2020,5, 17
前記事で紹介した、鎌倉から八王子に遷座させられた元鶴岡(由比若宮)の謎の古神体の件。googleマップで調べてみたら、面白いことがわかってきた。
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まず『御霊大神』を復習すると。
御霊信仰は全国各地、地域により様々。関東地区では主に鎌倉大庭御厨周辺や大国魂神社等に祀られており、歌舞伎演目『暫』で有名な鎌倉権五郎景政とみなされる。その他にも、桓武系統平氏五氏族(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)の御霊総称とも伝えられている。
〜 鎌倉八王子妙義山レイライン〜
・由比若宮(元鶴岡)
・鎌倉市役所
・銭洗弁財天下之水神社
・葛原岡(桓武系統平氏の祖、葛原親王の聖地)
・世界救世主教いづのめ教団・湘南教会(旧大本幹部の伊豆山に本部がある宗教団体)
・龍寶寺(鎌倉市上植)
・石楯尾神社(相模原市磯部)
・下溝八幡宮(亀ヶ池八幡宮から勧請)
・亀ヶ池八幡宮(相模原上溝)
・相原八幡宮(小野氏族横山氏)
・御霊神社(鎌倉権五郎景政の死亡推定地)
・昭和天皇武蔵野陵(八王子市長房)
・梶原八幡神社(由比若宮の謎の古神体)
・阿伎留神社(あきる野市五日市)
・真名井沢ノ峰(西多摩郡奥多摩町大丹波)
・雲龍寺(文殊堂のある秩父郡伊豆沢)
・妙義山(群馬県安中市)
多くは前記事で紹介してきた宗教施設なのだが、…なんとこれら神社も、一本のレイラインで結ばれた(笑)。
そして、どうやら『御霊大神』を解く鍵の一つは、八王子にあるのではないかと思えてきたのだ。
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①地図 南関東レイラインのクロスポイント②地図 各行政地の変遷
※レイラインはメルカトル図法では放物線を描く。多少ズレあり
◯由比若宮(神奈川県鎌倉市材木座)
『鎌倉御室山レイライン』とのクロスポイントにある、源氏にとって象徴的な神社。後世(1191年)に鶴岡八幡宮に遷座、これは『富士山日御碕レイライン』に合わせるために北遷したとみる(上の②地図参照)。
何度か紹介したが、古来から日本人は都(幕府)立地条件おいて、まず日出日没の関係性を気にしていたようなのだ。その基準点の一つが島根県出雲市大社町『日御碕』、中国地方にはにはレイラインを修正するかのごとく?日御碕系の神社が結構ある。レイラインありきで考えれば、鎌倉も江戸も、首都として約束されていた土地なのかもしれない。
そして、今回紹介する『鎌倉八王子レイライン』は、その江戸線と鎌倉線を跨いで繋ぐ役割がある。
前九年の役への後(1063年)、源頼義が岩清水八幡をこの地に勧請し、戦勝を感謝したとされる。もともと頼義は、岩清水八幡宮にて必勝祈願をしており、戦勝が叶うのであれば、奥州にいたる道のり五里ごとに八幡社を建てると神前誓約。これを一般的に『五里八幡』といい、鎌倉由比を起点とし、荒川八幡・植田八幡・飯野八幡…と創建していく。
後三年の役の際(1081年)には、頼義の子・八幡太郎義家が社殿修復し、戦勝祈願。その後、頼義・義家の子孫、源頼朝がこの地に幕府を築いたわけだ。
源頼義の妻は、鎌倉を拠点としていた平直方の娘、この平直方子孫が後の北条氏となる。富士朝と縁が深い三浦氏も、もともとは桓武系統平氏。賀茂次郎義綱(源義綱)の子ども源義明が、婿養子の三浦義明であり、後世に鎌倉武士が桓武系平氏を祀る理由と思われる。
このように鎌倉幕府は清和源氏と桓武系平氏、さらには富士朝を伴って、東国武士の象徴となる。
◯亀ヶ池八幡宮と下溝八幡宮(神奈川県相模原市)
~亀ヶ池八幡宮御祭神~
・誉田別命
・比売神
・神功皇后
~下溝八幡宮御祭神~
・応神天皇
亀ヶ池八幡宮の創建は不詳、しかし延応2年(1339)に再建されている。
天文年間(1532-1555)に相模国溝郷が分離して、上溝と下溝に分村している。その際、溝郷の鎮守『亀ヶ池八幡宮』を下溝に勧請したものが、『下溝八幡宮』。奇しくも両神社とも、このレイライン上に存在している。
◯相原八幡宮(神奈川県相模原市緑区相原)
~御祭神~
・誉田別尊
・牛頭天王
~相殿~
・木花開耶媛神
・大山咋神
小野氏、後の横山氏の神社。
前記事で紹介した、大室山による隠れ富士伝承のある『武蔵ヶ岡(武蔵岡)』地域。
<神社めぐり>武蔵の国の富士隠し、大室八幡神社とホツマツタヱ『ムハタレ』の意外な接点。 - セキホツ熊の謎を追え!
