セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<レイラインの美学⑯>坂上田村麿807年鎮火祭と、小野小町望郷の院内銀山レイライン

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いつも賑やかな相模一宮『寒川神社』

2022,1,23
小野小町は謎が多く、歌人としては作品を残しているものの、全国に点在する史跡の殆どは確証がないようだ。一般的には、惟喬親王失脚が原因で、惟喬親王派の貴族たちが都落ちせざる得ない状況となり、彼女も故郷出羽国へ下向したというのが通説。

で、ここで問題にしたいのは、そういうウソホントは置いておいて…。あくまで結果論として、これらの伝承地が地図上一線状になっている点だ。これより紹介するのは、坂上田村麿と小野小町に関係したレイラインとなる。しかし何故か…熊オッサンにも非常に関係があることがわかった。

(´(ェ)`)

~目次~

 

坂上田村麿・小野小町レイライン。

  • 『白砂神社』青森県東津軽郡平内町・オオヤマツミ信仰
  • 『月山神社本宮』秋田県鹿角市十和田毛馬内・807年田村麿創建
  • 『月山神社』秋田県大仙市川目・落馬事故多発の為、本殿方位を変える。
  • 『沼の柵八幡神社』秋田県横手市・源頼義・義家創建、小野寺氏勧請建立。
  • 『首塚神社』秋田県横手市雄物川町・坂上田村麿と八幡太郎東征時の多くの首を祀る
  • 『向野寺』秋田県湯沢市小野
  • 『小町堂』秋田県湯沢市小野小町
  • 『愛宕神社』秋田県湯沢市上院内・別当であった旧長安寺が円仁創建。
  • 『院内銀山』秋田県湯沢市院内東洋一を謳っていた佐竹藩銀山。
  • 『明治天皇駐蹕之處碑』秋田県湯沢市上院内
  • 『新庄城跡戸澤神社』山形県新庄市堀端・平貞盛子孫、戸沢氏由来。
  • 『樽石山』山形県村山市岩野・オオヤマツミ信仰
  • 『寒江山長登寺』山形県西村山郡西町・寒河江川沿い行基開山
  • 『小町山・甲子大黒天本山』山形県米沢市小野川・小町と空海所縁
  • 『糸畔の山神・太神宮石祠』山形県米沢市
  • 『蠶養國神社』福島県会津若松市蚕養町
  • 『鶴ヶ城』福島県会津若松市追手町
  • 『小野観音堂』福島県南会津郡下郷町・小野岳信仰・白髭大明神
  • 『小野小町の墓』栃木県栃木市岩舟町小野寺
  • 『三島神社』栃木県栃木市岩舟三谷
  • 『三毳山』栃木県栃木市藤岡大田和
  • 『西丘神社・赤城塚古墳』群馬県邑楽郡・藤原秀郷勧請、徳川綱吉再建。
  • 『雷電神社総本宮白龍天』群馬県邑楽郡板倉町
  • 『千方神社』埼玉県羽生市堤・藤原秀郷の孫
  • 『不動ヶ岡不動尊総願寺』埼玉県加須市不動岡・関東三大不動
  • 『玉敷神社』埼玉県加須市騎西・武蔵国久伊豆神社系統の総社
  • 『雷神社』埼玉県加須市中種足
  • 『無量寿院』埼玉県北本市朝日・源頼朝の命により創建
  • 『武蔵国分寺跡』東京都国分寺市寺西元町
  • 『小野神社』東京都府中市住吉町・一宮論社、瀬織津姫命
  • 『対鷗台・小野小町歌碑』東京都多摩市連光寺
  • 『関戸熊野神社』東京都多摩市関戸宮下氏族吉田氏の領地。
  • 『小野神社』東京都町田市小野路町・小野篁を祀る
  • 『小野路城・小町井戸』東京都町田市小野路町
  • 『寒川神社』神奈川県高座郡寒川町宮山
  • 『一之宮天満宮』神奈川県高座郡寒川町一之宮・梶原景時屋敷跡
  • 相模川河口

