セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<南北朝時代>三浦義勝と足利直義、富士朝ゲリラ戦の悲しい末路。

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雷神三神を祀る、『雷電神社総本宮』(群馬県邑楽郡板倉町)


2021,6,19

当ブログは富士古文書『宮下文書』視点から、南北朝時代を考察している。

最近、神社考察から脱線している感は否めないが、神社情報もあるのでご安心を(苦笑)。今回は前記事でも掲載しているが、三浦義勝が足利勢力を離反させていく過程について、妄想考察してみる。もちろん宮下文書を知らない方も大歓迎、ただ始めは難しいと思われるので、前記事を読まれることをお勧めする。

 ~過去記事~

室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!

楠木正成は本姓橘氏、母方は宮下家派生の富士朝神官・井出氏だった!!。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈花見塚神社〉新田氏首塚を守る、パラレルワールドに存在したもう一つの宮下家。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

『観応の擾乱』と三浦義勝の企み

 

~神奈川徐福研究会・宮下文書三輪本現代語訳『神皇紀』239ページより~

『義勝は先ず、弟の三浦八郎左衛門孝通を間諜に入れ、奇計をめぐらし、足利氏兄弟を離間させた。』

 

具体的な記述、年号もないのでなんともいえないのだが、個人的には1350〜1352『観応の擾乱』を指しているのではないだろうか?と見ている。

簡単にいえば、足利尊氏(高氏)と足利直義は北朝方、強い絆の兄弟であった。しかし最終的には直義が寝返って、南朝を奉り兄・尊氏と対決していく図式になるのだ。激闘の末の1352年、弟・直義は鎌倉の浄妙寺境内延福寺にて幽閉されるも、急死や殺害説もある。

足利直義に何があったのだろうか?。

この撹乱には、どうやら富士朝宮下家57代・三浦義勝が絡んでいたのではないかと...。そして今回は、勝利のためなら手段を選ばない、彼の非情な一面が浮き彫りとなった。

 

南北朝時代はとても複雑なので、ここで補足。

一般的に知られている、1350〜1352年『観応の擾乱』までを簡単に説明すると。

◯1333年、鎌倉幕府陥落。96代後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒幕に貢献した、足利勢力・新田勢力・楠木勢力らを参画させて、建武の新政を樹立。

◯その後、東国にて旧北条得宗家の北条時行が蜂起、鎌倉を奪還する事件が起こる。足利尊氏は後醍醐天皇の了承なくこれを撃退、鎌倉を再奪還する。この時足利軍は、京都にいる後醍醐天皇と新田義貞の動きに不信感を持っており、弟の直義は尊氏に鎌倉に残るべきだと進言し、鎌倉に籠もる。

さらに足利尊氏は、ライバル新田義貞の上野国などの所領を、鎌倉再奪還に従軍していた者たちに、勝手に恩賞として分給してしまう。新田氏上野国守護職が上杉憲房に与えられ、上野国新田荘は三浦高継に与えられた。この分をわきまえぬ身勝手な行動に、96代後醍醐天皇と新田義貞ら南朝側が激怒。以降、北朝足利氏との対立を深めてゆくわけだが...。

その足利氏との激戦の果て、楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将が早々と戦死してゆく。他方で北朝側の足利氏族内部も、足利尊氏と足利直義との兄弟間の対立へと表面化してしまう。さらに、『宇都宮文書』によると、三浦高継の子・三浦高通なる人物が、足利直義に属していたというのだ。


ブログ前記事を読んでいる方は、お気づきだろうか?。足利氏に三浦氏族・三浦高継が味方している...。
さらに足利氏から、新田荘を賜っている?

