊勢神宮・大物忌)の度会康高の娘を娶っている。1213年和田合戦以降の大庭御厨は没収され、豊受大神宮に返還されたとのこと。

ここでは義朝側メンバーが、三浦氏といい、和田氏といい、富士朝傾向が強いことに注目していただきたい。







大庭御厨に『富士朝神官ら300余人』の気配。

 

大庭御厨を探る鍵となるのが、宮下文書における『富士朝神官ら300余人』の避難リストではないかと見ている。彼らの大半の居住地は高座郡周辺と見られ、大庭御厨成立にも大いに影響があったのではないか?と。宮下文書には、彼らは基本的には高座郡(早乙女郡)岡田原を起点として周辺に居住したと記されており、一部帰農した可能性もありそうだ。『大住郡(現在の伊勢原市付近)』『生沢』『小菅』のように、人名が現在も相模国広範囲に地名として残っているパターンもあると想像する。神奈川県内の土地勘がある方々なら、もっと解析が進むのかもしれないが…。

800年延暦噴火避難民の富士朝神官ら300余人の正体と、阿祖山太神宮の三分社化。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

『富士朝神官ら300余人』リストのうち、比較的明確な家系が金子氏で、副司金子国太夫政明一族郎党二十四人(大山守皇子の第二王子田宿伯より二十六代孫)。これは後世の寒川神社副宮司・金子国太夫政家の親族ではないかと思われる(系図は不明)。政家三男の義隆は源頼朝に従い愛甲郡を賜り、愛甲三郎秀隆と称した。これは通説の愛甲季隆のことではないかとおもわれ、武蔵国多摩郡横山荘の小野氏族横山氏派生と仮冒されているので注意。弓の名手で、1205年二俣川の戦いにて畠山重忠を射殺した張本人。

 

このように、彼らが相模国に住み着いていたのはもう明確なのだが、問題はどれだけの相模平氏に、富士朝氏族が混入してしまっているか?...だ。

 

◯一般的な相模国平氏

〜三浦党〜

  • 三浦氏(清和源氏・宮下氏族と婚姻を重ねる)
  • 安西氏
  • 宮沢氏
  • 平子氏
  • 津久井氏
  • 矢部氏
  • 平塚氏
  • 相模蘆名氏
  • 会津蘆名氏
  • 石田氏
  • 岡崎氏
  • 佐奈田氏
  • 杉本氏
  • 和田氏(宮下氏族吉田家)
  • 杉浦氏
  • 大多和氏(二所明神から由来?三浦義顕の変名由来)
  • 多々良氏
  • 佐久間氏
  • 長井氏
  • 杜氏
  • 佐原氏
  • 高井氏(宮下氏族吉田家)

ほか

 

〜鎌倉党~

  • 村岡氏(忠通は、頼光四天王説あり)
  • 鎌倉氏(宮下氏族と婚姻関係あり)
  • 板倉氏(下野国板倉・雷電総本宮ちかく)
  • 安積氏
  • 只野氏
  • 香川氏
  • 古屋氏(福地氏族または、アメノコヤネ子孫どちらか?)
  • 梶原氏
  • 酒匂氏
  • 大庭氏
  • 俣野氏
  • 豊田氏
  • 長尾氏(上杉謙信の出自)
  • 長江氏(二所明神から由来?鎌倉氏族嫡流)

ほか

 

〜中村党~

  • 中村氏(出自不明ながら富士朝と縁が深い)
  • 土肥氏(宮下氏族と婚姻関係あり)
  • 土屋氏
  • 二宮氏
  • 堺氏

ほか

 

※赤は富士朝氏族の可能性大。

※青は疑いあり。

 

 

 

大庭御厨の伊勢鎮守『鵠沼皇大神宮』、
もともとは803年(大同3年)創建の延喜式内社・石楯尾神社の比定地。

 

もしかして、源義朝はヒーローなのか?。

個人的に、この大庭御厨の利害関係がうまく理解できなかった。一般的に言われているのが、源義朝が平姓鎌倉氏族の御厨を略奪して服従させ、打倒平家を呼びかける頼朝に協力して、鎌倉幕府が誕生した…???。武士の誉・八幡太郎義家さまを慕って従軍してきた彼らが、いくら何でも無秩序すぎないだろうか?と(苦笑)。

 

〜相模平氏の矛盾点〜

①なぜこの地域の平氏たちは、略奪者義朝の息子、源頼朝に属したのか?。

②なぜ略奪者の源義朝を、『サバ神社』として、この地域に祀っているのか?。

③なぜ源頼朝は打倒平氏を目指して、相模平氏だらけの鎌倉をめざしたのか?。

④結局、富士朝300余人は何処に消えたのか?。



最大のヒントは、貞観噴火における56代清和天皇の素早い富士朝復興策と、清和源氏と富士朝氏族との良好関係にありそうだ。宮下文書には、源頼信・頼義・義家・義親・為義・朝義・頼朝に、富士朝氏族が従ってきた経緯があり。

