2021,6,21
毎年クドいようですが...、このブログで夏至めぐりといえば、例大祭みたいなもの。
去年は、東京都多摩市『小野神社』からの瀬織津姫夏至巡りを紹介しましたが...。
歴史的背景を知ると、もっと興味深くなるかなと。とくに富士朝とウガヤフキアエズ朝の関係を掘り下げて理解しておくことをオススメしたい。今回は歴史まとめを。
夏至レイラインの意味とは?
下記の三社は、富士朝と高千穂峰ウガヤ朝を繋ぐ、おおよそ夏至の日の出の方向にほぼ均等に並んでいる。共通点は瀬織津姫命。
〜小野大神を祀る三社〜
- 武蔵一宮小野神社(東京都多摩市一ノ宮)
- 武蔵総社大國魂神社(東京都府中市宮町)
- 人見稲荷神社(東京都府中市若松町)
※小野大神とは、瀬織津比咩ノ大神と大己貴大神と思われる。小野神社境内由緒板(下写真↓)には、このニ柱のみを『大神』と号し、筆頭の天乃下春命には付けていない。また、小野大神の本地垂迹は『文殊菩薩』で、瀬織津姫不在の時代に総社大國魂神社境内にも祀られていた。つまり、小野大神≒文殊菩薩≒瀬織津姫とみる。
※因みに東京都府中市住吉町にも、小野大神を祀る『小野神社』がある。
では、このレイラインとは一体なんなのか?。
◯概念として記載されているのは、ホツマツタヱ26文のみ。ニニギが霧島山高千穂峰に赴任した折、富士山に残してきたコノハナサクヤを懐かしんで、日を仰ぐ(日向)方角として紹介されている。
この延長線上に総社『大國魂神社』が創建されたのは景行41年(111)、つまりホツマツタヱ成立時期と一致する。この夏至レイラインや大國魂神社も、ホツマツタヱにより意図されているのではないかと...。現在も12代景行天皇は、小野大神境内摂社『日代神社』 に、大足彦忍代別命として祀られている。ホツマツタヱ登場の瀬織津姫命も、10代崇神〜12代景行年間のホツマツタヱ成立時に登場した女神で、日前宮で瀬織津姫を祭祀していたという武内宿禰と深い関係があると思われる。
◯宮下文書では、富士朝+ウガヤ朝という皇祖継承の2大朝が登場。
神代富士朝の皇祖神は、アマテラス〜ヒコホホデミの系統で、皇家外祖父の家系がオオヤマツミと妃カモサワヒメとなる。カモサワヒメは富士山信仰象徴の山を統べる家系であり、初代〜2代まで続く。宮下文書研究家の加茂喜三氏によると、初代オオヤマツミにはコトシロヌシの娘カモサワヒメ、二代目加茂澤毘古はタケミカヅチの娘カモサワヒメを娶る。
タマヨリヒメは、九州高千穂峰を信仰拠点としていた歴代51代ウガヤフキアエズ朝の后のこと。『多摩夜里毘女(タマヨリヒメ)』の諱を世襲する皇祖継承神で、全51柱。
▲富士朝(富士山を信仰拠点におく)
△ウガヤフキアエズ朝(高千穂峰での富士朝継承勢力)
◆加茂澤毘女命(富士朝妃初代〜2代)初代は三嶋神かつ寒川毘女命、諡『別雷命』。
◇多摩夜里毘女命(ウガヤ妃初代〜51代)初代は、ワダツミ系統玉依毘女命。
また、宮下文書版『大國御魂神』とはスクナビコナのことであり、スクナビコナとオオクニヌシの共通の孫が、ウガヤ開拓神・健磐龍命となる。大國魂神社境外社『天神社』にはスクナビコナが祀られ、大國魂神社と三峰神社のレイライン上にある多摩川上流羽村市羽加美『阿蘇神社』は、平将門が社殿を造営し健磐龍命を祀っていた。この位置に九州開拓神が祀られているのも、偶然ではないだろう。
さらに大國魂神社には夏至祭があり、境内『水神社』・境外関係社『瀧神社』には水神としては珍しく、賀茂別雷命と玉依姫命が祀られている。これも偶然とは思えない。大國魂神社の祭祀テーマの一つに、富士朝ウガヤ朝の欠史鎮魂があるのではないだろうか?。また御祭神を人々に見せないための奇祭『くらやみ祭り』も、富士朝・ウガヤ朝を隠す目的だったのではないだろうか?。
この地域に、瀬織津姫命を集中的に祀る意味は...。
