セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

富士山と鳴門の仕組み解明。加茂喜三氏が見破った神功皇后洗脳のパラドックス。

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神功皇后軍協力の伝承が残る『伊那下神社』(静岡県賀茂郡松崎町)


2020,11,22

歴史のすり替え論、富士山と鳴門は見立てであった?。

宮下文書を読んでわかること。

タギシミミや大山守皇子の造反、賀茂次郎義綱一家の集団自決事件、南朝の終焉も、世間的にはすべて西国で起き、完結した事と処理されている。

宮下文書と記紀を読み比べ感じるのが、『見立て』である。

結論から言えば、高天原・阿祖・日向・高千穂・加茂・淡島という地名は富士朝勢力由来。歴史改竄のためには、富士朝へ費やした時間・出来事・場所、そのまま西国で起きた出来事と当て嵌める必要が出てくるのだ。

なぜそこまでして、各歴史書は富士朝史を抹消したのか?。宮下文書とホツマツタヱ以外に、富士朝の痕跡は辿れないということは、富士朝を意図的に消していた疑いがある。消せたとしても、かなり徹底的だったと、、、。

根本的に、西国天皇勢力と富士朝、どちらも渡来系に迎合されたとはいえ、遺伝子的には同祖皇別の関係にあたる。ただ興味深い点は、東国の蜂起のメカニズムは、主に西国天皇勢力の血筋が合流しとことにより、化学反応的に発生しているパターンが多いのだ。皇別たる西国皇子の大義名分を頂けば、求心力が増大、朝敵リスクも軽減する。

今回はこのあたりの、東西パワーバランスを解析していく。

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天皇家の源流、富士朝の危険性。鎌倉幕府の真相。

※この項目は、今までの前記事を読んでいない方の為なので、前記事既読の方は次の『富士山と鳴門』の項目へどうぞ↓。


宮下文書を紐解くと。天皇家の最大の敵は、間違いなく身内。

神武東征の原因も、渡来系の禍津亘理命が奉じたのが46代ウガヤ王の玄孫・真佐勝彦命の造反であった。平安期の清和天皇皇兄・惟喬親王など皇位を逃した皇別王子は、『廃太子』などと言われ都落ちも珍しくはない。京に残せば反乱分子となる、かと言って皇族を殺害などはできない。

武内宿彌子孫・紀氏をバックボーンとする小野宮・惟喬親王は、皇位継承に敗れると都を追われ、木地師に祀られている形跡がある。それだけ皇祖と同じ遺伝子は、天皇家を揺るがす大義名分をもつ。

東奔西走した東征者氏族『清和源氏』の役割と、清和天皇の兄・惟喬親王のナゾの行動。 - セキホツ熊の謎を追え!

宮下文書によると、後世平安末期、加茂明神(カモサワヒメ・別雷命・寒川毘女)こと上賀茂神社宮司が、紀氏・紀長貫。紀氏は、清和源氏・賀茂次郎義綱の家臣として従軍していた。さらに賀茂次郎の子孫・源義明(三浦義明)が鎌倉へ下り、三浦義顕が富士朝宮下家に婿入り。つまり15代応神天皇の子孫に、富士朝に清和源氏の血筋が合流した。

こうして富士朝宮下家は、おなじ清和源氏の源頼朝伊豆山挙兵をバックアップ、東国の西国天皇勢力からの脱却を成し遂げた。

まるで紀氏は鎌倉時代に至るまで、虎視眈々と、富士朝再興の機運を伺っていたようだ。武内宿彌は富士朝徐福勢力とも縁が深く、彼の子孫を自称する紀氏は、影の東国と西国とのパイプ役だったのかもしれない。

※加茂喜三氏曰く、サンカ=寒河=寒川。木地師とサンカは似て非なる部族だが、紀氏の関与を考えると、どちらも根底にあるのは、オオヤマツミやカモサワヒメの富士朝信仰ではないだろうか?。

『暫』と『源義忠暗殺事件』に潜んだ真相。富士朝・加茂次郎子孫は鎌倉幕府に貢献していた。 - セキホツ熊の謎を追え!