※多摩地区には小野神社が複数あるので注意。

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田村麿による富士鎮火祭は寒川がスタート?。

前記事では、宮下文書版・坂上田村麿はwikipediaと全然違うと紹介したわけだが…。

 

宮下文書版・坂上田村麿は、富士朝サルタヒコ子孫で、阿祖山太神宮の農作及び祭典副司長の宮田麿(苅田麿)の御子。一般的には帰化人氏族とされている。

800年延暦噴火の折、田村麿が、50代桓武天皇の命により富士朝首脳陣300余人を相模国・福地山行満寺の出張寺へ避難させた。富士朝に祀られていた寒川大神クニサツチ夫妻・寒川毘古オオヤマツミ夫妻、コノハナサクヤヒメらを移して祀り、相模一宮・寒川神社を造営。以降は、阿祖山太神宮『里宮』とされた。

後世、この避難した地域に誕生したのが、鎌倉権五郎景政所縁の『大庭御厨』。鎌倉権正景任?なる人物の娘が宮下氏族・大森頼親に嫁いで、深い関係が構築されていた。その鎌倉氏族と小野氏族横山氏娘との間に生まれたのが梶原景時となる。彼は一宮ちかくの大山街道沿いに屋敷を構えており、当初は鎌倉幕府と富士朝のパイプ役だったのではないか?と推測できる。これが現在の『一之宮天満宮』付近となる。

さらに梶原景時の娘を娶ったのが武藤資頼で、小野大神・瀬織津姫命を勧請し、富士山レイライン上に人見稲荷神社を創建した。これが私の父方祖先と思われる…(たぶん)。

鎌倉権五郎景政が死んだのは八王子?、梶原景時が繋ぐ謎の古神体『鎌倉八王子レイライン』 - セキホツ熊の謎を追え!

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『一之宮天満宮・梶原景時館跡』(神奈川県高座郡寒川町一之宮)

田村麿は結局何がやりたかったのか?。

今回特にお話したいのが、征夷大将軍田村麿の活動内容だ。

噴火をすれば、当然被災難民が出る→東国は荒れる→政情不安からの反乱が再来する?と不幸な連鎖が始まる…。朝廷はなにより、関東圏〜東北に拡散避難した富士朝氏族を警戒していたとみている。

なのに、坂上田村麿の延暦噴火800年を境目としての活動は、全く知られていない。例えば一般的に、エミシの首長ことアテルイの初戦は789年(延暦8年)、802年田村麿による討伐後に処刑されている。他方で、宮下文書における802年は、延暦噴火で分断された東海道復旧工事を田村麿が指揮していたのだ。苅田麿・田村麿親子は800年までに東北を平定済ませており、それ以降はアテルイ討伐をしている時間などなかった。

 

延暦噴火を皮切りに富士山以東〜東北において、八幡神や水神を祀り、鎮火祭の形跡が多い。このブログの仮説では、800年以降の坂上田村麿の活動目的は、強力な水神・瀬織津姫(鈴鹿御前)を伴い、富士朝火神を鎮魂活動をしていたのではないかと…。奇しくも上記レイライン上にも瀬織津姫を祀る小野神社があるわけだ。宮下文書研究家・賀茂喜三氏曰く、この頃の田村麿は朝廷の傀儡となり果て、噴火避難に託け各地の富士朝痕跡を消去していたというが…、それはちょっとニュアンス的に違うと思う。私が思うに、50代桓武天皇は賀茂別雷命(富士朝カモサワヒメ)を平安京鎮守としており、富士朝血族である坂上田村麿に、東西の架け橋になってくれることを期待していたのだ。いずれにせよ西国天皇勢力の、富士山御祖霊に対する畏敬の念と焦りではないかとみている。

◯『月山神社・本宮』秋田県鹿角市十和田毛馬内

〜御祭神~

  • 月読命
  • 誉田別命
  • 金山彦命
  • 大日霊命
  • 伊邪那美命
  • 稲倉魂命
  • 菅原道真公

 