夏至レイラインと鎌倉八王子レイラインのクロスポイントであり、各レイラインの観点から牛頭天王とコノハナサクヤが祀られている理由も見えてくる。住宅街に囲まれた小さな社ではあるが、境内は巨木が多く、まさにパワースポットの趣?。上空には無数の筋雲が蜷局を巻いていた???。
富士山高千穂峰『夏至レイライン』に接しているということは、即ち武蔵一宮『小野神社』や『人見稲荷神社』に繋がりがあるということ。人見稲荷神社も人見氏も小野氏子孫の屋敷跡、そう考えると、小野氏の夏至レイラインへの執念は、古来から強いとみる。
創建不詳(だいたい平安中期)、横山氏の祖・小野孝泰が武蔵守として下向の折、岩清水八幡をこの地に勧請。承平年間前後この付近一帯は、『小野牧』という広大な馬牧場が存在していたという。具体的な時代や範囲は研究家によって見解がまちまち、ただ当社や『小野神社』(東京都町田市小野路)などはその痕跡の一部と思われる。
武蔵七党横山党『横山氏』は諸説あり、入植時期から察すると小野氏子孫ではなく地元豪族の仮冒という説もある…。個人的に仮冒というのは、源氏のような高貴の訳アリ氏族が、偽名を使うパターンの方が多かったとみるのだが…。
宮下文書的にいえば、古来から武蔵国は蘇我大伴系統のバックボーンが大きかった。和邇氏小野氏族も5代孝昭天皇子・天足彦国押人命子孫であり、孝昭皇后が世襲足媛命、蘇我政吏命の五女となる。即ち、蘇我外祖父のスタートである。
さらに、この相原八幡宮の『夏至レイライン』への執着ぶりを見れば、横山氏は高確率で小野篁子孫だと思われる(笑)。
またこの神社から西2キロほどに、『正八幡宮』という社があり気になっている。関東に限らず、全国各地でよく見られる『古八幡』と『正八幡』、それぞれ何を意味しているのだろうか?。
何が違うのだろうか?。
◯御霊神社(東京都八王子市館町)
~御祭神~
・鎌倉権五郎景政
鎌倉権五郎景政の死亡地???。
得てして、伝説上の人物の死亡地は諸説出てくるものであり、私も普段なら大して気にも留めないのだが…。今回は気にかかる点が出てきた…。これは後述する梶原八幡神社と絡めて考えるべきであろう…。
御霊神社と関係寺院・浄泉寺の由緒書を纏めると。
前九年・後三年の役にて、関東は激戦の巷へと化したという。八幡太郎義家に従いこの八王子館町に滞在していたのが鎌倉権五郎景政で、館町の由来は彼の屋敷を示しているようだ。寛治元年(1087年)晩秋の轡虫に耳を傾けている中、突然敵からの流れ矢が右目に突き刺ささり、それでもめげずに敵を寺田山(八王子市寺田町?)まで追い払う。享年42歳という…42歳って厄年だな。
後世、御霊谷戸(元八王子の城山川)に『御霊大明神』として祀られていたが、天正時代(1573年)、八王子城主北条氏照家臣・近藤出羽守助実により、かつて景政の拠点(屋敷跡)があった八王子館町に御移されている。
また御祭神の恩念か、この館町の人々は昔から右目が小さいという。因みに一般的な伝承では、景政は左目に矢が当たっている…。
即ち年代的に考えると…、鎌倉権五郎は大庭御厨を開拓する前に死んでいる事になる???。
では一体、大庭御厨は誰が作ったのか?という疑問が湧いてくるわけだが…。
◯御霊明神(東京都八王子市元八王子)
~御祭神~
不明、おそらく鎌倉権五郎景政
・稲荷社
・後北条家紋に関する石祠あり?
