2020,12,27
前回は『富士朝の見立て』の話をしたが…。
実はこれ、なんと新羅系統アメノヒボコ来日後の巡礼コースと重複してくるのだ。結論から言うと、アメノヒボコは秦氏ではないか?…と私は睨んでいる。
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今回は秦氏とアメノヒボコの類似点と矛盾点を列挙していく。相変わらず物証は少ないので…細かい状況証拠?を掻き集めてみた。
そもそもアメノヒボコとは、日本書紀編
〜日本書紀垂仁天皇3年条〜
要約すると天日槍は新羅から渡来し、播磨国宍粟邑に滞在していたという。不審に思った11代垂仁天皇は使者を送り尋問すると、朝鮮半島から来た新羅王子で、日本に聖皇(天皇)がいると聞いたのでやって来たと語ったという。
そして天皇に次の八品を献じた。
〜伊豆志大神(八つの神宝の総称とみる)〜
葉細の珠
足高(あしたか)の珠
鵜鹿鹿の赤石の珠
出石の刀子
出石の槍
日鏡
熊の神籬
胆狭浅(いささ)の大刀
垂仁天皇は、彼らに播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑に居住を許したものの、彼らは自ら諸国を遍歴し適地を探すことを願い出た。そもそも当初は素性がわからなかった集団に、この待遇は異例であろう。こうして、アメノヒボコ勢力は許可を得て諸国を巡り、最終的に但馬国出島(イズシマ)の太耳の娘を娶り拠点として、その玄孫にタジマモリ(田道間守)が誕生する。古事記では、このタジマモリの子孫が神功皇后とされる。
・播磨国宍粟邑(兵庫県/播磨一宮・伊和神社、御形神社)
↓
・淡路島出浅邑(兵庫県/由良湊神社、生石神社)
↓
・菟道河(宇治川)
↓
・近江国吾名邑(滋賀県/鏡神社、苗村神社、安羅神社、鉛錬日古神社)
↓
・近江若狭国(福井県/越前一宮・気比神宮、静志神社)
↓
・但馬国出島(兵庫県/但馬一宮・出石神社、気多神社)
タジマモリは常世の国に渡り、『橘(カグ)』を採取して不老不死の研究者となる。奇しくも、このあたりは徐福が持ち込んだ長寿信仰と重なり、垂仁天皇は日本書紀で、140歳という長寿で崩御したことになっている。
それを差し引いてもだ…。タジマモリはアメノヒボコの曾曾孫なので、同垂仁天皇時代では当然年代が折り合わないし、各書矛盾点が浮き彫りとなる。
同『日本書紀』には奇妙な記載がある。
15代応神天皇は、始め伊奢沙別命という名前だったのだが、誉田別尊に改名したという。つまり気比地元神(気比大神)と名前を交換したというのだ…。これは一体?。
『気比神宮』(福井県敦賀市曙町)はツヌガアラシトとアメノヒボコが同一視される地域で、ホツマ版ツノガアラシトは10代崇神天皇時代に加羅国から漂着して、朝鮮半島に帰国し『任那国』を建国したという。
◯『気比神宮』(福井県敦賀市曙町)
~御祭神~
・伊奢沙別命
~摂社~
・角鹿神社(都怒我阿羅斯等命・松尾大神合祀)
・伊佐々別神社(御食津大神荒魂)
・天利劔神社(天利劔大神)
・天伊弉奈姫神社(天比女若御子大神)
・天伊弉奈彦神社(天伊弉奈彦大神)
・鏡神社(神宝)
ほか
この伊奢沙(いざさ)別命は現在、越前一宮・気比神宮の主祭神で、『気比宮社記』では保食神(ウケモチ)と記されている。前記事でも書いたが、ホツマツタヱ版ウケモチはクニサツチの御子なので、富士朝神ではないかと思われるのだ。またウケモチとよく同一視されているオオゲツヒメは宮下文書版ツクヨミ(大月留男命)ではないかと。オオゲツ=大月。つまり日本書紀記載のツクヨミがウケモチを殺害するシーンは、富士朝の自滅を暗示させているのではないかと。
また摂社角鹿神社の松尾大神とは徐福の氏神オオヤマクイ、あるいは『火雷神』であろう。比叡山日吉大社にも気比神が祀られている。また気比神宮wikipediaによると、アメノヒボコが献じた『胆狭浅(いささ)の大刀』との接点がみられ、神功皇后と武内宿禰が『安曇連』に命じて気比大神を祀らせたという(後述)。気比神宮には確かに徐福勢力秦氏の痕跡はあるようだ。