※秋田県神社庁によると、『月山神社本宮』は807年(大同2年)坂上田村麿による創建。里宮境内の由緒によると、東国と朝廷の分断を治める祈願の理念で創建された。山形県鶴岡市羽黒町川にある有名な『月山』とは直接的関係はないが、荒沢月山大権現として、羽黒修験不動院により祭事が行われた。

※因みに、807年(大同2年)6月15日にはナキサワメを祀る地に、コトシロヌシを勧請して、秋田県大仙市泉町『伊豆山神社』を創建している。神名帳考証、神名帳注釈によると、ナキサワメ=寒川毘女。つまり、宮下文書でいうところの別雷命カモサワヒメであり伊豆国三嶋神。今回のレイラインとは関係ないが、意味深である…。

偽書のススメ6:さらば富士王朝。延暦噴火だ緊急避難せよ坂上田村麿。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

807年八幡神の役割

で、重要なのは…。

なんで富士山噴火鎮魂するのに、東北神を鎮魂しなくてはならないのか?。

宮下文書岩間本曰く、2世紀ヤマトタケル東征の折、オトタチバナ妃入水自殺の名目が、『東北神』鎮魂と記されており、富士山動乱には東国神鎮魂が常にセットになる。実はコレ、古来からの東国人たちの道理でもあった。

加茂喜三著『富士王朝の滅亡』によると。歴史上、東国氏族が幾度となく蜂起を繰り返してきた背景に、『東西分治』という概念があったという。つまり豊受大神クニトコダチと寒川大神クニサツチによる、日本最古の盟約『四季島』統治の再現こそが、彼らの悲願なのだ。

ヤマトタケル東征後、富士山以東〜東北を富士朝に委譲した『吾嬬惣国』も、この寒川大神クニサツチ統治理念に基づいている。平将門と源頼朝が理想としていたのも、おそらくは富士山信仰を中心とする東国の、西国からの脱却だった。だから平将門は『新皇』を称しても、西国天皇勢力に歯向かうつもりは毛頭なかった。しかし、朝廷が坂東八州国独立を承認するわけがなかった、だから彼を西国に仇なす危険人物に仕立て、見せしめとして処刑した。その上で、東西の架け橋の象徴として、宮下氏族の遺伝子となる15代応神天皇八幡信仰を全国規模で祀らせた。東国氏族や宮下氏族もこれには逆らえなかった。

東国人が西国に失望するたびに、この富士朝原点回帰が渇望されたのだろう。東国人によく見られる天津甕星(天香香背男)の信仰も、この富士朝原点回帰が根底にあるとみる…(妄想)。

常陸国佐竹氏と天香々背男命『天津甕星』の真相?、三毳山と星宮神社レイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

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小野小町の出自・小野氏。

次に…。このレイラインには、何故か…小野氏というか、小野小町が絡んでくるのだ。

宮下文書研究家・鈴木貞一氏の見解では、小野氏祖・宇都志日金(拆)命は、タマノオヤとイワナガヒメの御子ではないかと述べた。中流貴族・小野氏族のミステリアスな側面は、小野氏の祖アズミ族がニニギとの皇別出自を隠すため、さらには中世までの権力争いによるものが根底とみられる。

『尊卑分脈』の小野小町は、小野篁の子で出羽郡司の小野良真の娘とされる。宮下文書には登場しないが、前述のようにどうやら彼女は政治に翻弄され、都落ちした人物のようだ。悲劇の発端は、このブログでは何度も触れている、56代清和天皇vs.惟喬親王の皇位継承争いであった。本来であれば嫡子・惟喬親王が皇位継承するハズであったが、藤原権力ゴリ押しにより9歳の惟仁親王(清和天皇)が即位させられる。

  • 長男・惟喬親王(母方・紀静子)
  • 次男・惟仁親王(母方・藤原明子)

 

惟喬親王は28歳で出家、小野宮と呼ばれ小野の里に幽居した。小野小町と惟喬親王の仲は不明であるが、11歳年上であり恋仲説や乳母説もあるようだ。また晩年も、小野の里で惟喬親王と隠棲した?との説もある。後世、惟喬親王はオオヤマツミを信仰していた山の民・木地師たちの信仰対象となっており、富士朝との関係を匂わせる。

東奔西走した東征者氏族『清和源氏』の役割と、清和天皇の兄・惟喬親王のナゾの行動。 - セキホツ熊の謎を追え!