瀬織津姫はアマテラス荒魂とも呼ばれており、夏至の太陽を導き、ホツマツタヱにおける『サクナダリ』の恩恵を、効率よく得ようとしたのではないだろうと。つまり瀬織津姫を配祀することでアマテラスを呼び寄せている...???(妄想)。
このサクナダリというのも、解明されていない部分が多いようだ...。三重県度会郡玉城町『狭田国生(さたくなり)神社』は、速川比古命・速川比女命を祀り、かつて寒河社と呼ばれていたそうだ。単に名前が似ているだけなのかもしれないが?。なにか、富士朝の水神信仰と関係がありそうな...。
いずれにせよ小野大神と大國魂神社は、全国的に見ても非常に特異な役割を持っているとみる。
多摩の歴史の流れ(宮下文書含む)。
◯もともと関東は富士朝色が濃い。宮下文書版ヤマトタケルは東征後、大伴武日をお目付け役として富士朝に配し、関東〜出羽まで十二国を『吾嬬惣国』とした。太神宮宮守司長7代・福地記太夫を吾嬬惣国国造に任命している。
◯四世紀後半には、15代応神天皇孫にあたる宮下家2代宮下源太夫明政の四王子・吉田四奈摩古男が、陸佐志国県主となり、小多摩(小玉)の関戸(現在の聖蹟桜ヶ丘)の祖となる。古墳時代には、小野神社西側『落川一宮遺跡』からも、大型集落が確認されている。
◯坂上田村麿が延暦噴火一年前、延暦8年(789)に、レイライン上に『武蔵野八幡宮』を創建。
◯源頼義と義家による東征の影響により、武蔵国半分は清和源氏・源満仲子孫勢力であったという。多田満仲の4男頼信に三子あり、うち義季は前九年の役(1051~1062年)により、武蔵国の半分を賜る。義季は、柏木右衛門佐義季と称し、彼の三子にそれぞれ、久良岐(横浜)、都築、多摩、橘樹(川崎)、入間、前玉(埼玉の由来)、秩父、児玉、足立、豊島を賜われている。
◯1180年、源頼朝による伊豆国挙兵のあと、相模国小田原西の『石橋山の戦い』で大敗を喫する。宮下文書から推測するに、前述の柏木氏は頼朝方に付いていたようで、敗戦とともに富士谷に逃れ、富士朝『阿祖山太神宮』副宮司の家系となったとみる。
一般的に平安後期武蔵国は、桓武系平氏の影響が強かったといわれるが、宮下文書では清和源氏の強固な地盤であった。現に多摩地域では、杉並区大宮『大宮八幡宮』や三鷹市井の頭『井之頭弁財天』や日野市『百草八幡(真慈悲寺)』など、清和源氏の痕跡も多いのだ。
◯平安後期1180年、房総半島にて再起をかけた源頼朝が、武蔵武士団を集結させたのが、武蔵総社『大國魂神社』だった。上矢を奉納し、わざわざ武蔵国府を南下する形で鎌倉入りしている。その後、奥州討伐の折、同レイライン上に八幡神を合祀し『井草八幡宮』を再興した。
◯1333年、鎌倉幕府を討伐した新田義貞も、『小野神社』と『大國魂神社』のレイライン上にある分倍河原にて、富士朝宮下家57代三浦義勝軍と合流し共闘。関戸からの南下ルートで鎌倉入りをしている。
◯1457年室町時代。江戸城を築城した太田道灌は、一宮『小野神社』を崇敬し、『井草八幡宮』にて必勝祈願をしている。後北条氏も小野神社を崇敬していた。
◯徳川家康は多摩地域を幕府直轄地にしており、近年、大國魂神社(六所宮)裏手に屋敷跡が発掘されている。江戸時代には、5月5日例大祭を深夜23時~4時頃行わせ、『くらやみ祭り』と称し、御祭神を見てはならないとした。1617年、家康の霊柩は久能山〜日光へ御移されるものの、江戸城には寄らず。大國魂神社にて3日安置されている。さらに『六所宮』は、幕末の新選組にとっても、重要な通過点の一つともなる。
以上が、簡単な多摩史である。
瀬織津姫命『三所之宮』と元寇。
前述どおり。新編武蔵風土記稿によると、『大國魂神社』の東殿には、小野大神『瀬織津姫命』が祀られており、そうなると小野→大國魂→人見稲荷と瀬織津姫神社が、夏至レイライン上に三社が並んでいた事になる。
