2022,6,5
前記事では、源義朝と富士朝氏族の関係の深さを紹介した。富士朝氏族という大きなバックグラウンドを洗い出すことで、源義朝の新たな英雄像が浮き彫りとなってきた。西国天皇勢力に臆することもなく、富士朝氏族を守ろうとした義朝の勇敢さは、もっと日本人に評価されるべきだと思う…。
鎌倉氏族と大庭御厨めぐる騒乱、源義朝は富士朝氏族解放のヒーローだった? - セキホツ熊の謎を追え!
そして義朝には子が多数おり、今回は義朝の尾張国逃走劇を振り返りつつ、三浦義明を外祖父にもつ義平という人物にクローズアップしてみよう。
(´(ェ)`)
~目次~
三浦義明の孫・源義平とは?
源義平、別名を鎌倉悪源太という。宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』には、一切登場しないので注意。
1155年(久寿2年)、秩父平氏一族の家督争いがきっかけとなり、源義朝とその異母弟・源義賢(木曾義仲の父)の清和源氏同士の代理戦争に発展する。秩父重隆は源義賢を娘婿とし、武蔵国比企郡の大蔵館を拠点とする。対して、清和源氏新田氏と秩父平氏畠山氏は、源義朝と同盟を結んだ。そんな中で義朝長男・義平は、若干15歳ながら敵将の義賢と重隆を急襲して討ち取り、周囲を驚愕させた。ついた異名の鎌倉悪源太、『悪』とはツワモノという意味。
〜義朝の子供たち~
- 義平(三浦義明の娘、または橋本の遊女)
- 朝長(宮下氏族波多野義通の娘)
- 頼朝(由良御前)
- 義門(由良御前)
- 希義(由良御前)
- 坊門姫(由良御前)
- 範頼(側室、または池田宿の遊女)
- 阿野全成(常磐御前)
- 義円(常磐御前)
- 義経(常磐御前)
※()はその母親。
※注、宮下文書における三浦義明は、賀茂次郎義綱の息子・源義明のこと。
ただ義平は、他の弟たちに比べても、とくに官位を賜ることはなかった。当時の朝廷は、清和源氏と東国氏族の連携を忌み嫌っており、宮下文書版三浦大佐・三浦義明はその中核的な活躍を見せていた。つまり宮下文書的な解釈をすると、義平には清和源氏男系・三浦氏族の血が母方に入っていたわけだ。高貴な血統で、さらに武人としても有能な義平も、長男相応の官位を得ることは難しかったのではないだろうか?。
また前記事の通り、関連した畠山氏も三浦氏も、一般的には坂東平氏とされているが、富士朝氏族との縁が深い氏族。この戦いにも富士朝氏族同士の対立が、根底にはあったのかもしれない…(妄想)。
※前記事では、三浦平太夫為道が三浦大佐に任じられたと書いた可能性あり…、三浦大佐=三浦義明(為道の婿養子)のこと。謝罪と訂正します。
ゴメンナサイm(_ _)m。
平治の乱にて奮戦
それから4〜5年後、義平は『平治の乱』に参戦した。
1159〜1160年『平治の乱』、前記事のとおり、義朝は東国氏族に支持基盤を持っており、東国にいる義平と三浦氏族など、私的に親しい友軍を集めて、内裏に立て籠もる。しかし義朝軍の首謀者であった藤原信頼の対応の遅さもあり、平清盛方に形勢逆転されてしまう。個人的にはこの事件も、義朝の左馬頭の地位、東国氏族や富士朝の待遇改善を求める争いであった可能性もあるな…と思っている。
78代二条天皇は信頼・義朝追討の宣旨を下す。これで平清盛が官軍になり、藤原信頼・源義朝は朝敵として京都を追われる立場となってしまう。
翌朝、平重盛軍500騎により、内裏東面の待賢門が封鎖される。これを義朝の長男源義平は、東国の精鋭17騎で内部から突っ込み撃破した。彼らはそのまま勢いにのって奮戦するものの、平家方の陽動作戦にかかって内裏へ戻ることが不可能になり、再起を図るべく、そのまま東国へ逃走を図ることになる。
〜源義平17騎~
- 鎌田政清(義朝とともに殺害される)
- 三浦義澄(三浦義明の子)
- 佐々木秀義(佐々木源氏)
- 首藤俊通(山内首藤氏)
- 後藤実基(藤原秀郷流?)
