セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<神社めぐり>三毳山解明、宮下氏族『吉田氏』末裔・都賀氏と天台宗円仁の生誕地であった。

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三毳山と富士山を望む栃木市岩舟町三谷『熊野神社』。小野寺氏は熊野神を祀る氏族。

2021,12,25

三毳(みかも)山、またの名を安蘇(あそ)山。

宮下文書的に言うと阿祖=阿蘇、つまり富士山そのものを意味する山のこと。前記事より、ウシトラ34里にある第三の富士山を見つけてしまって、オッサン一人でパニック状態になっているわけだが…

(´(ェ)`)。

日月神示ウシトラの真偽は置いておいて、今回はこの三毳山をじっくり考察したい。

~目次~

<緊急続報>三毳山はとんでもないクロスポイントで、今までのすべてが繋がった件。 - セキホツ熊の謎を追え!

徳川家康の二面性?、山王神道がミワとカモを祀る理由。 - セキホツ熊の謎を追え!

三毳山周辺の歴史

今回気づいたのだが…、このあたりはとにかく安蘇=富士山だらけなのだ(笑)。唐沢山の現在の所在地も『富士』といい、前記事で紹介した寒澤山神社跡地『京路戸山』+『諏訪岳』の古名が『中村富士』といい、この中村富士がみえる葛生付近を富士見町という…。佐野市内『安蘇澤神社』近くを流れる秋山川は、『安蘇の川原』と呼ばれ万葉集にも詠まれている円仁所縁の地でもある。それだけこの地域の人々は、富士山をこよなく愛していた現れだろう。

三毳山西麓の西浦地区はかつて沼地で、上都賀郡中泉荘三毳の崎『太田の郷』と呼ばれた。西側には藤姓足利氏族・阿曽沼氏発祥地の『浅沼』がある。佐野市南部・旗川が渡良瀬川に流れ込む周辺には、『羽田郷』があった。富士朝氏族の痕跡も伺える。

 

◯『三毳神社』(栃木県栃木市藤岡町大田和)

〜御祭神~

・日本武命 

〜配祀〜

・伊邪那岐命

・伊邪那美命

・迦具土命

・大山祇命

・倉稲魂命

・五十猛神

・香々春男命

創建720年征夷将軍・多治比眞人による創建



◯『三毳神社(奥宮)』

〜御祭神~

・日本武尊

〜配祀〜

・香々背男命



◯『三鴨神社』(栃木県栃木市岩舟町下津原)

〜御祭神~

・事代主命

〜相殿~

・建御名方命

・香々背男命

・倉稲魂命

・武甕槌命

・櫛御氣野命

・天太玉命

・火産霊命

・伊邪那美命

・白山姫命

・若狭彦命

※1718創建。三鴨村社。三鴨とは旧名『三鴨(みかも)村』、東山道沿い『三鴨駅家』のこと。後述するがかつて三毳山は三鴨山と表記されていた。主祭神には鴨神であり、宮下文書比定カモサワヒメの父神コトシロヌシを祀る。香々背男命については、重要神なので次回記事で述べたい。

 

〜宮下文書版カモサワヒメとは〜

加茂澤毘女=別雷命=寒川毘女=三嶋神

※オオヤマツミ妃

※コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ母

※コトシロヌシとタカテルヒメ娘

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鴨神コトシロヌシを祀る、栃木市岩舟町下津原『三鴨神社』

上古『毛野国』は大国であり、今でも『両毛』という名称が存在する。これが16代仁徳天皇時代に『上野』『下野』に分離したわけだが、そもそもは応神天皇子孫宮下氏族領地であったハズだ。その平野境界にあるのがおおよそ『安蘇山』、現在の栃木県内の佐野・藤岡・岩舟付近。

 

宮下文書によると、2世紀初頭12代景行年間のヤマトタケル東征により、富士山以東〜東北南部『吾嬬惣国』が成立。国造には、富士朝宮守司長・福地記太夫が就任する。

4世紀初頭?、15代応神皇子である大山守皇子(宮下家)が富士朝大宮司家に婿入り、九男・大原毛野陸彦が毛野陸国造とされる。

この時、武内宿彌が皇位継承権をもつ菟道稚郎子を自決させ、富士朝大山守皇子(宮下家)と対立、16代仁徳天皇が東国を鎮圧しようとした。おそらくは、関東富士朝基盤そのものを細分化しようと企てたとみる…。