当社は元八王子御霊神社ともいわれる、八王子市館町の御霊神社の元社で、鎌倉氏支流の梶原氏の領地であった。厳密にいうと、梶原景時の母が八王子付近を支配していた武蔵七党横山氏の出自で、景時がこの地を譲り受けたという。因みに梶原景時は、寒川神社付近には大きな屋敷を持っていたので、あくまで本拠地は相模国寒川とみる。
『尊卑分脈』によると、梶原景時は鎌倉権五郎景政の曾孫にあたり、『梶原御霊神社』(鎌倉市梶原)を中心に御霊大神を祀っていた氏族とされる。先に述べた死亡地、八王子市館町『御霊神社』の前身にあたる神社。
日出日没レイライン上にある。つまり結果として、御霊大神と縁のある大國魂神社と白兎神社と同線上に存在しているということだ。そして御霊神社とこの御霊明神の共通点は東を向いている点。
大国魂神社(旧武蔵国府)には小野大神・瀬織津姫と御霊大神が祀られており、白兎神社(鳥取県鳥取市)には亀井茲矩が『御霊神社』(大阪府大阪市)から瀬織津姫を分霊させた経緯がある。即ち、このレイラインには瀬織津姫と御霊大神が、何かしら接点がありそうなわけだ…(妄想)。
それにしても南関東の御霊神社は、どこも近代的な整備がされていて驚かされる。素朴な疑問として、桓武系平氏だけを祀る信仰が、なぜ現代まで広範囲に続くのだろうか?。まあ子孫の端くれとして言わせてもらえば、坂東平氏なんて平将門以外はどマイナーである(苦笑)。
個人的に『大庭御厨』とは、富士山延暦噴火の際、寒川神社に避難してきた富士朝関係荘園とみており、御霊信仰が単なる氏族信仰とは思えないのだ…。さらに大国魂神社の御霊大神は江戸末期~明治期、ごく最近祀られ始めたようだ…。
ただ、なんで江戸以降、御霊大神を祀る必要が出てきたのだろう…。
◯梶原八幡神社(東京都八王子市元八王子)
~御祭神~
・應神天皇
・比売命(宗像三神と解釈されている)
~摂社~
・五社宮(幡社含む)
・八坂社
・榛名社
・山王社
武蔵野御陵と多摩御陵近く。
『鎌倉八王子レイライン』と『日出日没レイライン』のクロスポイント付近にあたる。
つか…クロスポイント付近に祖父の墓があり、この辺りは子供の頃から年1~2回きていた(笑)。墓参りの途上、いつも古めかしい大鳥居が気になっており、きっとこれも何かの縁と、二~三年まえから彼岸やお盆に参拝するようになった。その時は、まさか鎌倉氏・梶原氏・横山氏の遺伝子が、私に入っている(可能性がある)とは思わなかったのだが…。
そういえば宇佐八幡は彼岸にお祭りがあったな…。
本殿には『応神天皇』『比売大神』が祀られており、東側の慈根寺本堂後付近の丘は見晴らしもよく朝日が拝める。正月の初日詣にはお誂え向きであろう。
由緒書を纏めると。 康平6年(1063年)、源頼義が岩清水八幡を鎌倉由比郷に勧承し、由比若宮(元八幡)を創建。治承4年(1180年)、その子孫の源頼朝が鎌倉氏同族・大庭景義に命じて小林郷松ヶ岡に創建、改めて岩清水八幡を勧承し、これが現在の鶴岡八幡宮となる。その時何故か由比若宮の古神体を梶原景時が賜り、鎌倉由比郷に似た地の武蔵国『由井郷』に祀った。
明治時代まで、梶原景時時代の棟札があったものの1880年(明治13年)戦災により消失。当時の御祀神はわからないが、現在は応神天皇と比売命。うち比売命は宗像三神と解釈されている。