- 斎藤実盛(藤原利仁流?・加藤氏と同族?)
- 足立遠元(安達盛長の甥)
- 上総広常( 房総平氏惣領家頭首)
- 片切景重(源為行の子)
- 猪俣範綱(小野氏族横山党?一ノ谷で活躍)
- 岡部忠澄(猪股氏同族・一ノ谷で活躍)
- 熊谷直実(平直方流・一ノ谷で活躍)
- 平山季重(日奉氏・一ノ谷で活躍)
- 波多野延景(宮下氏族、義通の親族?)
- 金子家忠(宮下氏族)
- 関時員(藤原氏か清和源氏?)
※波多野氏は、義朝の正室と側室の対立により不和となり。そのまま相模国へ帰還。
※平山氏日奉氏は別記事あり。
この東国への逃避行こそが、地獄の生き残りレースであった。東海道~坂東へと、いかにたどり着けるか…、彼らを待ち受けていたのは近江や美濃の落人狩りで、源義隆が命を落とし、源朝長も重傷を負う。
源義朝は、集団行動ではむしろ敵を引き寄せてしまい、このままでは誰も逃げられまいと判断、各々が東国を目指すようにと散会した。また義朝は、義平・朝長・頼朝・源重成・源(平賀)義信・鎌田政清・渋谷金王丸らを引き連れ美濃国青墓(岐阜県大垣市)を目指した。しかし幼い頼朝は雪中、父兄らを見失い、近江国で捕縛されている。
話の途中だが、ここで源義朝メンバーについて説明。
◯宮下文書でも、青墓駅にて似たような描写あり。頼義の曾孫にあたる三浦義顕も、保元〜平治の乱で義朝に従軍していた。しかし、討死した義隆と家将の家族、さらには自身も家族連れだったために、美濃国青墓駅から別行動を取らざる得なかったようだ。この義顕こそが、源甚吾重成(49代宮下源太夫義仁)の父親である。
Wikipediaによると、源重成の死に様は、通説の1247年『宝治合戦』の三浦光村そっくりに語られており、自ら顔をメチャクチャに切り裂いて、誰だかわからない容貌で自決している。因みに宮下文書版三浦氏族は、宮下家と婚姻関係を重ねており、光村も逃れて富士朝大多和館で隠棲している。どちらも、通説とはかけ離れているので注意。
◯金王丸の正体は、賀茂次郎家将であり加茂明神(山城国・賀茂別雷神社)宮司であった紀長貫(紀貫之の曽孫)の子孫にあたる。そのまま賀茂次郎孫の三浦義顕に、紀長貫の嫡男・長定が家将となる。保元の乱の後から、近江の佐々木秀義館に潜んでおり、その紀長定の長男が金王丸。もしかしたら、秩父平氏渋谷氏にも、武内宿彌子孫・紀氏遺伝子の影響があるのかもしれない...。通説とは全く違うので注意。
JR渋谷駅近くに『金王八幡宮』(東京都渋谷区渋谷)があり、また頼朝の命により渋谷重国が東京都港区麻布『桜田神社』を創建し、これを室町時代に太田道願が再興している。そういえば、明治期の神社明細帳には加茂大神相殿が確認できる…!。前記事のとおり熊オッサンのオカンの産土神である。
以東の逃走劇、鎌田氏と長田氏の冤罪。
青墓にたどり着いた義朝は、義平を東山道へ、義朝を甲斐信濃へ向かうよう指示し、現地で兵をかき集めて、清和源氏の再挙の時を待つように命じる。しかし、負傷を追っていた朝長(波多野氏の孫)は身動きがとれず、この地にて自害を望んでいた。父は悲嘆に暮れながら我が子を刺殺した…。
その後、東海道を南下した源義朝・鎌田政清は、本妻由良御前の実家・熱田大宮司・藤原季範の支援を求めて熱田を目指したのではないかと思われる。ただ由良御前は平治の乱の少し前に死去しており、その子・頼朝は既に京へ連行されていた訳だ。通説では、尾張国野間の政清の舅・長田忠致に騙し討をされて殺害されたことになっている。
源頼朝父『義朝湯殿襲撃事件』、長田忠致は冤罪?。子孫は富士朝太神宮の宮伴だった。 - セキホツ熊の謎を追え!
