セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<神社めぐり>小野寺氏から見えてきた陸奥宮下氏族『葛西氏』、かつて蝦夷は貴種であった。

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そんな奴には見えなかったけどな。。。(談)

2022,1,16

前記事に続き、私の母方祖先小野寺氏について。『割とどうでもいい』と詰られつつ、調べてみるとチラホラ富士朝氏族との接点が出てきたのでブログ記事にしてみた…。今回の記事で一番何が言いたいかというと皆さんだって富士朝氏族子孫の可能性が十分あるんですよ…ということ。

全国の吉田さん要注意(´(ェ)`)

〜目次~

<驚愕>蘇我蝦夷が自殺前に燃やしたものは、宮下文書コピー本だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

奥州藤原氏の祖・秀郷

まず前記事で書き忘れたのだが、宮下文書に藤原秀郷の息子の件があった。

宮下文書三輪本現代語訳で、藤原秀郷について直接的な記載はない。しかし…なんとその三男であるハズの藤原千晴が、富士朝に勅使として入麓していた。この千晴とは、平安後期から円仁の奥州平泉『中尊寺』を信仰していた奥州藤原氏の祖として知られる人物だ。

宮下文書によると、800年延暦噴火に端を発した火山活動はまだまだ続き、932年(承平2年)10月13日富士山八方より大噴火し、朝廷は御祖神に対して畏怖の念を強めた。947年(天暦元年)7月7日、62代村上天皇は藤原千晴と菅原文時を勅使として入麓、阿祖山太神宮七廟の宮守神社の遷座退避を、福地八幡太神にあるヤマトタケル旧跡へと命じた。このとき806年の51代平城天皇の勅額と、807年(大同2年)空海作の『仁王尊』像を再興に着手しているが、これは先の56代清和天皇在位期間中865年に、勅令にて確約されていた。平安末期の富士朝氏族が、清和源氏に親頼感を寄せた理由の一つなのかもしれない。

このときの勅額が『阿座真明神大社』に改称された為に、以降『阿座真(あさま)』と『浅間(せんげん)』と『先現(せんげん)』の混同が始まったという。

※前記事からの補足すると、前述のように807年(大同2年)とは、坂上田村麿の手引で、弘法大師・空海が富士朝再建を本格始動させる年。51代平城天皇は全国的に八幡神を持ち出して、800年延暦噴火を鎮魂させている節がある。

※因みに菅原文時とは、菅原道真の長男高視(三河掾)の子、菅原道真の孫に当たる。


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栃木県栃木市岩舟町小野寺・下野三宮『村檜神社』

小野寺郷『村檜神社』の807年八幡神

さて前記事からの続き…。小野寺氏を求めて唐沢山県立自然公園を縦断、小野寺郷京路戸山へやってきた。京路戸峠をヘコへコ下山して40分くらいか…、谷あいの小さな集落が見えてきた。おお…これが小野寺の郷か〜!誰もいないハイキングコースを、クマベルをポコポコ鳴らしながら小躍りしてみせた。下写真↓は諏訪岳中腹付近から『三毳山』を望む、すぐ手前の僅かな平野部が小野寺郷となる。

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◯下野三宮『村檜神社』(栃木県栃木市岩舟町小野寺)

〜御祭神〜

・誉田別命

〜配祭〜

・熊野大神(?)

・日枝大神(大山咋命)

※境内には『西宮神社』があるが…、これは栃木県佐野市久保町や藤岡市藤岡の『西宮神社』と関係がありそうだ。1593年(文禄二年)吉井式部なる人物が、摂州(現兵庫県西宮)から藤岡に移住し、この地に恵比寿講を広めたのが始まりとされる。

 

646年創建の延喜式内社、熊野大神と日枝大神を勧請し、佐野庄小野寺十郷総鎮守とした。栃木県観光協会HPによると、本殿は室町時代1533年(天文22年)に建てられた三間社春日造の檜皮葺で、明治41年に国の重要文化財に指定された。

この先、由緒がややこしいので注意…。栃木県神社誌によると、807年(大同2年)当社から西へ数キロの皆川村『小野口』の八幡宮を本社に合祀し、主祭神と仰いだ。下都賀郡小誌によると、さらにこの八幡神を56代清和天皇御宇に『八幡澤』に勧請させたが、『其地不浄なる事ありし故』に、58代光孝天皇御宇この村檜神社へと再び遷座・合祀されたという。なにか事件が起きたのだろうか?。