大宮司2代・宮下源太夫明政の御子『吉田氏』が毛野国県主として拡散され、都賀氏や塩谷氏の祖となる。下野国塩谷氏の痕跡は多少なり見られるが、都賀氏族の足取りはまだ掴めない…。前記事で書いたように、日光を開山した勝道上人の母方が豪族『吉田氏』という…、同族かは不明。

都賀氏族が何処を拠点としていたかは不明、ただ栃木市都賀町家中や三毳山南麓に『都賀』という地名が残り、奇しくも2つの『都賀』は山宮浅間神社〜富士山〜阿祖山太神宮旧跡〜二荒山神社と下記レイライン(赤線)を形成している。



〜都賀氏の推定地?~

・栃木県栃木市都賀町家中付近(下都賀郡壬生町壬生城から西5キロ)

・栃木県栃木市藤岡町都賀付近(三毳山南麓)

※ザックリ探しただけなので、もっとあるかもしれない。

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現在・栃木県下野市にも本吉田の地名が残る。応神天皇子孫宮下氏族『吉田氏』の痕跡ではないだろうかとみている…。

◯『八幡宮(吉田八幡宮)』(栃木県下野市本吉田)

〜御祭神〜

・誉田別命

〜境内社~

・愛宕神社

・浅間神社

・雷電神社(鳴雷神)

・八坂神社

・天満宮

・火坊神社

※1188年、藤姓太田氏族小山朝政により鶴岡八幡宮を勧請して、創建する。1191年(建久2年)以降の鶴岡八幡宮は、石清水八幡宮を勧請している。つまりこの本吉田の勧請はこの『古神体』の勧請ではないだろうかと…。

 

平安時代になると、藤原秀郷(俵藤太)が突如として現れる。下野国史生郷の土豪とも言われ、富士朝色の強い神社を次々創建させているので、富士朝氏族と深い繋がりを感じる。秀郷は近江富士『三上(みかみ)山』のムカデ退治で名を馳せているが、『三毳(みかも)山』がダブって感じられるのは私だけだろうか…???(苦笑)。

そして940年、『平将門の乱』を平定し朝廷より従四位下を賜る関東圏の英雄となる。但し、これだけの偉業を遂げたにしては、その後の子孫の動向が全く目立たない…。

 

『将門記』によると、三毳山は平将門と藤原秀郷が対陣していた『高山之頂』比定地、寺社領であった黒袴地区を佐野基綱公が治めた。周辺は時代によっては藤原秀郷流佐野氏の領土であり、お隣の小野寺領でもあり、興亡が繰り返されたようだ。佐野氏は藤姓足利氏庶流の同族、一方で藤姓小野寺氏は山内首藤氏庶流にあたり、遠い親戚のようなポジションとなる。

1183年(寿永2年)、同族足利氏は家中内乱の過程で頼朝に滅ぼされ、小山氏(秀郷流太田氏)と佐野氏と小野寺氏は鎌倉と強い結びつきを持つ。これが前記事で述べた、下野国寒川郷の『野木宮合戦』である。

 

鎌倉中期1247年(宝治元年)宝治合戦において佐野氏は三浦方についた為に、北条方に敗北。三浦氏同様に総領家は一時的に没落した。三浦氏と深い縁があり三浦党の一角と見なされていた。三毳神社奥宮の現在地は『栃木県栃木市藤岡町大田和』という地名で、三浦氏族の城名を彷彿とさせるのだが…。

因みに、宇都宮時綱(上条時綱)も三浦義村の娘を娶っており、三浦方に参戦していた。

 

南北朝時代、『姓氏家系大辞典』によると、藤姓足利氏を自称する藤岡氏が登場。前記事でも紹介しているが、下野国阿蘇郡富士邑の出自で『富士氏』を名乗っていたが、富士六郎房行から藤岡姓に改称される。藤岡氏については諸説あり、他系図と混同も見られるので注意。1481年、藤岡佐渡守秀行が、三毳山北西麓に『黒袴藤岡城』築城。なお藤岡城(花岡城)と黒袴藤岡城は、別城なので注意。

1585年に黒袴藤岡城が、相模国後北条氏の攻撃を受けて廃城、このとき三毳神社も兵焚により焼失、その後再建された模様。

 

江戸時代1623年(元和9年)、古河藩初代藩主・永井右近太夫直勝が領主となり崇敬し、社地奉納があった。このとき社殿も、氏子たちの手によって神殿改築される。つまり野木宮・下野国寒川七郷と三毳山は同じ藩域にあった。

永井直勝は頼朝の父を謀殺した尾張平氏長田氏の家系、さらには『築山殿事件』の折、家康の嫡男信康につかえていた。子孫には、永井荷風や三島由紀夫がいるという。前記事で書いた、三谷地区三島神社のおじいさんが話してくれた古河(寒川郷)からの移民というのは、どうやらこの時代の事らしい。