むしろ、このような絆があったからこそ、48代宮下記太夫政仁は清和源氏の賀茂次郎義綱孫・義顕親子に一貫した『義を感じ』、大宮司家に婿入りさせることができたのだろう。略奪と骨肉の争いを繰り返す俗物氏族に、富士朝大宮司家を任せられるかは疑問…。

さらにこの地域の大庭御厨と、周辺に点在する『御霊神社』系統と『サバ神社』系統の信仰にも注目したい。諸説あるものの、この土地に何故、鎌倉権五郎景政と源義朝を祀るか?明確な答えがないのである。景政は開拓者としても認識されるであろうが、何故平氏の土地で略奪行為を繰り返した義朝を祀り、現在まで信仰する必要が何処にあるのか?。

 

総合して考え直してみると。

源義朝は略奪者などではなく、ヒーローだったのではないだろうか?。実は、伊勢神宮に奪われた大庭御厨を、富士朝氏族に奪還させようと介入したのではないだろうか?。

 

世の権力者たちの傾向として、敵対組織への分断工作がある。朝廷は相模武者の御厨を接収する代わりに、一部の者だけに富や権利を与え、持つ者と持たざる者たちに分離・混乱させる心理戦を仕向けたのだろう。しかしこの事件は、朝廷の思惑とは裏腹に、むしろ富士朝氏族と清和源氏の団結を強くしてしまったケースのようだ。さらに彼らは、清和源氏嫡流に対して絶対の信頼感をもち、次の世継ぎに期待をかけた。鎌倉時代のうねりは、もう既に、この時点で始まっていたのである。

少なくとも平安末期の中村氏・土肥氏・三浦氏・和田氏は、かつての義朝と頼朝の『義』に応えていたと見て良いだろう。こういう相模国武者がいたからこそ、清和源氏従軍と平家打倒の利害関係が一致し、新たな時代の求心力になったと推測する。

 

その中でも、和田義盛はその『義』を最後まで貫こうとした人物のようだ。

1213年『和田合戦』にて、和田氏族が北条氏に反抗、義盛の子・和田常盛が富士谷に逃げ延び山中に隠れていた。1228年富士朝入りした宮下文書版親鸞上人によると、常盛は単に『将軍家(清和源氏)の子孫に長く天下を治めさせるため…』と述べていたという。ただもし仮に、彼らが平氏なのであれば、この異常なまでの清和源氏への執着ぶりは何であろう?。

和田合戦の通説では、三浦義村の裏切りがあったようで、和田氏や横山氏(小野氏族)らは大敗北を喫した。これに千葉胤綱が『三浦の犬は友を食らう』と捨てゼリフを吐いている。鎌倉時代中盤にはもう、政権内部に複雑な利権が生じており、三浦氏と和田氏の団結力は失われ始めていたのだろう。

 

 

 

現在の『大庭神社』(神奈川県藤沢市稲荷)。


紛らわしい…『平宮守家』?

では、いつから?、何故?、彼らは平姓を名乗っているのか。

例えば1194年、宮下文書『富士山阿祖谷免定事』なる富士朝神領十二郷を定めた書状上の署名には、和田義盛と梶原景時は『平朝臣』を称しているのだが。これを安易に信じて良いかは疑問で、彼らにも本音と建て前があったのではないかと...。

  • 侍所別当・左衛門少尉平朝臣 義盛
  • 所司・梶原平三朝臣  平景時

※宮下文書には、和田氏族=2代宮下源太夫明政の第5王子吉田五男摩古彦(不佐国県主)子孫と明記されている。果たして、どちらの記述を信じるべきなのか?。

 

 

800年延暦噴火以降、富士朝氏族たちは東国各地へ拡散避難していった。939年前後の平将門の乱以降、西国天皇勢力は、この富士朝氏族の動向に神経を尖らせていた。一度彼らが反乱の動きを見せれば、 一気に東国広域に波及するという地政学リスクをもっていたのだろう。中でも、特に影響力を持っていたのが御神託を授かる『巫女』で、平将門も八幡大菩薩の天啓により『新皇』を称したのは有名な話である。

前述のように朝廷は、富士朝影響力の高い土地を重点的に抑えた。その代わりに『平朝臣』姓や特権を与え、富士朝氏族を口止めしたのではないか?と。つまり、結論をいえば…このエリアに住んでいた富士朝氏族300余人平宮守家たちは、大規模に『相模平氏』にすり替えられていないだろうか???。さながら第二の富士朝『伴氏』のように…。

 

とくに、三十六神戸を母体とした富士朝300余人の正体は、『平宮守家』と呼ばれていた神職、影響力が極めて高い危険人物であったわけだ。彼らは平宮守護神の末裔で、ヒコホホデミの御子ウガヤフキアエズの御代から、太神宮の守護、神職の継承を命じられた富士先住民系阿族の末裔であった。