要約すると八幡神は、小野口→村檜→八幡澤→村檜とたらい回しにされたのか?。あるいは、小野口→村檜と八幡澤→村檜と2つのルートで別々に村檜へ合祀されているのか?。いずれにせよ藤原秀郷の代までには、主祭神八幡神が村檜神社に落ち着き、江戸時代には完全に『八幡』を称していた。

932年藤原秀郷が、唐澤山城鬼門の鎮守として再建、939年将門討伐の折も弓矢を奉じて祈願していた。その後も神社は興亡を繰り返したのか、秀郷子孫の小野寺通綱がさらに再建している。現在、県道75号と三杉川沿い皆川地区と小野寺地区の中間あたりに、『八幡澤』のバス停名が残っている。『小野口』はそれよりさらに東南側のゴルフ場付近、村檜神社から5キロほど離れた山間部とみる。

※前記事では小野口『小野澤』と書いてしまったが、小野口『八幡澤』の間違い、さらに小野口と八幡澤を混同しました。訂正します、ゴメンナサイm(__)m

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栃木県栃木市岩舟町小野寺『大慈寺・慈覚大師堂』

『大慈寺』と円仁と小野氏

村檜神社に隣接する小野寺山『大慈寺』は、737年行基により開基、東国における天台系仏教の拠点で、最澄による六所宝塔『相輪宝塔』の1つが建てられた古刹。円仁も9歳から15歳までココで修行していた。

宮下文書研究家・加茂喜三著『富士王朝の滅亡』203ページによると、『駿国雑志』中の日本中興治乱記からの引用として、800年延暦噴火の折、東国氏族が円仁(慈覚大師)の一刀三礼の毘沙門天像を奉じて決起したと伝えている。もし本当であれば938年平将門に先駆けた反乱で、これを左大臣・藤原良房が天皇に不吉の兆候だと奏上し、宮中は慄いたとのこと。但し、延暦噴火のとき円仁は僅か6歳なので、後世に創作された災害時デマの可能性もある…。いずれにせよ円仁が東国民衆に影響力を持っていたこと…、さらに京の人々が噴火後の政変余波を恐れていたのを垣間見せる逸話であろう。

そもそもこの地は小野と呼ばれ、大慈寺は小野氏の氏寺だった。続群書類従・山内首藤系図の義寛の項目によると、『住下野国。野洲足利庄小野篁建立寺アリ 號小野寺。』とあり、これが小野寺郷の由来となった。境内由緒書には漠然と、円仁が遣唐使船に入唐した際、小野篁が同船していたハズであり、何かしら縁があったのかもしれないと記載されている。また小野氏族は陸奥・出羽など東北地方に所縁のある人物も多い。小野氏と八幡信仰については別記事参照のこと…↓。

〈妄想考察〉八幡神の正体、玉を司る富士朝『祭祀王』。 - セキホツ熊の謎を追え!

小野氏はイワナガヒメ末裔?。夏至レイライン多摩にて『タマ』を見守ってきた玉神八幡氏族の本懐とは。 - セキホツ熊の謎を追え! 

近くには『小野小町の墓』がある。ご存知のように小町の墓所は全国数カ所あり、こちらの真偽は不明…。残念ながら小野寺氏と小野氏の関係も不明。ただ気になるのはこの小野寺地域、三毳山~雷電総本宮~相模一宮『寒川神社』方面、武蔵一宮『小野神社』(府中市内論社)と、小野篁を祀る町田市小野路『小野神社』へはレイラインを形成している。これはちょっと別記事でお話しする。。。小野小町について面白いことがわかってきた。

 

小野寺氏族からみえてきた、桓武平氏『葛西氏』の正体。

秀郷流小野寺氏とは…。

始祖の小野寺義寛は平安京内裏の滝口武者で、源為義より小野寺七ケ村を賜り『小野寺』を称する。その過程で、小野寺保の保司職を小野寺山『大慈寺』より拝領した。1183年野木宮合戦では早くから源頼朝側につき、その後の軍功によって出羽国雄勝郡の地頭職となる。しかし御家人としては鎌倉に住んでおり、氏祖義寛の子小野寺通綱から鎌倉幕府要職を歴任する。