由比若宮と梶原八幡神社、正直似ているとは思わなんだ…。もともと平安時代の八王子付近は『由井牧』があり、南北朝時代には『由井郷』あるいは『由比郷』と呼ばれていた。この辺りが鎌倉『由比郷』と混同されて『似ている』と判断されていったのかもしれない。
しかし、そもそも何故、鶴岡八幡宮の古神体を移す必要があったのか?、ここがミソなわけだ。
…というかじゃあ現在、祀られている鶴岡八幡宮の御神体って一体何?。同じ京都岩清水の八幡神でしょ?。御祭神を最新版八幡神にアップロードしたのか?。なんか『サポート期限切れました、最新版ダウンロードしてください』的な…扱いしていいのか?(笑)。
いったい、遷座の定義とは一体なんなのか?。
鶴岡八幡宮は、源頼朝が岩清水八幡を新たに勧承して創建しているわけだ。
5代先代・源頼義が勧承した岩清水八幡は、梶原八幡神社に遷された。つまり、由比若宮は梶原八幡神社に御移されたものになる。
ま…前記事でも触れたが。いつもの妄想をいえば、これ、古八幡と正八幡とのすり替え作業なのではないか?とも思えるのだ。鎌倉と八王子、応神天皇とタマノオヤ、どちらがどちらか不明であるが、片方はタマノオヤではないかと。
宮下文書によるとタマノオヤは、アメノオシホミミとタクハタチヂヒメが生んだ八王子の一柱で、ニニギ弟である。個人的には八幡神の正体と考えている。スサノオ娘タクハタチチヂヒメが産んだ『幡』八子、そしてスサノオ(牛頭天王)がニニギの教育したとある。これが八王子権現の由来であり、八幡の由来とみる。
もともとこの地は、平安時代からの牛頭八王子信仰地。梶原景時が由井郷にて八王子一柱タマノオヤを鎮魂し、さらに同族であった鎌倉権五郎景政を祀ったのではないかと…。
そして当地域が『八王子筋』と呼ばれるようになったのが、1569北条氏康の書簡。即ち、八王子の地名となった神は古八幡タマノオヤの可能性が高いと…。それを伏せる形で、牛頭八王子権現のスサノオ信仰がこの地域に広まったとみる。
さてさて、現在の御祭神はどちらなのだろう…?、応神天皇か?タマノオヤか?。今となっては誰にもわからないのが、何か私に、『おまえ子孫なら、どーにかしてくれ』と訴えかけられている気がしてならない(妄想)。
◯八幡八雲神社(東京都八王子市元横山町)
~御祭神~
・素戔嗚尊
・誉田別尊
これも日出日没レイライン上の神社だが、小野氏族横山氏と八王子を語る上では欠かせない神社なので説明しておく。
相原八幡にみられるように、横山氏は牛頭天王と八幡神を祀る氏族であったようだ。924年武蔵守小野隆泰は岩清水八幡より八幡神を勧承し、牛頭天王スサノオを合祀している。現在、神社庁の定める八王子地域の産土神とされ、前述した八王子における牛頭八王子信仰の一つの象徴的神社とみる。
鎌倉時代和田合戦(1213年)の折り、三浦氏族支流の和田義盛は、北条義時の謀略で挑発され貶められる。横山氏はこの和田氏と縁戚関係にあり、和田義盛に加勢した。しかし有力御家人三浦義村は立場を決めかね、土壇場で北条に加勢し、同族の和田義盛を見放した。和田氏横山氏は兵力不足を補えないまま、鎌倉へ乗り込み北条軍に返り討ちにされる。結局その三浦氏も、宝治合戦(1247年)にて滅ぼされるのだが…。
その後、鎌倉幕府政所別当の大江広元が、当社境内に『横山神社』を創建。横山氏祖である横山義孝(小野義孝)を鎮魂したという。