あれあれ?、なんだこの珍現象は???(笑)。

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楠木正成の首級伝承がある、『楠木神社』(群馬県館林市楠町)。

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境内由緒には三浦義勝の情報がある。


ここで宮下文書の記載を振り返ってみよう。

前記事通り宮下文書では、後醍醐天皇+新田勢力+楠木勢力+富士朝は、始めっからズブズブだったのだ。何も知らない足利尊氏はこれに疎外感を感じていたようで、鎌倉再奪還で武功をあげることに焦っていたと見る。尊氏はみんなからハブにされた上に、撹乱作戦による兄弟対立で弟を失うハメになり、富士朝の暗躍を知ったときは怒り心頭であったハズだ...。

 

宮下文書三輪本現代語訳『神皇紀』239ページより

『義勝は先ず、弟の三浦八郎左衛門孝通を間諜に入れ、奇計をめぐらし、足利氏兄弟を離間させた。』

 

前述したとおり、足利兄弟の亀裂に、宮下家の『奇計』が関与していた可能性がある。当初の尊氏は、後醍醐天皇と富士朝宮司・三浦義勝が通じていたとは思わなかった。故に、三浦氏への警戒感はほぼなく、足利直義は自軍にスパイ三浦氏族を取り込んでしまっていた。実はこの、宮下文書記載のこの三浦八郎左衛門孝通なる人物は、宮下家57代三浦義勝の弟・高通なのだ。岩間氏『実録三浦党』100ページの入間川戦においても、三浦義勝の弟として『三浦高通』が登場しているのが確認できる。

 

 三浦高通は、一般的に三浦氏族の佐原氏、三浦高継の子供で北朝方に従軍した。この時代、同族間で敵対していたというのは、珍しいことではないようだが、1350〜1352『観応の擾乱』では直義に属す。もし三浦(宮下家)孝通=三浦(佐原)高通ならば、足利分断工作に内偵させていたことにはなるまいか?。

残念ながら、宮下文書には高継は登場しない。孝通は義勝の弟とされるので、三浦(佐原)氏ではなく『宮下家』と思われる。前述どおり父親の高通は恩賞として新田荘を得ていたが、裏で新田氏族と繋がっていた訳だ。 

これがさらに、岩間尹著『実録三浦党』113ページ。観応二年(1351年)12月、三浦越中守義勝が、足利左馬頭直義に南朝の義を諭し、兄・尊氏と対立させたと記してあるのだ。

『名分に徹する事が武士道の誉であり、これこそ先祖に応える所以なりと力説され、吉野朝(南朝)に帰順した...』

これが、宮下文書曰く『奇計』であるならば、彼が足利直義にした先祖忠義の説教はになる。忠義心をエサに兄・足利尊氏を殺させようと撹乱させたことになろう。

ま、真相はわからない...。ただ、三浦義勝という戦士は、勝利の為には手段を選ばなかったタイプかもしれない。

 

1358年足利尊氏は、弟への無念と、富士朝への怒りと憎しみを燃やしつつ薨去した。足利勢力が、富士朝へのリベンジを果たせたのは40年以上後、四代将軍・足利義持の時代となる。

1404年2月、四度に渡る攻防戦の末、富士谷は陥落し全面降伏。阿祖山太神宮神官の多くは戦死。足利氏目代・千葉兼胤により、阿祖山太神宮神領『富士十二郷』の没収、古文書や宝物は龍の河原にて焼却。もともと千葉氏は、和田氏や三浦氏とも結束が強く婚姻関係があった。千葉県千葉市周辺の『妙見信仰』『寒川神社』など、富士朝との関係が強かったのではないかとみている。おそらくは富士朝神の祟りを畏れた西国足利勢力が、東国氏族に『神殺しをせよ』と...踏み絵を迫ったのであろう。

1408年、宮下文書によると、富士朝谷一帯は上杉民部太輔顕憲に賜われた。

 

 

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『義国神社』(群馬県太田市岩松町)

◯『義国神社』(群馬県太田市岩松町)

~御祭神~

・源義国

 

新田荘にて、新田氏と足利氏の両祖である、八幡太郎義家三男・源義国を祀る。義国の子孫繁栄のために、子孫が衝突し、富士朝と宮下文書大部分が歴史から姿を消した。彼には現状はどう映るのだろう...?。御神前にて『善も悪も失敗も成功も受け止め、公平に、富士山の歴史を伝えられますように頑張ります』と伝えた。