小野寺氏ルーツは諸説あるが、早期から枝分かれして支流グループが多い。下野小野寺の所領を失い、このあと陸奥登米のグループと、出羽国仙北三郡を割拠し戦国大名となった仙北グループが本流となる。そしてこの陸奥登米に属するグループが、奥州惣奉行『葛西氏』に仕えていた。登米小野寺氏惣領家は、南朝方・葛西氏の南下政策のために『寺池城』を譲渡し『一関城』へ移り、葛西家臣団客将として厚遇されていた。『平家奉加帳』では、他の葛西系平氏を差し置いて、旗本・麾下に破格の扱いを受けている様子がわかるという。この陸奥登米グループの一部が、仙北へ流れたという見方もあるようだ。

※因みに下野国に影響されたと思われる『大慈寺』は、宗派を超えて東北地方に数か所ある。面白いことに、藤原秀衡創建の登米市東和町米川・奥州三十三観音『大慈悲』も小野寺氏の関与が考えられ、近くにも小野小町由来の『小町塚』『小町峠』がある(↓リンク参考)。

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/onoderasikou.htm

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小野寺義寛と道綱の所縁、栃木県栃木市岩舟町小野寺『住林寺』

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小野寺郷『小野寺禅師太郎の墓』

さて、問題はこの陸奥の大身氏族『葛西氏』…。

一般的には、平安末期の将門の伯父『平良文流』派生・秩父平氏は、武蔵国秩父郡吉田郷を本領にしており、その一族・豊島清元の三男から派生したのが葛西清重。下総国葛西御厨(東京都葛西区にあった伊勢神宮荘園)を所領していた。早期から源頼朝挙兵に参陣して、奥州合戦の秀郷流奥州藤原氏討伐後は奥州奉行となり、陸奥国主並み政治権力を委任された。個人的には、将門子孫が逃げ込んだ伝説がある秩父が怪しいと踏んでいたが、やはり注目すべき点は…吉田郷の出身であろうか?(苦笑)。

宮下文書によると、大山守皇子第十王子・日高国造『益田日高彦』子孫と葛西氏祖と明記される。つまり奥州藤原氏以前の遥か大昔から日高見国を統治しており、16世紀の所領は、瀬織津姫を祀る早地峰山にも近い。因みに早地峰山を領していたのは和賀氏。一節には源頼朝と伊東氏八重姫の御子・千鶴丸子孫???、または小野氏族横山党中条氏を自称しているというが…。小野氏は武蔵一宮『小野神社』で瀬織津姫を祀る氏族と近いので、興味深い…。

※益田日高彦については三輪本現代語訳にて確認が取れないが...、加茂喜三氏は『益田氏』の祖とも見解を出している。これがどこの益田氏を指しているのかは不明。島根県益田市は柿本人麻呂の所縁あり、益田市中心部に『吉田』や『中吉田』という地名が見受けられるが…。

これらは、宮下氏族が桓武系平氏にすり替えられている良い例かもしれない...。例えば、相模国大庭御厨も富士朝氏族も見え隠れしており、清和源氏三浦氏・宮下氏族和田氏・鎌倉氏梶原氏・一纏めに平良文流派生とされていた。しかし宮下文書版三浦氏は、桓武平氏に賀茂次郎義綱嫡子・義明が、平太夫為道(三浦為通のこと?)に婿入りして三浦大佐に任命されていた氏族とされている。桓武系平氏が坂東『まとめ役』であったのは事実だろう。しかし関東各地の伊勢神宮御厨などにはおおよそ富士朝氏族が絡んでおり、その監視役としての立場から、後の伊勢平氏繁栄に繋がるのではないかと...(妄想)。朝廷は富士山噴火鎮魂と坂東武者平定が急務であり、東国の威を借りて成り上がった平清盛らには逆らえなかったのかもしれない。

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『小野寺城跡』から北国へ。

唐沢山神社から歩き疲れてヒーヒー言いながら、最後に下野国都賀郡小野寺『小野寺城跡』に到着。…ネットで事前に下見はしていたのだが、道端の三角石に『小野寺城跡』と書いてあるだけ(苦笑)。東北自動車道建設のために土塁が一部破壊されたという。しかしココは全国小野寺さんちの聖地で、彼らは北へ北へ旅立っていった。…石碑に犬のションベンがかかってないことを祈る。