個人的な意見としては、『気比神宮』はやはり富士朝祭祀の匂いが強くする。そしてイザナギと寒川比古夫妻を祀る富士朝系信仰『伊砂砂神社』(滋賀県草津市)とは関係ないのだろうか?。宮下文書における越はクニサツチ御子イザナギとクニトコダチ御子イザナミの所縁の地、イザナギ+イザナミ=イザサ?なんて妄想している…。
その他の文献によると。
古事記によると、アメノヒボコは神功皇后の女系祖先だが、日本書紀と古事記では系図も違い噛み合わない点が多い。
古事記記載の垂仁天皇の妃であった迦具夜比売命は、竹取物語『かぐや姫』のモデルと言われ、月と蓬莱の王国=富士朝の暗示とも取れる。wikipedia迦具夜比売命によると、常世信仰や不老不死など伝説をもつ、田道間守親族の神功皇后の実名と見る説あり。
播磨風土記版アメノヒボコは、播磨において中国地方出雲神アシハラノシコオと対立していたという神代の神話がある。おそらく播磨一宮・伊和神社に祀られているのは、このアシハラノシコオ(=オオナムチ)であろう。
◯ホツマツタヱ(37文)においては。
垂仁天皇に献じたアメヒボコの宝具は八品
・ハボソの玉
・アシタカの玉
・ウカガの玉
・イヅシ小刀
・イヅシ矛
・日鏡
・熊のヒモロゲズ
・イデアサの太刀
※日本書紀と似ており、おそらくホツマが日本書紀の元ネタとなっている。
イヅシにて宝具のイヅシ小刀が消えた次の項にタジマモリが登場するので、日本書紀から若干のズレが生じる。10代崇神天皇39年に渡来、『イズシマ』を治めていたフトミミの娘マタオを娶り、モロスケを生み、この曾孫がタジマモリ。後述するが、このイズシマが重要ポイントになるので覚えておいてほしい。またホツマツタヱには、同名別神のフトミミが二柱いるので注意。
ホツマ版タジマモリも11代垂仁天皇の信任を得て、常世(中国?)に橘(カグ)の採取のため渡航する。橘はクニトコダチの御世には『常世の花』とよばれており、但馬や丹波の国の信仰を匂わせている。その後タジマモリが常世(中国?)から帰還すると垂仁天皇は既に崩御しており、彼は悲しみに暮れ自決してしまう。
ホツマツタヱにおいて注目すべきは、タジマモリはオオヤマツミ系統ハナタチバナとの間にオトタチバナを誕生させた。タジマモリ自決の亡き後、容姿が似ているという理由で穂積氏祖オシヤマ(穂積忍山宿禰?)の養女とされた。これが別記事後述するが、サガムの小野神社(神奈川県厚木市)とも関係してくるので注目。
そして相模国別称を『タチバナ国』と称する。
彼女は、その名のごとく『橘(たちばな)』に因んで命名されたので、タジマモリの娘としてもおかしくはないし、少なくとも母ハナタチバナの出自は富士朝を彷彿とさせる。そして…相模国は徐福大国ともいわれる、秦氏の史跡が沢山ある地域だ。
その後はヤマトタケル(オウス)の妃の一人となり、東征に同行。相模国から上総に向かう船上、彼女は荒海を鎮めようと入水自殺するという…有名なエピソードを辿る。東征ルートには違いがあるものの、一連の流れは宮下文書と一致している。
宮下文書からの見解。オトタチバナと神功皇后の関係。
〜宮下文書三輪本現代訳・11代垂仁天皇の項目〜
三甲午年(BC27)六月、新羅の王子天日槍が来て宝物を献じた。
宮下文書には、10代崇神時代BC33年には任那の使者が来朝しているので、朝鮮半島使節の往来は結構あったようで、アメノヒボコについてもごく僅か記載がある。ただ上記のように『定住』したとは一言も書かれていないし、そのまま帰った可能性もある。
ただ宮下文書読者なら、記紀版アメノヒボコという存在自体がおかしいと気づくハズ、正直ツッコミどころ満載である。
まず、少なくとも新羅系ではないのではないかと…。
忘れてならないのは、新羅系(白木人)なのは中国地方出雲のほうだ。
彼らの蜂起こそが、神武東征の原因であり、その後の欠史八代はオオクニヌシ子孫・スサノオ子孫・祖家ウマシマジ子孫らが彼らを中国地方に閉じ込め、周囲を囲って彼らを監視していた。ウマシマジが祀られている『物部神社』(島根県大田市)には、ウマシマジは出雲を見張るために舞い降りたという伝承があるほど(関裕ニ氏より)。これはズバリ、宮下文書の渡来系出雲の描写と一致する。
※因みに宮下文書版ウマシマジは、物部氏ではなく蘇我氏祖となる。
