セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈妄想考察〉八幡神の正体、玉を司る富士朝『祭祀王』。

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『大室八幡神社』(山梨県南都留郡道志村)


2021,8,9

今回は、宮下文書をベースとして、八幡神が一体何者なのか、個人的見解を纏めてみた。

 

タマノオヤがマイナーな理由

いままでの記事では、八幡神の正体はウサミかもしれないと迷った時期もあった。正直いえば、八幡神=タマノオヤという確信...、いや自信がなかった…(苦笑)。

①何故、古い八幡神は隠蔽されたのか?…。

②なのに何故、日本一の信仰たり得るのか?。

…というパラドックスが見えてこなかったのだ。

もっと踏み込んで言えば、ズバリ、なんで八幡神がマイナー神・タマノオヤでなければならないのか?。

 

答えは簡単、タマノオヤが富士朝トップ宮司だからだ。

 

兄ニニギが活動休止を余儀なくされ、衰弱死するなか、富士朝阿祖山太神宮・守護司長タマノオヤは着実に信仰の基礎を固めていった。神道創世記にて、神と人との調和を全国に広め、後世へと残る大活躍をしてしまったのだ。

『承久記』によると、『日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ』、アマテラスとは別系統であるものの皇室守護という位置づけとなる。ニニギとも別系統の『天孫降臨』伝承を持ち、さらには国津神地祇系統信仰からも独立した存在となる。



神武時代以降、皇別である富士朝は神道の『元祖』を主張して、反乱を繰り返してきた。10代崇神天皇は富士朝の存在意義を疑問視し、12代景行天皇時代には危険視されるようになった。富士朝もタマノオヤもマイナーなのではなく、意図的にマイナーにされたのだ。こうして兄ニニギの子孫である西国天皇勢力は、弟タマノオヤの司る富士朝信仰を恐れ、富士朝の正当性を人々に知られないように封じ込めはじめた。簡単に言えば富士山を、純粋な心でみんなでワッショイできなくなったのだ。

タマノオヤ八幡信仰は、タマノオヤ御子・宇都志日金命の子孫アズミ族へと継承されるものの、アズミ族もまた衰退してゆく。

 

このように様々なジレンマや思惑から、日本の神道システムも複雑化してゆく。

現在でも富士朝火信仰をベースにしており、その上に改竄された太陽信仰の仮装が乗っかっているだけと考えている。宇佐・日前宮・熊野という信仰は、神名はスリ替えつつも、根底にある中身は富士朝信仰そのもの。歴代天皇たちは祟りを恐れていたので、信仰を根こそぎリセットすることも、祀るのを止めることも出来なかった。

しかし、御先祖を外国人の信仰に全てを委ねるほど大馬鹿者ではないし、神仏習合も修験道も、根底にあるのは富士朝信仰の延長線ではないだろうかと思うのだ。現に、サルタヒコ子孫・坂上田村麿など富士朝系神官らは、後世に渡来系として語られる場合もあったようだ。

若輩者ながら私が注意喚起したいのは...、渡来系という先入観が、富士朝の痕跡を消している場合も多い。仏教や渡来系信仰の解析も、慎重でなければならない。富士朝という先行知識があるかないかで、初動が大きく変わってゆくのだ...。

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山梨県富士吉田市大明見『大明見小室浅間神社(富士山北東本宮小室浅間神社)』

人間の基本的な営み…。ミケツとカキツ。

もともと神道は『火』の信仰であったが、西国天皇勢力は統治効率化を目指した『日』の信仰へとシフトさせた。それでは発祥の地、富士朝御祖神のアイデンティティは、どのように変遷したのであろうか?。

<富士朝めぐり②>西国天皇勢力に奪われた太陽神、そもそも富士高天原は『火』と『水』の楽園だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

注目すべきは、御食津(ミケツ)神の存在。

人間の基礎活動となる、食物の営みの神。

  • 大宜都比売神とはオオゲツ=大月留男命(宮下文書版ツクヨミ)
  • 保食神、ホツマツタヱでは国狭槌尊の息子、つまり富士朝神?。
  • 宇迦御魂、『天地の御神霊(ウガのミタマ)』、神祖神宗。
  • 豊受大神=宮下文書版国常立尊夫妻のこと。

これら、富士朝神道の基本中の神々なのだ。

 