さて全くの妄想なのだが。。。宮下文書版ヤマトタケルが能煩野で死去した翌年、彼の御子を身籠っていた尾張の美夜媛が『長田王』を出産したというのだ…。まあ偶然なのかもしれないが。。。

※因みに私の母方祖母が永井姓なのだが…、詳細は不明(まさかね…w)。

 

1878年(明治11年)には、安蘇郡・上都賀郡・下都賀郡が誕生する。

 

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栃木県栃木市岩舟町下津原『高平寺』

円仁と空海と三毳山

800年延暦噴火後、最澄・円仁・空海・坂上田村麿、全国聖地を『水神』『八幡神』で繋ぎ、富士山『火神』を鎮魂していたグリッドワーカー的な様相が見えてきたと思う。

最澄弟子・天台宗円仁は、富士山早池峰山レイライン上の中尊寺や、喜多院に関係している。大慈寺を氏寺にしていた藤姓小野寺氏も、これに追随するかのように北上してゆく。円仁生誕地比定は、主に二箇所ある。

〜円仁生誕地説~

・三毳山麓(栃木県栃木市岩舟町下津原)

・壬生城近く壬生寺(下都賀郡壬生町)

天台宗三世座主・慈覚大師円仁は豪族壬生氏の出自、『八雲御抄』によると都賀郡『みかほの関(三鴫の関)』を生誕地としていた。三毳山山麓『高平寺』(栃木県栃木市岩舟町下津原)で9歳まで修行したとのこと。ここからも三毳=三鴫であり、『三鴨山』と称していたことがわかる。

しかしもう一つの『壬生町説』が出てきた背景には、16世紀以降高平寺が天台宗から真言宗に改宗された影響もあるようだ。壬生城主・壬生氏は日光山輪王寺(天台宗)の檀那であったようだが、円仁出自の『壬生氏』とは別系統との見方もある。

結果的に円仁は、三毳山東麓『高平寺』で9歳まで修行し、9〜15歳のとき小野寺山『大慈寺』で修行したとみられる。

しかし天台宗『大慈寺』由緒では、円仁は下都賀郡壬生町にある天台宗『壬生寺』で誕生したことになっているわけだ(苦笑)。つまり、真言宗に改宗した高平寺における、円仁経歴を隠す思惑があるのかもしれない。ただ気になるのは、この壬生町ちかくに『本吉田』という地名が残ること…。

いずれにせよ真相は謎…。こうやって様々な利権から歴史全体が歪曲されるんだなと…染み染み思う。

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真言宗は布教活動の一環として、各地に空海伝承を創作していったわけだが、三毳山にも空海の痕跡を残している。東麓の高平寺には円仁と思いきや、弘法大師(空海)像が立っており、これも改宗の影響だろうか。三毳山にも空海来訪伝承があり、現在南麓にある『みかも不動尊』境内右尊にも空海が祀られている。これは比較的最近(平成10年?)創建されたようだ。

三毳神社奥宮付近には『硯石』なる三毳山七石があり、空海が『龍』の文字をかき雨乞いしたという。因みに、三毳山最高峰は『青竜ヶ岳』(標高229m)という。雨乞いといえば雷神、大山阿夫利神社・山梨岡神社・金村別雷神社・雷電総本宮や日光の共通項…、宮下文書でいうところのカモサワヒメではないかと想像できる。一方で勝道上人は807年の干ばつの折、役人に雨乞いを日光『江尻滝』で祈祷、たちまち雨が降った。これが現在の華厳の滝の由来。やはり日光の田心姫命にもカモサワヒメと同様に、『あふり』的能力があるのだろうか…?。

山城国の賀茂別雷神社では賀茂別雷命を『雷除の神』を主張しているが、富士朝信仰本場の関東圏ではあくまで『雷神』であり、大山阿夫利神社の『あふり』も『雨降り』から来ているという説もある。もしかしたら、空海はカモサワヒメに雨乞い祈祷をしていたのだろうか…。

また三毳山『富士見台』付近には、琴平神社と天狗岩なる巨石がある。由緒によると、相模国最乗寺の守護神・道了天狗(妙覚道了)を祀る、渡良瀬川舟運信仰の一つだという。



※次回は、三毳神社の御祭神『香々背男命』と星宮神社について、面白いことがわかってきた。そして常陸国佐竹氏について触れる。

※地図はクラフトマップ使用。

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