後世、小野小町を有名にしたのは、紀貫之であった。後世に選抜されたいわゆる『六歌仙』は何故か左遷された人物が多く、例えば在原業平は惟喬親王の側近、妻が紀静子の姪。紀氏も小野氏も惟喬親王寄りだったと推測できる。小町の才能は疑う余地はないが、背景にはこのような権力闘争もあったのだろう。そして紀氏と小野氏の関係も浮き彫りとなるわけだ。

因みに前記事で紹介した、水尾山陵〜賀茂別雷神社〜延暦寺〜日吉大社〜惟喬親王御陵のレイライン上には、惟喬親王の隠棲した比叡山西麓の山城国愛宕郡小野郷(現在の左京区上高野小野)がある。飛鳥時代の小野氏拠点『小野の里』で、現在も小野妹子の子・小野毛人(えみし)の墓があり、祟道神社境内には『小野神社』がある。南に1キロほどの処にある修学院赤山禅院は、仁和4年(888年)第三世天台座主・慈覚大師円仁の遺言により、第四世天台座主・安慧が泰山府君(閻魔大王・十王信仰太山王)を勧請したという。神仏習合社で、天台宗延暦寺の塔頭の一つとされる。後世に子孫小野篁が、閻魔大王の使いであるという噂が流布されているので、なにか関係があるのかもしれない…。

小野毛人の子は『毛野』といい、なにか毛野国を彷彿とさせる。小野氏の氏寺と言われ、円仁所縁の毛野国『小野寺山大慈寺』とは関係ないのだろうか?(調査中)。

 

一方、勝者の56代清和天皇も、富士朝寄りの政策をとっていたようで、藤原他氏排斥計画の標的になった。清和天皇が信頼していた伴善男が、『応天門放火事件』の容疑をかけられスケープゴートにされた可能性あり。このとき、伴氏と紀氏の多くも流罪、伴善男も伊豆国へ流罪となっている。清和天皇は27歳で突然譲位、3年後出家するも謎の死を遂げている。

※因みに宮下文書版『伴氏』は、大伴氏族失脚後の富士朝神職家系の太田氏・羽田氏のこと。菅原道真の母方にあたる可能性あり。

※因みに紀氏は武内宿彌の子孫、祖先は良くも悪くも富士朝に多大な影響を残した人物。また宮下文書版紀貫之の長子・武貫が、加茂明神宮司(山城国・賀茂別雷神社)に婿入りしている立場からカモサワヒメを祭祀しており、東国氏族に期待されていた氏族だったのかもしれない。

 

小野小町の痕跡によるレイライン

小町史跡の法則として、やはり小野氏族に関係した土地や神社に多いようだ。小町に関係あるかは不明だが。。。中世『歩き巫女』と呼ばれて人々がおり、小野巫女梓(あずさ)巫女とも呼ばれた。小野神や熊野信仰とともに、小野小町伝承流布のきっかけともなったという説もある。瀬織津姫は小野大神とも、梓水大神とも云われている。やはり小野氏とアズミ族の関係を暗示しているのだろうか?。

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多摩市『小野神社』と府中市『小野神社』の違い。



◯聖蹟桜ヶ丘の小野小町

武蔵国南部の『小野牧』を中心として、小野氏所縁の地があり。富士山高千穂峰レイライン上にある武蔵一宮『小野神社』(東京都多摩市一ノ宮)近くには歌碑が残っており、彼女が立ち寄った可能性はあるのではないかと...。彼女の詠んだ武蔵国『向ノ岡』は、かつて多摩川が氾濫していた時代に一宮が避難していた連光寺地区と比定される。都落ちしてきた小町が自らを『草』に例え、京都を偲んだ歌を詠んでいる。明治時代には景勝地・聖蹟桜ヶ丘といわれ、明治天皇所縁の『対鷗荘』『聖蹟記念館』がある。さらにはこの付近は、古墳時代には小多摩(小玉)の関戸といい、2代宮下源太夫明政の第4王子で陸佐志県主・吉田四奈摩古男の領地で、以降の関戸・大久保・高井・諸氏の祖となる。高井氏(越後和田氏)については後述する。

※レイライン上にあるのは、府中市住吉町の一宮論社『小野神社』となるので注意。

偽書のススメ: 富士王朝とウガヤ王朝の関係、レイラインが繋ぐ歴史の真実。 - セキホツ熊の謎を追え!