皇別の拡大解釈とは。

簡単に言えば、それが天皇家と富士朝の関係である。いや富士朝から見れば、『本家はウチだ』『無視すんな』というのが当たり前。これが長年両者を苦しめたジレンマでもあった。

仮にもしこれが事実で、各歴史書に富士朝の名が明記され続ければ、彼らの子孫に反抗の口実を与え続けることにもなる。タギシミミにしろ、大山守皇子にしろ、桓武天皇子孫平将門にしろ、隙あらば富士朝復興勢力、或いはその傀儡と合流し反旗を翻してきた。

東国にしてみれば権威の奪還こそ悲願であり、西国がそれを見逃せば、天皇や将軍をはじめ既存勢力の求心力が揺らぐ。ゆえに西国天皇勢力は、富士朝大義名分を完膚なきまで消すのことが、直近〜恒久的課題の国家プロジェクトまでになってくる。

 この富士朝消去と歴史洗脳には、かなりの労力を費やしたであろう。実質消去は南北朝時代か?。12代景行天皇によるホツマツタヱ成立から、消去に実に二千年近くの時間を費やしたとみる。それでも人々は富士王朝を偲び、密かに各地の田村麻呂英雄譚や、歌舞伎演目『暫』、かぐや姫伝承や天狗伝承などで語り継ごうとしていた節もある。

 

また安曇族・宇都志日金折子孫が、日金山や伊豆山や宇佐にタマノオヤとイワナガヒメを祀れなくなった一番の理由も、彼らがニニギの最大『皇別』勢力であったのが大きい。オリジナル八幡というその存在感は、歴代最も危険な信仰とみなされ、後世に15代応神天皇の信仰にすり替えられたのではないか(後述)。

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小野氏はイワナガヒメ末裔?。夏至レイライン多摩にて『タマ』を見守ってきた玉神八幡氏族の本懐とは。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

こうして歴史を紐解くと、日本史とは西国と東国のまさに綱引合戦、しかし東国は再興を挑み、西国天皇勢力は唯一無二を主張し続けてきた。これは現代においても、天皇にとって富士朝は『あってはならない存在』。改竄する方も日夜、神々の祟りや、反乱分子に怯え命懸けだった。

果たして、これが富士山の歴史が隠蔽されている実態なのか?。現代人のわれわれが気づかないだけで、もっと東西組み換えしている史実は出てくるんじゃないか?。

宮下文書を知らない人のために、前置きが長くなったが(笑)。この皇別同士の争い『神功皇后の忍熊王討伐』も、西国ではなく、東国で起きたのではないかという説を紹介する。



富士山と鳴門の仕組みはひっくり返っている?!。

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『神功皇后と忍熊皇王の戦い』

 

~日本書紀より~

三韓征伐帰途の折、天照大神の御神託あり。『アマテラスの和魂が天皇を守護し、荒魂が船を先導していく』とのお告げがあったという。

このとき神功皇后は御子(後の15代応神天皇)を宿しており、忍熊王が神功皇后を殺害しようと淡路島と明石の間で待ち構えていた。神功皇后はこれを察知、淡路島を南から迂回、鳴門海峡→紀淡海峡→難波を目指す。しかし難波の港の目前で、船ごとぐるぐる回って立ち往生する。これは鳴門の渦潮を暗示しているともいわれている。

神宮皇后は兵庫の港に戻り、再びご神託を求めると、『荒魂を皇居より離れた広田国に置け』という内容であった。

神功皇后は、山背根子の娘・葉山媛に天照大神荒魂を祀らせた。こうして廣田神社が創建。同時期のお告げに従って『廣田国』『生田長峡国』『長田国』『大津渟中倉長峡』にそれぞれ異なる御祭神を祀らせた。

 

◯神宮皇后への御神託 

・廣田国=廣田神社

・生田長峡国=生田神社

・長田国=長田神社

・大津渟中倉長峡=住吉大社or本住吉神社?

 

◯廣田神社(兵庫県西宮市大社町)

〜御祭神〜

・天照大神荒魂

(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)

・第一脇殿祭神 住吉大神

・第二脇殿祭神 八幡大神

・第三脇殿祭神 武御名方大神

・第四脇殿祭神 高皇産霊神

〜境内社〜

齋殿神社    葉山媛命

伊和志豆神社  伊和志豆之大神

ほか

 ※西暦201創建。戦前まで御祭神は『瀬織津姫』名義であった。かつての奥宮が『六甲山神社』と『六甲比命神社』。現在六甲山神社に菊理媛命、六甲比命神社に瀬織津姫を祀る。宮下文書によると、コノハナサクヤの名の一つに菊里毘女尊(諱・阿田都毘女尊)が挙げられている。まさに富士朝女神たちを祀るための神社であろう。

 

すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を撃破することができた。このように廣田神社・生田神社・長田神社の三社は創建理由が似ているのだ。