宮下文書により、確かに三浦義勝というカリスマ性が見えてきたわけだ。しかし見方を変えれば、武士道だの、忠義だの言いつつも、結局は清和源氏たちが家族の利益しか追及せず、人の心を翻弄し、復讐の連鎖を断ち切れなかった。一方の足利尊氏は、気真面目で有能な弟・直義を失って、喪失感での勝利であったともいえる。富士山の神々は、武士たちのどちらの味方になることが出来ず、嫌気が差して人々を見放したのかもしれない。

富士古文書は人間の業火で焼かれ、この後戦国時代の乱世を迎える。

 

 

三浦氏氏族宗家41代・岩間尹著『実録三浦党』(雑談)

最近、少ない小遣いで本を買い込んでいる(笑)。遅ればせながら、岩間翻訳本である『開闢神代歴代記』と『実録三浦党』がようやく入手できた。三輪本同様に、宮下文書研究においては基礎中の基礎となる文献だ。

岩間氏は三浦氏末裔岩間氏の末裔であり、実質の三浦氏41代宗家を称している。三浦氏氏族内の史典や系譜書を参考文献資料を編纂し、とりわけ三浦氏族同胞に読んでほしいと、昭和34年に『実録三浦党』を出版した。しかし富士古文書を研究時期と重なっていたようで、富士三浦氏の情報がうまくフィードバックされていなかったことを吐露している。

彼は、やはり三浦氏族の源平の捻じれた行動に、所々矛盾点を感じていたようだ。例えば、伊豆国挙兵にあたり桓武平氏である三浦義明は、なぜ真っ先に源頼朝を支援し貢献していたのか?。さらに石橋山で敗れた頼朝を、義明は老体にムチ打って命がけで房総半島へと逃したわけだ。また北条得宗家が、ライバル梶原氏・和田氏・三浦氏の何に怯えていたのか、『吾妻鑑』の嘘もすんなり理解できる。三浦氏の貢献がなければ鎌倉幕府は為し得なかった。それは宮下文書を読んだほうが理解できるかもしれない。...辻褄が合うのだ。

本書の昭和41年再販にあたり、歴史の著書が如何に困難であるかを認めている。本書を出版したものの多くの疑問と不明を残したままであったと。再版時期にはじめて、彼は『富士三浦氏』の遺した文献『富士三浦氏記録。富士見山三浦寺(明見山福仙寺改宝冠山福善寺由緒)』にたどり着いたのだという。三浦寺は現在の福善寺(山梨県南都留郡西桂町小沼)にあたる。この寺は富士谷(富士朝)にあり、和田合戦のあとに和田氏族が、親鸞上人の介添で入道したお寺。

 このとき、三浦氏が男系・清和源氏賀茂次郎の子孫であることを紐解き、三浦氏族に内包する捻じれ、源頼朝に味方した平氏の矛盾が審らかになったという。

 ただ、今から50年も前に、岩間氏は先見性をもって歴代の嘘を見抜けていたわけで...。スゴイ人です。以上の経緯からは仕方がない事ではあるが、宮下文書とかけ離れた部分がある。三浦氏の母方は、桓武平氏・三浦太郎平太夫為通の血筋で、本文にも源義明を養子にしたと書いてある。しかし宮下家のことは、『富士三浦氏』と記載している。

 

▽三浦氏は桓武天皇平氏で、清和源氏婿入り。

▼宮下家は応神天皇子孫で、清和源氏婿入り。

 

個人的には、宮下家は三浦氏に限りなく近いが、概念的には別家として分けたほうが良いのかなと思っている。

意外だったのは...、三浦氏族宗家でも、自らの出自を把握できていなかったということ。自らの祖先が賀茂次郎義綱であること、富士朝にいる同族『宮下家』を、子孫にすら伝えてなかったんだなと...。ちょっと切ない気分になった。これは、どの氏族にも言える事だろう、もはや出自や仮冒を完全に証明していくことは不可能な時代なのかもしれない。

 

※というわけで、読書の時間を捻出せねばならないのですが...。

もしかしたら、ブログも休みがちになるかもしれません。勿論、何かわかり次第記事にしていきたいと思います。よろしくお願いいたしますm(__)m。

 

 

 

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