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『御駒櫻・小野小町歌碑』(東京都多摩市連光寺)

◯小野寺の小野小町

前記事でも紹介した円仁と小野寺氏も、小野小町伝説を流布している感はある。登米支流の小野寺氏の拠点であった宮城県登米市東和町米川町下『大慈寺』の近くにも、小町塚や小町峠の地名が残る。ただ…小野寺が小野氏の氏寺であること以外、理由がイマイチ見えてこない。

栃木県栃木市岩舟町小野寺にある、円仁が育った小野寺山『大慈寺』由緒によると、小野小町は病気の回復祈願に来たとのこと。この地で和歌のやり取りをしているうちに回復してきたので、この地に居着いた。しかし最後は、寺の裏山である諏訪岳の断崖絶壁にて、眼下に浄瑠璃浄土を見つつ身投げしたという。一説には病が回復せず、行く末を悲観して投身自殺した説もある。因みに、岐阜県岐阜市岩井の弘法大師所縁『延算寺』の伝承では、彼女は疱瘡(天然痘)にかかっていたという。いずれにせよ小野小町伝説・円仁の信仰・小野寺氏族は、足並みを揃えて北上していく感がある。

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『小野小町の墓』(栃木県栃木市岩舟町小野寺)

◯湯沢と院内銀山の小野小町

諸説あるが、秋田県湯沢市は小野小町生誕地として知られ、都落ちの晩年を過ごしたという。雄勝町伝承では、小野小町は809年(大同4年)に出羽郡司小野良実の娘として、福富の荘で誕生。母親は地主の娘。9歳(13歳説あり)にして上京し帝に仕えるも、36歳になって小野郷(湯沢市雄勝町)へ帰郷、晩年は岩屋堂に篭もり自像を彫りつづけ享年92歳で死去との説もあり。

 

◯『愛宕神社』秋田県湯沢市上院内字町

〜御祭神~

  • 火産霊大神
  • 大山祇大神
  • 宇賀御魂神
  • 宮比神
  • 菊理媛神
  • 伊邪那岐神
  • 伊邪那美神
  • 天照皇大神
  • 日本武神

 

※当社別当は江戸時代まで存在していた真言宗『延命山 長安寺』で、なんと867年(貞観9年)円仁(慈覚大師)の創建。ただしwikipediaでは、円仁死去が864年なので、死後3年後の創建となっている。『日本三代実録』では、創建年貞観9年に出羽国長安寺が『定額寺』となったとの説もあり、実際のところは矛盾だらけである。

 

さて…湯沢には、かつて東洋一を謳っていた『院内銀山』があった。

秋田県神社庁によると、52代嵯峨天皇の811年(弘仁2年)、院内法領館(現在の館山)に奉鎮され、関所のような役割だったようだ。

これがのちに南北朝時代に城塞化され『院内城』となり、初代城主は南北朝時代1338年〜1342年の三浦大輔義明の18代孫『三浦兵衛ノ治部義末』とされる。おそらくは越後三浦氏こと高井氏(越後和田氏にも分類される)とみられるが、この時期の富士朝氏族は大宮司57代三浦義勝のように、意図して三浦姓や和田姓を称し素性を隠していた可能性あり。というのも…1278年には先行して越後和田氏・和田義長が、出羽国常牧郷(雄勝郡)を安堵されており、この地域は非常に富士朝色が強かったのではないかと思われる。宮下文書版和田氏は三浦氏族ではなく、2代宮下源太夫明政の第5王子・吉田五男摩古彦の子孫。高井氏は前述の通り第4王子・陸佐志県主・吉田四奈摩古男の子孫、つまりこのライン上の武蔵国小多摩関戸の吉田氏と、同族の可能性あり。どちらも宮下氏族吉田氏出自なわけで、私が見る限りこのエリアは、三浦氏・和田氏・高井氏がゴチャ混ぜにされている状態。隣の平賀郡(平鹿町?)には吉田という地名が残る…。(後述)。