鎌倉時代寛喜3年(1232)、三社目にあたる『三所之宮(現・人見稲荷神社)』が創建。武蔵左衛門尉資頼が奉行として大國魂神社を修繕したあと、祀られていた小野大神を勧請し、出雲臣エタモヒを合わせて祀る。なぜ『三所』としたかは諸説あるが、これは三箇所目の小野大神の宮という意味であろう。なにより富士山からのレイラインが証明しているわけで、武藤氏により意図された瀬織津姫三陣形であった。
そもそも武藤資頼は、平家側の武士だった。しかし武蔵国久良岐などの領地的には、宮下文書における清和源氏柏木氏と重複しており、なにか裏がある氏族のような気もする。梶原景時の口利き、三浦義澄の保護監視のもと源頼朝方に鞍替え、武家初の大宰府『太宰少弐』の大役につき、その名も少弐氏を名乗る。源頼家元服には有職故実の指導をし、『少弐氏』という官職名を称している。出自不明の猶子が、なぜこんなにも出世したのか...?。
宮下文書にも僅かに、武藤氏の記載がある。1252年8年25日鎌倉幕府代参として、武藤左衛門尉景時なる人物が、富士朝阿祖山太神宮に参拝して、御剣と神馬を奉納した。武藤資頼の嫁方が鎌倉氏末裔梶原景時の娘、現在も富士吉田市明見には、鎌倉氏末裔『権正姓』がおり、この地域と深い繋がりがあったのかもしれない。大國魂神社一柱とされる『御霊大神』も、源正霊神こと、鎌倉権五郎景政説あり。また、プロレスラーの武藤敬司をはじめ、富士吉田周辺には武藤姓も多いという。
1271年以降、元軍脅威論が世界規模で拡散され、南宋商人経由で九州・京都・鎌倉にまで噂が広まった。少弐氏以下九州の対元寇氏族たちは、全国聖地の神仏を拝みまくっていたようだ。武藤氏(少弐氏)の本貫は武蔵国なので、武蔵府中人見山に残った武藤氏族が、富士朝や小野大神を代参して祀っていた可能性はある。こうして、1274年の『文永の役』、1281年の『弘安の役』、日本軍は元寇に勝利した。
これが日本の武士の実力なのか...?、元軍がたまたま弱かったのか...?、神風なのか...?。
三所之宮は、1333年新田義貞鎌倉侵攻の際失われる。さらに、1353年南朝新田義宗と足利尊氏との『人見原の戦い』の際に、武藤頼資の四代孫・頼次が戦死。この時、三所之宮に関する書物等も焼失している。
1580年、織田信長の臣山城入道道庵?が『人見稲荷神社』社殿を再興した。
祖先(仮)と子孫(仮)が繋ぐもの。
当初ここまでは、単なるブログネタとして扱ってきた。多摩地域で生まれ育った人間として、単にオモシロイなあと...。
そして最近...、この武藤氏少弐氏が、私のご先祖らしいことに気づいた。九州出身の祖父の証言を聞いて、wikipediaを調べた限りのいい加減な情報なのであしからず。物証とかはないし、仮冒の可能性も十分ある。
思い込みだとしても、『もし、本当だったらどうしよう』という心理が働く。レイライン上にある武蔵野八幡宮や大國魂神社は、私の人生でも馴染みの神社。小野神社も人見稲荷神社も思い入れがある。成り行きながら、古文書や神社を調べていく過程で、これだけの偶然があるのだろうか...?。
なんというか...、全国仮冒氏族末裔の心境が、わかった気がする。
つまるところ私達は、祖父が信じる曽祖父を信じることしかできないし、信仰を続けてきた事実を変えることはできないのだ。たとえ『嘘』でも悪意はない、祖先を偲ぶ気持ちには変わらない。
散々と悩んだ挙げ句、誰の子孫かはともかく、私にできることは『伝える』のみだと。自分だけが知っていても意味がないし。現状をできる限りシェアして、風化させないよう伝え続けることが、子孫(仮)としての役目なんだろうなと...。どちらにしても地元多摩の土地神なので、現状はブログに伝えていきたいと思っている。
きっと、瀬織津姫や武藤氏を知ったのもなにかのご縁だろう。
『宮下文書』も同じだとおもう。みなさんが納得し、これを日本人の祖先だと思うのなら、自分ができる手立てを考えて伝えてください。みんなに伝えてシェアしてあげてください。
みんなのご先祖さま(仮)なのですから。現代人の役目だと思います。
どうか後世に繋げて、風化させないでください。