ミケツ神には、何故か秦氏の影響が絡んでくる。

11代垂仁天皇らは、富士朝神道に精通していた秦氏を利用して、富士朝神を隠しつつ祀る術を研究させた。それがオオヤマクイ・ウカノミタマ・応神天皇版八幡神であり、その見返りとして、秦氏には但馬国や山背国などの開発権をあたえられたのではないかと。

垂仁天皇らは、祖先神の祟りを恐れていたからこそ、神道改革を外国人秦氏にやらせていたのだ。もともとは富士朝客人勢力であった秦氏は、宮下文書(富士古文書)を漢字編纂した能力を有する。富士朝神道に精通しており、外国からの開拓テクノロジーも持ち合わせていた貴重な存在でもあった。秦氏からみれば、自らがこの国で住まう場所を獲得していくため、西国天皇勢力と利害が一致させていく訳だ。その時に富士朝神を、人間の基本的な営みとして、ミケツ神や稲荷神として誕生させたのではないだろうか?。

 

そしてそのミケツの語源と思われる『家基都(カキツ)』というのは、ニニギが定めた富士朝阿祖山太神宮の所在地のことであり、その家基都のトップ宮司に定められたのが、ニニギ弟タマノオヤであった。つまりタマノオヤ=家都御子(ケツミコ)神、あるいは櫛御食野(クシミケヌ)命であろう。

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宮下文書曰く、応神天皇御子・大山守皇子は徐福子孫と断言されている。

ここから、15代応神天皇は神功皇后を通じて、徐福秦氏の遺伝子がはいっていたものと推測される。もし、宮下文書研究家・鈴木貞一氏のいうように、タマノオヤ御子=宇都志日金命であれば、アズミ族として、タマノオヤの遺伝子も入っている可能性もある。アズミ族が衰退していた時期には、この秦氏が八幡信仰をバックアップしていたのではないだろうか?。

15代応神天皇子孫、29代欽明天皇の時代、八幡神=応神天皇として顕現されたという。45代聖武天皇により、神仏習合がなされ『八幡大菩薩』とされた。神道祭祀王の遺伝子はこうして、天皇家にも着実に継承されてゆくのだ。

このように秦氏の知識がなければ、現在の神道は無かったであろう。西国天皇勢力により、富士朝信仰も根底からの消されていた可能性もある。

<まとめ>15代応神天皇とは、古代八幡タマノオヤ・イワナガヒメと徐福秦氏の末裔?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

アメノヒボコに富士朝の影①、タジマモリ・オトタチバナ・神功皇后は徐福末裔? - セキホツ熊の謎を追え!

アメノヒボコに富士朝の影②、八幡神・応神天皇と三韓征伐の真相とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!




50代桓武平氏と56代清和源氏

西国天皇勢力は富士朝を危険視しつつも、祀りを止めることはなかった。

しかし八幡神を祀ることで、自ずと両者のジレンマが軽減されてきたのだ。八幡神祭祀は、間接的に富士ウガヤ御祖神を鎮魂し、さらには全国統治の免罪符ともなってくる。

つまり、諸事情から直接富士朝参りの術をなくした天皇勢力にとっては、東西の架け橋として掛け替えのない存在となってゆく。

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八幡信仰拡散で忘れることかできないのが、清和源氏と桓武平氏。

15代応神天皇〜欽明天皇の直系子孫が、清和源氏となる。彼らの拠点、河内国『石清水八幡宮』から八幡太郎義家らが、東征しつつ八幡信仰を東国に拡散させた。清和源氏は当初、『佐波神社』『由比若宮』など、タマノオヤを祀る気配は残してはいる...。しかしいつの頃からか、15代応神天皇八幡神にすり替えていったようだ。

そもそも56代清和天皇は、50代桓武天皇ともども応神天皇直系子孫、八幡神を崇敬する理由は同じ位あるということだ。後世に、桓武平氏と清和源氏が、富士朝地盤である関八州に馴染んでゆく理由もここにあるとみる、子孫である平将門は、八幡大菩薩の御神託を受けて『新皇』を称し、関八州を結束させ西国天皇勢力からの脱却を図る流れとなる。

50代桓武天皇という人物は、何かと渡来系イメージが付き纏う。しかし宮下文書視点から見れば、富士朝祭祀氏族サルタヒコ子孫『土師氏』の遺伝子を四分の一継承していて、富士朝先住民信仰に理解ある天皇であることがわかってきた(後日別記事にて)。このように、マスコミや教科書が作り上げた桓武天皇=渡来系イメージによって、富士朝の痕跡が見えなくされている面もあるのだ。