前記事のように長田氏族は、『義朝殺し』の冤罪をかけられているとみられる。長田資家は、三島付近にて伊豆国へ配流された幼い頼朝を外護をしていた。おそらくは、源義朝か鎌田政清の遺言を忠実に守り抜いていた…。
頼朝伊豆国挙兵の後、たまたま49代宮下源太夫義仁と三島明神でめぐり逢い、そのまま太神宮宮伴に取り立てられ、息子・長田源二郎忠利が引き継いでいる。通説の長田忠致の兄・親致の子孫『永井氏』が、家康により変名を命じられたのは、彼らが富士朝氏族であることを隠す目的もあったのではないかと…。
『宮下文書』では死因不明、ただやはり尾張国逃走のタイミングで共通している。『愚管抄』では、義朝は敵の罠を察して、政清に自らの殺害を命じたとされている。
個人的には、平清盛が頼朝の命との交換条件をだし、熱田宮司関係者が父義朝を殺害した可能性もあったのかなと。。。(妄想)。
※前記事にて『沼の内』の長田庄と書いてしまいましたが、これは『沼の内海』の間違いでした。後世の知多半島『野間内海』のこと。謝罪と訂正いたします。
ゴメンナサイm(_ _)m。
義平が死んで『雷』となる?
義平の話に戻ると...。
義平は飛騨国まで逃れて、父らの訃報を聞いた。しかし、若気の至りなのか…単身リベンジを決意する。そのままとんぼ返りで京へ戻って、平家暗殺の機会を伺っていた。
しかし、彼の気品とオーラが目立っていたらしく、潜んでいるところを平家方の難波経房の郎党に捕縛され、そのまま六波羅の平清盛に突き出された。
義平は『何するかわかんねーぞ、早く殺せ!』と罵っていた。
その後、六条河原にて難波経房の手により処刑されるも、『おれは死んで雷になる、そしてお前を蹴り殺してやる。さあ斬れ!』と直前まで挑発していたという。
結局、義平(享年20歳)はこの世を去った。
数年後、難波経房が平清盛に随伴して、摂津国布引の滝見物をした折、彼は雷雨となって落雷により絶命したという。奇しくも清盛も、1181年急熱で7日悶え苦しみ、不自然な死を遂げている。
以上はネット上のwikipedia義平を要約した、平治物語などに基づいた通説である。世間一般的に、『平治物語』は鎌倉時代以降に作られた創作物と見られており、逆をいえば宮下文書と比較することで、作者の改竄意図を垣間見ることもできる。考えてみれば富士朝は、天皇家→北条得宗家→足利将軍家にとっても都合の悪い存在であったハズだ。少なくともこの作者は、三浦氏族や新生宮下氏族が清和源氏・賀茂次郎義綱の子孫であること、また『源重成』の正体をわかっていたのではないか?と想像する…。
また、賀茂次郎義綱の曾孫が、『雷』になったというのは意味深さがある。なんの因果が…、賀茂次郎義綱は、賀茂明神にて元服し、その子・義明が三浦氏族となる。古来から山城国のご鎮守、別雷命ことカモサワヒメが祀られていた。板倉雷電総本宮や金村別雷神社では別雷命は『雷神』とされている。
さらにこの義平という名前自体、三浦義明をあくまで『平』姓として、強調したい思惑まで見えてくる…。もしかしたら、三浦義顕に見立てた影武者なのではないか?とも思えてしまうのだが…(妄想)。
これが、宮下氏族と新田氏族の良縁の始まりか?。
残念ながら、義平は若干20歳の若さで死んだ。
義平には妻・祥寿姫がおり、若くして未亡人となってしまった。姫の出自は、清和源氏源義重こと新田太郎義重の娘であった。
前述の通り、三浦氏族を外祖父にもつ義平は、秩父氏族の争いで新田氏族とは同盟関係であった。宮下文書における三浦義明は、賀茂次郎義綱の子供であることは述べてきたが…、その嫡孫・義顕は従四位上上野守を朝廷から賜っており、上野国の新田氏族とのパイプが出来たとも想像できる。
そして、義平・祥寿姫の婚姻関係、三浦氏と新田氏は、どちらも清和源氏の結びつきと解釈できるわけだ。
『吾妻鏡』によると、1182年(寿永元年)将軍頼朝が内密に、義兄嫁であるハズの祥寿姫に…、ラブレターを送っていたことが判明。ただ義平の死後、22年後もの歳月が経っており、不自然なところも否めないが…。これに対して父である新田義重は、御台所・北条政子の嫉妬深さを知っており、嫌がっている娘が政争に巻き込まれない為にも、先手を打って師六郎という者に再嫁させた。