※但し、航行ルートには諸説あり、説により矛盾点もでてくるので注意。

このとき神功皇后を守護していたのが難波根子建振熊命、後述するが忍熊王討伐に参加し、この戦局を乗り越えた人物。忍熊皇子軍は更に退いて菟道(うじ)に陣取り皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって逃亡、さらに滋賀県大津市琵琶湖付近の逢坂にて敗れた。逃げ場を失った忍熊王は、宇治川に投身自殺する。

埋葬地は諸説あり、奈良県奈良市押熊に押熊八幡神社境内にも香坂王子・忍熊王子旧蹟地がる。この『押熊』の地名表記と忍熊王の関連性については不明。

 

さてここで、宮下文書研究家の加茂喜三氏は次のような説を論じる。結論から言えば、前述の『忍熊王討伐』の舞台は伊豆であったという???。

 

加茂氏『富士王朝の滅亡』『日本の神朝時代』要約。

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加茂喜三氏『神宮皇后と押熊王の戦い』

加茂氏『富士王朝の滅亡』曰く、

『神功皇后が土狩にて富士王朝の軍と戦ったかに解される記事が「古事記」に誌されている。但し「古事記」は九州から上るごとく扱っている』

神功皇后の三韓征伐出兵の折、神功皇后は大量の船を調達する必要性があった。かつて伊豆『淡島』に住んでいた日栄子(オオワダツミと同神)子孫が開発した葦船=枯野ノ船は、堅牢で船足が早いことは西国にも知られていた。古来伊豆の造船・航海技術がずば抜けて長けており、重宝されていたようだ。

そういえば古事記においてのヒルコは不具の子とされ、『葦船』にてオノゴロ島より流されてしまうという伝承がある。オノゴロ島は本居宣長によると淡路島北端・絵島。かつて周辺は葦の群生地であり、転じて豊阿始原(トヨアシハラ)や愛鷹山(アシタカヤマ)の語源という。伊豆淡島=葦=ワダツミ(ヒルコ)という図式が浮き彫りとなる。

 

神功皇后は幼い応神天皇を連れて、これらを調達するために伊豆に来たが、敵に取り囲まれてしまう。

ここで応神天皇の腹違いの御子籠坂ノ王と押熊ノ王が、と戦うことになった。なぜ押熊ノ王が伊豆にいたのか詳細は加茂氏にもわからないとのこと(苦笑)、やはり皇位争いの絡みとみられる。

そこで神功皇后は一計を案じ、応神天皇は崩御したと嘘をつく、すると籠坂ノ王と押熊ノ王の兄弟は神功皇后に祈狩をしようと提案。同じ血統の義弟の死を気遣った。

その祈狩の最中、籠坂ノ王は大きな猪に殺されてしまう。彼がこの地方にいた痕跡が静岡県山梨県境の『籠坂峠』という。弟の押熊ノ王は、兄が殺害されたのは神功皇后の責任だと八つ当たり、応神天皇喪船を襲撃しはじめた。

神功皇后はまた一計を案じ、自らが薨去し降参すると見せかける。その際、頭髪に弓矢を忍ばせておき、隙きを見て押熊ノ王を殺害した。

 

加茂喜三氏の言い分は、こうだ(憶測的要約)。

『そもそもこれらが関西で起きたと明記されておらず、後世の勝手な決めつけで西国の案件となっている。斗賀野=土狩、逢坂=大坂、カゴ坂=籠坂、山代=屋代という地名は駿河にもあるんじゃいっ、、、。義務教育や世の史家はどいつもこいつも節穴か?、あしたか山なめんなよ!』。

ま私自身、こういうブログをやっている時点で、賛否両論あるのは覚悟の上なのだが(困惑)。

因みに三輪本現代訳には、全く触れられていない件なので注意。

ただこれ、歴史洗脳の解き方としては、天下一品の着眼点ではないかと。祭祀的に東西がひっくり返っているということだ。

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※上写真。後世鎌倉時代に、葉室(藤原)光親が処刑された籠坂峠付近の『加古坂神社』。入り口にある由緒書きによると、御祭神は葉室(藤原)光親、相殿神として級津彦命?と級戸辺命?(二柱として?記述が曖昧なので注意)が祀られている。しかし氏曰く、籠坂ノ王=加古坂ノ王が祀られているという。
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※上写真、狩野川沿いにある静岡県沼津市黒瀬町『玉作神社』、関東玉造郷。玉祖命とミズハノメを祀る。かつては瀬織津姫が祀られていたとの説有。伊豆半島北部は熊野神を祀る神社も多く、タマノオヤ子孫安曇族、熱海アタ族との縁深い関わりも見えてくる。後世に、難波根子建振熊命の子孫は『富士宮浅間大社』宮司・富士氏となる。

〈神社めぐり麻賀多神社①〉宮下文書✕日月神示で考えてみよう!、富士山と鳴門の仕組み、祓戸四柱ヒムカの関係性。 - セキホツ熊の謎を追え!