因みにタクハタチチヂヒメは『雲津毘女』という名称もあり、『八雲』とは本来、スサノオの娘タクハタチヂヒメをさしているのではないかとも読み取れる。奇しくも、鎌倉由比若宮の近くにも八雲神社(神奈川県鎌倉市大町)がある。この辺は、ズバリ宮下文書を読まないと、読みとけない解釈であろうなあ…。
◯八王子城址八王子神社(東京都八王子市元八王子)
~御祭神~
・素戔嗚尊
・八王子神
天忍穂耳命
天穂日命
天津日子根命
活津日子根命
熊野久須毘命
多紀理毘売命
市寸島比売命
多岐都比売命
ここも日出日没レイライン上の神社だが、ここも八王子を語る上では欠かせない。
916年(延喜13年)深沢山にて妙行和尚が八王子権現を祀る。1578年(天正6年)北条氏照が八王子城守護として祀った。この八王子権現が、のちの八王子の地名となるとみられている。スサノオの八子(地祇系)の八島士奴美神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大歳神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命ではないところがポイントである。
八王子という街は富士朝と武蔵国の境、何かしら結界があるのだろうか?。そもそもそれは12代景行天皇が、富士朝と東国を分断する目的ムハタレの為に利用されていた、その名残りが飯縄権現『高尾山』とみている。
<神社めぐり>武蔵の国の富士隠し、大室八幡神社とホツマツタヱ『ムハタレ』の意外な接点。 - セキホツ熊の謎を追え!
八王子城は心霊スポットで有名なのだが(笑)、遠く都心部まで見渡せる絶景スポット。この日出日没レイライン上には、奇しくも武蔵野御陵と多磨御陵があり、明治神宮や内閣府やアメリカ大使館があるわけだ。そして瀬織津姫を祀る大国魂神社や日比谷神社もある。
これも偶然なのだろうか?
さて、またしても新たな課題が増えてしまった。
鎌倉八王子レイラインは妙義山への道のり、秩父十三仏霊場 文殊堂納経所『雲龍寺』(埼玉県秩父郡小鹿野伊豆沢)にたどり着き、伊豆山レイラインと合流する。八幡神のふるさと伊豆から、伊豆山本宮社を通り、伊豆沢へ、さらに新潟県弥彦神社へとたどり着くレイラインである。
この伊豆沢には文殊菩薩『文殊堂』が存在し、武蔵一宮小野神社の御祭神『瀬織津姫』の本地垂迹ではないかとみている。文殊菩薩=小野大神=瀬織津姫。
そして地名である『伊豆沢』、なにか八幡神と関係があるのだろうか?。
<レイラインの美学⑧>八幡宮来宮神社から伊豆山本宮社と来宮神社へ、八幡・熊野・来宮・離島信仰、混合二本のレイライン①Aライン。 - セキホツ熊の謎を追え!
<まとめ+追記>八幡神と比売大神イトウの正体わかった!宇佐神宮・伊豆山神社・天孫降臨・八王子権現のまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!
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宮下文書をお知らせすることが私の役割だとおもってますので、今後もブログは続けますし、なるべく配信出来るように努めます。どうか長い目でみてやってくださいませ。今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m。
※地図はクラフトマップ使用。www.craftmap.box-i.net