その後、見張り勢力・オオクニヌシ子孫の三輪氏らが、新羅渡来系に懐柔または劣化され、監視能力が低下し始めたとみている。10代崇神天皇のBC38『出雲が乱れた』。続き、11代垂仁天皇の時代、AD31年『出雲国の罪因五◯◯人、徒党して諸国に乱入した』とあり、平定に3年かかったと記載あり。
なのにだ…、天皇勢力大和国の地理的防壁であるべきはずの丹波(タニハ)を、『新羅さん、どうぞ住みたいところに住んでください』と譲るなどナンセンスだろう。むしろ中国地方出雲の蜂起した新羅軍団を大和国へ誘う行為となる。重要なのは、このとき西国天皇勢力は対外的には新羅国と交流していたものの、国内的には新羅系勢力と揉めていたのだ。
こうなると、もう新羅人vs.新羅人みたいな…。
個人的には、前述のアメノヒボコ勢力が播磨において中国地方出雲神と対立していたという神話は、もともとタニハ(丹波)の持つ『出雲ブランド』を、新羅系渡来人が奪おうとしていたのをタニハ勢力が防いでいたのでは?とすら感じる。
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もう一つの疑問。
彼ら来日したばかりの渡来系なのに、アワジや琵琶湖やタニハ(丹波)などの聖地を熟知して、より好んで『巡礼』しているということだ。タニハは日本の信仰の要所であり、やすやすと外国人に渡せる土地でもないだろうし、『豊受大神』『出雲大神』ダブルの重要性を知っている人物ではないか?。
さらに巡礼コースには、富士朝を匂わせる痕跡が多い。
彼らが回った地域は、ツクヨミ(御形神社)、クニサツチ(苗村神社)、寒川比古夫妻(伊砂砂神社)や速開都姫(由良湊神社)、タマノオヤ(近江・玉作神社)、オオヤマクイ(鉛練比古神社)。松尾大社などで祀られるオオヤマクイは、秦氏の氏神とされた。仮に、もしこれら神社にアメノヒボコの影響が残っているのならば…、来日したばかりの新羅人が、なんでこんなに富士朝祭祀に傾倒しているんだ?。
まるで、宮下文書を漢文翻訳した渡来系右派、富士朝秦氏ではないか?(棒)。
というわけで私の考えでは…、もともとあった中国地方『新羅』勢力の影響力を薄めるべく、但馬にいた徐福秦氏勢力に『新羅』のレッテルを擦り付けたとみる。
※因みに、宮下文書版徐福が集団渡航して来たのは、8代孝元天皇の時代。
※因みに宮下文書においてタジマモリは登場しない(今のところは発見していない)。突如登場するオトタチバナは『大妃橘媛命』と表記され出自は記載されていない。また、神功皇后は名前のみで出自は明らかにされていない。
アメノヒボコと秦氏の重なり。
このブログで何度も書いているのだが…。
秦氏wikipediaによると、平野邦雄氏曰く、『アメノヒボコ説話のある地域は秦氏の居住地域と一致する』という。
上記巡礼ルートでいえば、琵琶湖東岸などが良い例で、東湖平野を拠点にしていたのは依智秦氏(秦氏の一族)。関裕ニ氏は『アメノヒボコ謎の真相』のなかで、タニハ勢力と近江・東海・尾張の結びつきが崇神大和建国に貢献したと書いている。それが関東地区の古墳埋葬品にフィードバックされ現れているのだが、日本書紀は何故かこれらの地域を無視している節があると述べている。もっとも関裕二氏は『宮下文書』は全く眼中にないようだが、尾張も東海も関東も富士朝勢力と強固な繋がりをもつ地域なのだ。
滋賀県琵琶湖東岸には、神功皇后の子孫・息長氏のと依智秦氏拠点が重複しており、アメノヒボコと秦氏の共通項『八幡神信仰』拠点、『日牟禮八幡宮』が存在する。
ただ気になるのは、この地域、旧来の富士朝にはない『太陽信仰』がかなり残っていおり、これが何を意味するのか?気になるところである。秦氏が、欠史八代以降の新しい神道『太陽信仰』を形成させていたとみるべきだろうか?。
また、但馬(丹後)の日下部氏は諸説あるが、基本的には9代開化天皇御子『日子坐王』子孫・狭穂彦王子孫。加茂喜三氏によるとやはり狭穂彦王子の垂仁天皇暗殺事件は富士朝勢力と関係があるという(そのうち?別記事で紹介する)。甲斐国造祖とも自称ツクヨミ子孫であるという伝承あり。祖先の浦嶋子とツクヨミを祀る宇良神社(浦島神社)は、安曇族の末裔・小野篁が絡んでくる。