 

また清和源氏をリーダーとする『世の建て替え』が繰り返されてゆく。これが奇しくも、いつも清和源氏『八幡太郎義家』『賀茂次郎義綱』の遺伝子の連携となるのだ。

これも偶然なのか...、神の存在を感じてしまう話ではある(苦笑)。

▲兄・八幡太郎義家は山城国・石清水八幡宮で元服。

△弟・賀茂次郎義綱は山城国・賀茂別雷神社で元服。

あくまでも結果として言えば、この国の行く末、新しい時代への突破口を切り開いてきたのは、いつも八幡神別雷命『世の建て替え』コンビネーションであったのだ。

 

◯賀茂次郎義綱子孫三浦氏と源頼朝の同盟。

◯96代後醍醐天皇と新田義貞と三浦義勝の同盟。

◯新田氏族徳川家康と三浦氏族蘆名氏天海。

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※上図は系譜ではないので注意。源頼朝の直系子孫が、新田義貞という意味ではない。

徳川家祖新田氏・富士朝・南朝の壮大なる因縁。井伊氏はその仲介人?。 - セキホツ熊の謎を追え!

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宮下家は祭祀王の子孫

そして15代応神天皇の時代、秦氏遺伝子を持つ大山守皇子が富士朝へ派遣される。彼らは、15代応神天皇と神功皇后を富士朝にて祀り、その宮の下に住んだことから、宮下家を称することになったのだ。注目すべきは、このときには15代応神天皇=八幡信仰という概念は、未だなかった。

言い換えれば、西国天皇勢力が宮下家に敬意を示した結果、29代欽明天皇と共通の祖である15代応神天皇を神格化した経緯に至ったのかもしれない。これは富士朝色の強い東国『蝦夷』への配慮ともなり、富士朝への免罪符ともなりうる。

以降、富士朝の祭祀を任された『宮下家』を称して継承されてゆく。つまり『宮下家』というのは、応神天皇直系であり、タマノオヤアズミ族や出雲サルタヒコ子孫や秦氏の女系遺伝子を継いでいる、富士朝の祭祀王の家系なのだ。

 

◯『福地八幡社(渡辺大明神)』(山梨県富士吉田市下吉田)

〜御祭神〜

・天照皇大神

・寒川彦命

・息長帯比売命

・誉田別命

・渡辺綱命

※経緯は不明だが、富士吉田市上吉田にある『北口本宮富士浅間神社』にも『福地八幡社』がある。

 

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現在その痕跡を『福地八幡社』に見ることができる。

宮下文書によると、32代祟峻天皇時代(589年)、厩戸皇子が勅使として入麓、阿祖山太神宮を再興し、寒川大神(クニサツチ)を遷宮し高御久良神社(応神天皇・神功皇后)と合祀し、寒川大明神と称する。さらに、42代文武天皇時代(701年)勅願により、寒川大明神を福地八幡大神と改称し正一位を賜る。この『福地八幡社(渡辺大明神)』(山梨県富士吉田市下吉田)由緒と宮下文書は、おおよそ一致しているようだ。

ただ、寒川信仰と八幡信仰を合併させた神社...、今までこのコンビネーションの意味が、よくわからなかったのだ。単純に考えて、なんで八幡神と寒川神の並祀なのだろうか?…と。

しかし見方をかえれば、これも歴然とした八幡神と賀茂神の『世の建て替え』コンビネーションだとお判りであろう。賀茂別雷命カモサワヒメは寒川毘女命でもあり、寒川毘古命(オオヤマツミ)の妃であり、同じ寒川信仰で同神。ただ寒川大神と寒川毘古命は別神なので注意、寒川大神とは本来クニサツチのこと。宮下文書からも、現在の相模一宮『寒川神社』に、このクニサツチも遷座している経緯が伺える。

 

〜カモサワヒメの正体〜

・別雷命

・三嶋神

・寒川毘女命

・コトシロヌシの娘

・オオヤマツミの妃

・イワナガヒメとコノハナサクヤの母

 

▽八幡神は富士朝祭祀を取り仕切る王。

▲寒川神は富士朝の統括神。

つまり『玉神八幡神こそが、富士朝神や寒川神の祭祀を取り仕切っている、トップ宮司ですよ!!』という意味だろう。

 

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