まるでマトリックスの虚構世界、神功皇后の東西すり替えられた嘘の歴史。 

神功皇后と伊豆の密接な関係は、加茂氏だけが述べているわけではない。伊豆勢力の一部は、住吉三神を祀り、三韓征伐に船の提供をしていたようだ。

 

◯伊那下神社(静岡県松崎町静岡県賀茂郡松崎町)

〜御祭神〜

・彦火火出見尊 

・住吉三神

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『伊那下神社』HPの由緒によると、西伊豆周辺には大山祇命系統の石火族が住んでおり、神功皇后新羅征伐の御船を守護していた。長門豊浦に留まった後、伊豆松崎に戻り神功皇后ゆかりの住吉三神を祀ったという。『式内社調査報告』によると、猪名部一族が造船に従事したこともあり、集落を猪名=伊那と読んだ。

宮下文書で背景を調べると栄日子命=オオワダツミ。初代ウガヤ王時代より、ワダツミ八子が四海を守護、うち6、7、8子は太平洋の離島警護のために三島を拠点として『渡住三家』と呼ばれ、伊豆に八幡神信仰を凱旋させたとみる。ニニギ『外寇親征の役』からウガヤ時代まで複数回(9回ほど)の外国人襲来があり、ワダツミ八子らは、漂着民防衛の重要性を学んだのであろう。また伊豆にはワダツミやヒルコ信仰も多い。

伊豆の造船・航海技術も、きっかけはこのあたりであろう。

この葦船はかなり頑丈で、建造後25年後に応神天皇により処分された。日本書紀曰く『応神天皇三十一年秋八月、伊豆の国か献ずるところの官船枯野は朽廃して用をなさず天皇詔を下してこれを壊わたしめ給う』。船は塩製造の釜の薪とされたが、なんと火をつけても燃えない個体が残ったという。応神天皇は奇異に思い、これらで琴を作成させると、その音色は素晴らしいものであったという。

 

 

 

さて、加茂先生論の真偽はとりあえず置いておいて、気になることが浮上してくる。

ん〜、これはもしかして、、、あぁ〜なるほど。

改めて見ると、大阪湾周辺は駿河湾周辺の『見立て』にも見えてくるな、、、。

 

・淡路島=淡島?(ヒルコ)

・廣田神社=富士朝?(アマテラス、瀬織津姫)

・長田神社=三嶋大社?(コトシロヌシ)

・生田神社=淡島?(ワカヒルメ=ヒルコ?)

・住吉大社=伊那下神社?(住吉三神)

・由良湊神社=三嶋大社?(速開都姫=伊豆能売=カモサワヒメ?)

※そして速開都姫が、なぜ伊豆能売と言われているかも見えてくる。

 

前記事で、伊吹山~宇治川~大阪湾~鳴門海峡の流れが、祓戸四柱を准えていると書いたが。歴史改竄の『穢』の浄化をさせているのかもしれない。

古事記の原書とみられるホツマツタヱによると、ヒルコ(ワカヒルメ)は女神とされている。イザナギの一子が『女』であるというだけの理由から流され、載せられたのはイワクスフネ(斎奇船)、汚穢屈す船。そして、カナサキこと速開都姫の父、スミヨシ(のちのワダツミ勢力)に保護されている。死後は、瀬織津姫ことムカツ姫と共にヒロタ国に祀られている。個人的にカモサワヒメ=速開都姫ではないかと推測してきたわけだが、改竄過程の辻褄もあってくる。役者も揃ってくる!。

一般的には、忍熊ノ王同様、東国富士朝宮下家に婿入りしたハズの15代応神天皇の大山守皇子も、宇治川で水死したことになっている。西国天皇勢力が不都合と思われる事件や人物を『穢』とし、そして女性の可能性を封じ込めて、宇治川や大阪湾に流し、鳴門の渦潮に飲み込ませていたのかと(妄想)。

祓戸四柱の本来の神力、『三種神器』と『女性の創造性』の誤用ではないかと、、、。

 

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次回に続く。

 

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