日向日下部は、富士山高千穂峰レイライン上『日向二宮・都萬神社』(宮崎県西都市妻)の祠官で、近くには『日向総社・三宅神社』が存在している。そして、一ツ瀬川上流山間部には、『速開都姫神社』(宮崎県西都市)と寒川の字名が残る。
一般的に三国志魏志倭人伝の『伊都国』に比定される福岡県糸島市、『高祖神社』にはアメノヒボコ伝承あり、摂社にはウケモチが祀られている。糸島氏雷山にある雷神社には『水火雷電神』が祀られており、富士朝神『別雷命』や、秦氏や平将門の信仰していた『火雷神』を彷彿とさせる。またホツマツタヱ版ツクヨミは、この筑紫地域オトタチバナのアワキ宮で誕生していることになっている。
まあ…状況証拠の列挙でしかないが、ココにも秦氏とアメノヒボコ伝承が共存する。
そもそも三宅=屯倉(みやけ)、天皇家直轄地の意味合いを持つというが…。
宮下文書によると三宅=宮下家(徐福子孫・大山守皇子の末裔)、徐福子孫である富士朝宮下家を指す隠語ではないかと思うのだ。もちろん、全国すべてとは言わないが、アメノヒボコ子孫は後世に『三宅連』とよばれ各地分布していく。
宮下文書によると、後世平安期〜鎌倉期。かつて47代宮下源太夫明廣の弟・深巣二郎清国が鎮西八郎為朝に仕えた後、ともに伊豆諸島八丈島周辺に配流され、住んだ島を『宮下(みやけ)島』と呼んでいた。後世鎌倉後期に、北条得宗家が富士朝宮下家や三浦氏の痕跡を消すために『三宅記』や『ウエツフミ』を作成し、三嶋神カモサワヒメや宇佐比売大神イトウ(伊豆大神イワナガヒメ)の神話を徹底的に改竄。イワナガヒメ抹消のために伊豆と九州同時並行的に歴史改竄を敢行。このとき豊後の大友能直は、口封じのために、神代文字作成に協力したサンカ(寒河=寒川)1600人を殺害したなんて説もある。
このように、もし仮にアメノヒボコと秦氏の痕跡が重なり合うならば、オトタチバナや神功皇后、そして大山守皇子は徐福秦氏と宮下文書空白部が補正されて繋がる。即ち、ヤマトタケルが造反した富士朝を、徐福秦氏に託した理由も説明がつく。
※因みに。 富士を意味する『福地山』というのは、崇神時代(BC88)に、『不二山(富士山)』から改名している。時代背景的に察すると、徐福富士朝勢力『福』の隠語とおもわれる。
さて、なんで百戦錬磨のヤマトタケルは富士朝を赦せたのか?。
やはり秦氏が、最愛の妻オトタチバナの親族だったからだろう、結果的に彼女の殉死が富士朝を救ったのだ。ヤマトタケルは命懸けで危機を救ってくれた妻を嘆き、『吾妻よ!!』と東国で叫び続けた。その親族を信頼し、本妻『美夜受媛』との愛娘に『福地媛』と名付け、富士朝に託した。さらに関東一円を『吾嬬の国(吾嬬惣国)』と称して、阿祖山太神宮の7代宮守司長・福地記太夫を国造として任命した。富士朝の客人であった徐福秦氏への感謝と償いと信頼が垣間見えてくるのだ。
つまりヤマトタケル戦後統治は、古来から造反を繰り返す東国原住民を監視させるため、徐福勢力に富士朝を託したのだ。後世、富士朝は緩やかに秦氏に淘汰されていく。そして何より決定的なのは、三輪本現代訳『大山守皇子は徐福の子孫である』と明記されている。
では、これが本当ならば、一体どこから?と考えるわけだ…。
大山守皇子は15代応神天皇死後に、応神天皇遺髪と神功皇后弓矢を高天原阿田都山に祀り、『高御久良神社』(福地八幡宮?)を創建した。皇子はその宮下に住んだことから『宮下家』を称す。やはり徐福遺伝子の流れは、謎多き『皇后』と見るのが自然か…。これらオトタチバナ、応神天皇、神功皇后、彼らの共通項が富士朝秦氏であることを隠蔽するために、新羅王子アメノヒボコの子孫に付会されていったのではないだろうか?。
因みに、『高良大社』(福岡県久留米市御井町)に祀られる高良玉垂命は、この『高御久良神社』が原型ではないかとみる。富士朝における応神天皇信仰ではないかと…。応神天皇=八幡信仰とされてからは、富士朝や秦氏との関係が明かせなくなったのであろう。境内摂社・日吉社にオオヤマクイが祀られていることにも注目。
なお、宮下文書研究家の加茂喜三氏は高良玉垂命=武内宿彌としている。
<富士朝めぐり①>先現と徐福、新旧二つの富士朝。八幡神をすり替えたのは徐福富士朝だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!