これに源頼朝がジェラシーを大爆発させ…、結局新田氏族は、清和源氏ながらも鎌倉幕府に干されることになる。冷遇は鎌倉幕末まで続き、新田氏族と同族で、且つライバル関係にあった足利氏の躍進を、指をくわえて見ているしか出来なくなってしまった。
逆を言えば、こうして新田氏は鎌倉幕府への反骨精神を育てていった。
一方、富士朝にとっても薄遇時代である。源頼朝により再興されてすぐに、将軍家参拝もなくなり、藤原将軍家からも無視され、あくまで『将軍家代参』という形式で続いていた。当然、富士朝サイドは北条得宗家に不満を募らせていった。
奇しくもこうして、96代後醍醐天皇と富士朝宮下家と新田氏族の打倒鎌倉の利害が一致した。鎌倉末期、その子孫である57代宮下家の三浦左京亮義勝が、新田義貞の妹鶴江と政略結婚をした。藤原藤房と楠木正成らと密約を勧めて同盟関係を深化させた。義勝はこのときの大多和姓→富士三浦六左衛門を称して、『三浦義勝』を称しており、一般的には三浦氏族と混同されて認識されているので注意(宮下家と三浦氏は、遺伝子的に近い)。1333年『分倍河原の戦い』にて、富士朝軍と上野国新田氏族が合流。鎌倉街道を怒涛の如く南下して、北条得宗家と鎌倉幕府を壊滅させることに成功した。
楠木正成は本姓橘氏、母方は宮下家派生の富士朝神官・井出氏だった!!。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈花見塚神社〉新田氏首塚を守る、パラレルワールドに存在したもう一つの宮下家。 - セキホツ熊の謎を追え!
<南北朝時代>三浦義勝と足利直義、富士朝ゲリラ戦の悲しい末路。 - セキホツ熊の謎を追え!
つまり、三浦義明と新田氏族との交流は、鎌倉幕府成立以前から既に発生していたことになる。これが江戸時代までに、アンダーグラウンド的な繋がりがあったのかは不明であるが…。後世の清和源氏新田氏族から…徳川家出が、三浦氏族蘆名氏から天海が、誕生したとも言われている(諸説あり)。
いやはやなんとも…。この国の改革者は、ずーっと遺伝子的な関係を続けていたんだなと…。
(´(ェ)`)
最近知ったこと…。
1180年、源頼朝の伊豆挙兵こらの初期メンバーとして、鎌田新藤次俊長という人物の名前も挙がる。彼は鎌田政清の子供とされ、鎌倉幕府の文官であり、宮下文書では、1194年富士朝十二郷制定の案主として、和田義盛や梶原景時と並び署名している。
通説による鎌田政清は、藤原秀郷流・山内首藤氏一族とされ、さらに小野寺氏族と同族。奇しくも、源頼朝の『千鶴丸』が殺害されたとする伊豆国稚児ヶ淵・鎌田城に居城していた。可能性の一つ加藤景廉の墓もあり…、私の両親がつい最近まで住んでいた伊豆の家の近所(苦笑)。
私にとって、伊豆というのは本当に不思議な場所である。
また尊卑分脈によると山内首藤・小野寺氏・鎌田氏の家系は、かなり複雑。『山内首藤氏系図』では、藤原師尹を祖とする藤原資清が首藤を名乗り、美濃席田郡司・守部資信の猶子となったという記述があり。『尊卑分脈』では佐藤(首藤)助清は本姓守部氏とあり。つまり藤原師尹流→守部氏→藤原秀郷流→と称していて、これ以上の解明は不可能だろうと諦めているのだが…。ただ最近、私の宮下文書研究にも異常なまでに尾張美濃が付き纏う感あり…。もしかしたら…私のご先祖さまの手掛かりもあるのではないかと…。
近いうちに、神社めぐり『美濃尾張編』の記事にまとめたい。
お楽しみに(´(ェ)`)。
当ブログ、素人オッサン丸出しの、誤字脱字やケアレスミスが多いです。熊オッサンも土日返上で、疲れも溜まってまして…。
だからというわけではないのですが...。皆さんも是非、遺伝子のルーツを体感つつ、宮下文書を調べてみてください。それが当ブログの悲願でもあります。
若輩もののブログですが、宜しくお願いいたします。
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※地図はクラフトマップ使用。