私の母方祖父は、秋田県横手市『山内黒沢城』の小さな集落に武士の子として生まれ、黒澤を称していた。あくまで推測なのだが、おそらくオカンは小野寺氏庶流?黒澤道家らの末裔なのではないかと考える…。勿論全く関係ない可能性もあるので注意(笑)。彼は小野寺氏旗本の家系で、和賀氏に対する押さえとして旧『黒沢城』(秋田県横手市山内黒沢)を任されていた。出自は不明だが『黒沢家譜』によると、実父は小野寺某で実母は黒沢氏と記載されている。然るに男系小野寺氏、女系は不明だが...葛西氏と千葉氏子孫の『陸奥黒澤氏』と関係があるかもしれない。前記事で説明したように、『葛西氏』といい『佐竹氏』といい非常に富士朝色が強い氏族で、小野寺氏も黒澤氏も何かしらの彼らの遺伝子が入っていてもおかしくはないのではと...(妄想)。

『小野寺城跡』は、1156年(保元元年)秀郷流首藤氏・小野寺義寛によって築城され、ここが氏族の本貫となる。その後の『承久の乱』にて、瀬織津姫命(橋姫)と菟道稚郎子命の祀られる宇治川の合戦で戦死している。道綱の墓所は、東北道を挟んで東側に整備されていた。奇しくも、この城跡から京路戸山は『平将門中心点レイライン』上に位置する。

 

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いろいろ感慨に耽りながら、ふと空を見ると…。レイラインに沿って北へ、京路戸山山頂付近に妙な雲が集まっていた。さっき私が、カモサワヒメに精一杯の子供じみたお祈りをした場所…244mの低い山なのだが。下写真で一番目立つ諏訪岳の少し左、ちょうど雲筋の下あたりが京路戸山(中村富士)。この日は雲一つない天気なのだがどうしたことか?。たださっきの子供じみたお祈りを、神様に冷やかされているようで、ちょっと気恥ずかしくなった。

まあ、多分ぜんぶ偶然なのだろう…(´(ェ)`)。

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(まとめ)蝦夷とは貴種、大まかな東国史の流れ。

ここで前記事を振り返ってみよう。

宮下文書によると、2世紀(景行年間)のヤマトタケル東征のことを『東夷征討』と記している。このときに富士朝先住民たちは権力を失い、ヤマトタケルは富士朝宮司に権力を委譲した。富士山以東〜東北氏族たちはこれに納得し、従うことになる。これを『吾嬬惣国』と呼ぶ。その後に、秦氏遺伝子を持つ応神天皇皇子が富士朝大宮司に迎えられ、宮下氏族となる。東国氏族とは言うなれば、この帰化人と富士朝先住民の混血種であった。

こうしてみると、坂上田村麿が東北を討伐する遥か昔から、宮下氏族は日高見国にも存在していたわけだ。加茂喜三氏の指摘のように、蝦夷というのは蔑称ではなく敬称、彼らは15代応神天皇子孫宮下氏族で紛れもない貴種』だ。前記事岩間本によると、聖徳太子や蘇我蝦夷は富士古文書の一つ『開闢神代暦代紀』を把握しつつ、新しい歴史書を作成していた人物だ。少なくとも蘇我蝦夷は、東国が自分たち大和人のルーツであることを判っていた。宮下文書版タケミナカタ・タケミカヅチ・フツヌシは蘇我氏系統の東国神だった。

<驚愕>蘇我蝦夷が自殺前に燃やしたものは、宮下文書コピー本だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

平安後期となると、清和源氏・八幡太郎義家は富士朝シンボル神『八幡信仰』を持ち出し、15代応神天皇子孫を鎮魂しつつ、東国統一させようとした。やはりヤマトタケル信仰と応神八幡信仰とは、東西を黙らせる全国統一の免罪符であり、彼らの遺伝子をもつ宮下氏族はこれに黙らざる得なくなる仕組みなのだ。

義家東征のあとに、藤原秀郷子孫・千晴流が奥州藤原氏となり、円仁所縁の『中尊寺金色堂』を支えてゆく。天台宗・中尊寺は富士山早地峰山レイラインの上にあり、小野寺氏の関与もみられる。そして、清和源氏も秀郷流も敵味方に別れ、源頼朝の義経討伐により敗退する。その源頼朝も、富士朝再興を確約したが故に、坂東武者たちを結束させることができたわけだ…。三浦氏・和田氏・千葉氏・葛西氏…頼朝の初期陣容は富士朝に近い氏族で固められていた。

こうしてみると小野寺郷の円仁(慈覚大師)の信仰と共に、秀郷流である奥州藤原氏も小野寺氏も北上していったようにも映る。日本の歴史がレイラインに刻まれている訳だ。

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※地図はクラフトマップ使用。

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