緊急続報!氷川神スサノオの転生であった『日本武尊』、目指したのはあの重心点だった!。津島越え伊勢路に死す『墓場までのレイライン』。 - セキホツ熊の謎を追え!
これらの事象を受けて、西国天皇勢力は渡来系秦氏を信用していたからこそ、全国に定住させることを許可した。富士朝に精通しつつ、渡来の知恵を持つ彼らに各地の古神霊を鎮魂させ、新しい神道『太陽信仰神道』を模索させていたのかもしれない。
旧来の『火』から、『日』の神道へ。
この大転換を促進させたい西国天皇勢力にとって、秦氏は、いわば富士朝穏健派であった。しかし16代仁徳天皇時代、徐福子孫大山守皇子が造反を企てると事態は一転、秦氏勢力は逆に危険視され、全国で富士朝共々痕跡を消される立場となる。危機を感じた各地秦氏は敵意がない事を示すために、各地開拓事業に協力していったのかもしれない。平安期相模国南部の『大庭御厨』も彼らの開発ではないだろうか…、即ち鎌倉権五郎景正=『御霊大神』(武蔵国府大国魂神社など)とは、相模国徐福勢力の信仰なのかもしれない。
<富士朝めぐり②>西国天皇勢力に奪われた太陽神、そもそも富士高天原は『火』と『水』の楽園だった。 - セキホツ熊の謎を追え!
※上写真は、狩野川にタマノオヤを祀る『玉作神社』(静岡県沼津市黒瀬町)。かつては瀬織津姫が祀られていた説がある。
出石と伊豆が結ばれていく?、キーワードは『枯野船』だった。
〜宮下文書の地名由来〜
・田場=丹波
・稲場=因幡(稲穂がたくさん取れた場所)
・田路場=但馬(稲葉へ通る道)
・針美=播磨?(釣りの場所)
丹波の兵庫県豊岡盆地にある『出石神社』、アメノヒボコが巡礼の果に、最終的居住地とした場所だ。豊岡盆地は縄文時代にはリアス式の深い入り江で、日本海へぬける玄関口であった。宮下文書版クニトコダチの拠点は東の桑田宮だが、田場を交通の『要所』と記載する。海洋族ともいわれるアメノヒボコも、日本海に出やすい適地に選んだということか?。
◯丹波一宮・出石神社(兵庫県豊岡市出石町)
〜御祭神〜
・伊豆志八前大神
・天日槍命
〜摂社〜
・比売神社(麻多烏、天日槍の妃神)
・市杵島比売神社
ほか
以降参考にしたのは、facebookの投稿記事『丹後の歴史と伝説』さんより。
この地域、伊豆と繋がりがある。もともとこの地域は『伊豆志』とも表記され、現在でも豊岡市出石町伊豆周辺に『箱根神社』があり、ヒコホホデミが祀られる。また藤原南家工藤氏の流れをくむ伊豆国発祥の氏族『狩野(かの)姓』がみられるという。ここで、アメノヒボコ子孫といわれている神功皇后が三韓征伐の際、前記事で紹介した伊豆『枯野船』を思い出すわけだ。これは偶然だろうか?。
※因みにこの枯野(かの)という船は、太平洋諸国に流れ『カヌー』の語源となっているという。
※宮下文書版『狩野氏』は伊東氏族ではなく、宮下家大山守皇子6子の榛原須留賀彦を祖とする。
前述した『イズシマ』のフトミミ勢力の正体は不明だが、前述のとおり、出石は大陸への要港であった。それ故に伊豆由来氏族と造船・航行技術が必要とされ、アメノヒボコ氏族と合流したのではないか?と…。
実際、その可能性は出てきた…。
その鍵を握るのが安曇族系皇子『日子坐王』。
そして、加茂喜三氏が語っていた伊豆の安曇族、神功皇后将軍『難波根子建振熊命』。
近く記事にしたい。
次回記事↓
※地図はクラフトマップ使用。