1393年(暦応2年)に小野寺氏家臣・柿崎四朗左衛門が侵攻を開始、院内は小野寺氏配下となる。江戸時代には小野寺氏と佐竹氏が転封を命じられ、この地は佐竹氏の秋田『久保田藩』域となる。

1606年頃この地に石見銀山、生野銀山とならぶ大銀山が発見される。転封された小野寺氏家臣で庶流・黒沢道家が、院内銀山奉行・惣山奉行に任命される。この人物が、私の推定母方ご先祖…(たぶん)。江戸期までには人口1万5千に膨れ上がり、秋田見地域最大の集落となる。

1872年(明治4年)には鉱山事業家・岡田平蔵と提携し、古河市兵衛を通じての小野組の経営となる。wikipediaによると近江商人の小野家は、三井組(のちの三井財閥)に匹敵する商豪であった。

1874年、小野組の経営破綻。 鉱山は明治政府の直轄となり、現在は観光地となり周辺史跡を見学可能。現在も銀山にある 秋田県湯沢市院内銀山町上本町『金山神社』は金山彦大神が祀られているが、明治維新まで『山神宮』と呼ばれ、佐竹氏にも崇敬されていた。

小野小町の全国的な由緒が結局、小野氏、小野寺氏、円仁らとどう関係しているのかはわからない。ただ彼らの政治的、宗教的理由の流布も考えられまいか?と…。

 

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聖蹟桜ヶ丘は小町が見ていた風景?、レイラインは多摩川『関戸橋』を渡る。

で…なんでこの田村麿・小町レイラインに、熊オッサン『祖』がいちいち絡んでくるのか?。

 

こっちが聞きたいくらいだよ…(泣)。

これが偶然なのだろうか?。寒川神社にしろ、小野寺郷にしろ、院内銀山にしろ、熊オッサンの父方母方の推定祖先か絡んでくる。

まあ、私が勝手に祖先と称しているだけで、確証はまったくないのだが…。ネットの情報と家族の証言に基づいている。しかし、読者の方もご存知のように、かなり以前からブログには書いていたわけで…。この妄想ブログでご先祖様と託けたら、…レイラインで繋がってて、さらに慌てふためいている状況だ。オッサンが、レイライン上の小野寺氏と支流黒沢氏の歴史を、予め準備しておくことなんてできないし…。小野小町の史跡を絡めてレイライン上に配置しておくことなんてできない。少なくとも私の先祖が絡んでいなければ、小野寺や院内銀山を調べてみようとはしなかった。

ホントだってば...(´(ェ)`)

 

いや、何を言っても言い訳になってしまうな…。

こんな状態が続くと、ご先祖様から『まだ、疑っておるのか?嘆かわしい!』と催促されてしまう気がして、もう…なし崩し的に…、信じざる得なくなっているのだ。807年(大同2年)…因みに私の誕生日は立秋の8月7日、坂上田村麿創建の八幡宮で初宮参りをした…。このレイラインに関しては、その他にも熊オッサンのプライベートな事柄で、ネットでは言えない㊙過去接点もあり…、もどかしい…。

 

そして…これは、祖先と子孫や同族のレイラインでもある。

・武蔵国多摩郡吉田氏と高井氏

・小野寺氏と黒沢氏(私の母方)

・小野小町と小野組?…

・鎌倉権五郎景政と梶原景時(私の父方)

祖先と子孫が繋がることに何か特別な意味があるのだろうか?。少なくとも田村麿や小町が、われわれ現代人に何かを訴えかけているのではないか?と…そんなことを考えてしまった。最近じゃ熊オッサン、見えない何かにコントロールされているじゃないか?という説あり…。

ま、楽しいからいいや...(´(ェ)`)

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※地図はクラフトマップ使用。

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