※三十六神戸前身は、既にウガヤフキアエズ時代からあったので注意。

 

『平宮守家』≒平さん…?(´(ェ)`)

 

 

中には、本当の平氏もいたのかもしれない。大庭御厨も領家が伊勢神宮ということで、西国で力をつけた伊勢平氏(後の平家)なども監視役として赴任され、大庭御厨に紛れ込んでいたのかもしれない。

清和源氏が東国で人気急上昇すれば…、当然、慢性的に東国を恐れている西国天皇勢力は、伊勢平氏に肩入れしてゆく傾向となる。奇しくも西国では、河内の清和源氏はこの時期に凋落し、平家が台頭してきた時期と重なる。

ただ残念ながら、これを見破る術は今の熊オッサンにはない(´(ェ)`)。

 

 




 

頼朝挙兵と、波多野氏の存在。

最後に、波多野氏の影響力も付け加えたい。

1156年平安京『保元の乱』にて源義朝が参加し、これに大庭景親大庭景義の兄弟、山内首藤俊通、海老名季貞、波多野義通らが従軍している。このときの大庭氏族はそろって義朝に従軍しており、皆が協力し合い、大庭氏と三浦氏族・和田氏族にも婚姻関係をもたらしたようだ。

1160年、大庭景親は平清盛に与し、これに波多野氏が従った。兄の大庭景義は義朝につづき頼朝の伊豆国挙兵に参戦した。残念ながらここでまたもや、周辺勢力の分断が発生してしまったわけだ。これは大庭御厨内部に、伊勢平氏や伊勢神宮の影響力が復活したとも取れるが…、鎌倉氏族大庭氏の内部分裂の感は否めない。

 

ここで着目すべきは、この波多野氏の婚姻関係だ。

相模国波多野氏は、宮下氏族における宮下氏族で、4世紀台頭の宮下家祖・初代大山守皇子の第七王子幣岐佐加陸彦(佐賀陸国国造)、現在の神奈川県秦野市〜伊勢原市大山ちかくを拠点としていた由緒ある応神天皇子孫家系であった。

この波多野義通は、源義朝に側室を出していたほどの良縁であったが、義朝正室嫡流の子『頼朝』をめぐり、正室と側室の対立が勃発したようだ。故に嫡流頼朝が、いつの間にか娘の敵に変わってしまった。

 

〜源義朝の子~

▲正室:藤原季範娘・由良御前の子=源頼朝

▲側室:波多野義通の娘=源朝長



これ…、もしかして宮下氏族を本妻とする計画があったのだろうか。だとしたら清和源氏と富士朝の結びつきとして、東国氏族にとってもこれほど意義深いものはない。しかし逆に、裏切りによって不和が生まれたとしたら…、頼朝の伊豆国挙兵を、快く思わなかった富士朝氏族がいたことも頷ける。

例えば、武蔵国秩父吉田郷出自の畠山重忠も、宮下氏族吉田家の疑いもあるのだが…。当初は大庭景親の要請を受けて、1180年9月頼朝最大の支援者・三浦義明を死に追い詰めた張本人であった。しかしその僅か一か月後、義を重んじることで有名な重忠が、その後何事もなかったかのように頼朝・三浦氏側に帰伏しているのだ...。つまり大義である『富士朝再興』の目的は皆同じ、頼朝となら東国武士の夢を共有できると即断、納得出来たのではないか?と。

また、当初は大庭景親に従っていたといわれる梶原景時だが…。梶原景時wikipediaによると、中世研究で信頼されている歴史書『愚管抄』では、梶原景時が伊豆挙兵当初から頼朝に従っていたという記述もある。前記事のように、富士吉田付近を所領していたとされる加藤景廉の祖も、梶原氏と同祖・鎌倉景通であるという安田元久説もあり。

 

大庭氏の行動に注目するあまり、真相が誤魔化されている面もありそうだ。

 

最近知ったこと…。

私の父方祖母は佐賀県出身、石田姓だったのだが…。

佐賀県内の壱岐から流れた石田姓は、この三浦氏族蘆名氏系統の石田氏の可能性が高いらしい(確証なし)。…だとするとこの相模国大住郡、現在の小田急線『愛甲石田』駅付近、現在の厚木市『小野神社』の南側の出自である可能性がある。太田道願の首塚にも近い。

 

前記事でもちょっと書いたが…。私の祖父は宮大工見習いでイジメをうけていて、基本的に仏教徒だったらしい。戦後九州から上京して以来、なぜか武蔵野から神奈川県寒川神社まで、わざわざ参拝にでかけていたというユニークな経歴をもつ。

テキトーな人だったのかな…と思いつつ、宮下文書で調べてみると辻褄が合うのである。出自の氏神三嶋神とピッタリ合っている。なにか…本能的に呼び寄せられるものがあったのだろうか?。

私が宮下文書を信じる理由の一つでもある(´(ェ)`)。

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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